下田街道−2



二本杉峠(旧天城峠)−梨本芽原野箕作下田(河津)

いこいの広場
日本紀行

下田街道−1



二本杉峠(旧天城峠)越え


二本杉峠歩道は森林鉄道遺跡の右側を通って小さな橋を渡って林道のような砂利道を上がっていく。道は左に急カーブして登っていくとしばらくして左手に下り道が分岐していて、その入り口に、「二本杉(旧天城峠)」の標識が立っている。示している方向は左の道ではなく、そのまま林道を直進するという意味だろう。

やがて右手に二本杉歩道の標識が見え、林道から分かれて山中の登山道へと入っていく。大小の岩が道いっぱいに散乱しているかと思えば、倒木が横たわるひどい歩道だ。

涸沢をわたる。橋が壊れていても不自由しない。沢の石は丸みを帯びて苔むしている。

足元に気を付けながらしだいに高度を上げていくと、今度は崖側が地すべりして路肩が崩れたわずかな紐道にさしかかる。体重を山側にかけながら歩かざるを得ない。

丸太橋をわたり、沢石を伝い、倒木をくぐりまたいで険しい登り坂をいくことしばらく、キャンプ場から一時間ほどでようやく峠にたどり着いた。

「旧天城峠」の案内標識は四方を示し、二本杉歩道のほかに伊豆山稜線歩道を兼ねている。稜線を伝って旧天城トンネルまで行けるのだ。

東屋があり、その後ろに二本の杉の大木がそびえている。二本杉とはこのことだろう。

峠の標識をすぎても道はまだ上がっていた。

二本杉歩道はやや左に曲がりながら緩やかに下り始める

まもなく左手の坂に「六趣能化尊」が立っている。宝暦11年(1761)の造立だといわれる。中央の高い地蔵の両側に小さな石仏がある。もとは六体あったらしい。

道は沢伝いにつづらおりの下り坂が続く。杉の枯れ枝葉が積もって足元は柔らかい。急な斜面は半ば滑り降りるように下る。

崩落場所が各所にあって気を緩める時がない。途中で拾った木の枝を杖代わりに足元を注意しながら歩を進める。

道がすこし広くなって歩きやすくなった。空が開けた個所に出てくる。尾根をこえる峠の地形だ。峠を越え左に曲がったところに小さな地蔵が立っていた。「地蔵」の標識がなければ通り過ぎていたところだ。頭の一部が欠けているが姿勢のよい地蔵である。文政3年(1820)の造立で、その前年に現在の二本杉歩道が開通したのを受けて建立されたという。また、ここが古い天城峠だったともいわれ、由緒ある地蔵に違いない。

道は平坦な場所にでる。左にカーブする所に「峠茶屋跡」の標識がある。文政2年(1819)、二本杉峠への道が完成した年に開業したものだという。先の峠の地蔵と相まってここが当時の天城峠だったことを思わせる。足もとに「←七滝 二本杉峠→」の札が落ちていた。

その先に古そうな標識が立っていて、「右 旧天城トンネル 左 二本杉 下り 宗太郎」と三段書きされている。「右、左」とは直進方向で、下りとは右に折れていく下り急坂である。

直進方向に道があるようにも見えなかったが、この山道は二本杉峠道ができる前の古道で、「古峠」を越えていく道のようだ。

沢に向かって右の急坂を下っていく。倒木を左右に避けあるいは跨ぎ、沢を右、左に渡り、岩を乗り越えて険しい山道と格闘しながら進んでいく内に林道に出た。

しばらく楽ができると思うのも束の間、右の路肩に「宗太郎園地60分 →」の標識が立ってある。再び谷底に下りていく悪路が始まる。これまでよりもさらに荒れた「歩道」である。

沢下りの荒れ道が延々と続く。岩や倒木、枯木が道跡を消し、原生林のように密な茂みが沢を抱きかかえ、道跡を失い迷うことしばしばだった。救いは標識の設置が比較的充実していたことであろう。「七滝」であれ、「宗太郎園地」であれ、行く先は「二本杉」でさえなければよい。

橋を渡ろうとして途中で崩れている。初めから岩を伝っていれば済むことであった。

やっと道とわかる場所に出たと思うと、今度は多数の倒木と岩が谷底全体を塞いでいる。土砂崩れとしか思えない。背のリュックを気にしながらなんとか通り抜けた。

林道の様に整備された歩道にでて一息つく。

前方で左の上がり道と、右の下りに道が二手に分かれている。左にある標識の「七滝→」の方向が微妙で、どちらにもとれる。今更上がることもないだろうと、右の道を行った。

水が流れる沢に下りて岩つたいに最後の沢渡りを敢行する。

ついに道は快適な歩道となった。河津川を橋で渡って、左から下ってきた踊子歩道と合流する


トップへ


梨本 

合流点に石仏群がある。二体の地蔵尊の間にあるのは墓石のようだ。

「昭和の森 天城山自然休養林」の石碑と「踊子歩道」の案内板がある。垂直に聳えるみごとな杉並木の中を歩いていく。快適な並木道が今までの峠越えの疲労を一掃してくれた。宗太郎杉並木は、明治10年に植えられた「宗太郎人工杉学術参考保護林」のことで、「宗太郎」という、昔この地を開発した人の名前が地名として定着した。

左手に題目塔がある。明治10年の建立で、「南無妙法蓮華経」の髭文字が刻まれている。

杉並木も終わりに近づき広葉樹林の明るい山道になったあたり、左手に四角柱の石塔がある。安永7年(1788)の供養塔で「奉請地蔵願主大菩薩供養塔」と刻まれている。側面にぎっしり刻まれた趣意書は天城山往還の開設にあたって、旧路にあった地蔵を移設する旨を記しているようで、最後の行には「天城山慈眼院」の名が読める。

ようやく河津七滝の入口にたどりついた。「踊子歩道」は本谷川に沿って、釜滝から始まって、「えび滝」、「へび滝」、「初景滝(伊豆の踊り子像)」、「かに滝」、「出合滝」「大滝」を見てまわる遊歩道として整備されている。下田街道の旧道が昔からこのような気を利かせた観光ルートであったかどうか、疑わないわけではないが、個々の滝に下りなくとも川に沿った崖上の道であったのだろう。

最近広範囲な落石があったようで、七滝の内釜滝と出合滝のほかは通行止めとなっていた。最初の釜滝だけでもと階段を降り始めたが、あまりの急勾配の長階段に意欲が萎えて釜滝はパスすることにした。

戻ってくる途中、遊歩道の修復工事用
作業車が数人の男を乗せて音もなく通過した。

踊子歩道の通行止めのため、出合滝に移動するには一旦国道に上がって水垂から河津七滝までバスに乗っていく。

河津七滝駐車場は七滝の殆どが通行止めにも拘わらず観光客は多い。ちょうど河津桜祭りの開催中で、河津からの客が多かった。

出合滝は二つの川が滝となって合流する。高さは2mほどで、滝としては物足りない。

旧天城トンネルに次ぐ踊子歩道の目玉であった河津七滝は結局一つを見ただけの中途半端に終わった。

前方に見える三重螺旋の巨大な国道ループ橋に向かって街道を湯ケ野方面に向かう。河津川を見下ろすと桜の淡い白と桃色のまだら模様が春の到来を告げて見事な景観を見せていた。

すぐ右手、ガードレールの隙間から下の旧道に下りる。ループ橋の真下を通りぬけて一旦車道に合流するがすぐに旅館青木の坂の脇から旧道に入る。

ガードレールの右側は河津川に落ちる崖である。満開の河津桜をところどころに見ながら美しい静かな旧街道を歩いていく。

左手に小さな石祠が二基寄り添うように並んでいる。

左の擁壁の上にやはり小さな石祠があり、「稲荷・阿闍梨」の標識が立っている。

右手の苔むした石垣の上に多くの石仏石塔が集まっていて、その端に4本の標識が立っていて、「大日如来・観音菩薩」、「大日如来」、「無量仏塔」、「納経供養塔」と記されている。中でも中央の二塔が大きく目立っている。左が文政7年(1824)の納経供養塔、右はよく読めないが無量仏塔らしい。

左手民家の手前に個人の墓所と隣合わせになって屋根が立派な小さな祠がある。説明板があって、「宝筐印塔(関戸吉信の墓)」と記されている。関戸吉信は下田堀ノ内にあった深根城主で、延徳3年(1491)北条早雲に攻められここで自刃したと伝えられる。

川に向かって坂を下りていく途中右手に石塔が二基あり、「大日如来」、「地蔵」と記された二本の標識が傍にある。右の石塔には大日如来・馬頭観世音菩薩と刻まれていた。左の石塔はよく読めないが供養塔のようで地蔵には見えない。

坂を下ったところで大沢橋を渡る。小さいが林の中の石橋で風情ある道風景である。

左手擁壁の上に石塔があり、道に面した側には「「如是畜生xx三宝xx菩提xx」と刻んである。牛馬供養塔のようだ。

左に折れる下り坂の曲がり角に祠があり、「道祖神」の標柱が立っている。

擁壁に明るく咲き誇る桜の花が降りかかる下を、学校帰りの少年が独り歩いてきた。

石橋を渡ると川横集落に入る。ここが天城を越えて最初の宿場、梨本宿である。石組の上に白壁がまぶしい土塀が続く。海鼠壁の土蔵が混じる家並みと満開の河津桜の競演の中を生暖かい春風が吹き抜ける。

右に道が分岐する丁字路左手に、大きな屋敷が構え庭先に「旧天城街道梨本本宿 てつぽう」と書かれた標柱が立っている。「てつぽう」とは屋号だろうか。さしずめ元本陣の貫録である。梨本宿には本陣稲葉家や旅籠下田屋があったという。

旧街道は坂を上がって国道に合流する。手前に「左湯島近道 右天城街道」と刻まれた道標があり、「伊豆の踊り子ハイキングコース湯ヶ野へ1.9km」「天城峠へ8.2km」と書かれた標識もある。さきの丁字路を右に行く道がハイキングコースのようだ。その後半部分を旧街道は共有することになる。

旧街道はいったん国道に出て、すぐに右斜めに下りる道筋だが、ここで国道をそのまま進んで慈眼院に寄る。入口に「ハリス公使旧舊蹟」と書かれた石碑があるとおり、安政4(1857)年10月7日、下田を出発し江戸へ向かっていたハリス一行300人が天城越えを前にしてこの寺に一泊した。寺にはハリスが使った椅子や皮袋、日本名の位牌などがある。

旧道入り口までもどり、桜と菜の花に飾られた旧街道を晴れがましい気分で歩いていく。ちょうど慈眼院の崖下あたりまで降りてきたところで県道115号に合流する。

合流点に
道標が立ち、四面に「右下田 左はま 道」、「右三嶋 左下田道」、「嘉永七甲寅年(1854年)」、「豆州君沢郡小海村 増田七兵衛建立」と刻まれている。増田七兵衛は沼津の海鮮問屋で、下田街道往来していた。道中の安全を祈願し感謝して道標を建てた。

大鍋に通じる県道115号に移って180度方向転換し、橋を渡る。橋の手前に4体の石仏が並ぶ。右から2番目の石仏は道標を兼ねて、光背に「右ハ大なべ村道 左ハ志も田道」と刻まれている。

橋を渡ってすぐ県道から分かれて左の旧街道に入る。「右三嶋 左下田道」とあった先の道標地蔵はここにあったものだ。現代の標識が「至旧天城トンネル9km」「至湯ケ野1.1km」と案内している。川横ではじまった「踊り子ハイキングコース」とここで出会い、湯ケ野まで旧下田街道を共にする。

河津川に沿った細道をたどっていくと右に3基の石塔と少し奥まって1体の石地蔵がある。一番左の低い石碑は句碑である。「枕嶽楼纓児」はなんと読むのか作者の名であろう。

川沿いの林をぬけ視界が広がり小鍋集落に入ってきた。右手に小鍋神社への案内標識がある。集落を見下ろす高台に小鍋神社があった。文覚上人が伊豆に流されていた源頼朝に決起をうながすために、携えてきた源義朝の髑髏を小鍋神社の境内に埋めたと伝えられている。後に、頼朝が父の霊を弔うためにこの地を訪れた際、調理用の鍋を求めたところ、小さな鍋を出した地域が小鍋と呼ばれ、大きな鍋を出した地域が大鍋と呼ばれるようになったという。

段々畑を耕す夫婦、子を背負いビニール袋を提げて坂道を下る若い主婦。故郷に帰ったようななつかしさが漂う集落である。橋の手前で若い女性は一軒の民家を訪ね年配夫婦と親しげな挨拶を交わして提げていたビニール袋を手渡した。畑で収穫した野菜か何かだろう。

橋を渡ったところの擁壁に2体の石仏と「下田街道」の案内板がある。石仏はともに道標を兼ねており、左は「□志まミち 下田ミち」、右の石仏には「河津ミち 三志満ミち」とあるらしいが、判読できなかった。ここは三叉路にあたり、三志満(三島)、下田、河津方面への道が分かれている。「三島」はこれまで来た道、下田が小鍋峠越えの下田街道、そして左の河津川を渡って国道に出、湯ケ野を経て河津に至る道である。

旧天城トンネルを越えた学生と踊子たちはその晩湯ケ野温泉に泊まっている。そこから下田までの道筋ははっきりしていないが、河津の浜、大島が見えるところまで下った後、2kmほどの山越えの近道を通って下田へ着いたという。多分現在の下田街道である国道414号の道筋をいったのではないか。旧下田街道とは北の沢で合流する。

小鍋峠に向かう前に湯ヶ野まで足をのばし川端康成ゆかりの宿福田屋を見ていくことにした。大正7年(1918)康成が19歳の時、伊豆を旅して11月初旬の三日をこの宿で過ごした。その旅の体験を小説「伊豆の踊子」で描いたものである。

「一時間程休んでか、男が私を別の温泉宿へ案内してくれた。それまでは私も芸人達と同じ木賃宿に泊まることとばかり思っていたのだった。私達は街道から石ころ路や石段を一町ばかり下りて、小川のほとりにある共同場の横の橋を渡った。橋の向こうは温泉宿の庭だった。(伊豆の踊子)」

桜が咲き誇る河津川のほとりに建つ福田家は当時の風情をそのままに残した佇まいを見せている。前庭の石垣には、古風な髪形に結った踊子が幼い感傷を噛みしめるようにして腰かけていた。

右手の歩道をたどると文学碑がある。夕方になっても温泉客が現れそうにないほどひっそりとした空間である。

小鍋峠への旧道入り口までもどり、民家の脇を上がっていく。家並みが尽きるあたり、シイタケ畑の脇から山道に入っていく。シダや倒木が足元を埋める個所もあるが、二本杉峠道に比べれば道筋がわかりやすく歩きやすい山道である。

しばらく沢伝いの道を登っていくと前方に小屋が見えてくる。なおも沢を登ろうとしたが、道跡が途絶えて、沢の直登りも足がかりを見つけられず立ち往生、あきらめて小屋の手前まで引き返したところで、右に曲がって沢から離れる道跡が見つかった。「下田街道 小鍋峠⇔小鍋」と消えかけた札が根元に落ちている。その後も同じ表札が要所に置かれている。杭に掛けずにあくまで木の根元に置いておく方針だとみえる。

やがて右手に
地蔵尊が現れた。頭の代わりに丸い石が首に乗せられている。台座に「文政十年(1827)堂山二十九世」の刻銘がある。普門院の29代目の住職が建てたようだ。地蔵の足元には先と同じ表札が置いてある。

切り通しのつづら折りをたどっていくと小さな峠にさしかかる。三叉路になっていて左手に「従是下田道」「従是普門院道」「元文2」(1737)と刻まれた道標が建っている。

しばらくして再び峠風の場所に出て右手に頭部の欠けた石塔がある。刻字からみて個人の墓標のようであった。

三度目の峠でようやく本物の小鍋峠にたどり着いた。半円形の切り通しの向こうが今まで以上に明るい。

手前の左手に南無阿弥陀仏の
題目碑があり、頂上には「小鍋峠」の標柱、二体の地蔵尊がある。右側の地蔵には首がない。


その先に二つの歌碑があるが、誰がどんな歌を詠んだのか、何の情報もない。

ここより河津町から下田市に入る。

トップへ



芽原野 

峠を越えたところで道が二手に分かれている。右の登り坂はよく整備されているが、左の雑然とした下り道筋が旧街道である。路肩のおぼつかない斜面を等高線上に横切っていく。

沢を数回わたるがいずれも水はなく細くて渡りやすい。二本杉歩道と比べれば楽なものだ。

急な斜面をおりて標識に従って進んでいく。「下田街道 八木山→小鍋峠」の表札があいかわらず投げやり気味に置かれている。

沢におりたところ三本丸太橋のたもとで道が十字に分かれている。そこに珍しく本格的な標識が設置されていて、「下田街道 ←小鍋峠」と、下田側からの登山者向けに案内している。

沢から離れて道は歩きやすい林道にでたようだ。快調に緩やかな下り道をたどっていくにつれ前方が開けてきて、やがて林道は舗装の道になった。

山を出ると左に牧舎がひっそりと建ち作業をする若夫婦らしき男女が見えた。右手に「下田街道・小鍋峠」の案内板がある。小鍋峠入口にあったものと同じだ。

旧街道は左手山裾を流れる沢につかず離れずの距離を保って続いているが、古道はこの沢伝いにあったらしい。牧舎付近の橋を渡って山際に近寄ってみたが道跡らしき痕跡は見あたらなかった。

のどかな里山の道をたどる。桜の木々が白やピンクの花を八分に咲かせ楚々とした春の風景を彩っている。

右手、山裾に祠のようなものが設けられている。近よってみると、両側の木にくくりつけられた単なる木箱のようだ。養蜂箱だろうか。

八木山の集落にはいってきた。道は左にまがり、八木沢公民館でターンする大きな迂回道となっているが、旧道は迂回を端折って、沢側にのこる数軒の民家の間を通っていた。車道から左に180度回転して畑中の細道を下りていく。途中左右に石仏が集められている。

旧道につきあたり、左は田のあぜ道となって消失し、右手は民家の脇を通って迂回してきた車道に合流する。合流点にある石祠は賽の神らしい。

再び街道はのどかな里山風景の中をいく。

右手に子安地蔵尊大乗妙典供養塔が石組に囲まれてある。

道が緩やかに左にまがる角に民家がある。その背後を上っていく坂道が旧道である。段上で右からくる道と合流し、そこに道標があった。「左 大鍋近道」、「右 小鍋ヲヘテ天城街道ニ通ズ」とある。右が下田街道である。合流した道はすぐに段丘下の車道に下りた

左前方に北の沢集落が見えてきた。集落は次第にその規模を大きくしていく。右手に9基の石塔石仏が整列している。

集落は街道から一段低い谷間に延びていて、小鍋峠を下って以来付き合ってきた沢が本流である稲梓(いなずさ)川に合流する河岸に広がっている。花をつけた桜の枝越しに海鼠壁の土蔵が愛らしく見えた。街道は徐々に高度を下げ集落の家並みに向かって下りていく。

左後方に分かれる道との合流点に道標があり、その先に真新しい地蔵がともに背を向けて建っている。振り返ってみると道標には「右下川津東うら 左三しま 道」「安政二乙卯年 君沢郡小海村増田七兵衛造之」と刻まれている。増田七兵衛梨本の慈眼院下の道標の造立者と同一人物である。右の道を下っていくと稲梓川沿いにさかのぼって国道414号に合流している。その先は峰山トンネルを越えて河津方面に出ているのだ。湯ヶ野で別れた踊子たちは河津の手前でこの道をたどってきて北の沢で再び下田街道に戻ってきたのではないかと想像する。

なお、新地蔵の場所には以前、道標を兼ねた古い地蔵が立っていたそうだが、どこかへ移転したのだろうか。

右手に北の沢山神社、法雲寺参道をみて下りていくと、家並みの真ん中に巨大なクスの木が立ちはだかっている。ハリスもこの大木を見て樹齢数百年の素晴らしい巨木だと、滞在記に記している。昔から下田街道の名物だった。

道はついに国道414号に合流する。北の沢橋の袂に「下田街道 ←小鍋峠」の標識と石碑がある。本銘は読めないがその横の銘は昭和七年三月と読めた。そしてその部分だけが新しいように見える妙な石碑だ。

国道に出て今までののどけさはなくなったものの、街道を取り巻く風景は依然として山深く、沿道の民家もまばらに過ぎない。坂戸口バス停あたりが小鍋峠を越えて最初の継立場だったらしい。今そのような雰囲気は微塵もない。

右手、国道より一段下がった所にある茅原野集会所の前庭に丸みを帯びて上側にややゆがんだ溝をもった岩が置かれている。その前に非常に小さな地蔵が祀られている。溝が蛇に似ていることから蛇地蔵といい、そこに溜った雨水は涸れることがないという。


トップへ



箕作 

茅原野口バス停を過ぎた所で国道414号を左に分け、右手の旧道に入る。西峰橋を渡り、あずさ山の家、須原公民館を通り過ぎて目金(めがね)橋を渡り国道414号にもどる。

宇土金(うどがね)口バス停の先で国道を離れ、橋を渡って稲梓川右岸の旧道に入る。

宇土金集落は稲梓川と山裾の斜面にはさまれた段丘上を細長く延びている。のんびりとした舗装道路をのんびりと歩いていく。歩道がなくても怖くないのが愉快でたまらない。早春だというのにススキの穂が美しい風景がある。

道幅が広くなった三叉路に秋葉山常夜灯が建っている。天保3年(1832)のもので、姿がよい常夜灯である。竿石が鉄枠で補強されているのが痛々しい。道向かいに、この常夜灯に対抗するかのように、二階建ての小さな時計台風建物が建っている。よく観察したところ、どうやらゴミ置き場のようだが、愛嬌がある。ヨーロッパの田舎道にはよくこのようなミニチュア教会を見たものだ。

近代美術館・仏教美術館の前を通り過ぎる。外に大きな水槽を設けて中に真っ赤な金魚を飼っている家がある。

椎原集落に入って早々、右手に海鼠壁の見事な蔵造り民家が街道を見下ろしていた。海鼠壁は下田を特徴づける建築様式である予感がしてきた。

稲梓小学校手前の十字路を左折して、稲梓川を宮渡戸橋(みやわたどばし)で渡り、国道に上がっていく。稲梓川はこの先で稲生沢川に合流する。

国道の左手石段の上に日枝神社がある。そのすぐ先、左に残る短い旧道を経て箕作(みつくり)集落に入っていく。箕作は下田街道最後の宿場である。

箕作信号を右折して県道15号で稲生沢川(いのうざわがわ)を渡ったところは堀ノ内とよばれる地区で、ここに昔深根城があった。二代目城主であった関戸吉信は延徳3年(1491)10月に北条早雲の軍勢に攻め込まれ、天城街道沿いの梨本まで落ち延びて自刃したと伝えられる。

集落の中央あたりに「つちたつ酒店」が6間の広い間口一杯に銘酒を記した紺暖簾と、100本を超える一升瓶を四段に陳列している。庇下を海鼠模様の横板で覆っているのが新鮮な趣向だ。建物全体は商家というよりは旅籠にふさわしい佇まいである。

箕作の家並みがつきるあたりに米山薬師参道石段がある。入り口には常夜灯や石塔群がある。石段を上がっていくと左手に普通の民家のような建物があった。日本三薬師の一つに挙げられる薬師堂とは思えない。

国道にもどり、一路下田市街を目指す。街道は稲生沢川に沿って南下し、そのまま下田港まで続いていく。川の左岸に旧道らしい臭いがする道が延びている。気になって満昌寺の先の志戸橋を渡って対岸に出てみた。道は伊豆急行線に沿って稲生沢川堤防の上に続いている。

幸運にも踏切の警報が鳴り電車がやってきた。左方をみやるとトンネル出口がある。そこから電車が出てくる所を撮れればと位置を求めたが、残念ながらトンネルは電車の車体に隠れて撮れなかった。それでも至近距離の撮影に満足して街道にもどると、今度は反対方向から黒い電車が近づいてくる。黒船電車というらしい。対岸からの遠景となったが、黒い車体は精悍な突撃車両を思わせ、これも気に入った一枚となった。

街道は川とともに右に大きく曲がる。珍しい模様入りの石で造られた蔵がある。大谷石のような色彩のグラディエーションによる模様でなく、赤褐色系統の数色が墨が流れたような模様を描いているのだ。伊豆の特産石か、他地の石なのか、魅力ある石である。

松尾(まとお)バス停がある。後ろに六地蔵が立っている。その先で街道は国道と分かれて山裾の旧道に入る。弓形に曲がって国道に戻る。合流点に天保8年(1837)の廻国塔がある。

「お吉ヶ淵」信号交差点で旧街道は川沿いをいく国道と分かれて右の旧道に入る。交差点の左手、稲生沢川を見下ろす場所にお堂が建ち、その下に淵が取り残されたような池がある。1891年3月27日、激しい雨が降る夜、歴史に弄ばれ貧困と病で疲れ果てた一人の女性がこの淵に身を投げた。その名は唐人お吉、本名斎藤きち。病身の初代総領事タウンゼント・ハリス看護のためにわずか3か月仕えただけのことが彼女の人生を破滅に導いていった。

冒頭に下田街道の三人目の主役をタウンゼント・ハリスと書いたが、下田での主役はハリスでなくてその侍妾お吉である。悲劇のヒロインとしてではない。下田の人民から嫉妬と偏見によって蔑まされ忌避された哀れな女としてである。それが今薄命の佳人として下田観光の目玉に祭り上げられている。人民、世論、愚衆の恐ろしさを知る。

国道沿いに小堂とお吉地蔵がある。地蔵は新渡戸稲造が昭和8年に建立したものである。

から草の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子

旧道に入ってすぐ右手に向陽院がある。右手に「金比羅宮・天満宮」があり、中に安置されているのは地蔵尊だ。江戸時代から「風待ちの港」として栄えた下田に寄港する船頭たちが海上の安全等を願って地蔵を奉納したという。本堂左側にも小堂があり、その前に立つ六面幢とそれを取り囲むように並び立つ小地蔵の橙色の前掛けが美しかった。

しだれ桜の後ろに海鼠壁の蔵が優雅に建つ。戸袋まで海鼠に飾る凝りようである。

蓮台寺駅入り口を過ぎた右手に大きな建物があり、「千人風呂 金谷旅館」の看板があった。長々とした板塀を巡らして、塀越に見える手入れされた松の木と、越屋根を乗せた木造建築群が趣ある。登校していく下田高校の女学生に踊子一行の姿を重ねてみたが無理だった。

立野橋を渡った右袂に大乗経塔がある。

中の瀬バス停の隣に美しい海鼠壁蔵造りの民家が目を引く。二階庇下と一回の横壁の一部に松尾で見たと同じ石が使われている。もうこれは伊豆特産の石といってもよいだろう。窓を石の色に合わせているのも粋である。白、黒、チョコレートの三色建てだ。

本郷橋を渡ると高馬(たこうま)に入る。竹麻神社の隣にも海鼠と伊豆石の民家がある。

「反射炉跡」というバス停がある。反射炉は韮山で江川英龍によって築造されたことはすでに見てきたところだが、当初はこの場所に造られる予定であった。実際に基礎工事なども行われていたが、安政元年(854)3月、工事中の反射炉敷地内に下田に入港していたペリー艦隊の水兵が侵入する事件が起きたため、急遽建設地を韮山に変更したという。

右手民家の前に文政10年(1827)の御神燈がある。平べったい笠だ。神燈といっても火袋がない。笠で押しつぶされたような平らな方形の石があるだけである。面白い形だ。

崖の中腹にも同じような火袋のない燈籠が立っていた。こちらのほうが竿がスリムで恰好よい。

道は左に曲がって稲生沢川に接する。

右手に宝筐印塔と傍に石仏がある。宝筐印塔は室町時代の建立で、当地では傾城塚と呼ばれているそうである。

トップへ



下田 

街道は二股を右にとって川から離れ、いよいよ下田市内に入ってくる。すぐに門脇バス停を通り過ぎる。西本郷地区の南端近く、右手に福泉寺がある。入口に「日露談判下田最初の応接所跡」と刻まれた石碑と「南無阿弥陀仏 徳本」と刻まれた徳本名号塔がある。

アメリカが日本と和親条約を結んだ1854年の11月、ロシア使節プチャーチンが皇帝ニコライ一世の命令でディアナ号に乗ってやってきた。日露和親条約をめざして日本側(筒井政徳、川路聖謨)との間で最初の日露交渉が開かれたのである。

本郷信号交差点で国道136号を横切り、細い路地に入る。すぐ右手の稲田寺に寄る。日露談判の日本側代表となった川路聖謨の宿舎となった他、その後下田奉行伊沢美作守が宿舎とし、安政の東海地震・津浪(1854)後は仮奉行所となった。

重厚な山門を入ると左手に安政大津浪の犠牲者を供養する「津なみ塚」がある。また、唐人お吉の夫となった川井又五郎(幼名鶴松)の墓もある。説明文の半ばの一文「明治八年、故あって離婚すると翌年には生前の鶴松は性格温順で酒も飲まず煙草もすわず器用な船大工職であったという。」がおかしい。

街道は広い車道に出るが曲尺手状に左・右と折れて、路地をたどる。左に稲荷神社があり、開国当時の様子を描いたパネルがある。ちょんまげ姿に混じって外人が寛ぐ姿がある。

道は稲生沢川に突き当たり右に曲がってみなと橋に至る。街道としてはここで終点となる。

この後下田市内を見物することにし、踊子と学生の別れの場、下田港を見ていこうと思う。

みなと橋の西詰に「下田温泉観光案内図」の大きな看板がある。

橋の向こう側(武ガ浜地区)に遊覧船乗り場、魚市場があり、稲生沢川河口の突き当たりにペリー上陸地点、下田公園などがある。稲生沢川河口の右岸にそって旧市街が延びている形である。「海鼠壁民家」の表示もある。この旧市街地を散策することにした。

案内図の後ろに建つなまこ壁民家は加田家住宅である。

その向かいにも明治初期の石原家が美しいなまこ壁を見せている。

その先を右折した一筋西の角に構える雑忠家は文政元年(1818)の建築で、壁面を海鼠壁で埋め尽くして圧倒的な威容を誇っている。見た途端にこれを越える海鼠建築はないであろうと思われた。

狭い路地にはこの様な大規模な商家の他、鮮魚・干物を商う水産店も多く港町の臭いが漂っている。

ひもの製造直売石亀水産はトタン張りの建物だが、それがかえって港町の情緒を醸して魅力的だった。

すこし南下して、松本旅館が江戸末期の海鼠壁建物を今に残している。広い間口の二階はガラス窓で占められているが、かっては欄干を設けた格子窓ではなかったかと勝手に想像した。勝手口のガラス戸に篆書体で書かれた「松本旅館」の文字がその歴史を伝えているようである。

更に一筋南に下ったところに唐人お吉が営んでいた安直楼が建っている。ハリスの侍妾となって下田町民から蔑まれながらもその後時を経て1882年に小料理屋を営んだ建物である。しかし自ら酒に溺れて数年で店をたたみ、物乞いをつづける身となって軽蔑と嘲笑の中で自ら命を絶った。

安直楼から南に県道117号を横切って平滑川に沿った小路に出る。かっては遊郭、料亭が建ち並ぶ歓楽街であった。ペリーロードと名付けられた小径は川の北側に柳が並木をなして、南側には今も古い情緒に満ちた建物が並んでいる。西に向かって了仙寺に至るまでのペリーロードは下田随一の人気スポットである。京都木屋町の風情に似ている。

逢坂橋のたもとに建つ草画房は築100年以上の古民家を改装したギャラリー喫茶室である。二階窓を楕円にくり抜いた意匠が斬新である。一階の壁は例の伊豆石で、草画房の裏側にある二階建て建物は全体が伊豆石の見事な造りである。

擬宝珠を乗せた朱色の柳橋をわたると海鼠壁の土佐屋がある。東半分は木造板壁造りの総二階で欄干出窓をもった旅籠風造りになっており、西半分は二階に屋根の低い海鼠壁蔵を増築したような造りになっている。土佐屋は安政元年(1854)に建てられた廻船問屋・船宿で、土佐からの客の定宿となっていた。吉田松陰が黒船乗船を嘆願するために、下田に訪れた際、兄に手紙を渡すためここ土佐屋を訪れている。

ペリーロードの西端にある石橋の向こう側に明治42年に建てられた元遊郭の骨董店風待工房が建つ。二階窓の装飾が粋な風情を醸している。

突当りに了仙寺がある。寛永12年(1635)、第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。寛政5年(1793)に、老中松平定信が海防巡検に伊豆を訪れた際には、この了仙寺を本陣として下田の検分を行なった。嘉永7年(安政元年‐1854)3月、神奈川において日米和親条約か締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。ここ了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年5月に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。

境内の一角にお吉塚がひっそりとあった。円形の石が竿石に乗っている。文字が刻まれているが読めない。石碑は柄手鏡の様にみえるが、丸石はアワビだといわれている。アワビが何を象徴しているのか知らない。長寿だとか、片思いだとか、諸説があるようだ。

ペリーロードを逆戻りして港に向かう。平滑川をわたり川に沿って左に折れた右手に大正4年に建てられたという澤村家が公開されている。澤村家は天明年間(1781〜1789)より下田港で造船業を経営していた。その後明治時代になってからは海運業、船渠(ドック)事業で活躍した下田を代表する実業家である。居宅は手前の平屋部分の他、二階屋部分と奥の蔵からなる。蔵は一階が伊豆石、二階がなまこ壁で造られた重厚な蔵である。

遂に下田港に着いた。現在は下田公園になっている右手の小山には下田(鵜島)城があった。築城年は明確ではないが室町時代の初期には存在していたと考えられる。その後、小田原に本拠を持った北条氏はこの城を北条水軍の拠点の一つとして整備し、城代として笠原能登守を入城させる。小田原落城後には家康の家臣、戸田忠次は五千石の禄高で入城するが、江戸幕府成立後は幕府直轄の天領地となり、下田町奉行が置かれた。

海際にペリー上陸の碑としてペリー提督の胸像が下田の町を眺めている。アメリカ海軍から贈られた錨が碑の前に置かれている。和親条約交渉の中で開港地として幕府が提示した下田港がペリーによって承認されると、ペリー艦隊が続々入港し、乗組員が上陸してきた。そしてまもなくお吉の悲劇がはじまる。

上陸碑の先にフェリー乗り場があるが、私は踊子の乗船場をさがしている。掘割が海に入るところで踊子は去っていく学生を見送った。掘割とは多分、平滑川の河口の事であろう。そこに小さな船着き場がある。学生が旅費を使い果たして東京へ帰らなければならなくなった最後の夜、踊子は約束していた活動(映画)に連れて行って欲しいと懇願したが、母親は娘が学生と活動へ行くことを許さなかった。

翌朝、『伊豆の踊子』の別れの情景である。

「乗船場に近づくと、海際にうずくまっている踊子の姿が私の胸に飛び込んだ。傍に行くまで彼女はじっとしていた。黙って頭を下げた。昨夜のままの化粧が私を一層感情的にした。眦の紅が怒っているかのような顔に幼い凛々しさを与えていた。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「栄吉が船の切符とはしけ券とを買いに行った間に、私はいろいろ話しかけて見たが、踊子は掘割が海に入るところをじっと見下ろしたまま一言も言わなかった。私の言葉が終わらない先き終わらない先きに、何度となくこくりこくりうなずいて見せるだけだった。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。はしけが帰って行った。・・・・・ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「船室の洋燈が消えてしまった。船に積んだ生魚と潮の匂いが強くなった。・・・・・・・・私は涙を出委せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぼろぼろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。」 完

踊子の下田街道はここで終わる。私の下田街道はもうすこし残っていて、お吉の墓に参ってから帰ろうと思う。

県道117号を了仙寺宝物館のある通りまでもどり右折して一筋北の通りを左折する。左手にナマコ壁と格子窓が縦斜めの美しい直線美をみせる
平野屋がある。江戸中期の歴史的建造物である。「欠乏所跡」という見慣れない場所の説明板が立っていた。

説明によると、

「開港場となった下田では薪・水・食料・石炭などの欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。その上、「必要な品物その他叶うべき事は、双方談判の上、取り決め候事」(第6条)とのあいまいな条文があったため、ペリー艦隊が入港すると貝細工・塗り物・瀬戸物・小間物・反物等がここに設けられた欠乏所で売られた。貿易は認められていなかったが、欠乏品供給の名目で、事実上の貿易が開始された。」

通りをそのまま西に進み広い車道を渡った右手、中央公民館が宝光院長命寺跡地で、この寺に密航に失敗して捕えられた吉田松陰が拘禁されていた。

広い車道を北にあるくと市民文化会館の先に宝福寺があり、隣接して唐人お吉記念館がある。

安政元年(1854)3月に締結された日米和親条約を受けて、ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守の宿舎となり、仮奉行所となった。またロシア使節プチャーチンとの日露和親条約の交渉も最初に行われた福泉寺の後を受けて宝福寺で行われた。

記念館にはお吉に纏わる絵画や遺物が多数展示されている。佐久間良子主演の映画ポスターもあった。お吉の生涯については実像と虚像が混在していて、伝記についても食い違う部分が散見される。ハリスとの関係についても真実がどのようなものであったか、二人を除いて誰も知らない。彼女が使っていたという櫛とかんざしが私の胸を打った。

記念館は寺の墓地に繋がっていて、そこに観音像に守られたお吉の墓が、鶴松の墓石と並んであった。二基の墓石は後世、芸能人によって寄進されたものである。鶴松の墓は稲田寺にあり、お吉にはもともと墓を建てる人がいなかった。

伊豆急行下田駅からパノラマカーに乗って帰路に着いた。旅情よりも疲労が支配している。

河津で途中下車して桜祭りをみていくことにする。土、日に限って踊子が写真撮影に付き合ってくれるというのだ。そこで旅情を土産に買っていこう。


トップへ



河津 

河津桜は早咲きオオシマザクラ系とヒカンザクラ系の自然交配種と考えられている。梅の時期と同じころに満開を迎える早咲き桜の代表格である。今年は1月から2月にかけて厳しい寒さが続き開花が遅れた。例年2月中旬に始まり3月初旬でで終わるところ、今年は1週間延長となった。

駅に降り立つと桜祭りの観光客でごったがえしていた。降りてきた客はほとんどが河津川堤防に向かう。桜の並木は左岸の堤防上に集中している。堤防は出店が途切れることなく続き、歩く道幅は大変狭い。桜饅頭、桜餅の他乾燥果物を売る店が目立った。桜の苗木を売る店がいくつか出ていたが、電車で持って帰るには都合が悪くあきらめた。

踊子は11時から3時まで、堤防を移動して随時撮影に応じることになているが、どこに何人いるのか情報がない。事務所に聞くと、踊子は一人で、12時から1時間は昼食の休憩をとるとのこと。私が着いたのは12時半。1時を待って1kmの堤防を往復したが、踊子はどこを歩いて、どこで立ち止まっているのか、人ごみの中に迷子を捜すようなものだった。結局帰りの電車の時刻が近づいてきて、踊子にであうことを断念した。桜の写真はそれなりに撮れたと思う。乾燥いちじくと桜饅頭は買ったが、旅情を買い忘れた。


(2013年3月)

トップへ 前ページへ