下田街道−1



三島−原木大仁(修善寺)湯ヶ島旧天城トンネル

いこいの広場
日本紀行

下田街道−2


下田街道は、東海道の三島宿から伊豆半島の背骨を縦断して南端の下田に至る約70kmの街道である。この街道を北から3つの部分にわけてそれぞれに異色な主人公が登場する。三島に近い内陸部では平安末期の源頼朝であり、天城峠を中心とする山間部は吉永小百合や山口百恵の伊豆の踊子であり、下田を終点とする太平洋側ではアメリカ人のタウンゼンド・ハリスである。時代も身分も全く異なった3人がこの街道を歩いた。その跡を追ってみようと思う。



三島

下田街道は広重の図にも描かれた三島大社の鳥居前から始まる。源頼朝は源家再興を祈願して配流先の蛭ヶ島より三島大社へ百日の願をかけて夜明け詣りに日参したという。

歩き出して間もなく、左手の三島大社町郵便局手前に伊豆国分尼寺址の石碑がある。伊豆国分寺は三島市泉町12番地にあり、塔跡に基壇と8個の礎石が発掘された。国府跡は発掘されていないが、国分寺、国分尼寺の位置からして三島大社近くにあったものと考えられている。

その先左手に言成神社がある。大名行列の前をうっかりよこぎり、横暴短気な大名の言いなりに斬られた幼女を弔うために建立された伝承をもつ。

言成地蔵尊の案内板の下に長さ2mほどの「橋石」があり、案内板の裏に由来が書いてある。

この橋は元和8年(1622)徳川2代将軍秀忠の時代に町役人鈴木権衛門が南見付(現在地当時の呼称)さくら川の橋石として使用したものです。その後文政5年(1822)11代将軍家斉の時代に見付橋の懸換えが行われ昭和年代まで存続いたしました。

このあたりは江戸時代「南見付」とよばれ、三島宿の南出入り口にあたった。

右手入ったところに間眠(まどろみ)神社がある。大昔、狩野川の大洪水ではるか韮山の長崎から稲荷社の祠が松の大樹の根元に流れ着いた。その後源頼朝が韮山蛭ヶ小島に流されて源家再興の大願を立て、三島大明神に百日の丑刻祈願の途上、この松の大樹の下にしばし仮睡の夢を追ったという。境内には6代目の松が育ちつつある。韮山から流れ着いた祠がどの程度のものだったか知らないが、昭和40年に立派な屋根をもつ社殿に改築された。

旧街道は伊豆箱根鉄道三島二日町駅の先で踏切を渡る。中地区で道なりに右に曲って少し行くと、左手に手無地蔵堂がある。慶應4年(1868)、唯念の勧進により、天下泰平・国土安穏を祈って建立された。境内には大きな唯念名号塔のほか庚申塔や馬頭観音などの石仏石塔が並んでいる。

三島市教育委員会の説明板によれば、むかし、荒れ果てたお堂のそばに立っていたいたずら好きの石地蔵がある日化けて若侍の髪を引っぱったばかりにその侍に左手を切り落とされてしまったという。教育委員会が関与するにはあまりに無邪気な内容ではある。

道は緩やかな上り坂となり左にまがって大場橋で大場川をわたる。大場橋の手前に大場橋供養塔がある。文化15年(1818)に建てられたもので、橋修復普請の際に亡くなった人夫を供養するために建てられた。

橋を渡り大場信号で県道141号とわかれて右折する。街道は三島市から田方郡函南町に入る。

右手、廣渡寺の前に文久3年(1863)の「南無阿弥陀仏」と特徴のある筆で刻まれた大きな唯念名号塔がある。唯念(1789〜1880)は相模・伊豆・駿河にかけて各地に念仏講を組織し、阿弥陀如来の名号を唱えることによる功徳を説いて、多数の信者を指導した。明治13年91歳で亡くなるまでに、2000もの碑を建てたという。

また道沿いには「侠客大場の久八之墓所」と書かれた目立つ看板が立てられている。江戸時代後期の博徒で、伊豆の大親分だったようである。側面には、大飢饉で貧民を救済したとか、お台場建設の立役者だとか、彼の偉業を記している。要するに暴力団組長の賛歌ではないか。

旧道はまっすぐ南下して来光川の手前で国道136号に合流する。合流点は大型小売店がならぶショッピング街を形成している。

蛇ヶ橋(じゃがはし)で来光川を渡る。橋名の由来は源頼朝が三島大社へ参詣の折、大雨のために川を渡ることができずに困っていたところ、蛇が現れて橋となり頼朝を対岸に渡したという。三島大社からこの先蛭ヶ小島まで、街道の主人公は源頼朝である。橋の手前右手に小さな石仏群があった。

蛇ヶ橋を渡って左側に短い旧道が残っている。すぐに国道に戻り原木駅手前あたりで三島市から伊豆の国市に入る。

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原木 

原木は三島から最初の人馬継立を行う宿場であった。

原木駅前で街道の右手に入ったところに熊野神社がある。大きくはないが清々しい社殿である。

JAの前に原木集落の案内看板が立てられているが問屋場跡など旧宿場に関する情報は得られなかった。

その先、右手後方から来る原木街道との合流点に道祖神がある。二基の石塔があるが、摩耗がはげしく刻字は判読できかねた。その前に「右三島ニ至ル」「左沼津ニ至ル」と書かれたわかやすい道標がある。大正11年に原木青年団によって建てられた。

原木街道にすこし入ってみた。下田街道沿いよりも旧街道の雰囲気を感じさせる家並みが残っている。街道をはさんで西側に成願寺、筋違いに実相寺がある。

成願寺で二人の若い女性にであった。手に資料をもって本殿前に咲きだしたしだれ桜をめでている。本堂の写真をとってそそくさと立ち去る私とちがって歴女たちはたおやかであった。

実相寺に入った左手に「狩野川台風洪水之碑」が建っている。昭和33年9月の台風で狩野川一帯で860人もの犠牲者を出したという。碑の高さが当地の浸水位であった。

合流点左手に延喜式内荒木神社がある。五分咲きの桜並木の中に古い常夜灯が奥ゆかしく潜んでいる。荒木神社はもと、茨木神社、鞍掛神社ともよばれた。茨木は原木の由来ともいわれる。鞍掛けは源頼朝伝承である。参道から街道に戻ろうとしたとき、成願寺で出会った二人の歴女がおもむろに入ってきた。

街道は国道をまっすぐに南下する。韮山駅近く四日町で少し街道を離れて寄り道をする。第一部の主人公源頼朝に出会うためだ。左手の細い路地を入り韮山駅南側の四日町第二踏切を渡るとカラー舗装された立派な一直線の道が造られている。カラー舗装道の突き当たりに「蛭ヶ島の夫婦」、頼朝と政子像が北を向いて立っていた。

往時はこのあたりは狩野川の氾濫地で、大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であった。この中洲へ永暦元年(1160)14才の頼朝が流されてきた。治承元年(1177)北条時政の娘北条政子と結ばれる。治承4年(1180)頼朝は旗挙げ、やがて鎌倉幕府創設を成し遂げた。蛭ヶ島は武家政権発祥の地でもある。

民家調の茶屋の裏側に建つ茅葺の旧上野家住宅を見る。内部はがらんとして広かった。上までのびる2本の大黒柱やゆがみをもった桁梁が単純素朴な庶民農家の造りを特徴づけている。

蛭ヶ島から韮山城跡に移動する。韮山中学校の北側を通り過ぎ小山の峠をこえると眼下に大きな池が広がる。その西側の山頂に韮山城が築かれた。明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した。城跡入口は池の北側にある。山道途中、韮山城の守護神として創建された熊野神社をみて小山を登りきると土塁がのこる本丸跡があった。

池の北東に重要文化財江川家住宅がある。大和の国に住む源氏の武士宇野氏を遠祖とする江川氏は、保元の乱に参戦して敗れ、従者13人とともにこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。江戸時代初期より徳川家の世襲代官を勤めた。中でも幕末の第36代当主江川英龍は革新思想をもつ多才な人物で、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等を進めたことで知られる。この近くに現存する韮山反射炉も江川英龍の建言により造られた。

郷土資料館前の門は出口にあたり、料金を払う入口は広い敷地を回り込まねばならない。蛭ヶ島から歩いていくには少々疲れる場所であった。塀内に設けられた枡形を通って表門をくぐる。主屋は銅版葺き入母屋造りで格式の高さを示す堂々とした佇まいである。主屋は室町時代頃に建てられた部分と江戸時代初期頃に修築された部分とが含まれている。敷地の一角に「役所跡」の札が立つ。代官屋敷であった江川邸をふくめ一帯が韮山役所跡である。明治に入ってからも韮山県庁、静岡県出張所としても使われた。

敷地の西端に西倉、米蔵、武器庫を含む4棟の蔵が配置されている。唯一の茅葺である西蔵は兜造りの屋根で正面から見ると将棋の駒形をしていて駒蔵ともよばれる。

江川家では酒も造っていて、当時使われていた井戸も残っている。

また、「パン祖の碑」なるものもある。

江川英龍は、天保13(1842)年、この韮山屋敷において、兵が携行する兵粮とし て乾パンを製造しました。このことは、パン食の普及していなかった当時の日本においては、画期的なことでした。昭和27(1952)年、「全国パン協議会」および「静岡県パン協同組合」は、英龍に「パン祖」の称号を贈るとともに、この「パン祖の碑」を建立して功績をたたえました。

街道にもどる。国道136号の一筋西側を並行する道は鎌倉時代の下田街道といわれ、その西側に北条所縁の史跡が点在している。

JA手前の信号丁字路を右に入って行くと、十字路の右側空地が伝堀越御所跡で、前に「中世守山史跡群案内図」「幕府の関東支配の拠点」と題したパネルが設けられていてこの周辺一帯が鎌倉・室町時代にかけて歴史上重要な役割を果たしたことが語られている。堀越御所は、長禄元年(1457)、足利義政の弟足利政知が堀越公方として居住したが、明応2年(1493)北条早雲による襲撃を受けて足利茶々丸が討たれ、35年続いた堀越御所はその歴史を閉じた。

十字路の左角に「尼将軍北条政子産湯之井戸」の石碑が立っている。パネルの地図では井戸は碑が建つ角を左に入って突き当たったところとなっているが、石碑の辺りにはそのような指標がなかった。

伝堀越御所跡の先、狩野川と守山西梺の間に北条氏の館があったと推定されている。頼朝と政子はここと蛭ヶ島の間を行き交っていたのであろう。

街道に戻って、少し先、右手に願成就院がある。文治5年(1189)、源頼朝の奥州征伐成功を祈願して北条時政が建てた寺で、国指定史跡になっている。北条時政・義時・泰時の三代にわたって、池や塔を備えた壮大な伽藍が整備された。運慶の国指定重要文化財の仏像が安置されている。北条氏によって整備された伽藍は戦国時代の戦火にあい焼失してしまった。境内の一部では発掘調査によって南塔跡などの堂跡が確認されている。

国道にもどり伊豆長岡駅前を過ぎ、反射炉入口信号を左折する。旧街道は踏切をわたり最初の信号を右折していくのだが、ここをまっすぐ進んで韮山反射炉を見ていくことにした。

韮山反射炉は、幕末に伊豆代官江川太郎左衛門英龍(坦庵公)が手がけ、後を継いだその子英敏が安政4年(1857)に完成させた。反射炉とは、石炭などを燃焼して発生させた熱を炉内の天井で反射し、一点に集中させることで千数百度の高温を得て金属を溶解させる炉のことで、大砲を鋳造する目的で築造された。韮山反射炉は連双2基4炉からなり、炉の周辺に建設された大砲を製造する建物群と一体となった製砲工場であった。製造された大砲は品川お台場に運ばれた。台場建設には地元のヤクザ、大場の久八の手を借りたこと、先述の通りである。

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大仁 

街道に戻り、県道132号から旧道を南に進んで落ち着いた南条の集落を通り抜ける。道が伊豆箱根鉄道に接近するところで、前方に山がせまり下田街道最初の難所横山坂にさしかかる。

線路に沿って延びているのは最近整備された道路で、旧道は左に折れて観音堂の前をとおりすぎ、右手私有地を横切って山道にはいっていく。

昔のままの道が残っていた。すぐ左手の茂みの中に石仏を見た。馬頭観音のようである。すずしげな竹が林立する山道はやがてにさしかかるが、山をこえたわけではなさそうだ。

下りになったところで道が二手にわかれている。右側の下り坂が旧街道である。

やがて前方に建物がみえてきた。伊豆箱根鉄道の変電所である。変電所をすぎたところに十字路があり右に下りると新道に出られるが、旧道は直進して再び坂を上がっていく。十字路からは車も通れる舗装道である。

右手民家の犬がうるさい。左手に大きな唯念名号塔が建っている。その裏手は空き地になっていて常夜灯、石仏、石塔類が散乱している有様だ。一段高い場所に建物があった。近寄ってみると「清生寺」と記された扁額が認められた。廃寺跡であろう。

道は山を抜け出て鞍部にさしかかる。最初ここで左折して大いに時間を無駄にした。直進して坂を下っていくのが正しい。下りきると新道と合流して道なりに右に曲がり、宗光寺橋を渡って、宗光寺集落をぬける。

右手伊豆箱根鉄道の線路につかず離れずしながら南に向かう。左手に第六天神社をみて道なりにコの字形に進む。途中、左手に隋應寺があった。旧街道は西に方向を変えた後、踏切と国道136号を横切って直進する。

その先最初の十字路角に御門区集会所がある。ここは六角堂跡で、敷地内には「大乗妙典塔」と刻まれた大きな石塔のほか石塔石仏が並んでいる。反対の敷地隅には堂の礎石らしいものが数個保存されている。説明板によると、一般に六角堂は奈良仏教の倶舎・成実・律・法相・三輪・華厳の六宗兼学の象徴として建てられたものという。

六角堂跡の十字路を左折して再び国道136号の六差路交差点を斜めに渡って、反対側の細道にはいっていく。田京駅の北側の踏切を渡りすぐ右折し、田京駅前商店街を行く。左手に「田中村洪水殉難者供養碑」が建っている。大正9年9月30日の狩野川大氾濫犠牲者を供養するための碑である。

商店街を通り抜けたあたり右手に広瀬神社がある。森の中を南北にながい境内を歩く。延喜式内社にふさわしい格式を漂わせる社殿である。南端の表参道入口に、旧街道と境内の境をながれる水路に架けられていた石橋の一部が保管されていて、傍の説明板に掲示された「深沢神社境内之図」が当時の様子を詳しく示していて興味深い。江戸時代は深沢明神とよばれ、明治になって広瀬神社と改称した。

神社境内の南側で深澤橋を渡った右手小さな祠の中に馬頭観音がある。

ひなびた旧街道風景には場違いな近代的工場が沿道を占めている。旭化成の医療製薬工場である。


吉田下バス停十字路を左に入って行った常雲寺の石垣下に庚申塔が3基並んでいる。説明板が庚申信仰について詳しく記していた。

右手、家並みの合間に岩山が空に向かって突き出している。城山(じょうやま)というそうだ。

旧大仁村の中心地に入ってきた。狩野川の渡しを控えて大仁村には人馬継立場が置かれ賑わったたす。元治元年の記録には、家数96、旅籠4、飴菓子屋6、舟守4、豆腐屋2などがあったという。今も街道沿いには古い建物が残っており宿場の雰囲気を留めている。


右手、大仁郵便局は名主杉村氏宅跡で、安政元年(1854)4月、下田から江戸へ護送途上の吉田松陰が宿泊したという。

旧街道は狩野川の流にそって左に折れ、ゆるく右に曲がって行く。二股を右に直進した左手富士屋旅館の隣の菊池米店付近は江戸屋(別号、本陣)の屋敷跡で、角に芭蕉の句碑がある。江戸屋は杉村氏とともに宿場の運営にあたっていた。

 霧時雨富士を見ぬ日ぞおもしろき

これは貞享元年(1684)野ざらし紀行での箱根越えの句である。


街道は大仁踏切を渡ってその先、狩野川に突き当たる。江戸時代は渡し船で川を渡っていた。大仁橋の北詰、水晶山麓に石仏が並べられていてその中に大正4年に建てられた狩野川水死者供養塔がある。これまでも見てきたように、狩野川は流域に幾度も大被害をもたらしてきた。

完成して間もない赤い橋脚の大仁橋を渡り伊豆の国市から伊豆市に入る。

国道136号を横切って旧道に入る。緩やかな坂を上ってまっすぐに延びる県道129号に移り、静かで清らかな瓜生野の集落を通り抜ける。

右手の小山は瓜生野金山の跡である。慶長年間(1596〜1615)に大久保石見守長安により開かれ寛永年間(1624〜1643)まで30余年間採掘された。

右手昌得院の入口に「南無阿弥陀仏」「慶長年中大久保石見守殿」「大城角右衛門」の名が刻まれた石碑がある。瓜生野金山にゆかりある碑のようだ。その横に元治元年(1864)の唯念名号塔がある。

瓜生野集落のはずれ近く、石垣の上に立派な長屋門が構えている。この街道では初めてみた長屋門である。

白漆喰に映える海鼠壁の蔵が清々しい佇まいをみせている。


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修善寺

旧道は国道136号に合流して瓜生野から修善寺に入る。狩野川に接近し修善寺橋西詰めの横瀬信号にさしかかると、橋の袂に石仏石塔群があるなかで、キノコのような笠を被った地蔵が目に付く。横瀬愛童将軍地蔵と呼ばれているものだ。鎌倉幕府2代将軍源頼家は修善寺に幽閉されていたとき、頼家はここで里子たちと遊んで寂しさをなぐさめたという。非業の最後を遂げた頼家の冥福を祈るため、里人によって愛童将軍地蔵と名付けられた笠冠地蔵が建立された。

橋を渡ったところに修善寺駅がある。電車はここまでで、これ以降河津までの交通はバスに限られる。湯ケ野からは下田方面のバスはなく、下田街道は歩くしかない。

横瀬の交差点を右折して旧街道はすぐに左折して小立野集落をいく。国道の左折丁字路のすこし先、修善寺駅口バス停の山側に八幡神社がある。下田街道は、横瀬交差点の山側を通っていたそうだ。八幡神社前の坂道をあがっていくと横瀬公民館がある。この道筋が旧道なのか定かでない。

八幡神社は修善寺村の氏神であるとともに源頼家の廟として建てられた。本殿の右側に朱色の小祠があり、意味ありげに赤い布を垂らしている。比賣神社と呼ばれ神体は球形自然石の女陰(紅門石とも孔門石ともいう)である。
説明板によると北条政子が修善寺に湯あみしたとき陰部を患い、医者はその女陰石を見本に塗り薬の処方を示し、尼将軍はみずからそれに習って患部を手当てした結果たちどころに平癒したという。それより婦女の下の病い、子宝開運の霊験あらたかなりとして信仰されている。


国道と八幡神社の裏手の坂道に石仏石塔群がある。道路整備のため街道筋にあったものが一か所に集められたのだろう。


ここで修善寺によっていく。韮山では英雄だった源頼朝だが、その一族に頼朝の光を享受する者はいなかった。頼朝の弟範頼(源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄、母は東海道池田宿の遊女)と子頼家(母は北条政子)はいずれもこの地に幽閉され、無念の最期を遂げた。

バスを降りて土産店が並ぶ細い道を西に向かうと右手に日枝神社がある。参道脇に庚申塔が建っており傍に
「信功院跡」の説明札が立っている。修善寺八塔司の一つ信功院があった所で、源範頼は兄頼朝の誤解に依りこの信功院に幽閉された。建久5年(1194)梶原景時5百騎の不意打ちに合い範頼は防戦の末自害した。信功院は後に庚申堂となり今は庚申塔一基が残っているのみである。

境内に根元で結合した杉の大木がそびえ、その結合部分をまたぐように脚立風階段が取り付けてある。二本の杉の間をまたぐことに意味があるらしい。樹齢800年の神木は名付けて「子宝の杉」と呼ばれる。

その先に
修善寺がある。創立は大同2年(807)で弘法大師とその弟子によって開かれた真言宗の寺で、当時はこの地一帯に密教形式の堂宇が建ち並び、東国真言宗の拠点ともなった。その後臨済、曹洞と宗派を変遷して今日に至っている。

本堂前に立つ一対の
銅製燈籠が魅力的であった。

温泉街を流れる桂川の川中に
独鈷の湯(とっこのゆ)と呼ばれる石組で中島を造った温浴施設がある。弘法大師が修善寺を訪れたとき、桂川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その孝行に感心した大師は、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させた。大師は温泉が疾病に効くことを説き、これにより父子は十数年来の固疾を時間を置かずして完治させることができたという。これが修善寺温泉の始まりとされる。独鈷の湯はあくまで史跡であって浴場ではないため入浴はできない。足湯ぐらいならいいだろうと思うが。

県道から山手側を並行する細い路地をたどって
源範頼の墓へ向かう。温泉街の路地裏といった風情がただよう心地よい小道をだどると、右手一段高い場所にひっそりたったずむ五輪塔があった。飾りをこばみ、四角・丸・三角形の積み木を重ねたような素朴な墓である。範頼は母の異なる兄頼朝と弟義経の陰に隠れ目立たない存在だったが、最後に兄頼朝から謀反の疑いをかけられ信功院に幽閉された後、自刃した。

範頼の母は
東海道池田宿の遊女であった。天竜川の渡しを控えた池田宿は見附−浜松の間宿として賑わった。中世12世紀には広大な池田荘とよばれる荘園があった古い土地柄である。今も街道筋には長屋門や土蔵、火の見櫓など往時の面影をとどめる景観が残っている。ここはまた、「熊野(ゆや)の長藤」でも知られる。平安時代、池田宿の長者の娘、熊野御前という親孝行の美女が植えたという。

修善寺までもどり、朱色の橋を渡って指月殿と頼家の墓を見る。父頼朝の急死を受け18歳で鎌倉幕府の二代将軍になった頼家は、やがて政争に巻き込まれ修禅寺に幽閉された後、北条時政の手により23歳という若さで暗殺された。指月殿は母政子が頼家の冥福を祈って建てたもので伊豆最古の木造建築といわれている。

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湯ヶ島 

修善寺駅口バス停までもどり、旧道に入るとすぐに湯川橋で桂川を渡る。橋のたもとに大きな「踊子歩道」の案内板が立っている。ここで下田街道の主役が源頼朝から「伊豆の踊り子」に代わるのである。

「私はそれまでにこの踊子たちを二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島へ向来る途中、修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った。その時は若い女が三人だったが、踊子は太鼓を提げていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身についたと思った。」

その後湯ケ島温泉の宿でも踊子をみかけ、翌日湯ケ野温泉に向かう一行に、学生は天城トンネルの茶屋で追いついたのであった。そこから14歳の踊子と20歳の学生の間で淡い感傷の交感が始まった。

私の旅はおよそ感傷とは縁のない情景の中にある。修善寺行のバスの乗客は皆年寄りの団体客だった。これから歩いていこうとする街道は人も見かけないまっすぐなだけの道である。

静かな小立野の集落をぬけ遠藤橋を過ぎる辺りに、廃屋と化した家並みが残っている。道は緩やかに右に曲がって登っていく。

本立野集落にはいってまもなく、右手に修善寺東小学校入口にあたる細い坂道がある。その道を上がっていくと小学校前の石垣上に、石仏群と庚申堂があった。この道は下田街道の旧道にあたり、現在の車道の北側段上を通っていたという。庚申堂の前の道から二股を右にたどっていくと、最初の民家の先で旧道跡は途絶えていた。

本立野の南端辺りで街道は狩野川に近づいて曲尺手状に右にまがって丁字路を直角に左に折れる。このあたりの坂道は不越ヶ坂と呼ばれ、右は山、左は崖が狩野川に落ち込む難所であった。曲がり角に赤いキャップに前掛けをした道祖神がある。

街道は国道136号を横切り、左斜めに坂を上がって、民家の脇にのこる旧道跡に入っていく。民家と畑に挟まれた狭い草道をぬけると新しく付けられた国道136号(天城北道路)に分断される。側道を少し下って地下道で反対側に出、旧道復活地点にもどる。

茶畑をぬって国道136号に合流する。

中宿バス停の先右手に道祖神がある。
賽の神ともいわれ、集落の出入り口に置かれて禍の侵入を防いだとされる。

大平集落をぬけ松ヶ瀬に入る。二股分かれ目に「食事処かの本陣」というレストランがあった。一瞬ときめいたが松ヶ瀬は宿場でもなく、通り過ぎた。

集落の終わり近く、左手、小山の麓に軽野神社がある。延喜式内神社で、神社に残された棟札には「狩野介」の記載があり、この南方に本拠を構えてこの地を支配していた狩野氏との繋がりを示している。

柿木(かきぎ)橋を渡ると右手に山が迫り、道路沿いに「狩野城址遊歩道入口」の標識が立っている。快適な気分に背中を押されて一気に登っていった。坂がかなりきつい山道だが、よく整備されていて歩きやすい。

頂上には小屋風の建物があった。中を覗くと賽銭箱と祭壇らしきものがある。賽銭箱と祭壇の隙間に一着の赤柄の着物が掛けられているのがなんともなまめかしかった。

建物の裏側は土塁が残されており、「狩野介茂光公堡塁之跡」の石標が設置されている。狩野茂光は狩野氏祖維景より五代の孫で、源頼朝に仕え活躍したが治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れて自刃した。

狩野氏の末期、一族に狩野景信という者があり足利義教に見出されて京に上り、画壇に明星のごとく出現した。その子元信と共に狩野派と称する流派を打ち立て一世を風靡することになる。

登り道とは対照的な悪路を山の反対側に下りて、国道にもどる。

青羽根に入り、交番の先左手にお堂があり、周辺に安政3年(1856)の唯念名号塔をはじめ秋葉山常夜燈、庚申塔、道祖神等が並んでいる。

お堂から左手に短い旧道がある。

出口信号で街道は国道136号を右に分け、国道414号となって月ヶ瀬に向かう。

狩野川に接近しつつS字形に右、左にカーブしたところ田沢口バス停の手前右手に自然石のの神があった。

月ヶ瀬をすぎて小戸(こと)橋にさしかかる。右手の小戸橋製菓店の駐車場擁壁のくり抜かれた窪みに賽の神があった。擁壁上の車道や国道沿いに設置する場所は十分ありそうだが、どうしてここに、と思わせる場所である。

小戸橋を渡り門野原にはいるとすぐ左手に旧道がある。左手に文化11年(1814)の常夜燈と小さな祠が並んでいる。吉奈入口信号で国道414号と合流する手前右手に三界万霊塔がある。

小さな川を渡って右に曲るところ、右手の石垣の上に石仏石塔がずらりと一列に並んでいる。

嵯峨沢橋を渡って門野原から市山に入る。狩野川は水流が細って川石が広く露出して、上流にやってきたことを実感する。狩野川は源流を天城山中に発し、沼津で駿河湾にそそぐ延長46kmの河川である。

市山バス停の先で街道をはなれ、左手に入って行った所にある明徳寺に寄っていく。団体観光客が多かった。明徳寺は曹洞宗の古刹で、利山忠益禅師によって南北朝末期の明徳年間(1390〜1394)に創建された。東司(便所)の守護神、烏彗沙摩明王(うすさまみょうおう)を祭る全国でも珍しい寺で、下半身の病気に御利益がある。参拝客は本堂はそっちのけで、「うすさま明王堂」に向かう。裏側にあるトイレが聖域である。入り口に架かる看板が「おさすり おまたぎ」とやさしく声かけている。

中に入ると通路の右半分に石や木の男根、女陰が所狭しと祀られている。賽銭箱も忘れていない。その脇の地面に格子枠がはめられている。ここが便器である。男女性器をさすって、格子便器を跨ぐと、年老いても泌尿器科の世話にならないですむという。売店にはズロース、ショーツ、ブリーフ、パンツ、越中褌などの下着類が籠に山積みされている。

参道の土産店で様々なサイズ、素材、色の男根が一斉に空をみあげているのは壮観であった。

入洞川を渡って100mほど行ったところで右の旧道に入る。

左側に山、右は狩野川の支流長野川に下る傾斜にのびる物静かな家並みをあるいていく。前方に天城の山並みが大きく現れる。

左手高台の空き地に天明5年(1785)の庚申塔がある。その先左に曲がった三叉路手前に天明6年(1786)の常夜燈と賽の神がある。三叉路を右にとり、その先で国道414号に合流する。

長野川を渡ると湯ヶ島である。踊子たちが泊まった湯ヶ島温泉は街道からはずれた狩野川沿いにある。

湯ヶ島は下田街道の宿場町である。下田に向かう人にとっては天城越えを控えて、また修善寺、三島に向かう旅人は天城峠の難所をこえて、温泉で身体を休めるには格好の場所であった。

「湯ヶ島の二日目の夜、宿屋へ流して来た。踊子が玄関の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下ろして一心に見ていた。―――――あの日が修善寺で今夜が湯ヶ島なら、明日は天城を南に越えて湯ケ野温泉へ行くのだろう。天城七里の山道できっと追いつけるだろう。」(伊豆の踊子)

右手の空き地片隅に「馬車の駐車場跡」と書かれた立札があって、早々に人馬継立場の匂いがしてくる。

その向かいが旧道入口で「旧下田街道 しろばんば通り」の札が立っている。しろばんばとは蚊ほどの大きさで夕方に白い綿毛をつけて飛ぶ虫のことで、幼年期をこの地で過ごした井上靖の自伝的小説の題名でもある。

「その頃の、と言っても大正四、五年のことで、今から四十数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々に ゛しろばんば、しろばんば゛と叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら夕闇のたちこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮遊している白い小さな生きものを追いかけて遊んだ。

素手でそれを掴み取ろうとして飛び上がったり、ひばの小枝を折ったものを手にして、その葉にしろばんばを引っかけようとして、その小枝を空中に振り廻したりした。

しろばんばというのは、“白い老婆”ということなのであろう。子供達はそれがどこからやって来るか知らなかったが、夕方になると、その白い虫がどこからともなく現れて来ることを、さして不審にもおもっていなかった。」
『しろばんば』

まもなく左手の公園に井上靖のしろばんば文学碑がある。

十字路の角にある海鼠壁の民家に「上の家 井上本家」と記された札が立ててある。洪作少年の祖父母や叔母叔父が住んでいた家である。

街道の左は木立に囲まれた空き地があり、そこには「御料局 (旧帝室林野局天城出張所)」の立札があった。洪作たちの遊び場だった。今はその場所に、「売地」と太い赤書きの看板が立っていて時代の移り変わりを感じさせられた。

旧下田街道はその先の丁字路を左に折れていく。地名を「宿」といい、この辺りに旅籠や茶屋が建ち並んでいたのだろうか。十字路をこえた左手にハリスが安政4年(1857)10月8日宿泊した弘道寺がある。

その先左手に天城神社がある。ここもしろばんばを追いかけた子供たちの遊び場だった。参道の両側に立っている古い常夜灯は、台石に乗る竿石に足が付いている珍しい形である。

街道は国道414号と合流する。合流点左手に湯ヶ島宿の賽の神、小さな石燈籠、青面金剛明王庚申塔が並んでいる。

右手に急階段があり下に湯ヶ島温泉に通じる「湯道」が見える。下田街道の古道の一部ではと、下りてみた。初音旅館あたりは風情がある一角だ。

案内板によれば、本谷川(猫越川と合流して狩野川となる。本谷川が狩野川本流)を瑞祥橋で渡って川沿いに遡上すると水恋鳥広場を経由して天城山荘脇にでて浄蓮滝に至る道を「天城遊歩道」として案内している。その間、本谷川の道も橋もない個所を二度渡ることになっていて、今は部分的に失われた旧道筋であろう。

「湯道」の表示に従って水路沿いの快適な道を歩いていくと吊り橋にでた。ここを渡って左折すると水恋鳥広場に至ることになっているが、とても吊り橋の向こうに道があるようにも思われなかった。

引き返して最寄りの国道に出る道をたどると大滝公民館の前に出た。交通の激しい国道を歩く。歩道がなくて危険な道だ。道路の右側を歩きながら、下に見える川の向こう岸を注意して歩く。旧道らしき道が見え隠れしつつも、林や川で途絶しているようにも思えて納得したりする。なんとも未練がましい歩き方である。

富士見山荘への入口を過ぎ、「猿橋観世音」の祠を右にみて猿橋をわたると、河原に広場が見えてきた。左手水恋鳥広場バス停から導入路にはいり、国道をくぐって河原に下りる。夏場のキャンプ場として広場が整備されている。ここから川を渡って民宿「きのこ」に通じる道があったようで、さらに吊り橋、瑞祥橋まで通じていた道が下田街道の古い道筋である。

広場の片隅に与謝野晶子の歌碑があった。大正12年の作であるという。

    伊豆の奥天城のやまを夜越えねさびしき事になりはてぬれば

ここから川に沿って天城遊歩道を歩いていく。オフシーズンで、「立ち入り禁止」の鎖が渡されている。

途中、落合という小さな集落を通り抜ける。国道よりも確実に旧街道である。

対岸に通じる丁字路の角に天城遊歩道の標識があり、浄蓮の滝まで1.2kmとある。

前方に高い堰(岩尾砂防堰堤)が見えてきた。旧道はこれを越えて天城山荘の脇にでるそうだが、そのような道筋は見えてこない。堰の手前から国道に上がる道があり、左手に文政6年(182)の石仏がある。旧街道の印であろう。堰の前に天城遊歩道の標識が立っていて、浄蓮の滝まで1.1kmとあり、国道へ上がる道を指している。旧道はなくなったとみてよい。国道に上がると、与一坂バス停だった。

再び危険な国道を歩いていくと、「三本松橋」の標識の手前に左の山中にはいっていく道がある。遊歩道の標識もなく、これが旧道なのか定かでなかった。そのまま国道をいく。急なカーブをすぎたところで天城山荘にたどり着いた。確かに右手の林に旧道が口を開いている。

旧道はそこから国道を横断して左手の坂を上がっていく。坂を上がった高台に小さな石仏と馬頭観音石塔がある。細道をたどってまもなく蛇行してくる国道をよこぎる。電柱に天城遊歩道の標識が巻きつけられていて、浄蓮の滝0.2km、 瑞祥橋2.2kmと表示している。あくまで今も両地点を結ぶ遊歩道があることを主張しているようだ。

S字形に蛇行してくる国道を岩尾バス停で再び横切る。民家はとだえて山道となった。坂を上がったところで十字路に出る。左は山道、直進が旧道である。右に坂を下ったところに浄蓮の滝がある。滝へ立ち寄った。観光スポットだけあって大型観光バスが留まり大勢の客で賑わっている。

険しい長い下り階段を下りきるとわさびを売る店を通り抜けて滝前に出る。伊豆最大の滝だそうで、水量が豊かである。しばらくカメラで遊ぶ。帰りの登り階段は強烈にきつかった。駐車場にでたところに「伊豆の踊子」像があった。高下駄の学生が指差すのはどこだろう。

浄蓮の滝から先ほどの旧道十字路にもどる。「天城遊歩道」は浄蓮の滝まで案内してその役割を終え、この先は「踊子歩道」にバトンを渡す。茅野集落を歩いている。両側に清水が流れ静かで清々しい遊歩道である。

左手に再建されたばかりの白木の鳥居がたつ。山神社らしい。

坂の途中に「賽の神」と浅く刻まれた石が立つ。分かりやすい。

しだいに山深くなってきたところ、鉢窪浄水場の手前に島崎藤村の碑が建てられている。『伊豆の旅』からの引用文が刻まれていた。馬車で茅野という山村を通り過ぎる情景である。

道は美しい杉木立の中をとおり抜ける。国道への出口手前で、さらに山中にはいる道が分岐していた。こちらが踊り子歩道・旧下田街道である。今までの舗装はなくなり、全くの山道となった。

しばらく行った所の左手高台に横光利一文学碑がある。赤煉瓦壁に「寝園」の一節を記したパネルが貼り込まれている。猪と犬のよくわからない話で、この場所との所縁を示すものでもなかった。

標識をたどっていくと公園のような空間に出て、そこに「お手植の杉」なるものがあった。「踊り子歩道」の標識に従って急な階段を下り、沢を迂回して再び急坂を下りて国道に出た。振り返ると、出口に「踊子歩道入口 お手植の杉 800m」の標識がある。下ってくるのも楽ではなかったから、ここから入っていく人たちはさぞかしきついだろうと同情した。

暫く国道を歩いて、右手に出ている踊子歩道を下っていくと、道の駅「天城越え」と昭和の森に出る。下田街道の天城越えルートの変遷が地図入りで紹介されており参考になった。道の駅建物の裏に井上靖旧邸が移転されているが、それを見るには昭和の森会館と近代文学館への入場料600円を払うシステムになっている。旧邸の写真は撮らず、道の駅店内を一通り見ただけで踊子歩道の延長に入っていった。

ここからの踊子歩道は本谷川に沿った歩きやすい快適な歩道である。

「御礼杉」と題する説明板があった。

「天城山を徳川幕府が所有していた頃、「天城七木制」と言われる禁伐制度がありました。山付きの部落に雑木や下草を利用させた際、その開けた跡地に杉を植えるという森林保護を目的とした政策造林を行っていました。しかし、幕府の強制的な造林だったこともあり、不満を抱える村民の心情を和らげようと幕府は、森林に対する感謝の意を示す御礼の杉である(御礼杉)と伝えたと当持の村名主が記録を残しています。天城山にはこうした御礼杉がおおよそ1 5 0本あり、県道の向側にある数本の杉大木もその一部です。古いものは樹齢200年以上を数えるのもあります。  環境省・静岡県」

右手に山神社がある。茅野にもあったものだ。ここには説明書きがある。山々をつかさどる神(大山祇命)をまつる山神社は県内に370余りあるという。山神社では村人達が雨乞いや豊作を祈願した。

川沿いにつくられたわさび田をみて進んでいくと滑沢渓谷の説明板があり、その先で川と道が二手に分かれている。踊子歩道と本谷川はそのまま直進し、右に折れて橋を渡る道は1.3kmで樹齢400年の「太郎杉」に至る。

橋を渡った所に「井上靖獵銃碑」があった。碑文は読みづらい。

天城トンネルをめざす踊子歩道は渓谷に沿った山道で、気分がよい。

「天城街道(下田街道)」と題する説明板がある。天城街道(下田街道)は、文政2年(1819)に完成し、明治38年(1905)に旧天城トンネルが開通するまでの86年間に谷文晁、滝沢馬琴、ハリス、吉田松陰らが行きかった。これは二本杉峠を越えるルートを指している。

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旧天城トンネル 


まもなくその分岐点となる大川端キャンプ場にたどり着く。「天城遊々の森」と、いうらしい。正面に森林鉄道の遺跡がある。二本杉峠への古道は右にすすみ、山を登っていく。

他方、踊子歩道はあくまで本谷川に沿って電車の左側を直進する。旧天城トンネルまで3.1kmとある。

渓流を左下にみながら遊歩道をいく。沢をわたりわさび田の傍を通り過ぎると水生地下(すいせいちした)駐車場の案内が出てくる。旧道は国道に上がらずそのまま国道の天城大橋の下をくぐって反対側の道に上がる。標識に「旧天城トンネル1.8km」とある。

ここからの踊子歩道は車も通る。右手の川づたいに登っていくと山手の中腹に
川端康成文学碑があって、「伊豆の踊子」の冒頭の一文が刻まれている。

「道がつづら折りになっていよいよ天城峠が近づいたと思うころ雨足が杉の密林を白く染めながらすさまじい早さで麓からわたしを追って来た。」

つづら折りの道が奥まったところで本谷川をわたると、左手に氷室園地の案内板が建っている。

氷室園地には、天然の氷を造った製氷池や、貯蔵していた氷室の跡があり、また渓流を逆のぼれば、老木、奇木林が生い茂る林、重さが10万トンもあるような巨岩(なまこ岩)が露出しており、自然の素晴らしさが満喫できるでしょう。また、松本清張の推理小説「天城越え」の舞台にもなっています

少し入って、製氷池と氷室跡を見てきた。活動していたのは大正初期から昭和初期にかけての間だった。池跡は方形にコンクリートで枠組みされただけの簡単なものである。

踊子歩道にもどり今度は川の左岸を進んだ後、川から離れて最後の登り坂を急ぐ。ここらあたりに学生と踊子一行が雨宿りした茶店があったのだろうか。「伊豆の踊子」では、茶店のばあさんが100mほども学生を見送りについてきてトンネルの北入口で別れたとなっている。

ついに旧天城トンネル(天城山隧道)に到着した。トンネル前には車が止まり、観光客がトンネルに消えていく。トンネルの上に天城峠があって40分くらいで往復できるようで、トンネル横から山道に入っていく人もいる。

内部はひんやりとして、ところどころで雫がおちて道が水浸しになっていた。幾度も立ち止まって遅めのシャッターを切る。トンネル内で歩行者とすれちがう。天城山はトンネルが観光地化している稀な例である。小説「伊豆の踊子」のためだけではなくて、姿もよい。また、トンネル全体が切石積で造られ、石造道路隧道として技術的完成度が高い(国指定重要文化財)という点でも鑑賞の対象として人気が高いのだと思われる。

出口の明るみに向こう側から入ってくる人たちのシルエットが浮かぶ。

トンネルの中央で伊豆市湯ヶ島から河津町梨本に入った。同時にこのトンネルは伊豆半島を南北に分ける分水嶺で、湯ヶ島側では本谷川が北に向かって流れ狩野川となって沼津、駿河湾に注いでいた。河津側では河津川が南に向かって流れ、河津で相模灘に注ぎ出る。

トンネルの南口から下りの山道を足早に下っていくと河津川に架かる寒天橋にさしかかった。その先右手に二階滝(にかいだる)がある。道からすこし外れて林間から覗きみると小さいながら豊かな清流を二段に落としている。

二階滝から2km近く下りてきたところで、踊子歩道は右手の林の中に入る。山道は一気に下って国道を横切り、再び山中に入って行く。二階滝駐車場まで1.9km、河津七滝まで3.2kmの標識があった。

歩道というには少々荒っぽい山道をくだっていくと鉄の橋がかかる河津川にさしかかる。橋の前後に川の清流を利用したわさび田が設けられている。小型の蓮田のように見える。平滑滝の音を左に聞いて、道を急ぐ。「畳石式わさび田の仕組み」と書かれた図入りの札が金網に掛けられている。わさびは砂上に植えられ一種の水栽培だと理解した。

「河津七滝 2.5km」の標識を通過、木の階段で整備された歩道を上がると「河津七滝 2.3km」「旧天城トンネル 4.9km」「滝見台休憩所」と三方向の標識があり、名もない小さな滝を眺めながら小休止。

再び鉄橋をわたり大規模なわさび田をみているうちに軽舗装された林道に下りてきた。河津七滝まで2.2kmとある。

川沿いに林道を下っていくとまもなく右手から二本杉峠を越えてきた古道ルートが合流してきた。

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