羽州浜街道−2



象潟−金浦平沢本荘松ヶ崎(亀田)新屋久保田(秋田)

いこいの広場
日本紀行
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象潟

ぐに国道7号を右に分けて小砂川集落に入っていく。中磯地区に茅葺の大きな家が目を引いた。渡部家住宅で、天明4年(1784)、文人紀行家菅江真澄が2泊した磯家跡である。当時旅龍「半右衛門」を営んでいた。


小砂川海水浴場に降りてみる。砂浜に泉が湧き出ていてそのまま海に注いでいる。鳥海山の伏流水が湧き出たものである。

上浜集落の旧道を経て国道7号は関集落に入る。左手明星保育園の先、「関」の標識が立つ丁字路を左折する。道なりに右に曲がると地名が「象潟町関ウヤムヤノ関」となる。有耶無耶とはそもそも有るか無いかよくわからない意である。すでに通って来た三崎峠の国道沿いにも有耶無耶関跡の標識があった。また笹谷峠の南にも有耶無耶関跡を主張する場所があり、文字通りはっきりしない話だが、古代に出羽国と陸奥国を分ける辺りにあったと言われている。曽良の随行日記にも「半途ニ関ト云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。」と記している。当時から有耶無耶関跡の場所だとされていたようである。

竹内酒店前を通って関集落を抜け、奈曽川を白糸橋で渡って国道7号に戻る。国道を1.3kmほどいった市役所入口信号で左の旧道に入る。象潟町内である。古四王神社、光岸寺をみて象潟駅前通りに出る。駅前に蚶満寺所蔵の芭蕉筆「象潟自詠懐紙」を刻んだ芭蕉文学碑がある。

 象 潟
きさかたの雨や西施か ねぶの花
  夕方雨やみて処の何がし舟にて江の中を案内せらる、
ゆふ晴や桜に涼む 波の華
  腰長(こしたけ)の汐といふ処はいと浅くて鶴おり立てあさるを
腰長や鶴脛ぬれて 海涼し
       武陵芭蕉翁挑青 

芭蕉と曽良は6月16日(陽暦8月1日)から18日(同8月3日)まで2泊3日の間象潟に滞在して島めぐりを楽しんだ。象潟は「奥の細道」の最北の地である。

旧道は駅前通りを直進する。本隆寺の向かいに「御蔵屋敷跡」、その北隣の佐々木麹屋前に「木戸跡」の説明札が立っている。

正保2年(1645)、矢島藩生駒家と本荘藩六郷家の領地交換があり、ここが国境となり木戸が設けられた。木戸より北側は本庄瀋の汐越村、南側は矢島藩の冠石村であった。木戸は明治4年廃藩置県が布告されるまで存続した。

同じ頃、矢島藩側では年貢米を保管する米と番所が置かれ、御蔵屋敷と呼ばれた。当時は本隆寺裏まですぐ海であり、米はここから「ハシケ」という小舟で大間湊に停泊する大船に積み出されていたものである。

旧道が左に曲がった先、右手に向屋、筋向かいに旅人宿、能登屋の跡がある。関氏宅が向屋(佐々木左衛門次郎)跡で「奥の細道 芭蕉が宿泊した向屋跡」の説明板が立つ。能登屋跡(佐々木孫左衛門)は駐車場になっていて説明板はなかった。

芭蕉が着いた16日、能登屋に泊まるつもりで草鞋を脱いだのだが、熊野権現の祭りで女客があって、やむなく筋向かいの向屋へ移ってその夜を過ごした。翌日は能登屋に泊まっている。

の先左手、象潟公会堂の敷地内に「紅蓮尼生誕跡」の石碑がある。紅蓮尼は象潟の商人、森隼人の娘でタニと言った。元亨(1321〜1324)の頃、父隼人はタニを松島の掃部(かもん)の息子小太郎と結婚させる約束をした。タニははるばる山を越えて松島へ嫁いでいったが、夫となるはずの小太郎は病がもとで亡くなっていた。小太郎の両親は、象潟に帰り新たな幸せを求めるようすすめたが、タニは一度も会わずとも自分は嫁いで来たのだから夫婦であり、生涯亡き夫を弔いたいと松島にとどまり、婚家の両親に孝養を尽くした。やがて掃部夫妻が亡くなると、タニは円福寺(瑞巌寺)の尼となり紅蓮の名をもらって庵(心月庵)を結び、そこで小太郎と両親の冥福を祈って生涯を過ごしたという。そのような人生もあるものかなと、感慨を禁じ得ない。

公会堂の街道沿いに奥の細道の大きな絵看板が設けてあり芭蕉の象潟滞在中の動静が描かれている。その脇に倒れかけた象潟町道路元標があった。

16日 吹浦を発って三崎峠越えをする。雨が激しく船小屋に雨宿りする。
昼ごろ能登屋孫左衛門を訪ねその夜は向屋の左右衛門治朗に泊まり17日は能登屋に泊まる。
象潟滞在中何度も象潟橋から全景を眺望した。
17日 夕方、舟で潟巡りをして島々を眺めた。夕方、潟巡りの最期に蚶満寺へ参拝した。
18日 早朝、鳥海山の全容を眺めて酒田へ向かう。

若宮八幡神社の角を右折、ひまわり幼稚園の向かいに今野嘉兵衛の家がある。今野加兵衛は象潟滞在中の芭蕉主従を時々訪ねて世話をした。嘉兵衛は名主の又左衛門の実弟であり、又左衛門が祭りで忙しかったため、名代で芭蕉主従をもてなしたのである。当時、嘉兵衛の家があったこの場所は又左衛門の屋敷内であり、現在は嘉兵衛の直系の子孫が住んでいる。

その先を右折した右手に名主今野又左衛門の家がある。17日の夜には能登屋を訪ねて、芭蕉に象潟の由来や伝説などをいろいろ語っている。

右手の空き地奥に小規模な石組が見られるがここが江戸時代初期の大名、仁賀保氏の居城跡。元和9年(1623)、由利十二頭の一人、仁賀保挙誠は常陸国武田から一万石の大名として旧領に入部。伝承記録ではあるが、戦国時代の塩越の地侍、池田氏の居館とされる塩越館に入ったといわれる。城は、九十九島へ通じる堀が設けられ、前方に日本海、後方に九十九島と鳥海山を望む絶景の立地であった。9年後の寛永8年(1631)に廃城となる。

象潟川の手前左手に熊野神社がある。文治2年(1186)に紀伊国熊野三山の別当の孫にあたる大円坊が熊野山から分霊を奉じて海路象潟に至りこの地に祠を建てて祀ったのが始まりと伝わる。芭蕉が着いた日はこの神社の例祭であった。慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、秋田藩の遊撃隊はこの神社前で髻を切って奉納し、必勝を祈願して庄内藩と戦うために三崎峠の戦場に向かった。

象潟川に赤い欄干の欄干橋が架かっている。慶長8年(1603)に架けられ象潟橋といった。この橋から眺める九十九島と鳥海山は「象潟八景」の一つと言われている。曽良の旅日記には、象潟に着いた6月16日(陽暦8月1日)に「先、象潟橋迄行テ、雨暮気色ヲミル・・・」とあり、象潟を去る18日は「快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル・・・」とあり、ここからの景色が気に入っていた。

この橋を渡ったところから象潟めぐりの舟が出ていた。左手川縁に残る石柱は舟つなぎ石で、象潟八十八潟九十九島を巡る舟が発着した場所である。石には道標を兼ねて「左右往還」と刻まれている。説明板には「土地の道案内文字」とあるが何のことかよくわからない。石の前の道が羽州浜街道であるということか。

舟つなぎ石の傍を通り、右に折れてすぐ丁字路を左折し、道なりに右に曲がりながら国道7号を横断する。羽越本線の踏切を渡ると蚶満寺門前の庭園である。芭蕉の像、池のほとりに古代中国の美女西施像が立っている。合歓の木も植えられている。芭蕉は象潟を松島に比すべき名勝の地として楽しみにしていた。奥の細道の最北端であるこの地を実質的なフィナーレの舞台と考えていたと思われる。『奥の細道』においても一段と力を入れた名文を残している。

俤(おもかげ)松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

  象潟や雨に西施がねぶの花

松島と象潟の対比は太平洋と日本海の対照でもある。陽と陰、喜と悲、闘と忍、男と女。それらの統合的直観をはるか中国の西施に馳せた。

松並木が美しい旧参道を通って仁王像が納められている古い山門をくぐる。八脚門両脇の正面、裏面ともに板がはめられていて仁王の姿は通り越しにしかみえない。海からの塩害対策かと思われるが珍しい形である。

蚶満寺は仁寿3年(853)□慈覚大師の開山と伝えられる古刹である。昔は九十九島の一つであり、舟でしかアクセスできなかった。境内の水辺には船着き場跡と舟つなぎ石が残っている。

境内は史跡であふれ、本堂・鐘楼などの建物の他、夜泣きの椿、樹齢千年を越える霊木犬楠(タブノ木)、樹齢700年という北条時頼のつつじ、西行法師歌桜、菅秀才の梅などの木々。猿丸太夫姿見の井戸、親鸞聖人腰掛石紅蓮尼彰徳碑、木登り地蔵そして芭蕉の句碑と、実に盛りだくさんであった。

蚶満寺を後にして、フィナーレの九十九島めぐりに出かける。昔はおよそ一里四方の潟に大小百数十の島が浮かぶ景勝の地であった。起源は紀元前466年の鳥海山噴火で潟に流れ出た溶岩である。文化1年(1804)象潟大地震で約2m地面が隆起し、現在の原形が形成された。本荘藩は島跡を開削して新田を開発しようとしたが、蚶満寺の住職が中心となって保存運動が展開され、現在の景勝地が残された。

さてどこからどの島を見て歩くか。芭蕉が訪ねた能因法師の三年幽居跡の能因島と、曽良が岩上にミサゴの巣をみたというみさご島だけは見て行こうと思う。黄金色の穂を垂れる田んぼのあぜ道をたどって、駒留島からみさご島、そして少し離れた能因島を訪ねる。島に上がったのは能因島だけ。大きな松が生え稲穂の海にその影を落としている。その先にみるのが伊勢鉢島であろう。能因法師はこの島に庵を結び3年暮らした。

芭蕉は能因島を訪ねた後、向こう岸に上がって「花の上こぐ」とよまれた桜の老木を見ている。蚶満寺境内にあった西行法師歌桜に符合する。

きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟  西行

能因島を最後に象潟を去る。

国道7号を北上して金浦に入る。



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金浦 

国道7号を北上する。象潟町から金浦町に入ってすぐ右手に道の駅風の「にかほ陣屋」がある。この場所が陣屋跡という訳ではないが、時計塔に大きく「羽州浜街道 にかほ陣屋」と書かれているのがうれしい。

すぐ先で左斜めに出ている旧道に移り赤石集落に入っていく。赤石川を渡りTDK工場の先で二股を左斜めにとるのが旧道筋のようである。

家並みが尽きて漁港が見える小山の南麓に三体の石仏が並んでいる。一体は組石の祠に安置され、露座の二仏もよくできている。

一段下にならぶ石塔は左が牛頭天王、中央は出羽三山碑と思いきや刻まれていたのは羽黒山・湯殿山と、月山に代わって鳥海山であった。

ここを右折するのが旧道筋であるが、海辺を直進して漁港を見て行く。金浦港は貞永元年(1232)の開港と伝えられる古湊で、佐渡の小木、津軽の深浦とともに日本海航路の三代避難港として知られた天然の良港である。また鱈漁の中心地として栄え、年貢は鱈で納めたという。

右手に「金浦漁港公園」の看板がある。小高い山は港湾の出島となっていて、ここに江戸時代末期
砲台が設けられていた。中央の鞍部には「日本南極探検隊長 白瀬矗(のぶ)君偉功碑」が建っている。白瀬中尉はここ金浦淨蓮寺住職の長男として生まれた。

台場跡には方角石があるとのことだったが、見逃したか。

小山の南側を回り込むようにして金浦集落の中心街に入る。斎藤旅館がある最初の鉤の手の突当りに白瀬中尉の生家淨蓮寺があり、本堂の左脇に中尉とペンギン像が立つモニュメントがある。

白瀬矗は文久元年(1861)ここに生まれ、明治45年(1912)1月16日に南極大陸に上陸した。翌日にイギリス人スコットが南極点に到達している。1911年12月14日ノルウェイ人アムンゼンが人類初の南極点到達を果たした1か月余り後の出来事である。

金浦郵便局がある丁字路を右折、左折して北に進む。斎藤旅館からこの辺りまでが金浦宿の中心部であったのだろう。金浦の町自体が港町特有の迷路のような道が入り組んでいて分かりにくい。

二つ目の曲尺手を経てようやく真直ぐな旧街道に戻った。右手にある三角形の自然石は秋葉神社である。天明年間(1781〜1789)に静岡からこの地に勧請された。

大きな通りを斜めに渡って県道290号との合流点左手に金浦山神社がある。創建年は不詳だが、社殿は文化3年(1806)に再建されたもの。地名「木ノ浦山」からもわかるように金浦は昔、「木の浦」と呼ばれた天然の良港であった。「金浦のタラ」は冬の味覚を代表する名物とされている。満腹(たらふく)の干し真ダラを金浦神社に奉納する掛魚(かけよ)まつりが2月4日の立春の日に行われる。

県道の右側に鳥海山を写し落とす池は観音潟とよばれ、湖畔は桜の名所となっている。あいにくの天気で霊峰は雲に隠れていた。

県道290号に出て北上、国道に接するがそのまま北に進んで次の信号で国道を横断する。旧道は斜めに渡っていたようで、国道の東側にその跡が残っている。

小さいながら趣のある黒川集落を通り抜ける。入り口に古峰神社、鈎型の道で集落をぬけると出口に大きな牛頭大王碑が建っていた。

芦田信号で国道7号を横断して海沿いの芹田集落位に向かう。
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平沢 

左手丁字路に「国指定史跡 由利海岸波除石垣」の標識が立っている。左折して海に向かって進んでいくと、土手に小道が切ってある。海岸に向かって入っていくと「万石堤」ともよばれた丸まった石垣で築かれた堤防が延々と続いている。街道や田畑を日本海から吹き付ける強風や高波から守るために江戸時代に築かれたもので全国的にも珍しい存在である。今は海岸線が後退して石垣の下には舗装道が整備されその海側に沈められた波除ブロックが白波を受けているが、昔は石垣が日本海の荒波を直接受けていたのであろう。

街道にもどり、芹田集落に入る。左手の稲荷神社は応仁元年(1467)の創建で仁賀保家歴代の御祈願所だったという。その脇を抜けて芹田岬に出る。右手の小高い丘は砲台場跡である。

旧街道は稲荷神社の前で折れてその名も美しい白雪川を渡り、三森浜田集落を通り抜ける。

右手に金毘羅神社の石塔、左手の空き地に文久2年(1862)の庚申塔他の石塔と「仁賀保町指定文化財 波切不動尊碑」と記された標識が立っている。標識の周囲を見まわしても海辺の堤防際を探しても石仏らしきものは見当たらなかった。後日資料には「磨崖仏」とあった。付近の岸壁にでも刻まれていたのだろうが、さてそんな岩があったかどうか。コンクリート堤防の下かもしれない。所在を示す記載があって欲しかった。

すぐ先の鈴バス停脇に船玉神社碑が立っている。このあたり、祠もない石碑だけの「神社」が多い。

旧道は平沢小学校の先で大沢川を渡る。橋の手前左手に「建武碑・方角石入口 ここより30m」の標識が立っている。民家の脇を入りこんでいくと平沢漁港を見下ろす高台(丁刃森)に出て、中腹に大きな建武碑と頂きに扁平自然石の方角石があった。

建武碑とよばれている大きな板碑には「建武重二暦丁丑」と刻まれている。「重二暦」とは4年のことで、建武4年(1337)の古い石碑である。説明標識には「丁刃丸(ちょうばまる)供養塔との伝承がある」とあった。丁刃丸とは鎌倉時代末期由利地方を治めていた由利仲八郎政春の長子で、鳥海氏との抗争に敗れ政春は自刃、乳母のお沢に預けられて落ちのびようとした丁刃丸も結局若くして自刃する運命に終わった。

平沢市街地に入った左手に平沢八幡神社がある。小振りの社殿であるが千鳥破風が立派である。創立年代は不詳ではあるが、延文年代(1356〜1361)にはすでにこの地にあったといわれ平沢村の鎮守として信仰を集めてきた。現在の社殿は明治21年に再建されたもので新しい。

街道はその先の変則五差路を左折していくが、そのまま直進して仁賀保公園に寄っていく。入り口の鳥居脇に「仁賀保神社」と「斎藤神社」の社号碑が対をなして建っている。鳥居をくぐった左手に斉藤雅雄の胸像が、左手広場には斎藤宇一朗の立像が建っている。斎藤宇一朗は仁賀保氏家老格の家柄に生まれ、政治家で農業指導者としても活躍した。今、神にまで崇められた。その三男斎藤憲三は東京電気化学工業(現TDK)の創業者である。象潟から平沢までTDKの工場が点在していた訳がここで分かった。他方、斉藤雅雄は宇一朗家とは関係のないようでどんな人物かはよくわからない。ある資料では「土地の名士」とあった。鳥居のすぐそばに胸像があったから彼が斎藤神社の祭神かと思った。悪乗り趣味である。

斎藤宇一朗像のそばに「旗本仁賀保家陣屋跡」の標柱が立っている。象潟を出た直後に見た飲食街「羽州浜街道にかほ陣屋」はこのことである。仁賀保家は1万石の大名であったが、寛永3年(1626)に幕府の許可を得て長男7千石、次男2千石、三男1千石に分知され、次男2千石家と三男1千石家の両家の陣屋をこの地に置き領内を統合した。長男の家系は後に断絶している。

小高い丘の上に仁賀保家と斎藤宇一朗を祀った仁賀保神社がある。拝殿は集会所かとおもわれる質素な造りで、本殿は四方の壁をベージュ色にしっかり塗り固められた奇妙な建物である。そばに作られた常設大典記念土俵は立派なものであった。

変則五差路に戻り、八幡神社と雲龍寺の間の道を海に向かって入り、最初の十字路を右折。ここより上町、中町、新町と宿場に多い町名を抜けていく。中町で漁港と仁賀保駅をつなぐ大通りを渡る。交差点左手に斉藤宇一朗記念館、右手に黒板壁の酒蔵が印象的な飛良泉本舗醸造元が向かい合って建つ。

この先を鍵の手に右折、左折して新町に移る。かつての宿場中心街であったろうこの界隈は閉じた店が多く、さびれた感じが否めない。

妙正寺を右にみて琴浦川を渡る。にかほ市武道館、妙倉寺をとおり過ぎ、両前寺川を渡って丁字路を左折、阿部堂川を渡って北上、井戸尻集落の先で浜中踏切を渡り国道7号に合流する。にかほ市両前寺浜中から由利本庄市西目町出戸に入る。

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本庄 

国道7号で羽越本線をくぐって海側に出た先で左の旧道へ入り出戸集落に向かっていく。浜辺の集落らしい家並みが見られる。

空き地の海側にのぞき窓のような空間を設けた板塀が築かれていて、そこから北を眺めると海側の開かれた景色と、防風砂塀に守られた民家の佇まいが自然と人為の対照を描いて面白い構図であった。

集落のほぼ中央にある出戸集落センター前に「出戸町内の史跡と遺跡」と題した案内板がある。それによれば、すでに通ってきた道筋には一里塚跡があって、この先には街道沿いに唐船番所跡、砲台跡・陣屋跡があるはずである。

案内地図に示された場所を丹念に見て歩いたが標識や石碑などは見当たらなかった。ただし、気のせいもあってそれらしい気分を醸し出す景色を見出すことが出来た。写真では「xx跡付近」として載せてある。

また、街道からは離れていて行かなかったが、浜館は、平沢で見た建武碑にまつわる丁刃丸の父由利仲八郎政春の居城であった。

唐船番所跡と思わしき場所は廃家跡になっており、板柵の潜り戸をぬけると日本海が広がっていた。

砲台・陣屋跡と勝手に想定した木柱が残る土塁に上がると家並みが途絶えた集落の北端に出戸漁港が見えた。砲台は港に築くことが多く、好ましい場所ではないかと思う。

その砲台跡付近から道は右に曲がって国道7号に合流する。

旧道は右に曲がった直後の二股を左にとって、漁港前や西目海水浴場を通って、上・中高屋集落を経て浜山地区を通り抜け、西目町海士剥(あまはぎ)で現国道7号と接近した後、北東に進んで濡浜地区と水林地区の境界にある菖蒲公園をぬけて浜ノ町で本荘城下に入っていた。

海士剥はいかにも海浜集落の地名にふさわしいし、高屋(こうや)という地名も海士剥から出戸にかけての海岸に点々としてあった塩炊き小屋(こや)に由来しているという。海士剥の西目川河口近くには「
菅江真澄の道」の標柱とこの場所で東本願寺22世の現如上人が説法をしたことを記念した石
碑があるという。

私は出戸の砲台跡付近から右に曲がったまま国道に出て「道の駅にしめ」を通って森林管理署の先の信号交差点で左折して浜ノ町の旧道筋に合流した。準備不足を悔いている。

丁字路で左から来る道が旧道である。旧道は国道7号を潜ってすぐ左折して川沿いの片町を東に進む。突当りに大きな露座の観音像がある。元文5年(1740)の石仏である。観音町という地名はこれに由来するものか。

丁字路を左折し道なりに右に折れる。観音町の右手に大泉寺がある。寺伝によれば、長禄3年(1459)にかつては松ケ崎村と本荘町との境界付近に、天台宗寺院として創立されたが、寛永18年(1641)に永泉寺の末寺になったという。本堂は昭和24年(1949)に再建された。

突当りの丁字路を左折すると左手公園内に住吉神社がある。川辺は湊となっていて多くの漁船が繋留されていた。

本荘藩の湊跡で対岸の岩城亀田藩の港である石脇と、子吉川船運、北前船の寄港地として覇を競った。鰊を積んで子吉川に到着した北前船は、岩城藩、本荘藩の廻船問屋によって入札され、高値で入札したところに物資をおろしていたという。

港前で右折して古雪町に入る。数年前まで子吉川中流を拠点とする矢島藩の米蔵が残っており、そこから北前船で上方に摘み出されていった。古雪という地名は芹田の白雪川にも劣らず美しく、さらに情緒を加えた粋な美名である。和傘を両手で支え、下駄に雪を詰まらせながら内股に歩く女性を幻視させる。

右手露地を入り込んだところに銘酒「秋田美人」醸造元秋田譽酒造がある。蔵元によく見かける純日本風の工場と違って洋風の建物であった。

右手に善応寺がある。道沿いに建つ総板張り鼓楼が紅葉に寄り添われて優美な佇まいを見せている。善応寺は文正元年(1466)に越前国で開基したが、慶長3年(1598)に現在地に移転してきた。本堂は塗籠造で寺らしくない。

水路をへだてて肴町にはいってくる。右手に割烹一よしがクロマツの門を構えて老舗風情を湛えている。古雪町から肴町にかけて本荘城下宿場の繁華街であった。中町、大町には昔ながらの旅館もみかける。羽州浜街道は中横町で左折して由利橋で子吉川をわたるが、ここで街道からそれて本荘城跡を訪ねることにする。

途中、本荘郵便局の南側にある
永泉(ようせん)寺に寄った。本荘藩主六郷家の菩提寺で元和9年(1623)の開山。山門は、最後の藩主六郷政鑑の代に3年の歳月をかけて慶応元年(1865)に完成した総欅造りの楼門である。階上には仏像や壁画があり、阿吽2体の仁王像と共に代表的な徳川末期建築美術とされ、秋田県の重要文化財に指定されている。丁度改修工事中で金網の隙間から山門上部と極彩色の仁王を撮ることができた。

そこから官庁街を東に歩いていくと市役所の隣に本庄公園入口がある。堀を渡って御門跡をくぐり、本荘公園に上がっていく。

由利本荘市は古くは由利柵があった土地とされ、中世には由利十二頭が地頭として各地に割拠していた。江戸時代になって最上氏が治める事になり、家臣である楯岡豊前守満茂が尾崎の地に城を築き城下町を建設する。最上氏のお家騒動後楯岡氏も連座して預りの身となる。その後六郷氏(羽州街道六郷出)が2万石大名として本荘藩を立藩した。

本荘城下町はまた北前船の寄港地に加え、内陸の羽州浜街道(国道7号)、本荘街道(国道107号)、矢島街道(国道108号)が交差する交通の要所として発展を遂げた。

子吉川の下流右岸に位置する石脇は岩城(亀田)藩の重要な湊で、対岸は本荘藩の古雪湊だった。羽州浜街道の宿場機能も担っていたようで、本荘宿と川を挟んだ相宿の関係ではなかったかと思われる。

由利橋を渡った突当りにある本荘郷土資料館を訪ねたが「由利郡木堂会と犬養毅展」が展示中で旅の参考にならなかった。

通りの東側に古い家並みが残っている。中心は斎彌(さいや)酒造店であろう。長い門塀を巡らせた敷地内には白壁土蔵や姿良く伸びたクロマツが植えこまれ、その向こうには赤煉瓦造りの煙突が見える。

駒寄を設けた店先には唐破風が施され、赤銅葺き寄棟屋根にこげ茶色の板壁造りの母家と青銅葺き入母屋造りに白亜の下見板張りの洋風社屋が並立して、多角的趣向をこらした屋敷である。その左には切妻板壁漆喰土蔵が配されて揃い踏みの佇みである。明治35年(1902)の創業で、当時のままの建築群は住宅、店舗、蔵など11棟が国の登録有形文化財に登録されている。

通りをさらに東に歩いて行くとマルイチしょうゆみそ醸造元、ヤマキチ味噌醤油醸造元など醸造関係の店が軒を連ねている。背後の新山を源とする伏流水がこれら醸造業を育ててきた。

街道は石脇新町信号から西に進んでいく。川に近づいたところで左の路地を入ってみると子吉川堤防下に「西ノ口番所跡」の標柱が立っていた。ここが石脇宿の西端なのであろう。堤にあがると左手に由利橋のワイヤを張った塔が見える。すこし下流にあたるこの辺りに渡し場があって本荘城下に繋がっていた。

また石脇湊もこの辺りで、北前船や亀田藩の米蔵を監視するのも番所の役割であった。西ノ口番所は本荘藩の古雪湊との紛争にも関わっていたかもしれない。

新山に登って新山神社を見て行く。毎年1月第3日曜日に新山神社では「裸まいり」という真冬の奇祭が行われる。天保(1830〜44)の頃に起こったともいわれる。新山神社には古くから修験者が住んでいたと伝えられ真言密教修験道の荒行が姿を変えて伝承されたものといわれている。街道に戻り、変則十字路を左にとってその後二股を右にとって国道7号に合流する。その間、山ノ神、竜巻、赤ハゲと、面白い地区を通り過ぎる。

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松ヶ崎(亀田)

国道は海岸沿いに出て北上、親川深沢バス停先に「夕陽の見える日露友好公園」が設けられていて日本海を背に「露国遭難漁民慰霊碑」が建っていた。

昭和7年(1932)12月、4人のロシア漁民を載せた船が深沢海岸に漂着した。冷たい風が吹き付ける冬の荒波の中、3人は救助されたが1人の若者は既に死んでいた。遺体は丁寧に埋葬され、3人は手厚い介護の末無事帰国を果たした。地元の人たちは両国友好の為この碑を建てた。日本人はどこまでもやさしい。

慰霊碑を北端として家並みの浜側に旧道の跡が残っている。

芦川集落内の旧道をいく。船板の廃材だろうか、風砂除けの渇いた板柵は浜辺集落で普通にみかける景色だが、ここにはまるで柵に仕切られた墓地のような一画があった。柵内に守られているのは、葱であったり菊であったり、その他の野菜や花であった。

街道は下モ山集落を経て国道341号で松ヶ崎に入る。

松ヶ崎集落は衣川河口を擁し羽州浜街道と亀田街道の分岐点に位置して、宿場町として又岩城亀田藩の外港として発展した。町並みに昔の面影は残っていない。集落の中央、松ヶ崎郵便局の丁字路で国道341号は右折し東に3km余り行って亀田城下に至る。

岩城亀田藩2万石の城下町として栄えた。今も町並みに城下町の雰囲気を感じることができる。

町並みの南端、城山麓に
亀田陣屋(亀田城)跡がある。亀田陣屋は元和9年(1623年)に初代岩城亀田藩主岩城吉隆によって築かれた(岩城吉隆は佐竹義宣の弟で後に久保田藩2代藩主になる)。2万石を有しながら城持ち大名ではなく城郭を築くことは出来なかった。跡地には亀田城美術館が建てられている。大手門や高い石垣は陣屋にはなかったもので、付近の土塁の他に遺構は残っていない。

松ヶ崎丁字路にもどり、旧道を北にたどり衣川を渡って国道7号に合流した先に、松ヶ崎漁港への道が出ていた。漁港を見下ろす台地に小さな灯台があった。

街道は二古橋で二古川を渡った先で国道から分かれて左の旧道に入り、二古踏切をわたって狐森集落を通りぬける。

道の駅岩城の手前で漁港への道に入る。浜辺に直結した港でなく、橋を渡っいた先の人工島に漁港が築かれている。島式漁港というらしい。多くの釣り人が防波堤に上がっていた。

島から戻り、道の駅で休む。レストラン、温泉などの施設が集まったパークになっており、看板に「島式漁港公園」とあるのを見て、先ほどの漁港の特徴を納得した次第である。

内道川集落をぬけて君ケ野川を渡り国道に合流するが、すぐに岩城局の先で踏切を渡って線路の東側の旧道を北に進む。道川は宿駅であったとする資料があるが、ほとんど利用されなかったようである。

勝手川を渡った先左手に地蔵尊3体を安置する地蔵堂がある。

国道にもどって北上、雪川集落の先で寒川橋を渡って秋田市に入る。



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新屋 

羽川を渡った先、国道下山信号の右手、羽越本線の下山踏切は直線区間からカーブに差し掛かる場所で鉄道写真愛好家の間で人気撮影スポットとして知られている。時刻表を準備しない場当たり撮影ではただ空しい鉄路を写すだけであった。

下浜集落をぬけると桂根である。リーテックの先の信号で国道から右折して旧道を桂根集落に入っていく。桂根集落は中世から領域の境界にあった集落で由利十二頭時代には桂根館が築かれた。江戸時代には久保田藩と岩城亀田藩の藩境で、境川を挟んで藩境塚が築かれ番所が設けられた。今は亀田側に「桂根藩境跡」の標柱が立っているのみである。

街道は境川を渡ってすぐ左折、国道を横切って旧道を北上する。滝ノ原のバス停の少し先に嘉永6年(1853)の庚申塔が立っている。自然石で刻字が読みやすい。

右手に「塞神疫病除守」と刻んだ賽の神がある。どうやらコンクリート製のようだ。

左手にブロック祠があり、3体の地蔵尊が安置されている。

右手の畑地に「滝之下御本陣跡」「由利郡境沿岸御陣所跡」と刻まれた平成14年建立の佐竹氏入部400年記念碑が立っている。

そのすぐ先にも同型の石碑があって、三面に其々「秋田藩郷倉屋敷衛星跡」、「浜田尋常小学校跡」、「代官蔵元 相原宗家拝領屋敷跡」とある。こちらは平成16年秋田市建都400年記念事業として建立された。相原家は浜田集落の名主・網本で、代官他の役職を勤めていた名家であろう。本陣とは戊辰戦争時代のことと思われる。

浜に出てみた。砂丘に近い海岸である。浜田の中村、滝ノ下は昔漁業が盛んで、イワシやニシン、また冬にはハタハタなどが獲れた。砂浜では製塩がさかんに行われ塩釜の煙が絶えずたなびいていたという。

街道は道なりに緩やかな右カーブを描いて国道7号の上を越え、二股を左にとって県道65号を横断して羽州浜街道最後の宿場新屋に向かう。突当りに愛宕地蔵堂がある。建物は新しい。小窓から暗闇の内部を撮ったら厨子に納まった小さな仏像が写っていた。その後ろに見える赤地の衣が本地蔵のもので格子を通してでは視野にはおさまらない大きな石地蔵であった。汗かき地蔵として親しまれている。

その道向かいに愛宕下地蔵湧水があり三段の水場が設けられている。

丁字路を左におれるのが旧街道であるが、右におれて日吉神社に寄っていく。大同元年(806)勝平山の麓に鎮座した後、永治元年(1141)現在の地に遷座したと言われる。社殿は明治、大正時代のものである。この辺りは江戸時代武家町として開発された地域で、江戸時代後期には海岸警備の為20人程の士が配備された。

境内に詳しい新屋町の説明板が建っていた。新屋は古代には「しらや」と呼ばれる駅家があったといわれ、鎌倉時代には百三段(ももさだ)と呼ばれていた古い土地である。羽州浜街道の宿場町としてまた雄物川の川湊として発展してきた。湧水が豊富で醸造関係の店が多く今も町屋の家並みを見ることができる。

日吉神社から愛宕地蔵前を北に直進し、変則十字路を右斜めにとって新屋宿場街を行く。多く残っていた町屋の数も減って僅かになってしまった。右手森九商店は大正2年創業の味噌醤油醸造店で、主屋・工場・仕込蔵は創業当時の姿を維持し平成18年に国登録有形文化財に指定された。

少し先、郵便局の向かいに建つ秋田酒造(旧國萬歳酒造)は明治41年(1908)の創業である。大正初期に建てられた主屋・仕込み蔵・洋館は切妻・妻入りの多い新屋のなかでモダンな異彩を放っている。これらも国登録有形文化財である。店舗前に設けられた「新屋の名水長寿の泉」は「酔楽天」などの銘酒に使われている。

一筋西の通りにある忠専寺は正保3年(1646)の創建といわれているが無住職寺である。本堂は文化年間(1804〜18)に建てられた古建築で、戊辰戦争の際には本陣として使われた。

その筋違いに大きな総板張り造りの高橋家屋敷がある。銘木の大黒柱のような門柱を使った門と、その左右に配された板塀には覗き格子窓が切られている。敷地内には数棟の建物が見え、大きな屋敷であることが覗える。國萬歳酒造や旧黄金井酒造の創業者が共に高橋家であるが、位置からすれば國萬歳酒造に近い。いずれにしても新屋地区の名士邸であろう。

新屋の家並みを眺めながら旧街道を北に向かって歩いて行く。事前準備で期待していたほどの昔の家並みは残っていなかった。街道が雄物川に突当る手前左手に粟田神社がある。保吉神社で見た「新屋町の沿革」に記されていた秋田藩士栗田定之丞を祀ったものである。能代−新屋の間の飛砂の害から守るべく、新屋の沿岸に大規模な植林を行った。その功蹟を慕って新屋町民により建立されたものである。

街道は雄物新橋で雄物川を渡る。雄物川が現在の流路に付け替えられたのは昭和13年で、それまでは現新屋水門から北に流れて現新川橋の上流から土崎秋田港に注ぎ出る旧雄物川(秋田運河)であった。従って新屋が宿場であった時代に現雄物川は陸続きであり新屋船場町に続いていた。新屋豊町で雄物川(現新川、秋田運河)を渡って川尻新川町で久保田城下に入る。

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久保田(秋田) 

新川橋を渡ってすぐ右切し、川べりの道を東にたどっていくと、右手の小公園入口に「渡船場跡」の標柱が立っている。ここが明治25年(1892)に新川橋が完成するまでの渡船場であり、「芝の渡し」「新川の渡し」と呼ばれていた。場所は新川橋のすこし上流で旧雄物川と旭川の合流点のすぐ下流にあたる。この南方に2km余りの放水路が海に向かって開削され雄物川の河口が付け替えられたのは昭和13年であるから、それまではこの渡し場が本流だったのである。対岸は工場が林立して渡し場の風情はない。

旧道は渡し場跡から川に沿ってしばらく遡上し、左折して総社神社前に出る。総社通りを秋田刑務所の西端までもどると、刑務所敷地角に秋田藩が幕府の許可を受けて寛永通宝を鋳造したという「鋳銭座跡」の標柱がある。貨幣鋳造所跡が刑務所という関係が意味ありげで面白い。

総社神社は神亀元年(724)の創建と伝わる。川尻氏の氏神として神明山(千秋公園台地)に祀られていたが、宝永4年(1707)現在地に社殿を造営して遷宮した。藩政時代は藩主佐竹氏の崇敬が厚く、藩の守護を受けて栄えた。伊勢神宮ほか多くの神を祭神とするので総社と称したといい、いわゆる国府近くに造営される総社とは違うようだ。社殿からしてもそれが分かる。

総社通りを東に進み旭南一丁目信号で県道56号をわたると馬口労町通りとなって羽州浜街道の終点に至る。

右手に「旧馬市のせり場跡」の標柱がある。元和の初めから大正初期まで馬市が開かれていたという。

左手旭南小学校脇にある稲荷神社の入口に旧馬口労町の標識がある。馬口労町は寛永6年(1629)に町割りされた。羽州街道・羽州浜街道(由利街道)の関門で、延宝元年(1673)伝馬町に指定され多くの旅籠が建ち並んでいた。

両街道の接合点に来る。左手に構える木造町屋建築は松倉庄右衛門家住宅で、江戸後期以来の秋田の町家形式を伝えている。木造一部二階建て、和小屋構造、妻入造りの住宅と奥に二階建ての土蔵二棟を配している。

松倉家住宅の横の茶町通りと次の郵便局横の大町通りが羽州街道の久保田宿場通りであった。久保田城が築かれた際、旭川で城下を二つに分け、宿場が設けられた旭川の西側を外町(町人町)、東側を内町(武家町)とした。外町の現大町1〜6丁目が久保田宿の中心である。

以降は久保田城下散策である。茶屋・大町両通りを行き来しながら北上する。茶町通りは旧新城町・旧城町と続き、大町通りは旧下鍛冶町・旧上鍛冶町とつづいてそれぞれに金神社がある。

大町6丁目に新政酒造がある。幕末嘉永5年(1852)の創業で代々佐藤卯兵衛を名乗り現在7代目。酒蔵はすべて白壁で塗り固められ、黒基調が多い蔵元とは対照的な明るい感じを受ける。このあたりは雄物川から旭川を経て運ばれてきた穀物の荷揚げ地で、米蔵・酒蔵がひしめきあう地であった。

茶町通はさらに旧町名の標識があって、四十間掘町、掘十人衆町と続く。「茶町梅ノ丁」の標柱には「茶・紙・綿・砂糖などの専売権をもっていた商人の町で、慶長12年〜3年(1607〜8)ころ町割りされ、茶町3丁目と呼ばれた時もあった」と添書きされている。その先には「茶町扇ノ丁」とあり、同文(但し茶町2丁目)の記載がある。

大町5丁目と4丁目の境の交差点角に構える老舗紙店、那波伊四朗商店は千本格子造りの趣ある建物である。明治11年(1878)の創業で。はじめは茶と砂糖を商っていた。明治19年(1886)の大火で全焼して、土崎湊の船宿を解体移築して再興したという。それ以降和紙を中心とした商売をしている。

一筋北の4丁目と3丁目を分けるすずらん通りを旭川に向かって歩く。川沿いの南北の通りは川反(かわばた)と呼ばれる歓楽街で、飲食店・旅館・ホテルなどが軒を連ねる。南に行くほど風俗度が高くなる。旭川にかかる三丁目橋からそれら建物の裏側を眺めると華美が剥がれた川沿いの静かな風情が漂っていた。

大町通りにもどり、北に進む。このあたりが久保田宿の中心であったのだろう。すぐ左手に赤レンガ郷土館がある。華麗な洋館で旧秋田銀行本店本館である。昭和44年(1969)まで営業していた。一階を白、二階を赤レンガで積み上げたルネッサンス様式の建物である。前に「秋田県里程元標跡」の標柱が立つ。元標はどこへ行ったのか、ここから大館、大曲まで何里なのか、少しくらい情報を添えておいて欲しい。

向かいの植え込みに明治天皇行在所の石碑がある。瀬川徳助邸が提供されたとあるが、瀬川徳助については第48国立銀行(現秋田銀行)設立発起人の一人という他知らない。

大町3丁目と2丁目の境は
竿灯大通りという。毎年8月3日から6日まで、東は旭川に架かる二丁目橋交差点と西は県道56号の山王十字路交差点の間で秋田竿灯祭りが繰り広げられる。仙台七夕祭り、青森ねぶた祭りと並んで東北三大祭りの一つである。大若と呼ばれる最も大きな竿灯は長さ12m、提灯の数が46個、重さ50kgと、長棹に細身の大人一人を括り付けて持ち上げるに等しい。これを腰や肩で支え持つ。

日銀がある大町2丁目を通り越して、1丁目も旧通町近くの左手に旧金子家住宅と民俗芸能伝承館がある。

金子家は、江戸時代後期に質屋・古着商を開き、明治初期には金子商店として呉服・太物卸商を創業、昭和57年(1982)まで商売が営まれていた。主屋一棟、土蔵一棟から成る江戸時代後期の伝統的な建物として、秋田市指定有形文化財に指定されている。特徴的なのが屋根の上にある天水甕(てんすいがめ)で、雨水を溜め防火用に使われた。昭和前期までは秋田の多くの町家の屋上には天水甕が置かれていたという。

隣接する秋田市民俗芸能伝承館は竿灯をはじめとする郷土の民族行事や芸能の保存伝承、後継者の育成のための練習、発表の場として平成4年に開館した。

羽州街道は通町を左折して秋田市の発祥の地土崎に向かうが、その前に右折して久保田城を見て行く。

久保田城は秋田20万石佐竹氏の居城である。慶長7年(1602)常陸から国替となった初代秋田藩主佐竹義宣は最初土崎にある湊城へ入城するが翌8年に現在の地に新たに城を築き、湊城は廃した。20万石の大名でありながら国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが理由で最初から天守閣や石垣を築かず、堀と土塁を巡らした平山城であった。本丸は明治13年(1880)の火災で全焼した。

長坂門(二の門)跡から石段を上り御物頭御番所前で本丸の正門(一の門)である表門をくぐる。

御物頭御番所の建物は18世紀後半と推定され、久保田城内で旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物である。物頭番所は配下の足軽を指揮して二の門の開閉及び城下一帯の警備を担当した。表門は質実な櫓門である。

正面に八幡秋田神社がある。初代秋田藩主佐竹義昌が常陸国に居住中、山城国石清水八幡宮を太田城内に勧請したのがはじまり。義宣秋田遷封に伴い当地に移転して秋田城内に奉祀してきたが、明治11年秋田城跡より千秋公園南方の東根小屋町(現中通2丁目)に移転、同境内に秋田神社を創建して佐竹義宣朝臣を祀る。明治32年現在地に移転し、同40年八幡神社と合併して八幡秋田神社と改称した。平成17年放火に遭い社殿を焼失し20年12月に再建された。

右手本丸跡に秋田藩最後の第12代藩主佐竹義堯の銅像が建っている。佐竹氏の始祖は源義家の実弟、新羅三郎義光と伝わり常陸国を治めた。初代秋田藩主佐竹義宣の父、義重の時代に戦国大名として確立し、常陸を中心に北関東を支配し、義宣の時代には豊臣家の庇護もあり、54万石という当時の全国大名の石高では8番目の大大名へと成長していった。関ヶ原の戦いでは中立を保ち、その罰として秋田藩20万石へ減封となり、その後は佐竹氏12代まで秋田藩を統治した。平安時代から第一線で活躍し、戦国・江戸時代を乗り切った大名として極めて異例な存在といえる。

隅櫓を見た帰り、市街を見下ろす土塁から腹に響く三味線の音が聞こえてきた。音声テープによる演出かと思っていたが、音が極めて鮮明である。音源に近づくと背筋を伸ばし凛として玄を弾く独りの女性であった。間を置くことなく弾き続けている。傍にとどまるのも気が引けて公園を後にした。

久保田城の外濠であった旭川を再び渡り、通町商店街を西に向かい旧羽州街道の道筋をたどっていく。北側歩道に「旧中通町」の旧町名標柱があり、「土崎湊から久保田城内にいたる重要な通りという意味の町名で、上通町とともに慶長(1596〜1615)の中頃町割され、野菜・薪などの日市(毎日)を開く特権をもっていた。」とある。現在の保戸野通町である。

保戸野通町から保戸野鉄砲町に移る変則十字路が小さな枡形になっていて、傍から西と南に向かって二本の道が出ている。ここは六道の辻と呼ばれ3つの土塁が築かれていた。

鉄砲町交差点から旧羽州街道は狭くなる。このあたりの南側は常盤遊郭があった場所である。

次の大きな信号交差点は「八橋一里塚」で、交差点南側の中央分離帯に一里塚跡の標柱が立っている。日本橋からここまでの距離は143里(約572km)とある。奥州街道−(桑折)−羽州街道の総延長であろう。

すぐ右手に寛文5年(1665年)、二代藩主佐竹義隆の開基と伝わる日本三庚申不動院がある。入り口から本堂までの参道には多くの庚申塔が立ち並ぶ。日本三大庚申霊場とあるが、一般には次の三か所とされ秋田八橋の名は出てこない。

第1番 京都市東山区金園町金剛寺 八坂庚申堂
第2番 大阪市天王寺区堀越町 四天王寺 四天王寺庚申堂
第3番 東京都台東区 喜宝院 入谷庚申堂(現存しない)

向かいに日吉八幡神社の三重の塔が逆光をあびて建っている。伝承によれば、平安時代後期、源義家に滅ぼされた安倍頼時の子、宗任が比叡山で修験者となり、晩年近江の日吉山と岩清水八幡を勧請して、外旭川の笹岡に修験寺日吉山延命寺無量寺院を建立したのに始まると伝えられる。寛文2年現在の地に遷座した。佐竹氏入国以後、久保田の外町の総鎮守として今日に至る。

街道は草生津川に架かる面影橋を渡る。草生津川の西岸に草生津刑場があり、罪人が最期に自分の姿を水面に映す場所として「面影橋」と呼ばれるようになった。いわゆる「涙橋」と同類である。面影橋のほうが情緒に富む。

宝塔寺五重塔油田の一本松蜆塚・鶏卵塚仙台藩殉難碑西来院古四王神社などの旧羽州街道沿いの史跡や高清水霊泉伽羅橋菅江真澄墓に寄りつつ古道を寄り道しながら、目的地の秋田城跡に向かう。

高清水公園にある秋田城跡は天平5年(733)に蝦夷対策のために築かれた古代城柵、出羽柵の跡地である。天平宝字4年(760)「秋田城」と呼ばれるようになった。周囲550m四方を築地塀で囲まれ、政庁部は東西94m、南北77mあった。奈良時代は国府が置かれ政治・経済・軍事の中心として機能したが、延暦23年(804)になると蝦夷の反抗が大きくなり国府は移転して秋田郡に格下げされた。

延暦22(803)年に築かれた太平洋側の最北端古代柵である志波城よりも70年も古い柵ということになる。

訪れた時は政庁東門からのびる奈良時代の大路を復元中であった。特殊な土を運び込みつき固めてコテで整える。土木工事というより左官工事である。

道を挟んで東側の鵜の木地区は秋田城跡を巡る東の外郭築地塀の外側にあたり、掘立式の建物や井戸、沼跡など多数の遺構が発見された。なかでも人気なのは水洗式トイレである。詳細は省くが便槽から暗渠を通じて近くの沼地に沈殿槽に排出されていた。モダンに復元されている。

ここから少しで秋田市発祥の地土崎に至る。北海道松前、江差でも活躍した陸奥の豪族安東氏の一族が湊城を根拠に支配していた土地で羽州街道の宿場でもあった。

面影橋以降端折った部分とともに土崎については将来の羽州街道にゆずることにしよう。


(2014年11月)

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