東海道−10 



草津−大津三条大橋
いこいの広場
日本紀行

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草津

旧道は左の堤防に上がっていく。旧草津川もろとも国道1号をまたぎ、橋で対岸に移る。旧草津川は江戸時代から知られていた典型的な天井川である。平成14年草津川の水路が付け替えられ、この地域の草津川は廃川となり旧草津川として公園化された。

堤防から降りる途中に木製の火袋をつけた
道標(横町道標)が立っている。東海道の江戸口石灯篭とは違った趣がある。文化13年(1816)、代表的近江商人の一人日野の豪商中井家が寄進した。

「左 東海道いせ道 右 金勝寺志がらき道」 右 金勝寺志がらき道とは多分県道113号から県道12号に通じる道であろう。県道113号までは旧草津川南岸に沿った道を行ったものと思われる。

待望の
草津追分にでる。南北に貫く中山道に、東海道が東から突きあたる形になっている。丁字路の右は天井川のトンネルである。トンネルは明治19年に開通したもので、江戸時代は草津川の渡しがあった。トンネル脇から堤防に上がると説明板があって、浮世絵に描かれた草津川の渡しが載せられている。渡しとはどぶに渡した板みたいな橋で、女性でも数歩で渡れる小さなものである。渡しの復元として、そのちっちゃな板が公園の中央に掘った溝に渡してあった。

角に立つ
追分道標は文化13年の建立年、木製火袋、高さ3.9mとさっき堤防にあった横町道標と同じである。書体が少しちがうのと、こちらの寄進者は飛脚問屋等多数に上っている。

「右 東海道いせみち 左 中山道美のぢ」

44年前中山道を歩いたときの草津道標を見ている。傘も火袋もないただの石柱だが堂々とした楷書で「右東海道 左中仙道」と、単純明快な道しるべである。旅行記には寺の境内にあったとあるだけで、どこの寺だか、いつ建てたものだか、情報はまるで乏しい。今になって調べてみると
覚善寺にある道標で、明治19年の建立。トンネル竣工と同年である。この年東海道は草津川右岸を通り大路で中山道と合流するようになった。現在の県道143号のことであろう。旧東海道は草津市に入ってすぐ旧草津川の土手に上がって現在の追分にでたが、当時の国道1号はそのまま直進して中山道に合流していたのであろう。つまり44年前の道標は一番新しい追分道標だったということになる。そして古い本来の追分道標を見過ごしたということであろうか。

追分から南に方向をかえる。すぐ右手が高名な
草津宿本陣である。草津には本陣が田中七左衛門と田中九蔵の二軒があった。田中七左衛門は材木屋を経営していたため、「木屋本陣」と呼ばれていた。むかしのままの遺構を残す国指定史蹟である。あいにく休館日であった。やはり44年前の写真と見比べている。こちらは形が変わっていない。旅行記には本陣跡は公民館になっていて前では易者が店を出していたとある。現在公民館は追分南西角に移った。

本陣の先左手のおみやげ処が
仙台屋茂八脇本陣跡で、その先にもう一つの本陣田中九蔵家跡があり手書きの説明札が下がっている。篤姫が泊ったこと、跡地は草津小学校の前身、知新学校が建てられたことなど。

「道灌」の酒樽がならぶ
太田酒造がある。白壁酒蔵の間を入っていくと現場の人にであった。「レンガ煙突が見えませんが」と訪ねると「あれはどこも使ってなくて、ただ記念に残しているだけなんですよ。地震があると危険なのでうちは取り壊しました」。太田酒造は太田道灌の末裔が創業した造り酒屋で草津宿の問屋場職を兼ねていた。

正面玄関前に「草津宿と政所」の説明立札があり向かいの側溝蓋に「問屋場・貫目改所」のタイル絵があった。

建物は昭和初期のものだが虫籠窓、格子窓をのこす「八百久」の建物をみて
立木神社による。ここに県下最古の道標がある。細い石柱に「右は東海道伊勢道」「左は中山道お多賀道」「延宝8庚申年(1680)」(共に現代語表示)とあり、これこそ草津追分道標のオリジナルである。

曲尺手の名残を経て草津川に架かる矢倉橋にでる。草津宿の南出入口で橋の袂に黒門があった。

橋を渡り、駒寄・虫籠窓のある古川酒店の先の信号を過ぎると右手瓢泉堂前に
矢橋道道標がある。

この矢橋道を3kmほどいくと近江八景の一つである矢橋帰帆の渡に着く。

  
武士(もののふ)のやばせの船は早くとも いそがば廻れ瀬田の唐橋 

と詠われ、「急がば回れ」の語源となった。広重の絵に描かれていた角の姥が餅屋は国道1号沿いに移転し、今は瓢泉堂という瓢箪屋が店を構えている。

矢倉南信号で国道1号を斜めに渡って細い路地に入ると道路整備で取り残されたような一角に東屋が設けられた上北池公園があり、そこに
野路一里塚跡の碑があった。

ここでJR南草津駅の西側に寄り道する。野路は
古代東山道の道筋にあたっており、駅の西に広がる野路岡田遺跡からは「馬道」と呼ばれる古道跡が発掘された。野路宿の駅家跡ではないかと考えられている。そんな発掘遺跡を探して歩き回ったが辺りは大規模に再開発された地域になっており整然と区画された新しい並木道がのびているだけであった。

ようやく事情を知る人にめぐりあい、発掘現場は埋めもどされたこと、遺跡に関する解説パネルが南草津駅南側の地下道にあることを教わった。そのトンネルに通じている新しい道路こそが馬道の道筋であったようである。ところでこの古道は東西に延びている。東山道の後身、中山道は南北の道ではなかったか。古代東海道にしても伊賀・伊勢国にむかって東に向きをかえるのは草津宿あたりではなかったか。この東西に延びる馬道は分岐後の古代東海道なのか。古代東海道の駅家は勢田の次は三雲ではなかったか。いろいろと思考が広がっていく。

トンネルをくぐって東に進むと野路南交差点で国道1号に出た。一里塚跡までもどって道路を隔てたはす向かいに続く旧道に入る。教善寺前に「草津歴史街道」の説明板があった。これによると東海道は「草津では、
小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。」とある。これは明治19年、トンネルができると同時に新しい東海道が付け替えられ、栗東市新屋敷から草津覚善寺角の大路井まで約900mの新東海道(現在の県道143号)を意味している。歴史街道というからには江戸時代の道筋を示すべきだと思うが、おかげで覚善寺(当時は中山道沿いにあった)にある明治道標(大路井道標ともいう)の意味が明らかになった。明治時代の新国道1号である。

右手遠藤宅に
「平清宗の胴塚」なるものがあるという。同家当主による説明板があった。資料では胴塚に五輪塔があるはずだが、庭をくまなく覗いてみたが見当たらず、塀の脇に壊れた石塔の部分がころがっていた。倒壊したのかもしれない。

平清宗(1170から1185)  平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位侍従右衛門督であった。 源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。「吾妻鏡」に「至る野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。  遠藤権兵衛家  当主遠藤 勉

新宮神社の向かいに野路町の史蹟案内板があった。新宮神社から国道へ出てすこし南に下ったところに小野山製鉄遺跡が示されている。またも街道を離れることになった。

神宮神社は奈良時代行基によって野路寺創立の時、鎮護社として天平2年(730)に創建されたという古社である。拝殿はめずらしい格子造りである。大永3年(1523)建立の本殿は小ぶりながらも品格ある社殿で国の重要文化財に指定されている。

国道野路北信号にでて南側歩道を下っていくと次の野路中央信号の少し手前で国道からはずれて下の道に下っていく細道がある。左手に草地の一角があって
野路小野山製鉄遺跡の説明板が立っている。奈良時代の製鉄炉が14基も発掘されている。野路駅といい、製鉄遺跡といい、次の玉川といい、野路ははるか古のロマンあふれる土地柄である。

野路中央信号から県道43号を西に進み、7−11のある十字路を左折して旧東海道にもどる。すぐ右手に現れる小公園が歌枕、
萩の玉川である。十禅川の伏流水が湧き出て清楚な萩とが織り成す優美な風情は野路宿旅情をかきたてた。
   明日も来む 野路の玉川 萩越えて 色なる波に 月やどりけり  源俊頼
     うちしぐれ ふる郷おもふ 袖ぬれて 行く先とほき 野ぢのしの原         阿仏尼  

旧街道は弁天池の東淵を通り名残の一本松をみてちいさな峠をこえたあたり、前方に五分咲きの桜並木がみえてくるあたりで、草津市から大津市に入る。市境に木製常夜燈があり、「ここから大津」「草津本陣4km 瀬田唐橋4.6km」と記されている。

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大津

月の輪集落をゆく。白壁の塀に長々と犬矢来を配し、手入れされた植え込みに立派な門を構えた家がある。町並み全体が立派な集落だ。

月輪寺の前に「新田開発発祥の地」、「明治天皇御東遷御駐輦之所」の碑が建つ。

交差点を渡った左手に月輪池があり歩道に
立場跡の標石が設置されている。昼間の曇り空では月も太陽も関係ない風景だが、カイツブリの愛らしい群れを見ることができた。カイツブリはそのフカフカした羽毛に包まれたお尻を突如空に向けたかと思うと瞬く間もなく水中に姿を消す愛嬌ある動作で知られ、芭蕉はそれが大好きになった。

地名は一里山で、どこかに
一里塚跡があるはずである。目を凝らして道をあるくことしばらく、JR瀬田駅前通りとの交差点(一里山1丁目信号)角に自然石の大きな石碑があった。北から歩いてくる者にとっては物陰に隠れた死角にある。振り返らなければ気づかない。

大江4丁目の信号を渡って道が右にカーブする所に丁字路がある。電柱に大江4丁目21の地番表示がある路地を左に入る。何を求めているかといえば、野神社旧蹟であって、大江千里の旧居跡だという。大江千里は誰かと検索すると「ちさと」とよめば平安時代の歌人、「せんり」と読めば平成のミュージシャンと出た。ちさとは土地の人からは「ちりんさん」と慕われていた。ちりんさんの歌が小倉百人一首に選ばれているのだ。 

  
月見れば 千々に物こそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど    (古今和歌集)

街道は瀬田小学校南の十字路で直角に左にまがる。注意してみると電柱に旧東海道左折の標識がとりつけてある。唐突な曲がり方だが、曲がってみると旧街道をおもわせる家並みがあった。しばらく直進すると、やはり電柱に小さく「旧東海道右折」の標識がある。まがった右手に浄光寺がある。

ここで街道をはなれて直進する。突き当たりを右折しすぐ左折すると左手に近江国府跡が広がっている。
「近江国衙跡」の石碑が建ち、その向こうに築地が復元されている。その右方にいくつかの政庁跡が整備されていた。奈良時代前半から平安後期にかけての遺跡である。昭和38年(1963)住宅建設工事中に発見され、発掘調査が一段落した10年後に国の史蹟に指定された。

浄光寺前にもどりやがて街道は広い車道につきあたる。左折してまもなく石材所の二股を左に入り突き当りを左折すると建部大社の鳥居前に出る。石燈籠がたちならぶ参道をぬけると近江国一ノ宮が清々しい姿を現す。神門をくぐると拝殿の前に三本杉の巨木が聳え立つ。本殿は、二棟並んだ珍しい配置で、西側の社殿は権殿とよばれるものである。本来は社殿造営時に神を仮に遷し祀る仮殿であったが、本殿完成後もそのまま置かれた。創祀年代は不詳だが神話時代に遡る。

境内に二基の石燈籠が目に付く。短足胴長のは文永7年(1270)建立で重要文化財。スマートで華麗な方は建立時期が記されておらず重文でもない。もとは勢田城跡に建てられたものである。

なんという桜だろう。濃いピンク色でガクまで染めた蕾が思いがけぬ寒気に身を縮ませていた。

大社から路地を南にたどって県道16号を横切り瀬田工高の北側の道に出る。左に折れて東南方向に道なりに坂を上がって新幹線、名神高速をまたいだ角地に
瀬田廃寺跡がある。ここに金堂、回廊、僧坊などの遺構が発掘された。近江政庁跡の真南に位置することから、近江国分寺でなかったかと考えられている。5個残る礎石に囲まれた塚上に「瀬田廃寺跡」の石碑が建つ。

建部大社前にもどり、街道を西にすすむと視界が開けて明るい瀬田の川面と優雅な唐橋に出会う。「瀬田の唐橋」は近江八景、「瀬田の夕照」として古来よりしられた名勝地である。また、「唐橋を制するものは天下を制す」といわれたように古来より京への入口として戦乱の要衝となってきた。

 
五月雨にかくれぬものか瀬田の橋 芭蕉

堤防下を左にはいったところに造りの同じ
竜宮と秀郷社が相並んでいる。俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治伝説に因むものである。藤原秀郷はたしか下野の生まれで平将門を討ち取るなど専ら関東で活躍した武将と聞いていた。なぜここに、という疑問が当初からあった。説明板によると秀郷は京都宇治田原郷の出だとある。関東人であったにしても有名人だから一度くらい上洛してきたこともあったろう。唐橋で蛇に姿を変えた竜宮姫に出会い、姫に懇請されて三上山の大ムカデを退治した。

東隣にある
雲住寺に「百足供養堂」の石柱をみつけておもわず笑ってしまった。日本人はどこまでもやさしい。

さらに川縁を南に下がり県道29号とまじわった先に
「瀬田城址」がある。戦国時代に甲賀武士山岡景房によって築かれた。廃城となった跡地に禅僧天寧が臨江庵を結んだ。建部大社にあった大灯篭はもとここにあったものである。

橋をわたる。瀬田川はボートのメッカと呼ばれ、川沿いには近辺の大学や企業のボート部のクラブハウスが立ち並ぶ。1人、2人、4人、8人乗りの細いボートがアメンボウのように橋の下を行き交う。そうか。これが青春の風景だったか。

唐橋西詰にも小公園があって三分咲きの桜の塚上に明治天皇聖跡碑が立つ。そこからの写真を広重用とした。彼は飛行機の上から見下ろした風景を描いており、遠景の三上山も見えたことだろう。残念ながら私はそこまではっきりと見渡せなかった。

京阪電鉄唐橋前駅前の踏切を渡る。古い建物が残っており、がっちりした
ばったりが据えてあった。私は自分でこれを作るつもりである。金具で折りたたみ式の縁台をつくり頑丈な蝶番でとりつければいいだろうと思っていた。手本をよくみると金具は使われていないみたい。釘さえみなかった。脚の頭を丸めて回転させ、脚を開いた時はその頭で棚板を支えるようになっているようだ。どこかに回転を90度でとめるしかけもありそうだった。木材は2x4でよさそうである。ウッドデッキに取り付けようと思っている。

鳥居川信号を右折した街道向かいに明治天皇御小休所跡の石碑がたち、冠木門と松の木が残されている。

京阪電鉄踏み切り、国道1号をよこぎってJR線路の手前を左にまがって京阪石山駅の二階にあがる。コンコース広場に
芭蕉像があった。背丈の杖を抱えている。実はこの(?)杖を義仲寺でみるのだが、もし同じものだとすれば芭蕉はずいぶんと背が低かった

旧東海道は駅の通路を渡って北側に出る。駅の北口から西へ寄り道して今井兼平の墓をたずねる。墓は水路の湾曲部分にひっそりとあった。今井兼平は木曽義仲の腹臣で、巴御前の兄である。粟津原で討死した木曽義仲の後を追って自害した。

駅北口にもどりNEC工場の東縁を北上する一帯は工場地帯だが地名は「晴嵐」である。粟津中学のあたりに申し訳程度の松が植えられている。当時このあたりは琵琶湖畔で白砂青松の浜が続いていた。近江八景のひとつ
「粟津の晴嵐」で知られる名勝であった。今も湖岸にでればいくらかその風景を偲ぶこともできようが、工場にはさまれた道路に数本の松をみるだけではどうしようもない。

工場団地をぬけると住宅街に入っていく。地名は御殿浜にかわる。道が左にまがる角の民家に
「膳所城勢多口総門跡」の標石がある。数年前まではここに番所の遺構が残っていた。膳所城下に入っていく。そのさきに小さなジグザグがあるのは総門枡形のなごりであろう。出格子、ばったりなど古い建物が残っている。ばったり」は唐橋西詰で見たものとまったく同じであった。標準仕様があるようだ。

京阪電鉄の踏切を渡り
若宮八幡の高麗門(膳所城の犬走り門)を右に見て、その先丁字路を右にまがる。角に古い家が建っている。

ここで小さな寄り道をした。
「杉浦重剛旧宅」が気になったからである。膳所生まれの秀才で、21歳で英国に留学。帰国後は旧制一高の校長を務めるなど思想家、教育者として活躍した。丁字路の先を左に入ると水路縁に傾いた「杉浦重剛先生誕生地」の石標があり、後ろに壊れかけた古い家があった。蔦がからまる塀はあちこちに穴があいたほころびがある。確かに旧家だと感心して数枚撮って引返した。

改めて写真をチェックすると石標は指差し道標で、人差し指は「あっち」と指している。早とちりで、「旧宅」はそこから100mあまり路地を入っていくのだった。

街道にもどる。京阪瓦ヶ浜駅の踏切をわたり、
篠津神社の先で突き当たって左に曲がる。
篠津神社の表門も膳所城の北大手門を移したもので、高麗門である。拝殿のほか本殿の造りなども若宮八幡とよく似ている感じがした。

手元の散策マップには左に曲がってすぐ右手に「ウダツのある家」が示されている。注意深く歩いていくとあった。白壁に虫籠窓を一箇所切ってその両側にウダツがある。間口二間もない狭さだ。かっては大きな町屋だった大半を切り取ったのだろう。この先、ウダツのある町屋はたくさんあるのだけれど。

旧東海道は中ノ庄駅手前の十字路を右折する。古い建物で営みを続ける小さな商店がいくつもありなつかしい町並みである。大きな交差点に出た。左手に
膳所神社、右手湖畔には膳所城跡公園がある。やや筋違いの交差点角には「膳所城中大手門跡」の石標がある。

膳所神社の表門も膳所城からの移築である。こちらは薬医門で国指定重要文化財。

膳所城跡公園は琵琶湖に面した明るい場所にある。左に最近の寒波で雪化粧した比叡山が横たわる。湖上を横切るのは近江大橋、東岸は矢橋渡の1km南に着く。

橋の向こうにみえるのは近江富士。右手の葦原で遊泳するのはカイツブリ。膳所城石垣の名残が水辺に沈んでいる。

孫と犬をつれた若いおばあさん。孫は石を湖面にはねていた。「おばあちゃん、見ててや」
私もカメラを置いて孫をまねる。「丸くてひらべったい石がいいんですよ」とすこし薀蓄を披露。3回はねたのが最高だった。おばあちゃんがやたらとほめてくれる。肩が痛くなってきて止めた。

柴犬の写真を一枚。おばあちゃんは必死にカメラを見るように仕向けるが柴犬は知らん顔。愛想のないのがまた可愛い。その間孫は石投げをやめていた。

膳所城の歴史のことをすっかり忘れていた。
膳所城は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、慶長6年(1601)に大津城を廃して築かせたもので、近江から京へ入る東海道を押さえると同時に、大阪方に備える役割を担っていた。城主は53年間に、戸田氏,本多氏,菅沼氏,石川氏と替わり、慶安4年本多俊次が再封されて以後は本多氏が13代続き、明治3年に廃城となった。

膳所城は徳川家康が関ヶ原の戦い後、最初に築いた城であった。その後慶長8年に彦根城、慶長13年には丹波篠山城、慶長16年には伊賀上野城と大阪周辺の築城戦略が実行されていった。

和田神社に樹高24mの大イチョウを見る。関ヶ原合戦で捕らわれた石田光成が京への護送途中、休止の際にこの樹につながれたと伝わる。

その先のふたまたを左にとって広告がにぎやかな加藤酒店の角を右折、その先の丁字路を左折して橋を渡った変則十字路を前方に進む。道は直角に右に折れる。この間、ややこしいが響忍寺がなければ加藤酒店からまっすぐにつながる位置関係にある。

左に石坐神社をみて西に進むと枡形がある。ここに
膳所城北総門があった。膳所城下町の西出入口である。

ほどなく木曽義仲と芭蕉が眠る
義仲寺に来た。

寿永3年(1184)義仲は粟津で討死した。享年31。その後年あって見目麗しい尼僧が義仲の墓のほとりに草庵を結び日々供養に勤める姿があった。里人に問われると「われは名もなき女性(にょしょう)」と答えるのみであった。尼の没後、この庵は「無名庵」と呼ばれるようになり、いつしか巴寺、木曽塚、義仲寺とも呼ばれるようになった。

時は500年余を経た元禄7年(1694)、芭蕉は大坂で病に倒れた。近江をこよなく愛した芭蕉は遺言を残していた。  「骸は木曽塚に送るべし」

義仲の墓をはさんで、巴塚と芭蕉墓がならんでいる。

入口資料館に義仲と芭蕉の絵が、また芭蕉が使っていたという杖が木箱に納められている。ねじれ釘のような姿をしてサルスベリの木のように滑らかな肌であった。京阪石山駅でみた芭蕉がかついでいるのは竹杖だから明らかに違う。

芭蕉の句碑を写真におさめる。
まず資料館の前に、  
行く春をあふみの人とおしみける

巴塚の後ろに 
古池や蛙飛こむ水の音

芭蕉墓そばに辞世の一句  
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

境内の一番奥に菅沼曲水(曲翠)(1659〜1717)の墓があった。

本名は菅沼外記定常、膳所藩の重臣。菅沼曲水は、近江蕉門の重鎮でもあり、膳所における芭蕉の経済的支援をした。芭蕉が3ヵ月ほど住んだ幻住庵は曲水の叔父菅沼修理定知の草庵である。「おもふ事だまって居るか 蟾(ひきがえる)」と詠んだほど潔癖・実直な人物で、晩年58歳のとき、藩主本多康命にとりいって私腹を肥やす奸臣曽我権太夫を見かねて、槍で一突きに突き殺し自らもその場で自害して果てた。

義仲寺を後にして旧東海道は京阪電鉄石場駅近くの踏切をわたり直後の二股を左にとる。この石場駅付近は打出浜とよばれ石場の船着場があった場所である。草津の湖畔矢橋とを結ぶ大津側の湊であった。

左の路地入口右手には
「平野神社」の社碑、左側には常夜燈と「蹴鞠之神社」と刻まれた石柱が立つ。坂を上って境内に入る。鞠を足でおさえる狛犬がいた。この神社と蹴鞠の由来書きを探したが見当たらなかった。正月あたり、境内で蹴鞠大会でもするのかな。

古い商家が今も残る京町通りをゆく。格子・虫籠窓・犬矢来・駒寄といった町家の典型に加え、通りの左右には簾を下した旧家が多い。虫籠窓と一階の繊細な格子窓が美しい魚忠は明治半ばの建物で国の登録有形文化財に指定されている。その隣にはすだれの老舗が風情をおびた看板を掲げている。明治元年創業の
「森野すだれ店」だ。すだれの材料は琵琶湖産の葭で、特に近江八幡の西の湖でとれる葭が知られている。

司馬遼太郎が近江八幡の水郷に遊んだとき、「よし」と「あし」について書いている。よしは茎の節と節の間が空で軽く、あしは茎のなかに綿毛のようなものが詰まっているのだという。すだれに使うのは軽いよしであってあしではない。一方で、両者は同じ物だが、あしは悪しに通じるため、よしとよぶことにしたという説もある。また、竹のすだれは虫が付くが、ヨシのすだれには虫がつかないそうだ。

辻の角に
「此付近露国皇太子遭難之地」の碑がある。明治24年(1891)5月11日、訪日中のロシアニコライ皇太子が警備の巡査、津田三蔵に切りつけられた「大津事件」の現場である。皇太子は軽傷ですみ津田三蔵は無期懲役となった。

京町通りが国道161号にぶつかる京町1丁目交差点が
大津宿札の辻で、直進して西に進むのが旧北国海道(西近江路)で、旧東海道は左折して国道を逢坂山に向かう。角には札の辻標識にならんで大津市道路元標も立ち、ここが交通の中心地であったことを示している。

大津の繁栄は天正14年(1586)豊臣秀吉が坂本城を廃し、京都・伏見・大坂に直結する大津に大津城を築いたころから始まった。大津城は現在の浜大津琵琶湖汽船乗り場あたりに築かれた水城であった。関ヶ原前哨戦となった大津城籠城戦で、東軍京極高次は毛利軍の猛攻を受け大津城は落城した。関ヶ原戦後、家康は大津城を廃し膳所城を築く。なお名城彦根城の天守閣は大津城のものだといわれている。

秀吉の時に伏見から大津までの大津街道が整備され、家康の時代になって伏見経由で大坂高麗橋まで通じる東海道57次(京街道)として引き継がれた。

大津宿の旅籠がならんでいた八町通をすこし進んだ左手に
「明治天皇聖蹟碑」が建っている場所が大津宿本陣跡である。名所旧跡に恵まれた大津において宿場関係の史蹟は意外と少ない。札の辻と本陣跡くらいで、東西の見付跡があったのかなかったのか、宿場はどこからどこまでなのか、わからないまま八丁通りを過ぎてしまった。

JR東海道本線を越え、
京阪京津線の蝉丸踏切の向うに関蝉丸神社(下社)がある。逢坂山に蝉丸神社がなぜか3社もあって、ここが下社。この先国道沿いに上社が、更に峠をこえた旧道に分社がある。下・上社はもともと逢坂山の旅の安全を祈る関の明神が祀られていたものでのち関の住人蝉丸を合祀するようになった。旧道沿いにある蝉丸神社は蝉丸専用の神社である。

下社境内には玉垣の中に関の清水が、付近に自然石の歌碑が二基ある。

   これやこの ゆくもかえるも わかれては 志るもしらぬも 逢坂の関     蝉丸
   

  
逢坂の 関の清水に 影見えて 今や引くらん 望月の駒     紀貫之

社殿の前に謡曲「蝉丸」の説明板があった。

幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も、孤独の身の上を琵琶で慰めていた。 一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていく。という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。   謡曲史跡保存会

街道に戻ってすぐ右手の安養寺石段下に「逢坂」の由来を記した石標が建ってある。

日本書紀」によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とぱったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。

国道161号は左からくる国道1号と合流する。京から見た場合、ここが現在の東海道と西近江路の分岐点にあたる。

名神高速の高い陸橋アーチをくぐつと右手の石垣上に
関蝉丸神社上社の赤い高覧が見えてくる。石段を登りきると崖の斜面に古色蒼然とした社が建っていた。石段の隙間にスミレを見つけた。芭蕉が見つけたのは逢坂越えでなくて小関越えの道であった。

街道は右に大きくカーブしていよいよ
逢坂峠に差しかかる。深い切り通しである。山積みの米俵を運ぶ牛車にとってはきびしい難所だった。文化2年(1805)、大津から京都三条にかけて約12kmの間に車石を敷いて牛車専用道路を設けた。石は西近江路の宿場木戸から産出される木戸石が用いられた。

逢坂峠を越えたところで旧道は右側の大谷集落にはいっていく。分岐点手前右側に
「逢坂山関址」の自然石碑と「逢坂常夜燈」が建っている。平安時代、逢坂越えの道(東海道)は京都と大津を結ぶ幹線道路であり、不破・鈴鹿と並ぶ三関の一つとして弘仁元年(810)逢坂関がおかれた。古代三関は不破・鈴鹿・愛発であったが、延暦8年(789)愛発の関は廃止された。関址碑は、昭和6年に建立されたものである。

300mばかりの短い旧道であるが、この下り坂に
走井茶屋がならぶ景色を広重は描いた。明治5年(1872)創業の老舗うなぎ料理店「かねよ」の店先にその絵札が立っている。


京阪電車大谷駅前の民家脇に
「元祖走井餅本家」の石柱があった。広重の浮世絵にある茶店が逢坂名物として売っていた餅である。走井とは逢坂山から走り下って湧き出した清水のこと。その本物がこの先月心寺にある。

右手に三つ目の
蝉丸神社がある。境内には車石の道が復元されていた。

旧道はその先で国道に吸収されて消失。陸橋をわたって国道の左側歩道に移る。国道1号キロ程標識を見つけた。
487.2kとある。日永追分の先で400km地点に出会って以来気になっていたことである。京都終点までに500kmに出会えるか。結論を言おう。この先現東海道は府道143号(通称三条通り)に入りそのまま三条大橋にゴールインする。そこまでの距離は8.5kmほどで総距離500kmにはみたない。なお国道1号は山科でやや南に向かい五条大橋を経て堀川五条からさらに南下して大阪梅田新道で終わる。国道1号は東海道53次でなくて57次ルートに従った。総距離は550kmほどになる。伏見か淀あたりに500kmがあるのではないか。

虫籠窓の商家風建物の軒下に
「大津算盤の始祖片岡庄兵衛」の案内石標がある。平成15年に設置された新しいものだ。大谷から追分にかけて東海道の沿道には茶店にまじって大津の名産を売るみやげ店が軒をつらねていた。大津絵とともに人気があったのが地元で作られた算盤である。

石垣土塀をめぐらせた
月心寺が庵風の入口を開け「走井」と書かれた行灯看板が架けられている。格子戸をはいると中庭の右奥に石臼形の井戸があり、透き通った水を湛えていた。これが「走井」とよばれる名水である。

  
走井の かけひの水の すずしさに越えもやられず 逢坂の関   清輔

塀にそって街道をすすむと「明治天皇駐蹕之處」の石碑が建っている。

東海道はやがて名神高速道路を潜ったところで左の旧道にはいっていく。ながく連れ添った国道1号とはここでお別れということになった。

まもなく宇治・奈良・伏見へ至る道が左に分れ、「みきハ京みち」「ひだりハふしミみち」と刻まれた
追分道標が建っている。「京ミち」が旧東海道で「ふしミみち」はまた大津街道、京街道、奈良街道ともよばれる道である。

坂を下っていく途中太鼓櫓楼門が目立つ閑栖寺の門前に車石が置かれている。説明札には「心学者 脇坂義堂が発案し、近江商人中井源左衛門が財を投じたとも伝えられている」とあって、蝉丸神社の説明板には中井源左衛門の名はなかった。中井源左衛門といえば草津横町道標を寄進した日野の豪商である。

坂の下で国道の高架に突き当たり陸橋で反対側に渡る。橋から逢坂山方面を振り返ると目の前で
国道1号(東海道)と161号(新北国海道)計8車線がダイナミックに交差・分岐していく現代の追分風景を満喫できる。

反対側におりて国道沿いの道はすぐに二手に分かれる。右の道が旧東海道である。50mほどいくと右手丁字路に「三井寺観音道」「小関越」と深く刻まれた大きな道標がある。ここが
小関越追分で、野ざらし紀行で伏見を出た芭蕉はここから大津へ向かった。


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京都三条

旧東海道は四ノ宮駅の手前で京都市に入る。駅前を通り過ぎ古い石造り欄干の小橋をわたると右手に徳林庵という六角堂がある。保元2年(1157)後白河法皇は都の守護のために主要街道の出入り口6ヶ所に堂を建て、伏見六地蔵にあった6体の地蔵尊を1体ずつ分置させた。山科地蔵は東海道の守護仏である。

奈良街道:  伏見地蔵(大善寺)   大阪街道: 鳥羽地蔵(浄禅寺)
山陰街道:  桂地蔵(地蔵寺)    周山街道: 常盤地蔵(源光寺)
鞍馬口街道: 鞍馬口地蔵(上善寺)  
東海道:  山科地蔵(徳林庵)

地蔵盆である8月22、23日にこれらの6地蔵を巡る伝統行事は今も多くの人によって行われている。

諸羽神社の石鳥居の前を通る。山科18郷の中で四ノ宮と呼ばれてきた産土神である。地名「四ノ宮」は当神社に由る。

山科駅前通り手前の道路わきにも東海道の標石にかくれて
車石が置いてあった。車石は人気があるとみえる。

山科駅前交差点を渡ったビル脇に、
「明治天皇御遺跡」の標石がある。ラクトに入居している老舗料理屋「奴茶屋」は文安4年(1447)の創業で、同店の由来書きによると「南朝の忠臣楠木正成の曽孫若丸を開祖とす」とあり、徳川時代には東海道の立場として繁栄し奴茶屋はその本陣として旅籠を兼ねた。幕末の頃には皇女和宮・親王小松宮、十四代将軍家茂公が宿泊や休憩をとったという。

店先に紫の風船をつるした商店街をすすむと左手渋谷街道の分岐点に
「五条別れ」の道標がある。 宝永4年(1707)の建立で、正面に「左ハ五条橋 ひがしにし 六条 大佛 今ぐまきよ水 道」と盛りだくさんな道しるべである。側面の「右ハ三条通」が東海道。
正面を略さないで意訳すると、「五条大橋、東本願寺・西本願寺、方広寺大仏、今熊野観音、清水寺」と読む。五条から九条にかけての京都市内に入る道ということであろう。初めて上洛する旅人にはちと難しいかも。

ゆるやかなS字カーブをえがいた坂を下る。右手に魅力的な家が目を奪った。白壁板塀、長屋門、見越しの松、黒漆喰壁に虫籠窓、煙出。塀越しに宝篋印塔の頭部がのぞいている。土蔵もあった。個人の居宅であるらしい。どんな住人か興味をそそられる。

坂をくだると三条通りに合流する。右に曲がってJR高架をくぐる。左手に冠木門があるがここは遊歩道であって街道ではない。次にでてくる細い路地が旧東海道である。すぐ遊歩道を横切って住宅地を抜けていく。道は徐々に勾配を強め、山が迫ってきた。東海道最後の難所日ノ岡峠である。

家並みがきれたあたり左手の岩穴に亀の水不動尊がある。木食正禅養阿上人が元文3年(1738)日ノ岡峠を改修した際、梅香庵を営んで旅人の憩いの場とした。亀の口から清水が流れ出て竹樋に落ちている。穴奥に光る電気ろうそくが野獣の目に見えて怖かった。

峠にさしかかる。軽自動車幅いっぱいの狭い道を挟んで
日ノ岡峠の集落が延びている。右手下に大きな車道が見え隠れするころ叢に「旧東海道」の標石をみつけた。

まもなく三条通りに合流する。下り車線は強烈な渋滞である。左手歩道が一段と広くなってそこに
車石が敷設され、米俵を乗せた牛車が展示されている。いくつもの断片的な車石をみてきたがようやくその完成品にめぐり会えた。路面電車だった京阪京津線が地下鉄東西線となった跡地にある。結構な跡地利用だ。

すぐ先左の土手斜面に見える2基の供養碑は刑場跡だそうである。

三条通りは九条山の峠を越える。左にレンガ造りの蹴上浄水場が現れ、右にも趣あるレンガ積みの歩行者トンネルが見える。下り坂に沿って長い堤がつづき桜がほぼ満開であった。堤の上は
琵琶湖疏水のインクラインである。桜をめでながら散策する人で混みあっているようすだった。

京の盆地を眺められる場所にやってきた。全国各地にちらばる小京都の本家本元にやってきた。京都は私の青春の地、蹴上は6畳二間の新所帯をはじめた場所である。桜にうかれながらも甘酸っぱいノスタルジアに浸りながら蹴上の坂を下っていく。

都ホテルをすぐた左手に粟田神社がある。このあたりが京の都の東出入口「粟田口」であった。通りの反対側には
古い家並みが残っている。

白川橋のたもとに
京都市内最古という道標がたっている。延宝6年(1678)の建立。「ひだり ち於んゐん ぎおん きよ水みち」とある。

東大路通りを横切りついに三条大橋にたどりついた。三条京阪駅の脇に
高山彦九郎が御所に向かって跪いている。林子平、蒲生君平とともに寛政3奇人といわれた一人で、熱烈な勤皇家であった。

三条大橋を渡る。鴨川の流れを眺めながらこの橋を何度歩いたことか。橋脚は灰色の硬い材質に変わったが欄干は木のままである。優雅な擬宝珠は各地で模倣された。

西詰には弥次喜多の二人も東海道踏破を祝っていた。

東海道最後の仕事は広重を真似ることであった。彼の絵は橋の西北詰から下流にむかって橋を描き遠景に比叡の山を入れた。 山を移動させないかぎりそんなアングルは存在しない。やむなく私は弥次喜多のいる西南袂から比叡山を入れて撮った。橋の方向が違うのは目をつぶる。

2006年5月に日本橋を発って、2010年3月に京都に着いた。ほぼ4年がかりの東海道歩きであった。他の街道歩きとは違って東海道の旅は多目的的であった。情報が豊富で旧道探しに手間をはぶけたからできたことだと思う。

まず広重の浮世絵の現代風景を撮っておきたいと思ったこと。干瓢畑の水口を除いて強引ながらもそれなりの場所を見つけられたと思っている。

第二は芭蕉の足取りをできるだけ捉えておこうと留意したことである。後日、「今様野ざらし紀行」を書き上げるための準備である。「東海道」から芭蕉句碑を拾い上げるだけで7割方出来上がるのではないかと目論んでいる。

最も印象に残ったことはベンガラバッタリであった。共に近江路での印象である。主観の色眼鏡をかけていて、およそ東海道とは関係ない。

(2010年3月)
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