国指定史跡 韮山反射炉 中 伊豆の国市 静岡県
韮山反射炉は、韮山の代官江川太郎左衛英龍(坦庵)らにより、安政元年(1854)に着工、同4年(1857)に完成した洋式の金属熔解炉である。18〜19世紀におけるアジア近隣は、西欧諸国の力による進出で、国権さえ危うくする事態が諸所に起きていたが、鎖国政策により海外への目を閉ざされていた日本は、表面泰平をむさぽる状態にあった。先覚者坦庵はこれを深く憂え、国防特に海防の必要性を強く訴え、幕府に対し江戸湾防備の具体策を建言してきたが、やがて幕府の容れるところとなり、品川沖に台場を構築し、大砲を据え、侵入する異国船を打ち払う方針が打ち出された。台場据え付けの大砲は、従来のものより長射程で堅牢、かつ価格の低廉さが要求され、この条件を満たすためには、鉄製で口径長大なる砲の製作が必要となった。かねてより、このことあるを予想し、夙に研究と準備を進めてきた坦庵は、幕府の裁許が下るや直ちに反射炉築造に着手するが、不幸にして安政2年1月病没、その意志を継いだ子の英敏らにより完成することとなる。しかし、度々の天災や粗悪な銑鉄使用の弊害等が重なり、鋳砲の成功までには並々ならぬ困難があったと諸記録に見える。 炉が反射炉と呼ばれる所以は、燃焼ガスの反射熱を利用して金属を熔解する方式によるもので、幕末期わが国ではいくつかの反射炉が作られている。しかし現存するものとしては、山□県萩と韮山のみ、また当時の姿をぼば完全な形で残すものとしては韮山反射炉をおいて他に例はない。更には、産業革命の進む西欧では、間もなく効率の良い高炉の発達により、反射炉は短期間に消滅していったところから、反射炉の実態を知る上で、世界唯一の責重な遺産として捉えることかできよう。近時わが国の鉄鋼業は、世界に冠たる業績を挙けてきたが、これも反射炉築造に挑んだ先人達の意気と、粒々辛苦の教訓が、今に受け継がれているものと思われる。