中山道(武州路3)



鴻巣-吹上 - 熊谷 - 深谷 - 本庄    
いこいの広場
日本紀行
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鴻巣

浅間神社から1.7kmで鴻巣市人形町に入る。鴻巣は街道沿いに人形店が軒を並べる人形の町である。越谷、江戸十軒店と並んで近代関東三大雛市に数えられている。

本町交差点の手前に左に入る路地がある。徳川家康ゆかりの勝願寺参道で、突当りを左にまわりこむと広い鴻巣公園に出る。47年前、初めて中山道を歩いた時、二日目の宿をこの公園の藤棚の下に借りた。夜警のおじさんから蚊帳をもらって快適な夜をすごすことができた。そんなノスタルジアに浸りながら忠霊塔の前の藤棚の下でしばし休息。

勝願寺の堂々たる仁王門をくぐる。勝願寺は文永年間(1264〜75)創建の古刹で、浄土宗関東18壇林(僧侶の学問所)の一つである。将軍より御朱印が与えられ、徳川家の三つ葉葵を使用することを許された。本堂が明治24年、鐘楼同43年、仁王門は大正9年の造築で、歴史ある風格を備えている。

境内には多くの歴史的人物の墓がある。本堂の左手には4基の墓が並び、左より、豊臣秀吉の家臣で信州小諸の城主、当地にて病死した仙石秀久。中央の二基は真田幸村の兄で信州松代藩祖真田信之の三男、真田信重その室。一番右が本多忠勝の娘で家康の養女となり、真田信之に嫁した真田小松姫の墓である。立札と背後の墓石の位置関係が必ずしも明確でない。それによって小松姫の墓は右端の石碑ともおもえるし、中央ペアの右側かもしれない。又立札を挟んで左の真田信之室の墓の方が右の本人よりも大きくて立派なのが気にもなる。真田家3人にくらべ仙石秀久の墓は非情なほど貧弱に見える。本人たちのことよりも墓の有様が気になる墓所だった。

他に関東郡代伊奈忠次とその子忠治の墓もあった。天才的な治水・新田開発指導者である。日光御成道を歩いた時赤山に伊奈氏の居城跡を訪ねたことがある。そこに伊奈氏12代にわたる業績が詳しく紹介されていた。

本堂と鐘楼の間に据えられた地蔵は権八地蔵といい、地蔵の左側に延宝元年(1673)、一方台座には享保14年(1729)とあって建立年代についてははっきりしていない。権八のことは熊谷堤下のところで触れる。

街道にもどる。本町交差点から鴻巣駅入口にかけて鴻巣宿の中心街をなしていて、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠が軒を連ねていた。今はただ本陣跡の標柱が立つのみで面影を残す建物はない。

右手三木屋和菓子店あたりが高札場だった。

その先、まるしげ食器店の店先に福助が通りを見つめて正座している。

木村木材店の向かい歩道に鴻巣本陣跡碑が立っている。その丁字路を左に入ると仲町会館前に大きな猿田彦大神碑と仲町会館建設記念碑が建てられている。そこには番屋や本陣があったことなどが記されていた。

その路地をさらに南西に進んで右に折れていくと路地角に「御成町」という旧町名の案内札が掲げられていた。この辺りに鴻巣御殿が築かれ徳川三代(家康・秀忠・家光)の宿泊所として使用されたことから御成町と名付けられたという

駅前通りに今年10月に設けられたばかりの宿場碑と大きな案内板があった。鴻巣宿は、慶長7年(1602)に、本宿(現北本市)から移動して設置されたもので、江戸から7番目の宿として栄えた。天保14年(1843)には、人口2274人、戸数566戸のうち、本陣1軒、脇本陣2軒との記録がある。案内絵地図は人形町から吹上を過ぎた熊谷堤下の権八地蔵まで、広域にわたって示され大いに参考になった。

鴻巣駅入口を過ぎてまもなく右手に鴻神社がある。元々は雷電神社があった場所で、明治6年に氷川社・熊野社を合祀して鴻三社となったもの。現在も雷電は地名として残っている。説明板には「鴻巣」の由来として「国府(こう)の洲」ではないかと記していた。この近辺に一時武蔵国の国府があったのではないかというのである。そのあとでコウノトリが乗ってきた。

街道に戻り、左手に蔵造りの商家をみて歩くうちに二又にさしかかる。中山道は左の県道365号に入って行く。新しい道標では熊谷宿まで15kmとあった。随分と離れている。そのため中間に吹上間の宿が形成された。

加美二又交差点から1.6kmほど行った右手に箕田観音堂がある。永延元年(987)渡辺綱が一堂を建て祖父源仕より受けつぎ守り本尊としてきた由緒ある馬頭観世音を安置した。その馬頭観世音と六孫王源経基公が戦の折りに兜の中に頂いて出陣した一寸八分の尊像で祖父が譲り受けたものである。4cmばかりの小さな尊像は明治5年の火災によって消失していたが平成3年の本堂改築の際百数十余年振りに見出された。

そこから1kmほどで氷川八幡神社が、その裏手に宝持寺がある。

氷川八幡神社は八幡社の地に氷川社他20余社を合祀して箕田郷の郷社として祀られたもの。氷川社は承平8年(938)清和天皇の孫である源経基が武蔵の国の国介になってこの地に赴任して統治した際、大宮の氷川神社から勧請したと伝えられる。

八幡社は源経基の臣下であった源仕が経基と相談して天慶4年(941)京都石清水八幡宮から勧請したもので、仕の孫の渡辺綱によって神田が寄進され再興されたものである。

境内には源経基とそれに仕えた源仕を祖とする箕田氏の由来を記した「箕田碑」がある。箕田は武蔵武士発祥の地で、平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。

なお源綱は後摂津国渡辺に居住し渡辺氏を名乗り渡辺氏の祖となった。末裔は淀川下流の渡辺津を根拠地とする渡辺党とよばれる武士団を形成し瀬戸内水軍を支配するようになった。

渡辺綱の出身地である箕田は渡辺姓の発祥の地として、菩提寺宝持寺には全国に散らばる渡辺姓の人々の参詣が今も絶えないという。発祥の地はあくまで摂津国渡辺であろう。

街道まもなく中宿橋を渡り400mほどで箕田の追分に至る。左側を直進する県道365号が旧中山道で、右に県道76号が分かれていく。分岐点左手に地蔵堂と庚申塔がある。


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吹上  

追分から1kmほど行くと左手老人ホームの先の交差点際に前砂村碑が建てられており「池田英泉の鴻巣・吹上富士はこのあたりで描かれた」と刻まれている。富士は左手かなたにあるはずだが、あいにく見えなかった。浮世絵ほど大きくなくても空気が澄んでいれば白く輝く富士山の頂が見えたであろう。

すぐ先左手に傾いた前砂一里塚跡の標柱がある。脇の説明板はかすれて何も読めない。標柱も個人の立てたものらしい。

前砂信号交差点の二又を右にとる。右手に新しい中山道碑があり熊谷宿まで10kmとある。旅人はここ吹上でしばし足を休めた。JR高崎線の踏み切りをビジネス特急「スワローあかぎ」の試運転車が通り過ぎた。恰好よい。

踏切を渡ってすぐ左の旧道に入る。手書きの中山道標識が電柱に巻きつけてある。踏切をこえて真直ぐ県道307号まで行く人が多いのだろう。

旧道は妙徳地蔵尊があるY字路を直進してすぐに県道に合流する。駅前交差点から本町交差点までが吹上宿の中心部で、街道は立場茶屋で賑わっていた。本町交差点の手前の右手路地をすこし入ったところに小林茶屋本陣跡があり明治天皇御駐輦址碑が建てられている。

街道の左手に自然石の軍馬頭尊碑がある。明治37年3月といえば日露戦争開戦直後である。それに従軍する軍馬の安全祈願であろうか。

中山道は本町交差点で左に折れる。手前左手に吹上宿碑がたち、その街道向かいには旧家らしい門構えの家があった。

ここで本町交差点を右折して行田市役所西方にある
忍城跡をたずねることにした。行田市郷土博物館敷地内に御三階櫓が復元されている。忍城は文明10年(1478)頃の築城で、「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐えこの城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。

本町交差点に戻り、道なりに線路に向かって進んでいく。右手に吹上神社を見て進んでいくと旧道はJR高崎線路で分断されている。跨線橋の下に「中山道間の宿碑」が建てられている。陸橋から旧道筋を見下ろすと、分断された道筋がつながっているのが良く分かる。

陸橋を渡って再び旧中山道に入り住宅街を通り抜けると荒川の土手に突当たる。土手下に
権八地蔵堂がある。権八地蔵は鴻巣宿の勝願寺ですでに見たところである。またこの先の久下にもあり都合三体ある。説明板はこの場所が最も充実しておりここで主人公「権八」を紹介しておこう。

平井権八という鳥取藩士が同僚を殺害したため脱藩し江戸へ逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。良心が咎めいくばくかの賽銭をあげて「今、私が犯した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はその後捕えられ、延宝8年に鈴ケ森の刑場で磔の刑に処された。

結果的に地蔵は権八を助けられなかった。権八は地蔵の忠告に反して自首したのか。地蔵が約束を反故にして告発したか。

土手に上がる。ここから熊谷宿まで中山道は延々と2km余りにわたって熊谷堤とよばれる荒川の土手道をいく。堤は天正2年(1574)鉢形城主北条氏邦が築いた。鉢形城はここより荒川上流、熊谷の西方、大里郡寄居町大字鉢形にある。


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熊谷  

土手を歩き始める。河川敷はひろくて水の流れがみえない。遠くに低い山並みが二重に続きその後ろに白銀が輝く富士の高嶺が認められた。富士山の手前左側に小高く見える峰は奥多摩の御岳山である。

1kmあまり、久下の長土手のほぼ中間辺りに決壊の跡碑が建てられている。昭和22年(1947)のカスリーン台風で熊谷堤が決壊した。荒川から流出した洪水は同じく決壊した利根川の水と合流し埼玉県を縦走して東京湾まで達した。

所々に土手の補強工事が着手されたままになっている。民主党政権時に中断されたスーパー堤防工事の置き土産だろう。

行田駅の西方、右手のライオンズマンションの間に小さな稲荷神社が見え、下りていくとそこに久下一里塚跡があった。かつて中山道は現在の土手の中腹を走っていた。一里塚跡のすぐ先、菜の花に覆われた土手の中腹に馬頭観音が鎮まっている。側面に天保12年(1841)の銘があった。

再び土手に上がって1kmほど行くと土手からおりて久下集落へと入って行く。集落手前に輪型の碑なるものが建っている。久下堤の修復記念碑のようだ。碑文は読めない。

集落入口の久下公民館前に久下新川村の大きな案内看板が立っている。養蚕と荒川舟運で栄えたていた100年前の村の様子が絵地図で描かれている。川辺には新川河岸や上分・下分の渡し場があって賑わっていた。廻船問屋の船は新川河岸から江戸まで60kmの間を往復し80ヶ所の河岸に荷物を積み下ろししながら20日かけての船旅だった。

名主木村将監屋敷、太田廻船問屋、岩崎質屋、丸岡廻船問屋、山岸油屋など、当時の有力商家が紹介されていて面白い。新川という場所は場所は現在地から土手を挟んだ河川敷にあたる。当時は川を前にして屋敷林が広がっていた。

集落半ばに久下神社がある。久下直光が久下氏館の守りとして三島神社を創建したのが始まりで、後に周辺の神社を合祀し久下村の鎮守として久下神社と改名した。社殿の壁には多くの伊勢神宮参拝記念の額が掲げられている。大正、昭和初期の物が多かった。そのころまで伊勢講が活発であったということだろう。

右手に白壁土蔵と門構えの旧家をみて、街道は県道257号を越えて真っ直ぐ再び熊谷堤に突き当たる。土手下に三か所目の権八地蔵があった。

曲がり角に右 熊谷道 左 松山道」と刻まれた賽の神が建っている。
旧中山道はここを右折して地蔵堂の前をいくのだが、通り抜けられないので土手に上がって迂回する。


堤に上がるや、「久下の渡し・冠水橋跡」の碑がある。細く川の流れがみえる河川敷がかつての久下新川河岸跡である。河岸がすたれた後も渡し船は昭和30年に冠水橋が架けられるまで活躍していた。ムカデのような冠水橋は平成15年に久下橋に付け替えられた。

街道はすぐ先で右手に下りていく。土手を下りた右手の民家に「みかりや跡」の立札がある。柚餅子(ゆべし)を名物にする茶屋で、忍藩主も鷹狩の折にはここで休んだところから、「御狩屋」と呼ばれるようになった。

右手、源流に近い元荒川の傍に立札があり、「世界で熊谷市にのみ生息するムサシトミヨがすんでいる」と記されている。ムサシトミヨは滋賀県や岐阜の湧水に生息するハリヨやイトヨと同種のトゲウオ科に属する淡水魚で、湧水を水源とする清流にしか生息しない。水中にトヨミは認められなかったが流れに身をまかせた昆布状の緑の水草はバイカモであろう。それにしても「世界で熊谷市のみ」とはよく言いきったものだ。

すぐ先左に入った所の東竹院に達磨石がある。東竹院は12世紀末に久下次郎重光が開基したという古刹である。この境内に中央が大きく円形に穿たれた巨石が置かれている。横から見ると達磨に似ていることから「だるま石」と呼ばれている。寛文年間(1661〜72)、秩父山中から筏に乗せて運ぶ途中で荒川に転落後、大正14年(1925)に偶然東竹院前の河原で発見された。

街道は源流間近の元荒川を渡り、佐谷田から曙町に入る。右手曙・万平自治会館の北側に日本橋から16番目の八丁の一里塚跡がある。大きな石碑は一里塚と関係なさそうだ。

JR高崎線に近づき、熊谷駅の東側で大きな踏み切りを渡る。ここで駅に立ち寄り熊谷のシンボルである熊谷直実の像を見ていく。駅北口タクシー溜まり場に建つ直実の顔は逆光でよく見えなかった。熊谷直実は一の谷の合戦で平家の若武者平敦盛の首を取った。平敦盛は「青葉の笛」でしられる笛の名手、直実の息子と同じ年頃の美青年であった。直実はその後ながくこのことを悔やみ無常を感じて出家したと伝わる。

街道に戻る。旧道は銀座1丁目交差点で国道17号に合流する。市役所入口交差点の先、右手に城神社がある。創立年代は不詳だが、天正18年(1590)の兵火で焼失したのを、寛文11年(1671)忍城主、阿部正能が再建した。境内右脇に高さ2.7mの青銅製常夜灯が建つ。これは紺屋仲間が天保12年(1841)に奉納したもので、江戸や京都の紺屋も含まれる150人ほどの中38名が熊谷の紺屋であるという。

街道に戻り歩道橋から北方を眺める。分離帯を設けた広い国道の両側に商業ビルが立ち並び、昔の宿場町を偲ぶ景色は皆無である。熊谷市街は昭和20年(1945)8月14日、終戦前日の大空襲で町の大半を焼失してしまった。現在の本町1丁目が旧熊谷宿の中心地であった。

歩道橋を下り北に向かって歩き出す。「市営駐車場入口」信号丁字路左手に札の辻跡碑がある。

そのすぐ先、熊谷寺(ゆうこくじ)バス停脇に竹井家本陣跡の標石が建てられている。遺構はないが部屋数47を数える全国でも有数の大規模な本陣であった。竹井家の別邸が星渓園として保存されている。

鎌倉町交差点の次の交差点を左折するとすぐ左手に植え込みに囲まれた星渓園がある。熊谷本陣を勤めた竹井家当主竹井湛如が慶応年間から明治にかけて造った回遊式庭園である。「玉の池」と呼ばれる中央の池は元和9年(1623)、荒川の洪水により土手が切れてできた池で、その池からは清水が湧き出し星川の源流となった。池のまわりに数奇屋造りの松風庵などが建つ。

鎌倉町交差点まで戻る。八木橋百貨店前の路地を入って行くと正面に熊谷寺がある。信者以外立ち入り禁止の札が立つ。平安時代、ここには熊谷館があり、永治元年(1141)ここで直実が生まれている。後、直実は敦盛を討ったことに無情を感じ、出家して館跡に草庵を結んだと伝わる。

八木橋百貨店入口に「旧中山道跡碑」がある。旧中山道は八木橋百貨店の正面入口から入って店内を北西方向に貫通し、西出入口から出て一番街商店街に通じていた。店内にまで「中山道」の行燈を置いてあるのが微笑ましい。

旧街道は500mほどで国道17号に合流する。熊谷警察署前交差点の次の信号、「石原(北)」で左に分岐する道は旧秩父街道で、門に三基の道標等があるとのことだが、民間会社の敷地内に明和4年の賽神石塔があるのみであった。

すぐ先のY字路で左斜めに分かれる旧道に入っていくと、右手に欅の大木が残る新島一里塚が現存している。塚木は元榎だったが、いつか欅に植え替わった。熊谷市内では、久下新田・柳原(現曙町)につぐ3つ目の一里塚である。

一里塚より300mほど先、左手丁字路角に忍領石標が建ち「従是南忍領」と刻まれている。忍藩が安永9年(1780)に16ヶ所に建てた藩境の1本で、明治になって撤去されて以降、長らく行方不明であったが昭和14年に発見され、元の位置に再建された。

旧道はやがて玉井歩道橋で一旦国道17号に合流した後すぐに右斜めに分かれていく。歩道橋の北詰めから国道に沿って農道が続いているが、これが旧道跡かもしれない。

旧道は北側に玉井、南側に久保島地区を分けて延びている。左手に長々とした屋根付塀をめぐらせた旧家が目を引いた。塀は上半分が白壁で下半分は黒板の袴を着せている。沿道の家並みも落ち着いた雰囲気の集落である。

道(県道264号)はやがて籠原駅入口の交差点に差しかかる。交差点を渡った左手に玉垣に囲われて明治天皇小休所跡碑が立っている。籠原立場に設けられた志がらき茶屋本陣跡である。

旧道はこの先で深谷市に入っていく。


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深谷 

深谷市にはいり、街道右側は東方(ひがしかた)、左側は東方町という地名である。「東方」とは深谷城の前身である庁鼻和(こばなわ)館の東方にあたることに由来する。その東方地区に東から、下宿・中宿・上宿といった旧地名を冠した自治会館がある。鎌倉時代、庁鼻和館の城下に形成された宿場の名残であろうか。

その庁鼻和館趾が国済寺の敷地に残っている。幡羅中学校の道向かい、ドラッグストアの西川の細い路地を南に入っていくと国道17号に出て、左手に国済寺参道入り口がある。端正な黒門と優美な三門をくぐると間口一杯にイタリア国旗ならぬ緑・白・赤の三色縦縞の幕を垂らした本堂が威厳ある姿を現す。

本堂の裏手に回ると上杉憲英(のりふさ)の墓がある。関東管領上杉憲顕は13世紀末、新田氏をおさえるため、この地庁鼻和に六男の上杉蔵人憲英をつかわし館を築かせた。憲英はのち奥州管領に任ぜられ、以後憲光・憲長と3代この地に居住した。上杉憲英は館の敷地内に国済寺を創建した。深谷上杉氏4代目の房憲の時、深谷城を築いて庁鼻和館から移っていった。

本堂裏の竹林の中に館跡を示す築山と土塁が残っている。

街道は原郷交差点で国道17号と交差する。左手角に「みかえりの松」と刻まれた石碑が立つ。樹齢500年ともいわれた老松は平成18年に枯れ死し二代目が植えられている。深谷宿は旅籠80軒余という大きな宿場でほとんどの旅籠が飯盛女を置いていたという。また遊郭もあった。熊谷宿は飯盛女を置かなかったため、一層深谷の遊女を目当てに訪れる客が多かった。遊女はここで江戸に発つ客を見送った。

国道17号を斜めに渡ってすぐ右手に宿場入口となる東の常夜灯が建てられている。高さ4mの大きな常夜灯で明治時代に建立された。ここから西の常夜燈までの1.7kmが深谷宿である。

深谷稲荷町郵便局向かいに創業天保元年(1830)の老舗米店「だいまさ」が隣に大谷石の石蔵を配し店舗はなめこ壁、連子格子を備えた昔風情の佇まいを見せている。深谷宿は熊谷宿と違って古い建物や史跡が多く残っている。

唐沢川に架かる行人橋を渡る。左手川縁に行人橋の由来を記した大きな石碑が建っている。昔、この橋の近くにいた行人(ぎょうにん)という僧が、唐沢川の洪水でたびたび橋が流されるのを嘆き、もらい集めた浄財で橋を架けた。以来、その橋は「行人橋」と呼ばれるようになったという。

本住町信号交差点で、右折し深谷城址に寄っていく。国道17号を横断した次の信号右手が深谷城址公園である。大きな石を組み込んだ石垣に松が生えて、いかにも古城風情を思わせるが、公園内に遺構はなく、東に隣接する富士浅間神社に深谷城外濠の名残をとどめている。

深谷城は深谷上杉氏4代目の上杉房憲が康正2年(1456)、古河公方の侵攻に備えて築いたもので、それまでの居城庁鼻和館から移って来た。

本住町交差点にもどり、深谷宿を西に進む。すぐ右手にきんとう旅館、左手に近亀商店、その隣に塚本商店がある。いずれも古くから深谷に進出してきた近江商人の店である。

きん藤旅館は文政年間(1818〜1830)、近江出身の藤平が深谷宿に旅籠を開業し、屋号を「近藤」(きんとう)とした。現在の当主石川家が藤平の末裔か不明。深谷宿にあった4軒の脇本陣の一つという情報もあるが、「きん藤」自身のHPにその記載はない。ただし、道路際に「明治天皇御休息の地」と記された標柱が建っていることから、単なる旅籠ではなかったようだ。

近亀商店は塚本氏の経営する創業125年の老舗食料品店である。「近亀」は近江商人がよく使う屋号で、近場では川越の時計店で見た。「近」は近江の「近」。亀は何だろう、亀吉か亀次郎か。

その隣の塚本燃料商会近江出身塚本栄平の創業で、店のガラス戸に貼られた紹介紙には創業125年とある。日本煉瓦製造株式会社に燃料の石炭を納めていた。日本建築に煉瓦による西洋建築を組み合わせた。防火用の横壁を全面煉瓦造りとし、店先まで大胆に引き延ばした結果、一階から二階屋根まで垂直に立ち上げた豪華な煉瓦うだつとなった。当主塚本氏の出身地は近江のどこか知らないが塚本姓の近江商人は五個荘に多い。

仲町交差点を左折して東京駅に似た煉瓦造りの駅舎で知られる深谷駅にいこうとして、左手に美しい煉瓦造りの蔵を見つけた。奥行き深い町屋建築を残す茶舗常盤園の一部である。土蔵の外壁に煉瓦を張り付けたもので、上部は小口積、下部はイギリス積と二段にした壁面が美しい。深谷は渋沢栄一が立ち上げた日本で最初の煉瓦製造工場があった地である。その影響が町中にあふれていて今もなお赤煉瓦を張り付けた美しい建物を多く見ることができる。

その象徴として深谷駅があり、駅前に渋沢栄一の銅像が建つ。椅子に腰かけている姿勢ではあるが渋沢栄一は随分背が低く見えた。駅舎は線路を跨ぐように建てられ、正面テラスからは駅を通過する電車がすべて見える。湘南行の快速電車が出て行った。

仲町交差点に戻る途中、路地に入り込んだところで中山道を背にして建っている風情ある民家にであった。門付総木造の典型的な和風建築で、町屋など商家・店蔵とちがって純粋の住居専用住宅である点で貴重な存在である。後で春山邸と知った。

中山道にもどると釜屋金物店がある。釜屋の創業は現当主田中氏から9代前の元禄年間に近江国栗田郡辻村から田中利右エ門が深谷に居を構えたことから始まる。辻村鋳物の歴史は古く、元明天皇の時に日本最初の銅銭和銅開珎が鋳造されたところといわれている。以来、辻村からはすぐれた鋳物師が輩出し、江戸時代には江戸、大坂、京都など各地に出店を開いて富と名声を享受した。辻村出身の鋳物師としては太田六右衛門、田中七右衛門(それぞれ釜六、釜七として知られる)が江戸小網町に進出したほか、両家の分家が釜屋、鍋屋の屋号で各地に出て行った。

その隣に煉瓦の煙突が見える藤橋藤三郎商店がある。創業嘉永元年(1848)の老舗造り酒屋で創業者は越後柿崎(現上越市)から移住してきた。

深谷交差点を越えると右手、飯島印刷の脇に深谷本陣跡の説明板がある。西側から眺めるとやはり奥行きが長い町屋となって数棟の建物が続いており、そのどこかに本陣時代の上段の間、次の間などが保存されているという。

すぐ先右手に酒造りを象徴する煉瓦煙突が見える。地図には「とうふ工房」とあるが、ここは清酒「七ツ梅」醸造蔵元、十一屋跡地である。近江日野商人田中藤左衛門が享保元年(1716)深谷に進出してきた。同じ日野でも多くの商人を輩出した地区が二つある。一つは東の大窪・岡本地区で、山中、中井、矢野、矢尾等の家系が「日野屋」の屋号で組織化をはかった。それらの傍系は「近江屋」「桝(舛)屋」を使用した。他の一つは西方にある北比都佐村(現猫田地区)で、藤崎、北西、田中家が地縁で「十一屋」の屋号のもとに結束した。傍系には「江州屋」と「土屋」がある。田中藤左衛門は後者、北比都佐村の出であろう。ここ十一屋は使用人全員が滋賀県人という生粋の近江商人として経営してきたが、平成16年(2004)に廃業、跡地を町おこしに活用しようと、いくつかの趣味的店舗が入って、趣ある一角をなしている。

次の交差点を渡った右手に、創業明治41年(1908)の老舗菓子店糸屋「翁羊羹 五家宝 翁最中」と書いた大きな屋根看板を掲げている。中に入っていくと、昔ながらの土間形式の店頭で数人の女性が手際よく注文をさばいていた。バラ売りがあったので1個210円の翁最中(大)を5個買った。上品な甘さのしっとりとした餡がぎっしりと詰まった最中で、1個で十分空腹が満たされた。

宿場も西端に近い田所町に入ると、左手に漆喰塗の土蔵と歴史を感じさせる古い町屋建築が軒を連ねる重厚な家並みがある。手前が坂本邸で深谷市内最大級の町屋建築である。一階は雁木が長い庇を支え、道際には駒寄を設けてある。二階は漆喰塗の土壁に黒々とした繊細な連子格子を組み込んで美しいコントラストを見せている。本宅の玄関は南向きにあって、黒板の門塀を構えた風情ある邸宅である。坂本家は天保14年(1843)の深谷宿家並み絵図に蒔屋・質屋、坂本屋幸吉と書かれている。

西隣の瀧澤酒造は文久3年(1863)創業、銘酒菊泉の蔵元である。一、二階共に細かな連子格子造りの町屋造りである。店横の妻入り蔵は大谷石を積み上げた中にアーチ形の入口を設けた変わった装いである。細い路地をはいっていくと、店の裏側に煉瓦造りの酒蔵が延々と続き、高さ30mを越える煉瓦煙突が見下ろしている。

深谷宿の西端は曲尺手になっていて手前右手に高さ4mもある深谷宿西の常夜燈が建つ。天保11年(1840)富士講によって建立された。

曲尺手を過ぎてその先を左に折れ踏み切りを渡った所に清心寺がある。山門を入った左手に築地塀に囲まれた薩摩守平忠度(1144〜1184)供養塔がある。寿永3年(1184)一の谷の戦に敗れた平氏の将、薩摩守忠度が両馬川まで来たところで源氏の将武蔵国の岡部六弥太忠澄に討たれた。平忠度は清盛の弟で藤原俊成に師事し和歌をよくした。平家西走の途中京都に引き返し俊成に詠歌一巻を託した話は有名である。岡部六弥太忠澄は平忠度の菩提を弔うため忠澄の領地の中でも一番景色の良いこの地に忠度の供養塔を建立した。自らの墓は深谷ネギ畑に囲まれた田園の中にある。

街道に戻り、宿根交差点で国道17号を斜めに渡る。瀧宮神社を右に見て400mほどで国道17号に合流する。岡部に入るとにわかに漬物店が目につく。漆喰塗の土蔵もみられる落ち着いた家並みである。そんな中で右手に二階に手摺を設けた旅籠屋雰囲気一杯の旧家をみた。

岡部(北)信号手前に源勝院の参道が出ている。源勝院は岡部藩主安部家の菩提寺で、境内左手に安部家歴代の墓碑がある。源勝院は明治天皇休憩所ともなった。

国道普済寺交差点の手前右店をはいると普済寺があり、建久2年(1191)岡部六弥太忠澄が創建したと伝わる。本堂は寺とも思えないモダンな建物で、正面に大きく十の字を円で囲んだ装飾がある。岡部家の家紋だそうだ。平忠度の歌碑があるとのことだが、見逃した。

表参道をもどらず横に出て県道355号を北に300mほどいくと、左手畑の中に岡部六弥太忠澄の墓がある。玉垣に囲まれた立派な墓だ。熊谷直実らと共に勇名をはせた武蔵の武将である。一の谷の合戦で平忠度を討つ活躍をしたが、笛の名手平敦盛を討った熊谷直実同様、歌人でもあった平忠度を討った岡部忠澄もじくじたる思いを拭えなかったのであろう、自分の領地で一番景色のよい場所に平忠度の墓を造った。

まわりは深谷ネギの畑が広がるのどかな場所だ。


国道に戻り800mほどで国道と分かれて右の旧道に入って行く。県道259号を横切り、さらに500ほど行くとY字路に差しかかる。分かれ目に「中山道古道について」と題した石碑と、「左へ 中山道 百庚申直進」と書かれた立札がある。

表示に従ってその先を右折し、なだらかな切通しの坂道を下っていくと、八坂神社が建つ台地の下に多数の石塔があった。この石塔群は
「百庚申」と呼ばれ、幕末の万延元年(1860)に地元の有志によって建立されたもの。江戸時代の街道は現在の切通しでなくて、台上の八坂神社を通って小山川に下っていた。


坂を下り国道17号バイパスを横断して、小山川に架かる滝岡橋を渡る。

対岸は本庄である。



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本庄
 

橋を渡り左の堤防道へ入る。150mほど行ったところで堀田集落内に下る道がある。昔の渡し場は現滝岡橋の200mほど上流にあったというから、この辺りが渡し場跡で旧道に続いていたと思われる。土手を下りた右手、電柱脇に小さな祠があった。

旧道は橋で別れた車道と合流、堀田を抜け牧西(もくさい)にはいる。県道45号の手前にあるY字路で迷った。直進する道は県道によって分断されているがすぐに旧道筋と思われる県道258号に合流している。他方、左の細い農道は県道を地下道でくぐり、川沿いに進んだ後右に直角に折れて藤田小学校前で県道258号に出る。それを出迎えるように大木の根元に双体道祖神や馬頭観音などの石塔が南に向いて並んでいた。県道258号が旧道であれば石仏は街道(小学校)に向かって並んでいるだろうと思った。

県道258号は北に折れ、旧中山道は西に直進する。左手に八幡神社、右手の長い並木参道の奥に宝珠寺の赤い山門が覗いて見える。感じの良い牧西集落の中を歩いていくと、藤田郵便局の向かいに長大な長屋門を構えた農家があった。壁の漆喰は一部剥がれているが、下部の黒板下見張り袴は破れもなく綺麗である。

道なりにおよそ1km行くと傍示堂集落の十字路に差しかかる。右手集楽センターの敷地に小ぢんまりした堂が建っている。傍示とは土地の境界を示すことをいい、境界に堂を建てることがあった。この十字路が江戸時代何らかの境界であったのか。昔ここが武蔵と上野の国境だったという情報もあるが現在の埼玉・群馬県境である利根川まではすこし距離がある。国境でなくとも藩あるいは村の境であったかもしれない。白壁土蔵造りの小堂である。その横に小さな八坂神社があった。

旧中山道は傍示堂の十字路を左折して、元小山川に架かる新泉橋を渡り、御堂坂とよばれる緩やかな坂を上っていく。日の出4丁目交差点で国道17号を横断し、県道392号となって西に進む。

中山道交差点で県道31号と交差し、次の本庄駅入口交差点で街道を離れて右折し本庄城址を訪ねる。本庄市役所の東側にある林が城跡で、城山稲荷神社の鳥居前に「本荘城址」の石碑が建っている。本荘城は弘治2年(1556)本庄実忠によって築城された。その時植えられたというケヤキが450年を経て今も健在に城跡を守っている。

本庄駅入口交差点にもどる。ここから西にむかって旧本庄宿の中心街が延びていた。すぐ右手のりそな銀行西隣辺り(中央1丁目6)に田村本陣(北本陣)があり、その筋向いに内田本陣(南本陣)があった。今その所在地を示すものは何もない。皇女和宮は文久元年(1861)に田村本陣に泊まっている。本庄宿は中山道で最大の規模を誇る宿場であった。

左右に江戸時代創業の老舗があるが建物からはその歴史がうかがえない。仲町郵便局をすぎて中央3丁目丁字路交差点に来る。ここを右折し、一筋北の十字路角にある消防署の東隣が歴史民族資料館で、入口に田村本陣の薬医門が移築されている。

入って左手隅に石碑が一列に並んでいる。江戸時代、資料館の北側に小倉屋という旅籠があり、主人がその庭に建てた多くの文人の石碑の一部だという。いちいち吟味しなかったが、歌碑・句碑の類であろう。

敷地の一番奥にあるのが明治16年(1883)に建てられた旧本庄警察署である。白と薄青の清楚な洋館で、色合いは当時の警官の夏服を思わせる。

西側の路地をへだてて安養院がある。室町時代の文明7年(147)の開山で、立派な楼門をくぐると大屋根を雄大に広げた本堂がある。旅籠屋主人で俳人でもあった小倉家の墓地に芭蕉の句碑の他渡辺崋山や谷文晁、加賀千代女など多くの文人墨客の石碑がある。他にも歴史民族資料館に残されている。

街道に戻る。左手に古色豊かな土蔵が残る。

同じく左手にレンガ造りの大きな建物が残っている。明治29年に建設された旧本庄商業銀行の瓦葺二階建ての煉瓦造倉庫である。当時本庄は繭の集散地として繁栄し、銀行は担保に繭や生糸などを取った。その担保品を保管した倉庫だという。巨大な質屋だ。

街道は本庄宿を抜けて千代田3丁目交差点にさしかかる。手前右手に金鑚(かなさな)神社がある。創立は欽明天皇2年(541)という古社で、武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。本殿は享保9年(1724)、拝殿は安永7年(1778)、幣殿は嘉永3年(1850)の再建で、決して大きくはないが細部に極彩色の彫刻を施したきらびやかな社殿である。

千代田3丁目信号では県道392号と国道462号が交差する。国道を西にとると関越自動車道の本庄児玉ICに直結する。この交差点はまた下仁田街道の起点でもある。中山道の厳しい碓氷峠と関所を避けて中山道本庄宿から西にほぼ一直線にたどり、信州の追分宿手前の借宿で中山道に合流する脇街道である。女性たちによく用いられたことで姫街道ともよばれ、静岡県浜名湖の北側を迂回する東海道姫街道に対応する道である。

交差点の南角に平成2年、国道462号の改修工事を記念して
常夜燈が建てられた。県道沿いには本庄宿・新町宿を案内する御影石の道標がある。こちらも新しく同時に建てられたものか。県道はこの交差点を直進するが旧街道はここで曲尺手となっており、右折してすぐ歩道橋のある十字路を左折していた。旧道は350mほどで県道392号にもどる。

街道は小島を通り抜け大型小売店がならぶ交差点を渡って万年寺地区に入る。最初の信号点は佐渡奉行街道の分岐点である。三国街道の脇往還として高崎手前の本庄から中山道と分かれて渋川で三国街道と合流した。

万年寺をぬけると本庄市から児玉郡上里町に入る。すぐ左手に赤い鳥居が建つ円形の浅間山古墳がある。直径38m、高さ6mの円墳で古墳時代末期の7世紀後半の築造と考えられている。鳥居をくぐって石段を上っていくと墳墓の石室入口があった。

すぐ先の右手丁字路角に石造りの橋の欄干が2基並び、民家の庭先を借りて泪橋跡の由来碑や夜待供養塔、庚申塔などがある。昔ここに橋があった。由来碑によれば伝馬の苦役に苦しむ農民がこの橋に憩い、家族を偲んで涙したという。東海道品川宿でも日光街道千住宿でも宿場はずれの刑場近くに、罪人が家族と別れる涙橋があった。ここに刑場はなかったのか。

道は県道22号を渡り、神保原1信号を右折、神保原(北)信号で国道17号を横断して金久保地区に入る。金久保集落中程右手に金窪神社がある。金窪神社は大永5年(1525)金窪城主斉藤盛光が鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことに始まり、天正10年(1582)神流川合戦で金窪城の落城とともに焼失した。その後元和年間(1615〜24)に村民より中山道脇の現在の地に遷座したと伝えられる。ここより北西に金窪館阯公園がある。

県道が国道に合流する少し手前右手に、長い縦板塀をめぐらした豪壮な家がある。その東端に建つ白壁土蔵の前に地蔵堂があり、その脇に小さな勝場一里塚跡の碑がひっそりと立っている。この民家の主人によるものかと思ったが、昭和49年教育委員会による建立という公のものであった。

国道17号に合流した先で丁字路を左に入り高崎線の下をくぐると大光寺がある。ここに本庄宿の豪商戸谷半兵衛が神流川(かんながわ)渡しの安全を祈って文化12年(1815)に建てた常夜灯(見透灯籠)が保管されている。

国道に戻り武蔵国と上野国を分ける神流川を渡る。河原は500mという長さだが、平水時の川幅は23mほどであったから仮橋で渡り、水が出た時だけ船渡しとなった。中山道は川を渡って群馬県高崎市(上州)に入る。


(2014年3月)
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