念珠関址 鼠ヶ関 鶴岡市 山形県
関所の変遷
鼠ケ関(鶴岡市鼠ケ関・旧念珠関村)には関所址がニケ所ある。ここ(鼠ケ関字関)に慶長年間(1596〜1614)から明治5年(1872)まで設置されていた近世の関所址と、ここから南方約1kmの県境にある古代の関所址である。古代の関所鼠ケ関は、勿来関、白河関と並んで奥羽三大関門の一つとされていた。この鼠ケ関が文献に現れる最も古いものは、能因の歌枕の「ねずみの関」であり、十世紀ころには文人や旅人に親しまれていた。 大正13年(1924)近世の関所址を主たる対象に、内務省より「史蹟念珠関址」として指定をうけ、それ以後この名称が古代から近世に至る関所名とされてきた。

近世念珠関址
近世念珠関は江戸時代には「鼠ケ関御番所」と呼ばれていた。その規模は延宝2年(1674)や弘化3年(1846)の絵図によると街道に木戸門があり、門に続いて柵が立てられていた。番所の建物は3間(約6m)に7間(約14m)平屋建、茅葺で屋内は3室に仕切られ、中央が取調所、両側が役人の上番、下番の控室であった。またこの番所は沖を通る船の監視や港に出入リする船の取り締まりもしていた。番所の建物は廃止後、地主家の住居となり、後に二階を上げるなど改築されたが、階下は音の面影をとどめている。

関守りは、最上氏時代の慶長年間から鼠ケ関の楯主佐藤掃部(かもん)が国境固役に当たった。酒井公転封後の寛永5年(1628)からも鼠ケ関組大庄屋となった掃部が代々上番と沖の□改役となり、下番は足軽二人がいた。天和2年(1682)以後は藩士が上番となり掃部は追放者立会見届役となった。  
鼠ケ関と源義経
「義経記」の義経一行奥州下りの鼠ケ関通過の条は、歌舞伎の「勧進帳」を思わせるごとき劇的場面として描かれている。また、当地方には次のような物語が伝えられている。義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来るが、馬下からは船で海路をたどり鼠ケ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過した。そして、関所の役人の世話する五十嵐治兵衛に宿をもとめ、長旅の疲れをいやし、再び旅立って行ったという。

 鶴岡市教育委員会