平野屋(欠乏所跡) 3丁目 下田市 静岡県 
江戸時代中期の建築 
欠乏所跡(市指定史跡)
嘉永7年(安政元年―1854)3月に締結された日米和親条約により、開港場となった下田では薪・水・食料・石炭などの欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。その上、「必要な品物その他叶うべき事は、双方談判の上、取り決め候事」(第6条)とのあいまいな条文があったため、ペリー艦隊が入港すると貝細工・塗り物・瀬戸物・小間物・反物等がここに設けられた欠乏所で売られた。貿易は認められていなかったが、欠乏品供給の名目で、事実上の貿易が開始された。なお、石炭は北九州から運ばれてきて、鵜島の麓に建てられた石炭蔵に納められていた。役人の監督の下に、国内の売値よりずっと高値で品物が売られ、日米通貨の交換比率が米貨を安く評価して交易がおこなわれた。商人たちは、欠乏品売込人世話役・欠乏品売込人と組織化されていった。幕府は欠乏所売上の3割を税として徴収したので、公には認めなかった貿易から思わぬ利益を得ることになった。 下田市