日吉神社 新屋日吉町 秋田市 秋田県
当神社は、大同元年(806)勝平山の麓に鎮座したと伝えられる。その後、東南方凡そ5町の地 宇田中屋敷(現一本木)に移り、永治元年(1141)現在の地に遷座したと言われる。その御神体は、近江国大津坂本にある日吉大社の御神体を作った余材であり千載の遺物であると伝えられる。よって古くより近江坂本の別社と称していた。平安末期、平泉の奥州藤原氏の郎党で、のち源頼朝に仕えた由利維平がこの地を所領した時、7千刈を寄進、その後由利を治めた赤尾津光善からも7千刈を寄進された。慶長の末(1615年頃)、最上義光によって社領は没収され、社頭もさびれた。(中略)寛文9年(1669)に社殿が造営されたのを始め、歴代の領主により社殿が建立されている。(中略)明治28年3月1日社殿から出火,御神体、朱佛丸(由利維平奉納の神鏡)、社殿悉く焼失した。明治33年官祭招魂社の絵馬堂を購求し拝殿としている。大正6年に本殿が新築された。  平成16年新屋町年祝会奉納
新屋町の沿革
新屋は秋田市(久保田城下)南西に1里半(六キロ)に住置する。秋田大橋の開通(昭和9年、西暦1934年)、雄物川放水路の開通(同13年、1938年)以前、久保田から川尻を経て、舟で旧雄物川を渡り(柴の渡し)船場町、表町を鮭て愛宕町の地蔵尊から右に入る上の坂を登り、中村から桂根に向かう浜街道(北岡街道、酒田街道、秋田街道ともいう)沿いに発達した町である。
天平5年(733)今の高清水の岡に秋田城が作られてから「しらや」と呼ばれるる古代の「駅」に該当する。ともいわれるのは、北陸沿岸から北土してくる浜街道と、雄物川の合流点に当たり、物資の交流に便利であつたからであろう。 地理的な条件から、秋田領と由利領の狭間にあたるため、領主の入れ替わりが激しい。平安末期は由利氏、橘氏の、その後赤尾津、最上の家臣楯岡、更に本多正純、また地元土豪と考えられる小野筑後守などが実質的に所領している。元和8年(1622)佐竹義宣公が由利領を知行替えし、漸く秋田領が確定する。明治からは河辺郡に属し、昭和16(1941)秋田市に合併して現在に至る。
主産業は、農、漁業であつたが、交易地点である為、製塩、鰯の日干し、それを運搬する舟運業、博労なども多かった。明治に入って醸造業を始め各種の産業が盛んになった。昭和15年、国策による東北パルプが作られている。能代−新屋の間の飛砂の害は古くから伝えられているが、江戸後期(天明、寛政頃)以降、海岸の防備に当たった栗田定之丞が新屋の沿岸に植林してから被害は少なくなった。町民は、この功蹟を慕って栗田神社を建立している。平成11年4月