宝福寺 1丁目 下田市 静岡県 
嘉永7年(安政元年ー1854)3月に締結された日米和親条約により下田開港となり、ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守が宿舎とし、仮奉行所となった。ペリーとの間に結ばれた和親条約付録下田条約交渉の際の日本側全権の打合せ場所ともなった。 ロシア使節プチャーチンが下田に来航し、日露和親条約の交渉の際も応接掛筒井政憲や川路聖謨等の協議が当寺で行われた。文久3年(1863)下田に入港した大鵬丸に乗船していた土佐藩山内容堂が当寺に宿舎をとり、たまたま順動丸で入港してきた勝海舟が訪れて坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、認められた。
慶応元年(1865)韮山代官江川英武の命令で、当寺境内において農兵調錬が行われた。 なお、墓地には「下田年中行事」87巻を書き上げた平井平次郎、ハリスに仕えたお吉の墓がある。  また、安政の東海地震(1854)後の津浪は本堂の床上まで達した。  下田市