伏見街道 



五条本町−伏見京町通り−観月橋

いこいの広場
日本紀行



伏見街道(伏見は伏水とも書かれる)は京の七口の一つである伏見口(五条大橋の西詰あたりに御土居が築かれていた)から伏見に至る全長8kmの街道で、文禄元年(1592)豊臣秀吉が伏見城築城にともなって開いたものである。京と伏見を南北に結ぶ主要街道(鳥羽街道、竹田街道、伏見街道)のうち最も東に位置する。伏見稲荷神社をはじめ名所が多いこの道は観光の道として賑わった。

秀吉はまた巨椋池に堤を築き伏見と奈良の間に新しく大和街道を開いたが、後年伏見街道を含めて京よりの大和街道(奈良街道)と呼ばれるようになった。東海道から山科で分岐して小野経由で奈良に通じる古来の奈良街道に対し、京から直通の奈良街道が開かれたわけである。江戸時代には京と伏見の間に竹田街道が開かれ、竹田街道も大和街道に組み入れられることがある。

五条大橋西詰め中央分離帯に弁慶と牛若丸のかわいい像が立っている。かって河原町通りに秀吉が築いた御土居が南北に延びていて、この辺りに伏見口が開いていた。五条大橋をわたり、三筋目の本町1丁目を北の起点として、鴨川東岸に沿って本町通りを東山区南端本町22丁目まで一直線に下る。その後伏見区にはいり、深草直違橋11丁目から1丁目までを通り抜けて墨染め通りまでなおも南北にまっすぐの街道である。墨染で鍵の手をへて最後に京町通を京町10丁目から1丁目まで真直ぐに南下して宇治川観月橋に至る。道筋といい町割といい秀吉はまことに分かりやすい道を作った。

現在では墨染め通りまで北向き一方通行、京町通りは南向き一方通行となっており、道幅はちょうど車一台分である。ところどころに古い家並みもみられ旧街道の面影を残している。本町通りを車の流れに逆らって歩き出す。

本町4丁目と新5丁目の境に豊国神社への参道が東に延びている。参道にはいってすぐ右手に古墳のような塚の上に五輪塔が乗っている。
「耳塚」という。秀吉が朝鮮半島に侵攻した文禄・慶長の役で、武将が戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ塩漬けにして日本へ持ち帰ったものを供養のためこの地に埋めたものだという。歴史の遺訓とはいえ、気が重たくなる話である。

石段を上がって正面が豊臣秀吉をまつる
豊国神社で、当初は墓所がある東山阿弥陀ケ峰の麓に建てられたが豊臣氏滅亡後徳川家康によって破棄された。明治になって旧方広寺大仏殿跡地に再建されたものである。正面の豪華な唐門は伏見城の遺構と伝えられ、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つである。脇には多数の瓢箪型のお札が 吊り下げられていた。

境内の北側に
方広寺がある。天正14年(1586)秀吉はここに奈良東大寺の大仏を凌ぐ京都大仏の造営を開始し、文禄4年(1595)に完成した。しかし慶長元年(1596)に地震により倒壊し、その後豊臣秀頼により再建されたがこれも寛政10年(1798)に火災で焼失し二度と再建されなかった。歴史的には大仏よりも「国家安康の鐘」のほうがよく知られているようだ。慶長17年(1612)に鋳造された梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の二語に徳川家康は激怒した。「家と康を分断し豊臣を君主とするもので、バカにしておる」と、大阪冬の陣・夏の陣をおこして豊臣家を滅ぼした。因果関係はむしろ逆で、家康は豊臣滅亡の口実にこの梵鐘にいいがかりをつけたのが真相らしい。

鐘楼に上がって回ってみるとある角度からチョークで印された二つの長方形の枠が見える。肉眼では見難いが、ここに家康が因縁をつけた語句が刻されている。

豊国神社の南に国立博物館、三十三間堂が続いているがよらないで街道にもどる。JR線を歩道橋でまたぎ、本町10丁目にくる。一橋(いっきょう)小学校の運動場に、かつてこの伏見街道に架かっていた
「一の橋」が復元されている。親柱に「伏水街道第一」の字が読める。この橋は、もと本町通の10丁目と11丁目の間を流れる今熊野川に架けられた石橋だったが、昭和25年川の暗渠化に伴ってここに移された。
11丁目の
宝樹寺角に橋址の石標が立っている。伏見街道にはこの他にも3つの石橋が架けられ、それぞれ北から一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋と名づけられた。おってそれらを見ていく。

なお宝樹寺は義経の母
常盤御前縁の寺で、本尊薬師如来坐像は「子育て常盤薬師」と呼ばれ、常盤御前が今若、乙若、牛若の三児の生長を祈願したと伝えられる。

東福寺駅のすぐ南、本町13丁目と14丁目をわけて東西にはしる九条通りの高架下歩道に
二ノ橋が残されている。

本町16丁目にはいったところに
法性寺がある。法性寺は、藤原忠平によって延長2年(924)に建立され、以後藤原氏の氏寺として兼家、道長、そして8代目の忠通にいたるまでに広大な寺域に大伽藍が建てられた。しかし延応元年(1239)九条道家が境内に東福寺(臨済宗)を建立するにおよび次第に東福寺に吸収されるようになっていき、今では小さな尼寺となった。

本町17丁目と18丁目の境を三ノ橋川がながれ、街道には現役の
三ノ橋が架かっている。橋を渡って参道をすすむと臨済宗東福寺派の大本山東福寺に至る。嘉禎2年(1236)、摂政九条道家は九条家の氏寺とするため、藤原家氏寺であった法性寺の境内を侵食して京都最大の大伽藍を造営した。奈良の東大寺と興福寺を凌ぐものとして、双方の一字ずつをとって東福寺と名付けたものである。広大な敷地を贅沢に使って、白壁に黒々とした構架材が鮮やかなコントラストをみせる。三門は室町初期(1380年代)の建築で日本最古、現在の方丈、庫裡は明治に、本堂は大正に再建されたものである。寺地には紅葉の名所として知られる洗玉澗(せんぎょくかん)渓谷を擁しており、通天橋付近の景色はすばらしい。

本町20丁目右手に朱色の小さな鳥居を構えた稲荷神社がある。伏見稲荷の境外摂社田中神社である。変哲もない社だが、古今著聞集にこの神社に関わる
和泉式部と大柄の童子との間の微妙な出来事が記されている。

和泉式部が人目を忍んで伏見稲荷へ参る途中、田中明神の辺りで時雨れてきたので思案していると、稲刈りをしている童子が雨具を貸してくれた。帰る頃には晴れたので、雨具を返した。翌日、式部が屋敷の階を部屋の中から見ていたところ、上背のある童子が文を持って佇んでいる。「そなたは何者か」と言うと、「この文をお届けに参りました」と言って、さし置くので広げてみれば、

時雨する稲荷の山のもみじ葉は 青い頃より思いを染める 

と書かれてあった。式部はいじらしく思いこの童子を呼んで、「奥へ」と言って呼び入れた。

話がそこでおわっているところがはがゆくも奥ゆかしい。

いよいよ本町もおわりの22丁目、左手に現れる白木の門は
極楽寺で、旧法性寺塔頭の一つ「十王堂」の跡といわれる。ここに祀られている閻魔大王をはじめとする土製の十王像は伏見人形のルーツととされている。

その伏見人形の伝統技術を唯一今に伝える老舗
「丹嘉(たんか)」が紅色の暖簾を掲げている。熊と金時など素朴で庶民的な人形で、江戸時代伏見稲荷大社詣での土産として売られていた。伏見人形は全国で九十余種以上あるといわれる土人形の元祖であり、その起源は古く土師部(はじべ)野見宿称(ノミノスクネ)に遡るといわれる。垂仁天皇の時代に朝廷より土師職に任命され伏見深草の里に住んで土器、土偶を創りだした。近江商人で知られる中山道沿いの五個荘の「小幡でこ」も伏見人形の後継者である。

街道は本町22丁目で東山区を出て伏見区深草に入る。京阪電車伏見稲荷駅前にくると急に人の流れが多くなり、沿道には土産物店や料理店が軒を連ね観光地の色合いが濃くなっていく。道幅いっぱいに赤鳥居が構える道は神幸道とよばれる賑やかな裏参道で、両側には京名物の生八ツ橋、京つけもの、伏見人形、清水焼やあま酒、わらび餅、焼き鳥、にしんそばなどみて歩くだけで楽しい商店街となっている。

スペイン語を話す外国観光客の一団がもの珍しそうに店内をのぞいていく。石段の斜面に展開する白壁とすべてが朱色な柱の建築群は荘厳なながめだ。ここが全国3万余あるといわれる稲荷神社の総本山
伏見稲荷大社である。和銅4年(711)渡来人の秦氏が稲荷山頂に創祀したのが稲荷社のはじまりで、3年後に1300周年を迎える。「稲荷」は「稲生(いねなり)」から来た。五穀豊穣から商売繁盛の神として信仰を集めるようになる。境内の奥まったところから千本鳥居の朱色のトンネルが続いている。願いが「通じる」からと、一本一本が奉納された鳥居である。

表参道から帰る。街道との角に元和初年(1616)創業の
玉家旅館が古いたたずまいをみせている。参勤交代の大名が伏見船場より休憩のために立ち寄った立場茶屋から始まった。

道向かいはJR奈良線稲荷駅で、南側に緻密な赤レンガの建物が残っている。かつて奈良線が東海道線の一部であった当時の国鉄稲荷駅の
ランプ小屋である。明治13年(1880)、東海道線が初めて京都−大津間で開通した当時、路線は京都から現在の奈良線のルートを通って稲荷までやって来て、ここから東にカーブして大津街道をたどり小野(旧山科駅)を経て大谷に抜けていた。大正10年(1921)8月、新逢坂山トンネルの完成にともない旧線は廃止、京都〜稲荷間は奈良線に編入された。

街道がJR奈良線の高架をくぐるところから深草直違橋11丁目がはじまり、1丁目の七瀬川に架かる四ノ橋までの区間の本町通りは直違橋通りとも呼ばれている。古い家並みがのこる街道をすすんでいくと、直違橋9丁目の辻に
一本松が立ちその脇に宝塔寺への道標がある。西に出ている広い道は第一軍道とよばれ、明治の終わりから第二次大戦終戦にいたるまで、伏見に設置された陸軍第16師団の遺物である。

一本松から東に入り狭い踏み切りをわたると
宝塔寺の総門前に出る。宝塔寺は藤原基経が建てた極楽寺にはじまり、このあたり一帯は「深草極楽寺町」の地名が示すように、その広大な敷地であった。重要文化財である四脚門の総門をくぐり、塔頭円妙寺の美しい白壁築地塀をみながら仁王門、本堂へと進む。その右奥に優美な二層の多宝塔が建っている。屋根は行基葺きという丸瓦をつかった古い葺き方である。一重と二重の間に「亀腹」と呼ばれる漆喰塗りの円形部分があり、その丸みをおびた白いふくらみがなんとも愛らしい。

宝塔寺の前の道は伏見街道が開かれる前の大和街道である。正確なルートはしらないが、ここから極楽寺薬師堂の跡といわれる
瑞光寺真宗院の前をとおり、深草大亀谷から八科峠をこえて六地蔵に出ていた。真宗院までその道をたどり、後深草天皇から後陽成天皇までの12人の天皇と親王を合祀した深草北陵(きたのみささぎ)を巡って伏見街道に戻る。

街道の東側に位置する
聖母女学院は第16師団司令本部が置かれていた場所である。女学校と軍人との組み合わせがレトロな色調でマッチしている。この界隈には今も「軍道」「師団街道」の道路名が残るほか、路地奥に「軍人湯」という現役の銭湯をみつけた。虫籠窓に出格子を隠すほどに背の高い駒寄せ(むしろ格子塀とでもいうべきか)を配した旧家もこの一角の趣ある風景に貢献している。

名神高速をくぐり、
その先大岩街道(府道35号)を横断し、七瀬川に架かる四ノ橋をわたる。橋下をのぞくと川を通す円柱の管をくわえたような石組みが施されている。この橋が街道に対して斜めに架けられているところから直違橋という名がついた。

左手に
藤森神社があらわれる。創建は神話時代にまで遡るという古社である。菖蒲の節句発祥の神社として知られ、また「菖蒲」が「勝負」に通じること、5月5日におこなわれる駈馬神事から競馬関係者や競馬ファンの信仰が厚いという。現実的なところでは、名水「不二の水」は本物のようで、二人の若い女性がポリ容器に長々と湧水を注いでいた。

神社の南側から東にのびる道は大津街道で、伏見から小野で奈良街道に合流して東海道に通じている。家康の時代になって、西国大名が参勤交代で京を経るのを避けるため、大津から伏見経由で大坂に出る東海道の延長道路が整備された。これが後に国鉄東海道や名神高速道路のルートに引き継がれていった。

街道は墨染交差点ではじめて曲がる。京阪踏切をわたり疎水をこえ、歌に詠まれた
墨染寺(ぼくせんじ)の桜をみに寄る。墨染寺の創建は古く貞観16年(874年)清和天皇の勅創によるという。由緒ある墨染の桜もまだ固い蕾ではありがたみが伝わってこなかった。

 
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け 上野峯雄(かんつけのみねお)

墨染寺の先を左に折れ師団街道を南下する。墨染寺の裏手に建つ
欣浄寺 (ごんじょうじ)の方がおもしろい。ここに深草少将が住んでいたというのだ。境内には少将塚、小町塚、涙の水ともよばれる深草少将姿見の井戸等がある。深草少将はここから小野小町あいたさに彼女のすむ小野随心院まで一里の道を通いつめた。百日間通い続けたら結婚しようと言われてのことだが、哀れにも雪深い九十九日目の夜に途中で凍死した。

国道24号との交差点手前の右手路地入口に石柱が2本建って おり、
「撞木町廓入口」「しゆもく町廓入口」と彫られている。橦木町廓は豊臣秀吉が伏見城を築いた頃に出来た。伏見落城後にいったん廃滅した後江戸時代に全盛期を迎える。今は普通の住宅地で、遊郭建築は残っていない。路地をはいっていくと民家の脇に「大石良雄遊興之地 よろつや」と刻まれた石標がある。赤穂浪士大石良雄(内蔵助)は陰謀をカモフラージュするために遊女屋「よろつや」に通い、遊興に耽った振りをした。

さらに通りの奥には大正7年の板碑
「撞木町廓之碑」が建っている。細かな文字で満たされている中に、太閤・伏見城・大石良雄などが読み取れる。廓は昭和33年の売春防止法により廃滅した。その名残でもあろうか、国道との交差点の角にかって伏見ミュージックというストリップ劇場があった。DX東寺、千本中立売の千中ミュージックと並ぶ京都3大ストリップ劇場で、過激な内容で有名だった。一部の地図にまだ名が残っているところをみると最近までDX伏見の名で営業していたようである。

街道は国道24号を渡ると京町通と名前を変えいよいよ伏見城下町にはいる。東海道(京街道)は最初の辻で鍵の手にまがり両替通りを下って伏見宿がある京橋をめざすが、伏見街道は京町10丁目から宇治川河畔の1丁目まで伏見の町を縦貫し、観月橋から奈良へ通じていた。

京町7丁目にある丹波橋駅の東方に、秀吉が隠居後の居所として黄金の茶室など桃山時代の粋を集めて築いた絢爛たる
伏見城があった。慶長3年(1598)秀吉はここで死ぬ。寛永2年(1625)廃城後、城郭の一帯は桃畑として開墾されたため桃山と呼ばれた。伏見城のさまざまな建造物や部材が福山城の伏見櫓のほか、各所に移築された。現在公園内にある天守は模擬のコンクリート製だという。

京町4丁目と3丁目の境が
大手筋通りで、城下町伏見の中心街であった。大手筋通りを東に300mほど行くと左手に伏見の産土神御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)がある。がっしりした表門は伏見城大手門の遺構である。貞観4年(862)、境内から香水がわき出てこれを飲んだ人の病気を癒したことから清和天皇がこの名を賜ったという。社殿脇の竹樋から絶え間なく流れ出てくる御香水は「日本百名水選」のひとつで、容器を手にした人が列をなしている。そんななかでダンボール箱にいっぱいのペットボトルを満たそうとする男が水場を独占していた。業務用か。

なお、この神社は慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いで薩摩藩の陣営となり、大手筋をへだてて南の伏見奉行所に陣を構えた幕府軍と戦った。
伏見奉行所は京町2丁目と近鉄京都線をはさんで東側にある。御香宮神社に陣取った官軍の攻撃をうけて奉行所は灰燼に帰した。桃陵団地の入口に、屋敷塀を模した仕切りを背にして「伏見奉行所跡」の石標が立っている。

京町3丁目から2丁目にかけて虫籠窓、格子、犬矢来を備えた品のある京町家が残っている。その一つ3丁目の老舗料亭
「魚三楼」の美しい格子に横に引っ掻いたような跡がある。幕府軍のたてこもる伏見奉行所周辺の激戦で飛んできた弾丸の痕だという。


大手筋通りにもどり、京町通から一筋西の両替町通の角、労金の脇に
銀座発祥の地の石碑が建っている。家康は慶長6年(1601)ここに銀座を置き、大黒常是を呼び寄せ銀貨をつくらせた。東京の銀座より11年も古い日本最初の銀座である。


ところで京町通りに並行して南北にまっすぐはしる両替町通りの町割りは、北から両替町15丁目にはじまり南は1丁目で終わるのであるが途中、9丁目と4丁目の間に銀座町4丁目から銀座町1丁目が割り込み、両替町8丁目以下5町目の姿が見えない。最初は両替町でそろっていたところに、銀座、御屋敷舗、同改役所が設置されて町名まで置き換えられた。そのまま両替町通りを下っていくと、2丁目左手蔵付きの民家に
「此付近両替商旧跡(茨木屋 山本家)」と彫られたまだ新しい石標が立っている。

そこから京町2丁目に移り伏見街道の仕上げを急ぐ。京町通りは1丁目で宇治川に突き当たり、左折して堤防に出る。船着場らしい岸辺を見下ろしながら観月橋を潜る。古い橋の親柱が竹田街道沿いの土木事務所に保管されていた。豊臣秀吉が新しく奈良街道を開いた際に架けたのは「豊後橋」と呼ばれていた。鳥羽伏見の戦いで焼け落ち明治にはいって再建、秀吉の月見の伝説にちなみ「観月橋」と名づけられたという。どんな伝説だったかは知らない。

橋の東側にわたると河畔に月見館があり前庭に
三十石船が展示されていた。長さ17m、幅2.5m、定員は28名で船頭は4名と決められていた。

宇治川には遊覧船が数隻つながれている。三十石船と同じサイズか。
大坂八軒屋から伏見まで船で、あるいは高麗橋から文禄堤をたどって陸路でここまで、いずれにしてもここから京に至らねば京街道とは言えない。伏見街道はその最後をつとめる魅力に富んだ道であった。


(2008年4月)

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