羽州浜街道−1



鼠ヶ関−温海三瀬大山浜中酒田吹浦

いこいの広場
日本紀行

次ページ


羽州浜街道は新潟・山形県境にある鼠ケ関から日本海に沿って北上し、酒田、本庄を経て久保田(秋田市)に至る浜街道である。鼠ケ関で出羽街道浜通りを引き継ぎ、久保田で内陸を北上してきた羽州街道に合流する。

藩主の領内巡回や幕府巡検使が使った他商人や出羽三山詣の旅人などが通った道で、参勤交代では利用されなかった。鼠ケ関から象潟までは松尾芭蕉が歩いた奥の細道でもある。

街道の呼称も一つだけではなく、北国街道とも、また酒田以南では越後街道、以北では進行方向により酒田街道あるいは秋田街道とも呼ばれていた。現在の国道7号にほぼ相当するが、かなりの部分が海岸の砂道を通るもので、海岸線の後退により現在は海中に没してしまった部分もすくなくない。距離はおよそ約170kmである。


鼠ヶ関

新潟県と山形県の県境(越後国と出羽国の国境)にある宿場、鼠ヶ関から発つ。

旧道に一本の点線ラインが引かれ脇に県境碑が建つ。新潟県村上土木出張所が昭和33年に建立したものでまだ新しい。左手に「村上市 新潟県 最北」の看板が立ち、地蔵尊を安置した祠がある。

県境碑の建つ三叉路を右折し、JR線路に沿って左折する角に古代鼠ヶ関跡の石碑がある。蝦夷地との国境に設けられた古代の関所、鼠ヶ関址で、白河の関勿来関と共に奥州三古関と呼ばれている。昭和43年(1968)の発掘調査で地下1mほどの所に棚列址、建物址、須恵器窯址、製鉄址、土器製塩址が出土し、関所の軍事施設と高度の生産施設をもつ村の形態を備えた古代関所址の存在が確認された。年代は平安中期から鎌倉初期の10〜12世紀にわたっている。江戸時代に入ると庄内藩の御番所が鼠ケ関集落の北端に設けられ、街道のみならず船番所の機能もはたしていた。その跡地を、この古代関所と区別して近世念珠関址と呼んでいる。

旧道を北に進み鼠ヶ関駅前通りを横切って丁字路に突き当たる。右に折れると丸イ旅館がある。丁字路を左におれるとマリンパークに出る。海岸沿いの通りを左にいくと、左手に「義経上陸の碑」が建っている。弁天島にある厳島神社の境内に、大河ドラマ「源義経」(昭和40年)を記念して原作者村上元三の揮毫で建てられた「源義経ゆかりの浜」碑から20年後、改めて同氏によって建てられたものである。源頼朝に追われた源義経は安宅の関から海上に逃れ佐渡を経て鼠ケ関弁天島付近に上陸したと伝えられている。鼠ヶ関を弁慶の機知によって通ることができ更に、関守の世話で当地に宿泊、疲れを癒したという。

丸イ旅館の東端に「念珠の松」の案内標識がある。くぐり戸を入ると一本の黒松が長々と地を這うように枝を張っている。400年程前に元村上屋旅館(昭和35年廃業)を営んでいた佐藤茂右ェ門が植えたとされる松で、7mほど地を這い、それから斜上して支柱で支えられ全長20mの見事な臥龍松である。「村上屋の念珠の松」として、山形県の天然記念物に指定された。

丸イ旅館前の通りを東に進み蓬莱橋を渡って国道7号に合流する。合流点に「念珠関址」がある。民家の前の一角に「史蹟念珠関址」碑が立つ。ここが県境にあった古代鼠ヶ関址に対する近世の念珠関所(鼠ケ関御番所)跡である。関守は大庄屋である佐藤掃部家が歴任した。

冠木門の前に「勧進帳の本家」と記した標柱が立っている。歌舞伎『勧進帳』での安宅関のエピソードは『義経記』の中の鼠ヶ関通過の条に描かれている、とする解説が添えてあった。

早田小岩川大岩川の集落では国道の右手に旧道が残っている。

小岩川集落に入った所右手に法華経題目碑や地蔵堂がある。右に住吉神社をみて国道に合流する。

大岩川集落の入口に湯殿山碑がある。集落中程右手に旭日モルタル台に取り付けられた時計が目を引いた。時刻は正しい。時計の下にあるのは円形の気圧・温度計だ。気圧は1気圧(1013mbar)、気温は37度を示している。 「TAKAHASHI OSAKA」の英文字が読みとれた。

小国川を渡って羽越本線沿いに北上する。海側から国道7号、羽越本線、旧道が並走する。




トップへ



温海 

釜谷坂集落をぬけて国道に接するところで「あつみ温泉」と書いた大きなこけしが立っている。旧道でトンネルをくぐり温海川を渡ると温海宿である。浜街道の宿場ではあるが、町並みにそれを偲ばせる面影はない。僅かに芭蕉が一泊したという鈴木家宅前に「奥の細道芭蕉宿泊の家」の標柱が立つのみである。元禄2年6月26日(陽暦8月11日)、芭蕉と曽良は鈴木惣左衛門宅に一泊した。酒田、象潟で出会った美濃の商人、宮部弥三郎(低耳)の紹介による。

このあたりは浜温海とよばれ、温海の本命は温海温泉にある。温海宿は羽州浜街道にあって、温海温泉への入口に過ぎない漁村ではなかったか。

芭蕉は翌日越後をめざして鼠ヶ関に向かったが、曽良は行動を別にして温海温泉に出かけた。別行動の理由は定かでないが、曽良に何らかの目的があったと思われる。

私も、浜温海が物足りなくて、温泉に寄ってみることにした。温海川に沿って県道44号を約2.5km東に行く。

温海温泉は1000年以上の歴史をもつ古湯で、歴代領主の庇護を受け発展した。温海温泉の名前の由来は源泉から日本海まで距離が短く海が温かく感じられたからだと言われている。庄内藩主の御茶屋御殿が置かれ、盛時には旅籠40軒が軒を連ね娼家の数は10軒を数えた。与謝野晶子、横光利一、斎藤茂吉などの文人墨客にも人気があった。与謝野晶子は「さみだれの出羽の谷間の朝市に傘して売るはおほむね女」という歌を残している。

温泉街入口の二股を左にとって表通りを進むと、創業宝暦3年(1753)という老舗あさひや旅館を通り過ぎた左手に温泉神社があり、その境内に十人余りの年配男女が集まって飲食を楽しんでいた。この場所は300年の歴史をもつ温海温泉の朝市が開かれる広場である。4月から11月まで毎日開かれる温海温泉の朝市は能登輪島、飛騨高山と並ぶ日本三大朝市に数えられている。

通りの東端に熊野神社があり、参道石段の途中左手に芭蕉供養碑がある。元禄2年夏、芭蕉と曽良が温海宿に一泊したこと、翌日芭蕉と別れて曽良が単独この温海温泉を尋ねたことが説明されている。曽良がここで何をしたかは誰も知らない。

浜温海にもどり、町並みを出て国道に合流する。暮坪集落の手前で右の旧道に入る。下見張り板壁の民家が浜辺集落の匂いを醸している。


吉祥寺の先、旧道をはなれて国道を潜ると、瘤状に海に突き出た岬に巨岩が孤立している。巨岩の前に矢除明神の小社がある。
立岩と呼ばれ高さ51mの柱状節理の玄武岩である。頂上はベレー帽をかぶったように松が低く生え、岩の北側には大小の岩を繋いで注連縄が架けられている。立岩は古くから温海温泉の景勝地として知られ曽良も随行日記に記した。

暮坪の集落をすぎ国道に合流した先に広い駐車場と小さな公園がある。公園には芭蕉の句碑があった。酒田で詠んだ一句である。

芭蕉遺跡 温海   あつみ山や吹浦かけて夕涼み  芭蕉

海辺には「塩俵岩」がある。立岩と同じく玄武岩の柱状摂理であるが、ここでは垂直ではなく、俵を積んだように横に積み重なった姿である。これらの岩が連なっていて注連縄が張られている。

鈴バス停前で右の旧道に入り鈴集落を通り抜ける。途中右手に薬師神社の社標があり、その下に庚申塔がある。裏面に銘が彫られている。11月16日と解ったが肝心の年号は読めなかった。古そうである。

国道7号を北に進んでいくと、前方にトンネルが二つ見えてくる。右側歩道の延長にある旧トンネルが旧道筋である。海側を振り返ると国道を斜めによこぎって
旧道らしい道が崖下の浜辺に降りていた。こんなところにも民家があり、畑が耕されている。

旧トンネルをぬけ五十川(いらかわ)五十川集落に入ったところで旅館松城屋前から五十川を渡る。左手に
古四王神社がある。川沿いに東に進み県道61号で左にUターンして、鳶ヶ坂トンネルを抜ける。国道に合流して堅苔沢(かたのりざわ)に入る。

トップへ


三瀬 

波渡崎漁港を見下ろす岬の高台に大正天皇の皇后であった貞明皇太后の「御休憩御鑑賞の地」碑が建っている。昭和25年(1950)皇太后が鶴岡から温海温泉に行く途中ここで休息して岬から見渡す絶景に感動したという。

国道から右の旧道に入ると堅苔沢集落に圓通寺がある。時宗の寺で留棹庵と呼ばれている。康平元年(1058)に創建された古刹で、特に漁師の信仰を集めていた。この寺は海上の関所も担っており、「棹を留める庵」と命名されたと伝わる。

集落をぬけて国道に出る手前、右手に防砂壁のモルタルで固められた湯殿山碑、庚申塔、二十三夜塔などの石塔群がある。

国道に出て川を渡った右手空き地に「奥の細道 遺跡 鬼のかけ橋」と刻まれた石碑がある。昔、ここから北に600mほどいったところ(堅苔沢と小波渡の境辺り)に長さ11m、高さ3mほどの自然石橋が海に突き出ていた。「鬼のかけ橋」といわれた難所で、旅人はその下を通っていったという。芭蕉と曽良も見たこの橋はその14年後、元禄16年(1703)の大地震で崩壊した。

旧道で小波渡(こばと)集落に入る。集落の中ほどに御水屋(オミジャ)と呼ばれる湧水がある。その由来は小波渡村の開村につながっている。話は義経伝説にまで遡りきわめて古い。小波渡とは隣の堅苔沢に行くには切通しの難所があったため、小舟で渡ったので、小波を渡るということから名づけられたという。難所とは鬼の架け橋があった場所であろう。

右手に東福寺社標と皇大神社の鳥居が立っており、そこに大きな湯殿山碑と庚申塔が立っている。

JR小波渡駅に通じる道の入口に笠取峠の案内標柱と「新奥の細道」の説明板がある。旧道は羽越本線のガード下を通って坂を上がっていく。家並みのつきる所に不動宮があり、その奥に滝が落ちている。ここから笠取峠道にはいっていく。笠取とは強風で旅人が笠を飛ばされることから名づけられた。道は全長4.5kmのハイキングコースとして整備され歩きやすい。距離標識も充実している。山道にかわりないが日本海に面した山の中腹を開いた道筋で、終始日本海を見渡せる景勝の地である。

振り返ると羽越本線と国道7号にはさまれた小波渡集落の全貌が見渡せた。

さらに峠道を登ってゆくと東屋が見えてくる。草を刈っていた地元の人たちが休んでいた。ここが笠取峠かと尋ねると、ここは鯵ヶ崎峠だという。ここからの三瀬漁港の眺めもすばらしい。

峠道は大きく右に回り込むように山腹を縫う。ほぼ中程、漁港が真下に見下ろせる個所で崖が大きく崩落していた。山側に残された細い道を越えて三瀬側に渡る。このあたりが笠取峠らしいが、標識もなければ足元に峠のふくらみを感じることもなかった。

岬の高台に出た。左に三瀬漁港、岬をはさんで右には三瀬海水浴場が見渡せる。

右に曲がって道なりに坂をおりていくと県道334号に出た。昔ここに三瀬宿西の木戸があった。

右折して三瀬宿の中心街に入る。左手旅館坂本屋の前に「羽州山浜通三瀬組御本陣跡」の標柱が立っている。江戸時代の絵図では坂本屋は峠道出入口木戸付近に在って、この場所ではないようだ。坂本屋が本陣であったということではない。

その先の丁字路あたりが三瀬宿の中心地であった。通りに「藤沢周平著『三年目』当時の江戸時代三瀬宿場町絵図」が掲げられている。木戸が東西端に二カ所、西木戸付近に坂本屋、本陣の向かいには越後屋、常盤屋、秋田屋などの商家が軒を連ねていた。山側には大日堂長泉坊など寺が集まっていた。三瀬宿を芭蕉が通り、古くは義経一行も通っていったという。町並みに昔の面影は残っていない。

丁字路を左折して気比神社に寄っていく。参道入り口に「史跡 旗本台 縄文時代の遺跡戦国時代の館跡」と書かれた標柱が立っている。それ以上の説明板はなく詳細は分からないが、気比神社のある丘陵は古くから開けていた地域であるらしい。気比神社は霊亀2年(716)に越前敦賀の気比神宮を勧請して創建された。武勇の神とされている為、歴代領主や武将などに崇敬され、酒井家が鶴岡城主となると同家から社領の安堵や様々奉納物が寄進され、現在の本殿も宝永4年(1707)に酒井家が建立したものである。社記には源義経所縁の記述があるが省略する。

街道にもどって東に進む。三瀬郵便局の先で二股を右にとるのが旧道筋で、川に架かる上町橋の南詰めに三瀬宿東の木戸があった。木戸跡の標柱が立てられている。

旧道は川を渡って県道334号に戻る。三瀬駅を右にみて県道を東に進む。三瀬集落を出て羽越本線をくぐり黄金色の田圃を左手に見て山裾の道をいく。降矢川に架かる降矢橋の50mほど手前左手に三瀬一里塚跡」標柱が立っている。


トップへ


大山 

日本海東北自動車道のガード手前で左に矢引峠越えの旧道入り口が残っている。自動車道建設のための作業道にも見える。少し入ってみたが先は分断され笹薮の中に消失しているようであった。

自動車道を潜って東に350mほど進んだところで、自動車道の北側に通じるトンネルがあった。くぐってみると東西に道路の痕跡がのこっている。先ほど消失した旧道の延長のようだ。右手に梵字を刻んだ石塔があった。旧街道の道筋を示す証人ではないか。

県道を更に200mほど進み右にカーブする地点にも自動車道のトンネルがあって、くぐってみると今度は自動車道に沿って左に舗装された道が延びている。たどっていくと先の旧道の延長に出た。土道の旧道が田んぼの北端の山裾を縫って山中に入っていく。遠くの谷間に山道らしい筋がみえる。矢引峠に至る旧道であろう。矢引峠は羽州浜街道の難所だった。

旧道を探索するのは断念して県道334号を行く。山中集落に入り林高院参道に大きな延命地蔵がある。高さ2.3mの半跏像で顔は素朴な風貌である。寛政10年(1798)の棟札が残っているという。

県道は日本海東北自動車道の手前で山中から矢引に入る。このあたりが県道の峠のようである。坂を下って左手に民家が見えたところで、右にまがる県道に対して、左に出ている道がある。これが旧矢引峠を越えてきた旧道である。舗装された林道を山中にたどっていく。山は深くなっていくがどこまでも歩きやすい道である。いずれは林道が途絶え山中に消えていく獣道になるのであろうか。熊が怖くて適当な所で引き返した。

県道にもどり、羽越本線をくぐってY字路を左にとる。中沢集落の薬師神社前で丁字路を右折して県道334号に合流する。県道は羽越本線、自動車道をくぐって大広集落に残る短い旧道を経て道なりに進み、羽前水沢駅に通じる県道335号を横断して細い旧道に入っていく。

自動車道の手前で右折して県道38号に出る。交差点に明治41年建立の八幡神社道標が建つ。丁字路を左折し自動車道をくぐり国道7号を渡って大山川に沿って大山市街に向かう。国道7号との交差点付近は追分と呼ばれていた。国道7号を東に取れば鶴岡市内に至り、南に進むと国道345号に出て出羽街道を越後村上に向かう。

県道38号は中盾、栃屋を経て大山市街地にはいってきた。羽越本線を越えて二股を右にとるのが旧道である。旧道はこのあと曲尺手を繰り返す。耕田院の先で川を渡って右折、松尾神社の手前で左折、国道112号の一筋南の通りを右折、成田屋酒店のある信号十字路を左折して北上する(右折すると大山駅)。

途中、松尾神社の前を通って旧銅片町集会所前にある大山騒動義民供養塔をたずねる。天保15年(1844)天領支配から庄内藩預りとする幕命に反対した農民指導者5人(獄死)の供養塔である。

成田屋酒店のある信号十字路にもどる。すぐ先右手に近江屋羽根田酒造が格子窓に黒板壁造りの趣ある佇まいを見せている。先祖は近江国甲賀郡羽田の庄の領主で、文禄元年(1592)から大山に移って酒造業を始めた。大山は江戸時代から酒造の町であった。大山の町全体で「大山酒」という統一的な名称を用いて酒造、販売する特徴ある戦略をとってきた。全盛期には40軒もの酒蔵があったが、現在では出羽ノ酒蔵、冨士酒造、加藤嘉八郎酒造、羽根田酒造の4軒だけになってしまった。

十字路を東に突き当たった所に出羽ノ雪酒造渡會本店がある。その脇に魔よけの石敢塔がある。一見ありふれた石祠であるが内務省史蹟とあった。

十字路を南におれると駅に向かう。途中にある
本長で民田なすの漬物を買った。本長は老舗漬物店で、荘内地方の野菜を使った豊富な漬物を揃えている。味にも定評があり団体客が引きも切らない。私のめあては芭蕉が喰ったという民田ナスであったが、原形をとどめる浅漬けは夏でしか店に並ばず、今はからし漬け、醤油漬け、味噌漬けなど長期保存用ばかりであった。

国道112号を横断して大通りを北に進む。

右手に加藤喜三郎酒造、左手に冨士酒造の工場が酒造りの町大山を象徴しているようである。

加藤喜三郎酒造の北側に建つ黒々とした重厚な屋敷は柴田豊太郎邸である。

富士酒造の北側に古い趣をたたえる家が二軒続いている。その北、路地をへだてた角の空地は旧醤油屋丸谷義左衛門宅跡である。元禄2年6月25日(8月10日)、芭蕉と曽良は象潟で出会った美濃商人低耳の紹介状でここ丸谷義左衛門宅に泊まった。丸谷醤油の蔵は鶴岡けやきホールに移築されている。

すこし戻って、富士酒造の南側の路地を入って行った所に松倉馬頭観音がある。お堂にしては立派な仁王門を構えている。観音堂は行基が養老元年(717)に建立したのが始まりで、現在の御堂は宝暦4年(1754)に再建されたもの。仁王門は慶応3年(1867)の創建である。境内には珍しい六面幢の縄巻地蔵尊が祀られている。

ここから尾浦城跡の大山公園に寄って行く。尾浦城は戦国時代一帯を支配していた武藤氏が天文元年(1532)に築城した。当初大宝寺城(鶴ヶ岡城)を居城にしていたが、最上氏、上杉氏の台頭と家臣の不穏の動きから、より堅固の城郭の築城が必須となり大山の地を選んだ。その後紆余曲折を経て関ヶ原の戦い後は最上氏が支配することになる。最上氏は尾浦城を改修し大山城と改称、城下町の整備を行うが、最上氏のお家騒動により改易に伴って大山城は廃城となった。

公園の頂上には古峰神社の他、武藤氏時代の尾浦城本丸跡に三吉神社が建つ。頂上から大山の町が見渡せ展望がよい。北側には下池が緑と青の微妙なグラディエーションを見せている。渡り鳥の越冬地として知られラムサール条約登録湿地に登録された。

旧街道にもどり、県道38号に並走して北に進む。馬町公民館前は小さな曲尺手になっている。しばらくして善宝寺の端正な総門前に来た。善宝寺は天慶年間(938〜57)に創建された曹洞宗の名刹である。守護神として竜宮竜道大竜王と戒道大竜女を祀っている事から、古来から海の守護神・龍神の寺院として航海安全、大漁祈願を祈願する全国の漁業関係者の信仰を集めている。

総門から境内に入ると多くの堂宇が建ち並ぶ。文久2年(1862)に再建された総欅造りの楼門は威風堂々として、全体にほどこされた彫刻も見事である。

左手にそびえる高さ36mの五重塔は明治16年、漁業関係者の発願により「魚鱗一切の大供養塔」として建立された。

石段を上がって本堂を見る。

善宝寺から湯の浜GCの東を回りこむようにして県道43号をよこぎって国道112号に合流する。旧道はゴルフ場によって分断された形になっている。


トップへ



浜中 

国道112号でクロマツ林の中を北上する。庄内砂丘の強風と砂を防ぐための植林が江戸時代から行われてきて、見事なクロマツ林を形成している。

ほどなく鶴岡市下川から酒田市浜中に入る。庄内空港の下をトンネルで抜けると浜中集落である。民家は渇いた板を縦につないで風砂除けの塀を囲っている。

旧道筋は国道なのか、一本東に入った集落内の細道なのか定かでない。庄内空港に通じる大通りを越えたところの丁字路を右に入ってみた。正面に板柵塀があり道は鉤型に左に折れている。家並の始まりに「南無地蔵大菩薩」の幟が立つ地蔵堂がありおばあさんが何かを供えているようであった。

細い通りは国道とちがっていかにも旧道らしい雰囲気を漂わせている。板やブロック塀で囲った民家の軒を縫うように路地を北に進んでいくと集落のほぼ中央あたりの右手に石船神社があった。天文元年(1532)、浜中開村時の創建だという。

神社の北向かいに正常院がある。慶安2年(1649)に善宝寺陽室清学和尚が隠居の草庵を結んだのが始まりと伝わる。境内には多数の石仏群の他古い石塔がある。

変則十字路のこの辺りが旧浜中宿の中心部であったのだろう。角には駐在所があり、バス通りが東西に通り東へ行けば浜中小学校が、国道沿いには郵便局がある。バス通を境に南が浜中上村、北側が浜中下村に分かれている。

一筋西の旧道にもどり、家並みの中を北にすすむと集落の北端で国道112号に合流した。地名は浜名下村から浜中村北分散と変わっている。「村北分散」とは意味がよく分かって面白い地名だ。

防風林に囲まれた静かな街道はまもなく袖浦橋で赤川新川を渡る。新川橋下流で最上川に向かっていた旧赤川を付け替えたものである。

クロマツ林の中に「庄内海岸砂防林 日本の白砂青松100選」の看板があった。やがて浜中八間山から十里塚村東山南に入る。右後ろから左前方に国道を斜めに横切る道がある。ここを左斜めに入るのが旧道である。であれば右後斜めにのびている道も旧道ではないかと思われるのだが、地図を見るとこれは新川橋近くの黒森に通じる道であった。

十里塚の集落にはいると左手に大美和神社がある。大美和神社は奈良三輪山を神体とする日本最古の神社で大三輪、大神とも記される。

国道112号にもどる。「浜の郷 十里塚 荘内砂丘」の看板がある。防砂林の隙間にも砂地の畑が耕されている。靴が浅く沈むほどの砂地である。ネギが栽培されていた。乾燥に強い白ネギであろう。

二俣で右へ曲がっていく国道はと分かれて旧道は直進する。
100mほどいった左手、林の中に小さな赤い鳥居が見える。林に入り込むと
お根子様と呼ばれる祠があった。地図を見るとちょうど十里塚と宮野浦の境界線上にある。十里塚村が成立して間もないころ、白髪の老人が夢枕に立ち、我こそは村の守護神であり、大波に乗って現れるであろうと告げた。翌朝海岸に大きな木の根が打ち上げられており、その木の根をお根子様として祠に祀って漁や村の守護神として大切にされているという。

街道はクロマツ林と分かれて右にまがり宮野浦集落をぬけて最上川堤防に突き当たる。堤防に上がると川辺に川船が数艘繋がれていてあたかも昔の渡し場跡を思わせる風景だった。宮野浦は平安時代袖ノ浦と呼ばれ最上川河口の湊として栄えたいた酒田の発祥地である。浜街道の宿駅として伝馬も置かれていたという。

赤川、最上川の度重なる水害で1520年ころから対岸に移住が始まり、現在の酒田が形成されていった。氾濫の度に最上川河口の流路が変わり、それに伴って渡し場も変遷した。芭蕉が赤川を下ってきて酒田に上陸した地点もどこなのかは分かっていないが、宮野浦のどこかとしかいいようがない。同様に羽州浜街道がどこで最上川を渡ったのかもわからないのである。


トップへ


酒田 

ともかく今は出羽大橋を渡るしかない。最上川を渡った先の交差点で左折する国道112号と分かれ、そのまま直進する。すぐ左手にある山居倉庫に立ち寄った。新井田川沿いに明治26年(1893)に建てられた米保管倉庫で、白壁土蔵づくりの12棟建っているうち、1棟は庄内米歴史資料館、2棟が観光物産館、そのほか9棟は現役の米倉庫として使用されている。

9棟からなる倉庫は米18万俵の収容能力を誇る。41本の欅並木は日本海からの強風と夏の直射日光を防ぎ、倉庫内の温度変化を安定させる目的で植えられた。欅並木と黒板壁の倉庫が格好の画題を提供し、多数の男女が絵筆を運んでいた。秋は更に美しいであろう。

裏側は新井田川の河岸に接して、最上川船運と酒田湊に直結している。その船着き場に小鵜飼船が復元展示されている。

県道353号で新井田川を渡り、一番町信号交差点を左折して県道40号を西に進む。本町通りという酒田の中心街である。

酒田は最上川河口に発達した湊町で、古くから北陸道と奥州街道を結ぶ最上川水運の拠点として、また江戸時代には蝦夷地と上方を往復する北前船の寄港地として殷賑を極めた。酒田36人衆とよばれる豪商たちが自治組織をもち、「西の堺、東の酒田」と呼ばれた。

次の交差点右手に長屋門を構える大屋敷が見えてくる。本間家旧本邸である。本間家は酒田36人衆の一人で、北前船によるのこぎり商法で財をなし、利益を不動産投資につぎ込んだ。酒田市の田畑の半分にも及ぶ土地を所有して日本一の大地主となり、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と唄われたものである。

本間家旧本邸は、三代光丘が幕府巡検使一行の本陣宿として明和5年(1768)に建築し庄内藩主洒井家に献上した。その後拝領し昭和20年まで本間家住宅として使用していた。建物は瓦葺平屋書院造で、表は長屋門構えの武家屋敷造りで、奥のほうは商家造りとなっている。

次の信号交差点北東角に酒田市道路元標を見つけた。ここが酒田市の中心であったらしい。

信号を渡った右手、庄内証券前の歩道に「奥の細道 玉志近江屋三郎兵衛宅跡」の標柱が立っている。近江屋三郎兵衛(俳号「玉志」)も廻船問屋を営む36人衆の1人で俳諧に造詣があった。芭蕉が象潟から帰ってきて6月23日の夜に玉志宅に招かれ、曽良、不玉と共に即興の句会に興じている。

  初まくわ 四つにや断たん輪に切らん    芭蕉

酒田は芭蕉が奥の細道で9夜を過ごした土地である。酒田の豪商仲間の間では俳諧をたしなむことが一種の教養ステータスを示す手立てと考えられていた。芭蕉はここで歓待を受ける。

芭蕉が酒田に到着した6月13日(陽暦7月29日)の夕刻、二人は伊東玄順宅に草鞋を脱いだ。玄順は藩主の侍医であり、不玉(ふぎょく)と号して酒田俳壇の中心的存在であった。酒田市役所前の交差点に立つ大きな案内標識にしたがって、旭ビルと本立ビルの間の通りを北に入った二つ目の十字路手前左手の駐車場空地に「芭蕉逗留の地 不玉宅址」の記念碑がある。芭蕉はこの家に6月13日に到着し、象潟への往復3泊4日間をはさんで、25日(陽暦8月10日)まで、都合9泊をこの不玉宅で過ごした。

本町通りの市役所向かいに旧鐙屋の屋敷が国指定史跡として保存されている。石置杉皮葺屋根が特徴の町家造りとなっている建物は、弘化2年(1845)に再建されたものである。廻船問屋鐙屋は酒田36人衆の筆頭格で、その繁栄ぶりは井原西鶴の「日本永代蔵」にも紹介されたほどだった。

本町通りを西に進んで、国道112号を横断する。一筋越えた右手本町郵便局(現中町2丁目)は伊庭(いば)屋川島安右衛門が宝暦6年(1756)本町通りに出店を開いて薬や調味料、紙などを商っていた場所である。川島安右衛門の先祖は近江国日野の伊庭の荘の出で、元禄元年(1688)7代目のころに酒田に来て薬の行商をはじめた。

本町郵便局の向かいの駐車場に「奥の細道安種亭令堂寺島彦助宅跡」の標柱がある。寺島彦助は酒田湊の浦役人で、幕府米置場の管理にあたっていた。安種と号する俳人でもあり、芭蕉が酒田に入った翌日、36人衆の仲間と共に芭蕉を招いて句会を催した。そのときの芭蕉の発句は「涼しさや海に入りたる最上川」である。

更に一筋西の左手に木々が茂る小公園があり、明治天皇巡幸行在所跡の説明板が立っている。この場所は36人衆の一人、廻船問屋尾関又兵衛の家があった所で、明治14年の明治天皇が東北・北海道御巡幸の頃には東田川郡田谷村の豪農渡辺作左衛門が買い取り出店としていた。行在所跡地には記念塔の台座のみが残されている。

県道42号は南北に走る県道353号に突き当たる。右折して日吉郵便局を越え、三つ目の信号を左におれたところに相馬楼がある。「舞娘茶屋・雛蔵畫廊 相馬樓」は、江戸時代より料亭「相馬屋」として賑わっていた。海鼠壁土蔵の北側に温かい紅色の土塀、茅葺の門、犬矢来に格子窓を供えた主屋が連なる。主屋は明治27年の庄内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を取り囲んで建てられたもので、国の登録文化財建造物に指定された。

京都祇園の御茶屋よりなまめかしい風情がただよう。パンツ姿の若い女性がひとり、「雅の会」と墨書きされた看板のかかる格子戸を入っていった。かつての厨房で、今は相馬樓酒田舞娘のけいこ場となっている建物であろう。2階の大広間は舞娘の踊りと食事を楽しむ演舞場があるらしい。

相馬楼の前の坂を上がって十字路を左折する。一筋南に下った左手に山王クラブの粋な建物がある。明治28築に建てられた老舗料亭で、酒田で一、二の格式を誇った。一階の千本格子、二階の漆喰壁に切られた扇型の窓が粋である。高級感が漂っていて近寄りがたかったが310円で内部を見学することができるのだった。せめて入口まで近づくべきであった。

日和山公園の東側、日吉町界隈はかつての遊郭街である。坂を下ったところに船場があって商人、旅人、船夫などで殷賑を極めていた。

すぐ先の十字路を右に折れて日和山公園に寄っていく。入口右手に日枝神社がある。天明4年(1784)に本間家三代当主本間光丘が寄進した。

頂上に芭蕉像と句碑がある他、園内には文学散歩道として整備され、与謝蕪村、斉藤茂吉、若山牧水、野口雨情、田山花袋などの歌碑、句碑、文学碑29基が設けられている。酒田は多くの文人墨客がおとずれた町でもあった。

西端の展望台からは酒田港、最上川河口が見下ろせる。酒田は古くから最上川船運の積出港として栄えていたが、江戸時代に川村瑞賢が西廻り航路を開いてからは北前船の拠点として大小の廻船が出入りし、諸国からの荷でにぎわった。

展望台には船頭たちが日和や風の方向を確かめるときに使用した方角石が展示されている。直径0.71mの御影石で造られ、表面には12支に東西南北の文字が刻まれている。

高台に常夜燈が建っている。酒田港に出入りした船頭衆と回船問屋の寄進により、灯台として文化10年(1823)に建てられた。

港を臨む西端には日本最古といわれる木造六角灯台(宮野浦灯台)が保存されている。六角灯台は明治28年(1895)に最上川左岸河口にある宮野浦に建てられた。六角形をなした木造洋式灯台で、高さ12.83m、外壁は下見板張り、上部の展望部分にはドーム状のランプ塔があり、木製の手摺が廻らされている。

日和見公園を最後に酒田の町を後にする。県道353号に戻り北に向かう。相馬楼を左に見てまっすぐ歩いて行くと国道112号の五差路に出る。道なりに国道を進んで光が丘地区を通り抜けたところで右折する国道と分かれて直進、高砂で
船玉神社、古湊で日枝神社を見て古湊集落を抜けていく。

酒田北港の
古湊埠頭に出た。昔はここから宮海の海岸沿いに続いていたが、今は酒田北港と工業団地で分断された形になっていて旧道筋は消失している。

国道7号に出て、宮海海岸口信号を左折して旧道復活地点にでる。丁字路を右折、宮海集落で大物忌神社を通り過ぎる。林道を北上すると日向川にでるが、栄橋は老朽のため通行止め。やむなく国道に出て宮海橋を渡る。対岸は鮑海郡遊佐町である。

トップへ


吹浦 

宮海橋を渡って最初の十字路を左折し、すぐの十字路を南北に走る細道が旧道である。十字路を左折して通行止めの栄橋を見て行く。南詰めから見たよりもはっきりとひどい状態が見て取れた。橋が川中央から弛んでいてパイプで支えられている。

そこから
白木集落の家並みがはじまる短い間にラブホテルが数軒林中に隠れるようにして建っていた。橋が不通では商売にならないだろうと余計な心配をしながら旧道を北に進む。まもなく国道7号に合流し500mほどで再び左の旧道に入ってみるが結局何もなくて国道と県道374号との信号交差点に出る。

ここを左折して海側に進むと左手に願専寺、その隣に旧青山本邸がある。北海道でのニシン漁で成功した青山留吉がここ郷里青塚に明治20年から3年間かけて建てたニシン御殿で、国の重要文化財に指定されている。小樽市祝津には旧青山別邸が現存し、札幌郊外の北海道開拓村には鰊漁場に建てられた漁家住宅が保存されている。いずれもスケールの大きな住宅建築物で、ニシンがもたらした富の莫大さに驚くばかりである。

旧浜街道はここから海岸沿いに庄内砂丘の中を北上する。人の気配は全くない。砂丘といっても鳥取砂丘のような立体的ダイナミズムは感じられず、平坦な砂浜が延々と続くという静的風景である。所々に船溜まりが設けられている。右手に風力発電機が景観を乱している。約5kmの砂道を歩いて十里塚海水浴場に出た。漁港もある。脱衣所か、海の家らしい建物のところで浜道が絶えている。十里塚集落への道をたどって国道7号に出る。

最上川の南方でも十里塚という集落を通ってきた。両者を区別して川南を上十里塚、この地を下十里塚と呼んでいる。蛇足だが両者の間はほぼ5里。「十里」の謂れは知らない。

国道は吹浦町に入ってきた。道の駅鳥海の先で国道7号から国道345号(旧国道7号)に移って、先に名勝十六羅漢岩を見ていく。鳥海山から流れ出た溶岩が日本海に突き出た奇岩を作りだした。幕末の元地元年(1864)から明治にかけて、海禅寺の石川寛海大和尚がそれらの岩面に釈迦、文殊、普賢の三尊等22体の仏像や羅漢像を彫り刻んだものである。

「芭蕉句碑」の案内標識に従って吹浦川河口に向かう。河口と吹浦漁港を見下ろす道路傍に昭和15年建立の新しい句碑があった。

  あつみ山や吹浦かけて夕すずみ

芭蕉が象潟から酒田に戻った翌日の6月19日(陽暦8月4日)、不玉亭で行った三吟歌仙の発句である。まだ見ていない温海宿東方にある高さ736mの温海岳と、見てきたばかりの吹浦をかけての雄大な連想である。その所以あって温海の塩俵岩公園に同句の碑があった。

眼下の波打ち際に伊勢二見浦夫婦岩に見立てた大小一対の岩に注連縄が掛けられている。この浜辺も二見浦、出羽二見と呼ばれているそうである。

国道345号で南にもどって、吹浦駅の北方で羽越本線秋田街道踏切を渡り駅前通りを北に進む。この道が旧浜街道であるが、南方向はどんな道筋で国道7号に繋がっていくのかはっきりしない。

正面に大物忌神社の二ノ鳥居がみえるこの辺りは宿町といって、羽州浜街道と内郷街道が交わる宿場街であった。町並みに往時を偲ぶ面影はないが、本陣もこのあたりにあった。6月15日(陽暦7月31日)、芭蕉が酒田から象潟に向かう途次、吹浦で激しい雨に出会い、まだ昼間であったがやむなく宿町の旅籠に泊まることにした。その旅籠がどこにあったかは知る由もない。

(内郷街道は吹浦から月光川に沿って南下し、西通川で日向川を結び、当時の河口であった古湊に出ていた水運に沿った道である。浜街道に対し、日本海沿岸の厳しい気候条件を避けた内陸の道として内郷街道とよばれた。現在の県道353号に相当する。)

鳥居の西側付近は横町といい、大物忌神社の門前町として発達した。大物忌神社は景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられているが、詳細は不明である。鳥海山を神体とし、本殿は鳥海山頂にあり麓の吹浦の社殿は口之宮(里宮)と称している。鳥海山は活火山でたびたび噴火を繰り返し神の山として朝廷や幕府などの権力者から崇敬された。大物忌神社は出羽国一宮となり、山頂の本殿は伊勢神宮と同様に二十年毎に建て替える式年遷宮となっている。

二ノ鳥居をくぐると石段麓右側に下拝殿があり、100段の石段を上がって三ノ鳥居の後ろに拝殿がある。拝殿の裏側には本殿が二社並び建つ。右が大物忌神社で、左は摂社月山神社本殿である。彫刻等をのぞいて両本殿は同大同型の一間社流造りである。拝殿と本殿が二つある珍しい社殿である。吹浦のある遊佐町は古くから開けていた土地で、延喜式の記録では、「駅」や「吹浦湊」があり出羽国府(城輪柵)と秋田城(秋田市寺内)を結ぶ重要な役割を持っていた。また「遊佐荘」と呼ばれる荘園が置かれ荘園主に遊佐太郎繁元、繁光の名前が記されている。

大物忌神社の西側を回り込むようにして横町の細い道を登っていく。県道210号を潜りぬけてさらに進んでいくと家並みが尽きるところで日本海を見下ろす峠にでた。右手に南光坊坂が下っている。南光坊永淳順法師が、庄内から秋田に通ずる悪路から住民旅人の難儀を救おうと新道開削を決意し、1839年(天保10年)生涯の事業として独力で工事をはじめ完成させた。芭蕉の時代はもっと山側の峠道を通ったのであろう。その断崖に唐船場という地名が残っている。唐船番所ともいい、出没する外国船を監視する番所があった。

南光坊坂を下りて線路に沿って道なりに進み、湯の田踏切を渡って国道345号に合流する。国道345号はJR女鹿(めが)駅の北方で吹浦をバイパスして来た国道7号に合流。旧街道はそのまま合流点を横断して女鹿集落に入っていく。

右手に松葉寺があり、山門には白木の立派な仁王が睨みを利かせていた。

集落中程に神泉(かみこ)の水とよばれる清水の洗い場がある。一列六段の水槽はそれぞれ使い道が決められていて最上段が飲み水用、下に行くほど清潔度が落ちる。女鹿は庄内藩最北の集落で、本庄藩との間を行き交う旅人を監視する番所が置かれていた。

女鹿集落を抜けて国道7号にもどり、北上を続ける。いよいよ山形・秋田県境の三崎峠である。昔は羽州浜街道の難所であった。現在は三崎公園として整備され、その中に芭蕉が歩いた旧道が保存されている。海沿いの断崖を通る道であり、タブの木が群繁する林といってもそれほど圧迫感がなく熊を意識させられることもなかった。

駐車場脇に「奥の細道 三崎峠 ←100m」との標識が立っている。旧峠まで100mとは嬉しいではないか。さっそく林に分け入ってみる。100m来たはずが峠の高みも標識もない。見る間に眼前が開け、左に海、目先に横切る遊歩道、そして前方のなだらかな丘陵を這い上がっていく山道が延びていた。地図上の県境線はまだ先である。あの岩がそうだったか、と半信半疑の気分を抱きながら旧道を進んでいく。

再びタブ林の中に入っていくと左手に古いお堂と周りに林立する低い五輪塔が現れた。
大師堂と呼ばれ、今から1200年前に慈覚大師(円仁)が建てたものと伝わる。当時この境内には23もの寺院があったという。説明板は遊佐町のもので、まだ県境には来ていない。

すぐ先で道が分かれている。左は三崎灯台にでる道で、右が奥の細道旧道である。道は次第に荒くなってくる。しばらく進んで右手に一里塚跡の標柱が見えてきた。羽州浜街道では三瀬についで二つ目の一里塚跡である。位置を示すだけで、塚などの遺構はない。

説明板は「にかほ市教育委員会」によるもので、大師堂と一里塚の間で県境を越えたことになる。林の中に県境を示す標識の類は見なかったように思う。山道は下り坂になって車道に出た。一山越えたことは確かだ。

三崎の名は南から不動崎、大師崎、観音崎の三つの崎をまとめて付けられた。それぞれの岬に峠があってもよい。最初に100m先にあるとあったのは
不動崎の峠であろう。遊佐町にとっては不動崎峠が唯一の三崎峠であったのだ。車道を横切って再び旧道山道に入る。にかほ側では旧道を「三崎山旧街道」と統一している。しばらく歩いてまた車道に出た。ここを右におれて国道にでると、遊佐町とにかほ市がそれぞれ歓迎の看板を立てている。ここが国道の県境であろう。

旧道地点にもどる。入口に曽良随行記の立派な石碑と「奥の細道 三崎峠」の標柱が設置されている。

十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是 より難所。馬足不通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。

芭蕉が三崎の古道を越えたのは、元禄2年6月16日(1689年・陽暦8月1日)であった。象潟を訪ねるため前日酒田を出立したものの激しい雨に逢い、やむなく吹浦に一泊し、当日も雨であつたがむかし有耶無耶の関があったというこの難所を越えて行ったのである。番所とは庄内藩女鹿の番所。三崎峠は馬も通れない難所と表現され、場所は大師崎ともいうとある。小砂川の番所は当時庄内預かり天領の番所である。後に本庄藩領となった。

碑の傍から旧道が延びる。道は乱高下して荒々しい。所々に「奥の細道」「三崎山旧街道」の標識が立つ。再び車道を横切って最後の旧道区間へ入っていく。石畳の道が残っている。やがて海が見える場所に出た。右手に国道も見える。藪を漕いで蜘蛛の巣を顔面に受けてようやく三崎山旧街道を脱した。国道出口には「秋田県史蹟 三崎山旧街道」の細い標柱が立つ。

(2014年9月)
トップへ 
次ページへ