高札の解説について この高札の文章は、田村川橋について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。この田村川橋ができるまでは、この橋から約六百メートル程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人か多く出たため、その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。また、川止めも再三あり、旅人を困らせていました。 そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め、今までの東海道の道筋を変えて新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました。『この橋を渡ることのできるのは、安永4年(1775)の閏月12月の23日からである。この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民および一般の旅人については1人につき3文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬1頭につき3文、渡り賃を取ることになっている。この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである』と書かれています。 |
問屋場跡 問屋場は、公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所で、宿の管理をつかさどる問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や苛物を振り分ける馬指・人足指らの役人が詰めていた。 土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代と共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。平成十六年三月 土山の町並みを愛する会 |
布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月にさえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿うるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。 平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。 あらしふく雲のはたてのぬきうすみ むらぎえ渡る布引の山 水口大岡寺で得度された長明は歌よみの世界に枝を引く。 江戸時代、東海道の大改修により道すじは麦るも東西布引にそったコースに変リなく、近世、明治天皇明治13年行幸の供奉池原香採のよまれし歌に ○吾が袖に通ふも涼し布引の 山より下す夏の潮風 ○みゆきます道のとばりと見ゆる哉 布引はへし 山の姿は 平成3年3月25日 土山町教育委員会 |
古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。 あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。 東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中にのびています。 |
江戸時代この場所は水口城の東端にあたることから木戸か置かれ、「天王口御門」と呼ばれました。もともと直進していた東海道も、ここで北へ直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と城の北側を迂回し、林□五十鈴神社の南でふたたび当初の道に戻りました。「天王□」の名は、天王町の名の起源でもある八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。これより木戸内には「広小路」「南小路」などの武家地がひろがり、ふだんは藩士以外一般の通行は制限さていましたが、四月の水口祭には藩主や藩士に見せるため曳山が曳き入れられました。 |