平清宗(1170から1185) 平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位侍従右衛門督であった。 源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。「吾妻鏡」に「至る野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。 遠藤権兵衛家 当主遠藤 勉 |
幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も、孤独の身の上を琵琶で慰めていた。 一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていく。という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。 謡曲史跡保存会 |
日本書紀」によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とぱったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。 |