井上靖文学碑 湯ヶ島 伊豆市 静岡県
獵銃
なぜかその中年男は村人の顰蹙をかい、彼に集まる不評判は、子供の私の耳にさえも入っていた。ある冬の朝、私は、その人がかたく腰帯(バンド)をしめ、コ−ルテンの上衣の上に猟銃を重くくいこませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天城への間道の叢(くさむら)をゆっくりと分け登ってゆくのを見たことがあった。 それから二十余年、その人はとうに故人になったが、その時のその人の背後(うしろ)姿は今でも私の瞼から消えない。 生きものの命断つ白い鋼鉄の器具で、あのように冷たく武装しなければならなかったものは何であったのか。 私はいまでも都会の雑踏の中にある時、ふと、あの猟人(ひと)のように歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静かに、冷たく――。そして、人生の白い河床をのぞき見た中年の孤独なる精神と肉体の双方に、同時にしみ入るような重量感をを捺印(スタンプ)するものは、やはりあの磨き光れる一個の猟銃をおいてはないかと思うのだ。  井上靖