寛延2年(1749)の稲作は、平均4分作という不作にもかかわらず、年貢割付は例年通りのため、農民たちは作況を調査して、年貢を軽減する旨の嘆願をしました。藩では役人を派遣して調査にあたりましたが、わずかの軽減にすぎず、毎年の不作続きに餓死者も出ていることから、不穏の形勢がつのり、安達東部や北部で一揆が起きました。このような情勢の中で、安積一揆は大槻村から始まり、約18000の群集がこの地(仁井田下の原)に結集し気勢をあげました。この碑には、これらの騒動に際し、流血することなく鎮定し、藩と交渉して農民の願いを実現するに至るまで中心になって活躍した冬室彦兵衛の名が刻まれ、当時の世情をしのぶことができます。 昭和63年7月 本宮町教育委員会 |