8月5日(11日目)贄川‐平沢‐奈良井‐鳥居峠‐薮原‐宮ノ越


なんとなくうきうきした気分で、朝起きるとすぐにまわりの枯れ枝を集めてきてキャンプ・ファイヤをした。自炊をする訳でもなく、夜でもないのになんとなく火を燃やしてみたかった。自炊道具は送り返したが、使っていたとすればここと千曲川しかなかったであろう。川の村にはいると屋根のついた立派な水場があった。湧き水を引いていて水が冷たい。ここで女たちは飲み水をくみ、野菜を洗い、洗濯をし、世間話に花をさかせるのであろう。

奈良井へ行く途中に漆器のふるさと
平沢の村がある。漆器店が軒を連ねるなかで「江戸積塗問屋」という古めかしい看板が、今も当たり前のように架けられている。木曽路のにおいが濃厚になってくる。

芭蕉が更科の旅に出たとき名古屋の門下でこの辺りまで見送った人がいたのであろうか。句碑の石は自然体で、古い木曽路にふさわしい。

  
送られつ送りてはては木曾の秋

奈良井の宿場にたどりついた。今日の行程のなかで一番大きな町である。国の伝統的建造物保存地区に指定されているらしく、家並みも小奇麗で保存が行き届いている。越後屋や伊勢屋といった江戸時代から続く宿が今も営業を続けている。贄川で見た屋根付きの共同水場があちこちにあった。昔のままに保存された江戸村を歩いている感じがする。


古色蒼然とした宿場の面影を堪能しつつ町を通りぬけ鳥居峠に向かった。ここが奈良井川と木曽川の分水嶺である。奈良井川は北に流れ、木曽川が南に流れる。峠の中腹から奈良井の町を振り返ると、奈良井川を挟んで
中央本線と国道19号線が左右に走っているのがよく見えた。頂上にはその名のとおり鳥居がたっていた。芭蕉が更科紀行で詠んだ句の碑がならんである。

  
雲雀より うへにやすらふ 嶺かな
  
木曽の栃 うき世の人の 土産かな

近くに
「子産の栃」があった。天然記念物に指定されている栃の大木で、地面近くに大きな穴があいている。この穴をめぐって伝説が生まれた。立て札によると、「この穴に捨子あり通行の村人拾い来り……云々」とあった。乳児がすっぽり入りそうな穴ではある。栃の実からつくられる栃餅を私は朽木でたべた。―うき世の人の土産―とはこの実であろう。

藪原につく。木曽川で水遊びをしている子供につられて、水泳パンツにはきかえ、しばしの涼をとる。ついでに洗濯も忘れない。

薮原の町も平沢でみたような古い作りの店が並んでいた。平沢は漆器であったがここでは木工品が多い。店を覗くと若い女性が腰を下ろして土産品を物色している。大きな「大萬木櫛問屋 黒木半蔵商店」という古看板にひかれて店に入ってみることにした。元祖お六櫛製造本舗であるという。

その昔お六という女がいて頭痛の病に悩んでいたところおんたけ御嶽の神のお告げがあり、日夜櫛をけずるようにという事であった。お六はいわれるようにし、手作りの櫛で髪をすくとその病が治ったという伝説が残っている。中に入ると、本ツゲ製の櫛やへらが大小入り混じって並べられていた。1本100円から500円まである。民芸調の装丁も購買欲をそそる。
私は彼女への土産に櫛を一つ買った。藤村の初恋の詩が念頭にあった。

キャンプにはまだ早かったので次の町まで行くことにした。宮ノ越という。手近に見つけた保育園グラウンドにシートを広げた。

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8月6日(12日目)宮ノ越‐原野‐木曽福島‐寝覚の床‐倉本

朝起きると子供たちが集まってきた。二人を訪ねてきたのではない。夏休みのラジオ体操である。二人も曲にあわせて体を動かした。子供の手前、手抜きはできない。模範体操を示すことになった。

木曽義仲と巴御前の菩提所、徳音寺や原野の手習天神などの写真を撮りながら昼には木曾福島にやってきた。福島関所跡には丁寧な説明書きの立て札があるだけであった。コテの跡が生々しく残る大きな土蔵にであい、中を覗いてみると信州味噌の製造元であった。


高瀬家を訪ねる。入口の鴨居に黒光りした板に白抜きで高瀬家と島崎藤村の関係について説明していた。高瀬家十四代薫に藤村の敬愛したたゞ一人の姉園が嫁いだのであり、小説『家 』のモデルとなった家である。園は小説『家』の中の「お種」また『夜明け前』の中の「お条」である。

藤村はまだ青年の頃、ここに下宿して『夏草』を書いている。高瀬家の資料館には藤村自筆の千曲川旅情の歌が架けられている。小諸で見た藤村碑の筆跡と同じであった。教育会館の玄関にも藤村文学碑があってここには「木曽路はすべて山の中である」で始まる『夜明け前』の冒頭の一節の原稿が彫られてあった。曲線がのびて挿入の二文字もそのまま彫られているのが現実味をおびて趣がある。

福島を出るころに信州そばの老舗「くるまや」を見た。三階建ての堂々たる建物である。ツアーでいけばおそらくここで昼食をとることになっているに相違ない。貧乏学生の旅ではそれもかなわず、中をそっと覗くだけで、信州手打ちそばの味を知らずじまいで福島を離れた。

木曽川に沿って上松に出る。有名な木曽の桟がみえてきた。今は鉄橋がひとまたぎしているだけで蔦葛はどこにも見かけなかった。橋のたもとに芭蕉の句碑がある。

  
かけはしや 命をからむ 蔦葛(つたかずら)

下は岩で橋台はコンクリートで固めてあって蔦葛を植える余地もなさそうであった。この岩の一部が江戸時代の橋台に用いられた石垣として保存されている。
木曽の桟の説明書きには次のようにある。

応永年間に木曽家十一代右京大夫親豊が街道沿線の難所に波計(はばかり)桟道を架設したのが、この「かけはし」のはじまりで慶長五年(一五九九)三月豊臣秀頼が犬山城主石川備前守に命じて桟道を改修し、中仙道の交通の便をはかったのであります。
この頃は長さ五十間、巾三間のもので絶壁に架けられておりましたが、正保四年(一六四七)通行人の松明の落火によって焼失し、慶安元年(一六四八)尾州藩の命により尾張の国の十兵衛と云う人が、当時八百七十三両で請負、主要個所を石積みにし中間に桟道を架け、明治維新後、この下にのこる石垣となったのであります。木曽街道の改修にあたり建設省は、重要な文化財として石垣を残し、三百余年前と近代との、二つの道路工法を見る事ができる様になりました。
(注)芭蕉句碑の台石は改修工事にて一部外した石積の最も小さなものの一つであります。

ずいぶん丁寧な言葉つかいで、読んでいて恐縮してしまった。

  
桟橋や 先づ思い出づ 駒迎へ

これも更科紀行に見る芭蕉の句であるがこの句碑は見当たらなかった。木曽駒も望月駒とならんで有名である。木曽駒高原とか木曽駒ヶ岳がこの地の東方にある。人が通るに命を懸けるほどの難所であったから、さぞかし馬を渡らせるのは難儀なことであったろう。

しばらく行くと急に川が岩っぽくなってきて、白い岩のあちこちには水が穿った丸みの穴がみえてくる。巨大な花崗岩が木曽川の激流に刻まれてできたものである。水の色はモスグリーンである。ここが寝覚の床といわれる名所で、浦島太郎が竜宮から帰ってきてここに隠棲したという伝説が伝わっている。

太郎が岩の上で昼寝をしていたとき、玉手箱のことを思い出して目が覚めたことから寝覚の床と言われるようになったという。河原の中央、奇岩を見晴らす一等地の場所にこじんまりした森があってそこに浦島太郎がまつられている浦島堂がある。浦島伝説は各地にあるが、たいてい亀や竜宮の関係で海岸が多い。隠棲とはいえ、山深いここまで来るのは大変であったろう。縄文から弥生にかけて、稲作族の進出で海人族は内陸におわれていったという話しを読んだことがある。


今日の宿泊予定の倉本に行く途中小野の滝を見た。広重の「中山道六十九次」にも描かれている名勝らしいが、落差はおよそ20mぐらいの滝でどうということはない風景であった。日本人はどうも滝が好きとみえて、水が落ちているところはすべて名所にしてしまう。

私はそれよりも、滝壷をまたぐように単線の鉄橋が滝と同じ高さに架かっているのが気になった。明治43年のものらしいが、街道沿いの古い滝に鉄の人工構築物の組み合わせは趣味が合いがたい。ただ、それを償うように、橋脚がコンクリートでなくて石積みにしていたり、巾の狭い単線がわずか30mばかりの距離を遠慮がちに架かっているのは木曽路の良心を感じさせる。

まったく偶然に汽車の近づく音が聞こえた。SLの音である。急いで望遠レンズに切り替え、通過の一瞬を待つ。まずまずの写真が撮れた。135ミリだったので滝の水が入らなかった。標準のままでよかったか。今ならズームという便利なのがあるのだが。

倉本について寝場所を探していると小学校後半の年頃の姉弟が近寄ってきた。二人とも大人しくて行儀のよい子供であった。どこか寝るのに良いところはないかと聞くと、近くのお堂に案内してくれた。姉弟は上松町倉本の
島崎康子ちゃんと清君である。
 
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8月7日(13日目)倉本‐須原‐野尻‐三野‐妻籠‐馬篭

倉本を立って
須原に入る。須原も古い家の残る落ち着いた宿場村で、桜の花漬けで知られている。大根の糠漬けと違って風情がある。木曽の名刹定勝寺に立ち寄った。木曽路最古の名刹で山門や本堂は重要文化財である。由緒を調べることもなく結構な建物を写真におさめて立ち去る。

野尻は小さい静かな宿場で道端にひなびた民家が建ち並ぶ。食堂とも思われない民家の戸に「木曽名物五平餅」と白抜きされたのれんがさがっていた。上を見上げると三つのだんごを串刺しにした形の看板が道に向かって差し出ている。まるみをおびた 五・平・餅 の三文字がそれぞれのだんごに書かれていてあいきょうがある。団子三兄弟のロゴを思わせる。

木曽路は三留野から木曽川を離れて落合まで山中を迂回する。そこに妻籠、馬篭があるのだが、どうして川を避けてさらなる山の中に宿場を設けたのか。中山道が整備されてから川筋が変わったのでもあろうか。妻籠の枡形の跡が示すように、とくに防衛上の必要があったのであろうか。そんなことは歴史家にまかせよう。国道や中央本線からもはずれて、妻籠や馬篭が純粋に木曽路だけであるのがうれしい。

妻籠にはいると再び古色豊な宿場の集落に出会う。宿屋は決められたように、一階はガラス戸に格子戸、二階は板雨戸が閉められていてその前に細長い木のベランダが軒に突き出している。投宿客は宿におちついたあと、ここに腰をおろして下を行き交う旅人や商人を眺めながら夕涼みでもしたのであろう。 

妻籠に入り本陣跡を見る。立て札があるだけで本陣は明治の代に取り壊された。いまは復原されているらしい。説明書によると1555年、ここに妻籠城があり島崎監物重綱なる人物が篭城のおり功績があったという。以来明治に至るまで島崎家が本陣庄屋を勤めたということである。要するに藤村の先祖はおそろしく古くまで明らかで、この土地に根ざした家であったということである。

隣に丸木に板書きを打ちとめただけの枡形の跡標がたっていた。その足元にはそれらしき石垣の残骸が散らばっている。

初期の中仙道宿駅をつくるときその頃は世相未だ不穏であったので、外敵の侵入を防ぐため宿駅そのものを一つの城塞として考えながらつくった。
宿駅の外側(妻籠宿では伊那美濃路に備えた)に街道を直角に折り曲げたいわゆる桝形を築いたのである。特にこの地点は上隣の光徳寺の石垣と共に城塞的使命を帯びていたのであろう。

うっかり見過ごすような粗末な妻籠の一里塚標識をみやってしばらく行くと、真中に滝不動、左右に女滝、男滝と深く彫られた石碑があった。滝と言うにはあまりに貧弱なもので奥行き5m、高低差2mほどのなだらかな傾斜を水が微かに流れているだけである。他の一つは見つけることができなかった。横長の板に書かれた由緒書きによると、18世紀なかば大規模な洪水で土砂崩れがおこり河床が10数メートルあがり滝壷もない今のような小さな姿になったのだという。

宮本武蔵にまつわる伝説が書かれているのでその部分だけ引用する。

天正のころ剣聖宮本武蔵が恋と煩悩の苦しみから脱却しようと座禅を組み、修業しているところへ恋人のお通さんが現れて、二人は結ばれたという伝説をもつロマンスの滝であり、この滝の不動尊に願をかければ及ばぬ恋でも結ばれると伝えられている。

恋を忘れようと滝にうたれていると前を恋人が歩いてきた。男は脱兎のごとく滝壷から出てきて濡れた体で彼女をひしと抱きしめた。ハピー・エンドにケチをつけるつもりはないが、煩悩脱却と恋の成就があっさり結びついていて肩透かしを食った気分にならないでもない。

妻籠から馬篭に行くのに馬篭峠(790m)を越える。妻籠峠ともいうらしい。妻籠と馬篭の間にあるので両方成立つ。峠の頂上に正岡子規の句碑が建っている。

  
白雲や 青葉若葉の 三十里

どこからどこまでの30里であろうかと考えた。石碑によると桜沢から新茶屋までが木曽路らしいが、最寄りの宿場である贄川から落合までの道のりを計算すると113キでおよそ31里となる。子規のいう30里は木曽路のことであろう。この間に69次にでてくる10の宿場がある。車で国道を飛ばせば2時間余りの距離を当時の人々は3日がかりで歩いたのだ。この旅で私たちは信州に9日を費やした。その最後の3分の1が木曽路だったわけである。夏の盛りで若葉とはいかなかったが、白雲と青葉は満ちあふれていた。


馬篭にはいり、まず大黒屋を訪れる。そこで三度藤村に会う。大黒屋は『夜明け前』の伏見屋で、ここの娘おゆうは藤村初恋の人であったという。佐藤春夫直筆になる藤村「初恋」の詩が掲げられている。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思いけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたえしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃を
君が情けに酌みしかな

林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

花櫛の櫛はつげ製であったろう。私の買ったお六の櫛はおゆうの櫛のつもりであった。

馬篭本陣は藤村の生まれた場所で、今は藤村記念館になっている。白壁には簡明な言葉が彫られた銅板がうちつけられていた。

血につながるふるさと
心につながるふるさと
言葉につながるふるさと

私のふるさとは近江の八日市であるが、はるかにさかのぼるとアジアのどこかであることは間違いない。東南アジアから海を渡ってきたのか、朝鮮半島から陸伝いに歩いてきたのか、あるいはシベリアから樺太経由できたのか知らないが、蒙古斑という遺伝子的特徴から短絡的に連想して、現在のモンゴル高原のあたりではないかと勝手に思っている。
ともかくモンゴルまでは血も心もつながっていると思っている。

今夜の宿を探してみたが学校や神社らしきものを見つけることができなかった。しばらく街道沿いを行き来したがあきらめ、結局ミルク小屋のような建物の軒下に寝袋をならべることになった。

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8月8日(14日目)馬篭‐新茶屋‐落合‐中津川‐恵那

後ろ髪をひかれる思いで馬篭をたつ。
道端に小さな馬のわら人形とこけしを収めた木箱が杭にとりつけてある。その上に立て札があり「馬篭のこもり駒」の説明があった。民芸品の展示箱か。

新茶屋に藤村の筆跡になる「是より北 木曽路」の石碑がある。桜沢の碑より藤村の筆跡碑のほうが高価に見える。


山中の集落にある山中薬師(医王寺)に芭蕉が更科紀行で詠んだ句碑があるらしいが寄らなかった。原則として中山道の沿道で見るものに限定している。

 
梅が香に のつと日の出る 山路かな

小高く盛り上がった塚の上に「新茶屋一里塚」の石標がある。ここが信濃と美濃の国境で、これより南は岐阜県となる。
中山道はまだ続く。

美濃にはいると民家が途絶え山の中に細い石畳の道が続いている。ローマの古道にくらべると石は大粒で素朴な並べ方である。江戸時代、落合十曲峠付近から馬籠宿にかけての山道は、一帯に石畳が敷きつめられていた。明治以降、荷車などが交通手段として利用されるようになると、石畳は不都合のため一部が取り払われた。

文化というのは面白い。ローマのアッピア街道には轍の跡が残っている。基本的に街道は車のためにあった。日本は歩道が基本であり車を通すには石より土のほうがよかったというわけだ。

すべてが山の中であった木曽路の終わりを象徴するように、土の道は急に人の手が加わって、過去から現在にひきもどされる感じが否めなかった。碓井峠に入った時から持続していた気分の高まりが萎えてくるのがわかる。石畳の道はアスファルトの熱くて平坦な道に戻る前の、いささかの抵抗でもあったかのように見えた。昔の旅人の足跡を確かめるように、歩幅をちぢめて石の感触を靴の裏で味わっていた。

落合の町を通って中津川にでる。急に視野がひろがり旧道は国道、鉄道そして木曽川に合流する。もう木曽路の面影はない。碓井峠以前の風景にもどったようであった。沿道にも見るべきものがない。信州の景観や風情との落差が大きくてその反動はこの先を悲観的にさせた。やむなく歩を進め、恵那に泊まる。恵那は昔の大井の宿であるが、なんの写真も残っていない。


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8月9日(15日目)恵那‐西行塚‐御嵩

恵那から旧道をしばらく行くと西行塚がある。西行法師がしばらく隠棲したところという。芭蕉の時代よりも一段と古い時代をおもわせるような五輪の石塔が立ち枯れた大樹に寄り添って立っていた。

さて、美濃国の中山道は落合宿から今須宿までの32里(約125q)で、中山道全体の約5分の1に相当し、その間に16の宿場があった。距離だけでいえばほぼ木曽路に匹敵する。しかし落合からここまで歩いただけで、直感的に、この国は中山道に対する愛着が希薄であるように感じられた。本来なら旧道沿いに大湫(くて)、一ツ屋、細久手、上ノ郷などを行くべきであるのだが、大胆に迂回することにした。ヒッチハイクによる新道の走破も考えなかったわけではないが、信州で経験したような受身体では車も得られない予感がして、潔く鉄道で先回りすることに決めた。

西行塚より旧道を離れて武並に出、そこから中央線にのり、多治見で東海道線に乗り換える。途中はたいしたことはなかろうという予測があった反面、なにか重大なものを見逃すことになるのではというためらいもあって、関ヶ原まで行ってしまうだけの勇気は持てなかった。妥協点を御嵩とし、広見で降りて私鉄で逆戻りするはめになった。御嵩で鬼の首塚を見たかっただけである。端折った道のりは31キロで大湫と細久手の宿場を見なかったことになる。事前に約束したルールの大違反を犯すことになった。

嵩では可児(かに)寺によったあと、「鬼の首塚」を見た。中山道のガイドブックにはなかったが地図でみつけて面白いのではと思っただけである。中山道の名所といったものではなさそうだ。東へ6キロほど行った所に奇岩が立ち並ぶ鬼の岩屋とよばれる名所があるらしい。そこに出る鬼を退治して首を埋めたのがこの首塚であると言われている。どのような鬼なのか知らない。首塚はただ小岩、杭、登り、さお竹、布切れなどが雑然として散らばっているだけの場所である。子供の頃、夏休みの地蔵盆の夜には肝試しと称して近くの墓場を周回する遊びをしたが、さしずめこの首塚はそのコースにふさわしいおどろおどろした気味悪い場所であった。写真を撮っていてもいい気分ではない。首塚よりも岩屋のほうを見るべきであるとは思ったが、そのために3時間も歩く気はしなかった。このためだけにわざわざ御嵩まで戻ってきたかと思うと悔いが残った。中山道とのつながりがなければ二人には価値がないのだ。

実質今日は西行塚で10分ほど時間を過ごしただけという、この旅でもっとも空しい一日が過ぎた。現在は、大井‐御嵩間の中山道は東海自然歩道として整備されているという。

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