山陽道(西国街道)4



板倉-川辺矢掛堀越・今市七日市高屋

いこいの広場
日本紀行
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板倉 

中川に架かる中川橋をわたり、「吉備津彦神社前」信号丁字路左手に
一宮村道路元標がある。ここを左折して吉備津彦神社に寄る。

備前・備中の国を分ける標高175mの中山の北東麓に備前一宮である吉備津彦神社が、北西麓には備中一宮の吉備津神社が鎮座する。2kmほどの距離に二国の一宮が鎮座する珍しい例である。なお広島県福山市にも吉備津神社があり、備後国一宮である。そのいずれも吉備津彦命を祭神とする。吉備の国は古代の地方国家で、畿内や出雲にも並ぶ勢力を持っていた。持統天皇の時(689年)、吉備の国は備前、備中、備後の三国に分割され、後に備前国から美作国が分かれた。現在、広島県に属する備後国の他三国が岡山県を形成している。

吉備津彦命は第10代崇神天皇の時代(3~4世紀)に、大和政権がその勢力を全国に拡大していく過程で4道(北陸、東海、西道、丹波)に派遣された将軍の一人とされる。西道の吉備国を平定したことから吉備津彦と呼ばれるようになった。桃太郎伝説のモデルともなった。

吉備津彦神社拝殿前の広い境内の真ん中に巨大な燈籠が建っている。「安政の大石灯籠」といわれ、高さは11m、笠石はなんと八畳敷の広さであるという。1670余名から現在価値で1億3千万円相当の浄財を集めて建てられた。日本三大燈籠といわれる熱田神宮の佐久間燈籠(高さ8m)、京都の南禅寺(同6m)、上野の東照宮(同6m)を凌駕し、大きさにおいては日本一といわれている。なぜ三大灯籠の仲間に入れなかったのか、安政の大石灯籠は岡山市の有形文化財に過ぎない。

本殿は桧皮葺の荘厳な建築であるが、県指定文化財であって国宝である吉備津神社よりは格が低い。

街道に戻る。西辛川交差点の左手角に昭和5年の指さし道標がある。「←岡山へ二里→高梁十里」「←馬屋上村→吉備津宮へ」と刻まれている。馬屋(まや)は備前国分寺があった所で古代山陽道の高月駅の比定地とされる。

その先三差路で左折する。右から合流してくる道は古代山陽道で、備前国分寺のある馬屋に通じる古道である。合流点に小さな道標があり、「右みち おか山 のぼり」「左みち かな川 津山」と刻まれている。

街道(国道180号)は古道との合流点から1kmほど西にいったところの二股で、左に曲がる国道を分けて直進し旧道に入っていく。分岐点左手に国境石があり、「従是東備前國」と深く刻まれている。備前と備中の国境である。地名も西辛川から吉備津に移る。いよいよ吉備路の旅である。

旧道に入ってすぐに国史跡真金一里塚がある。左手の南塚には榎が、右側の北塚には松が植えられてい。北塚は比較的盛り上がった塚が残り、若い松の木が植えられている。

その先丁字路左手に吉備津神社の鳥居が建ち、立派な松並木の参道がJR吉備線踏切、国道180号を横切って続いている。岡山県下最大の松並木で郷土記念物として保護されている。

吉備津神社の本殿及び拝殿は、応永32年(1425)に完成、本殿は入母屋の千鳥破風を前後に二つ並べ一つの大きな屋根にまとめた比翼入母屋造で、我が国唯一の様式で吉備津造りともよばれる独創的様式の大建築である。拝殿は本殿と直角につながって一体のものとして建てられた。共に国宝に指定されている。

また、延文2年(1357)再建の南随神門と天文12年(1543)再建の北隋神門は共に国の重要文化財である。

鳴釜神事の行われる御釜殿は慶長17年(1612年)の建築で岡山県重要文化財に指定されている。社伝によれば御釜殿は吉備津彦命に退治せられた鬼「温羅(うら)」を祀る処と伝えられる。温羅は吉備の国を支配していた伝承上の存在で、百済の皇太子とも新羅の武官だったともいわれ渡来人説が伝わっている。その鬼退治が桃太郎伝説のモデルとなった。総社市の北方にはその温羅が本拠としていた鬼ノ城が国史跡として残っている。古代吉備国を支配していた渡来人勢力を大和政権が掃討したという歴史的意味をもつ。

南隋神門から御釜殿に繋がる全長360mにも及ぶ回廊は自然の地形そのままに建てられ美しい曲線と直線の造形美を見せている。天正7年(1579)に再建され、御釜殿と共に県指定重要文化財である。

吉備津神社を後にして街道にもどる。右手に常夜燈と観音堂をみて左に曲がりJR吉備線の踏切を渡り、大橋町集落を通り抜けると旧宿場町の板倉である。旧宿場町の入口に当たる場所に西川が流れ畔には一対の大きな「吉備津神社 大橋町氏子中」と書かれた幟がはためいている。

西川に架かる板倉大橋の手前左側には正一位稲荷大明神が、西詰めには板倉宿と書かれた宿場看板が設けられている。

その傍には「金毘羅大権現」「吉備津宮」と刻まれた文化4年(1807)の
常夜灯が建つ。

旧宿場は落ち着いた住宅街であるが宿場の面影を残すものはないようだ。旧宿場街の西端近くに来て右手の「鯉山コミュニティハウス」が本陣跡だという。そこに板倉宿場図の案内板が設けられている。吉備郡誌によると板倉宿は8町9間半、家数は190軒とある。

その先右手に旧家平松家が岡山古民家の見本を見せるかのように堂々と佇んでいる。本瓦葺きの切妻平入り造りで、二階の白壁に一対の虫籠窓を切り下部を海鼠壁で飾り、端には屋根付のうだつを設けている。一階は千本格子の窓に横格子を通して趣ある造りである。その横には妻入り白壁土蔵を添えている。正面は二階の窓屋根部分から下まで海鼠壁にこだわった建築である。

板倉宿を出たところが真金十字路で古来より交通の要衝だった。現在は国道180号と県道245号の合流点を旧山陽道が横切る五差路になっている。交差点の右手には地蔵堂があり境内には明和4年(1767)の大峯山三十三度供養塔、文化2年(1805)の大乗妙典供養塔などがある。

左手二股の分岐点には道標があり、「文化三寅年山陽道板倉宿東三丁大橋」「右松山江八里足守江二里」「南庭瀬江三十丁 右のぼり道 左くだり道」「牛の鼻ぐり塚」などと刻まれている。

この先街道は北側の加茂と南側惣爪(そうづめ)の境界線をまっすぐに西進する。途中、右手に文政7年(1824)の日蓮上人の題目石、左手に「御埜立所」と刻んだ石碑を見ながら県道73号を横切って倉敷市に入る。足守川の100m手前で水路を渡って二三軒の民家前を通る道が旧道筋である。道は堤防に突き当たる。そこに渡し場があったが、今は県道73号に架かる矢部橋を渡る。

矢部橋からすこし下流の堤防に小高い丘があり、その左手に石碑が見えたので寄っていくことにした。丘の頂上に立つのは何かの顕彰碑で、丘の麓に「明治天皇惣爪御野立所」碑が建つ。明治43年軍事訓練の観閲の際休憩所となった場所である。先に見た「御埜立所」の碑はこの場所への道案内であった。

そこから100m程北の田圃脇に「史蹟惣爪塔阯」の石碑がある。奈良時代前期の塔の礎石が保存され国指定史跡になっている。石の中央に綺麗な円形の穴が穿たれている。このあたりは弥生時代の集落跡と考えられ、奈良時代には一大伽藍が築かれていた。

矢部橋を渡り、対岸の旧道復活点にもどる。

堤防を下りた十字路角に大正4年の
道標があり、「川辺やかげそう志ゃ道」「金毘羅くらしき庄早島」「吉備津岡山大坂」などと刻まれている。指差道標かと思ったら、手で扇子を握って方角を指している珍しい道標である。

矢部は家並みには白壁土蔵が見られる静かな集落で、古代山陽道津峴(つさか)駅家跡と比定されている場所である。それを示す遺跡や説明板などは見当たらなかった。

十字路を直進するとすぐ右手に
鯉喰神社がある。社名の由来についてはここでも吉備津彦命伝承が伝わっている。吉備の国平定の為に吉備津彦命が来た時、この地方の村人を苦しめていた賊温羅(うら)と戦い、賊は自分の血で染まった川に鯉になって逃れたが、命は鵜になって鯉に変身した温羅をこの場所で捕食したという。境内には明治26年の立派な常夜燈と備前焼のいかつい表情の狛犬がいた。

旧道は矢部の集落をぬけ山陽自動車道を潜った先の十字路を右折して再び岡山市に入り、県道270号を斜めに渡る。

左手丁字路角に嘉永3年(1850)の道標がある。「従是毘沙門天十三丁」「従是比 帝釋天十五丁」と刻まれている。

その先「造山古墳P→」の標識にしたがって街道を離れて寄り道する。300mほど行くと左手に大きな前方後円墳の全貌が現れる。造山古墳は5世紀前半頃築造された前方後円墳で全長350m高さ24mは全国4位の大きさといわれている。畿内政権と肩を並べるほどの力を持った吉備国の首長の墓と想定されている。

家並みを通り抜けて前方部に上がってみると茂みの中に荒神社がある。そこから後円部に移る。頂上は平らで、全方位のパノラマが一望できる。東、南にかけて新庄下集落が広がり、西・北方向はのどかな田園風景である。

街道に戻り、土壁、長屋門、格子や蔵造りの民家をみながら細い道を歩いて懐かしさを感じさせる千足集落を通り抜ける。

途中右手に新庄村を上下に分ける境石があり「従是南西新庄村上分」「従是東新庄村下分」と刻まれている。

旧道は県道270号に合流する。手前右手には、日時計を設置した小公園が整備され、そこに「左いなり道」「従是五十二丁」と刻まれた道標がある。

県道は岡山市から総社市に入る。吉備国の中心地である。

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川辺 

総社市境から300mほど先の二股で県道を左に分け、右手の旧道に入っていく。400mほど行った変則十字路角に大正元年設置の
道標があり、「あしもり江き」「おかやま・やかげ」と刻んでいる。「左右」の文字に代わって斜線の矢印で道の方向を示す趣向である。土地の青年団が設置した。

左手には「吉備路ここは宿(しゅく)→」というサイクリングロードの標識がある。この自転車道が古代山陽道に相当する。地図をみると、この十字路手前右手の池の北側を国分尼寺跡の南側にかけて北側に下林・上林、南側に宿をわける境界線が引かれている。この東西の境界線はほぼ真直に国道429号を越えて続いている。県道270号を挟んで北に古道、南側を近世の旧山陽道が並行している形である。

表示にしたがって十字路を右折すると山道となって左に国分尼寺跡が現れる。南北約200m、東西約100mの寺域は築地土塀で囲まれ、金堂・講堂などの伽藍が配置されていた。地面に木の葉が積もる境内跡には金銅礎石、築地塀土塁などの遺構が残り、古代の雰囲気を感じることができる。

ここから土道のサイクリングロードを西にたどると国分寺跡に至るが、旧山陽道を歩くため、十字路にもどり、狭い自動車を西に進む。県道270号に合流する手前右手の民家垣根脇に「距岡山元標四里」と刻まれた里程元標がある。

県道と合流した旧道はすぐ先の二股で再び左斜めの旧道に入って行く。暫く行くと、右手に「はっとり江」「をかやまへ」と細く刻まれた大正元年の道標がある。国分尼寺入口にあった青年団の道標と同じものである。

宿集落の中央辺り、大きな三叉路の角に「旧山陽道宿」「左おかやま」「右やかげ」と記された昭和52年の新しい道標が建ち、傍らにある「宿の町並み」と題した案内板には「宿は旧山陽道の宿場町として栄え、・・・吉備路の中心に位置します。」と記されている。近世山陽道の宿場としては、東は吉備津神社付近の板倉宿で、西は川辺宿になる。そのほぼ中間にあたり、国分寺・国府に至近の位置にあることから考えると、ここに宿場が形成されたのはむしろ当然といえる。古代山陽道の駅家は、東は矢部に比定される津峴駅と、西は近世と同じ川辺宿に駅家があったと考えられている。中世の時期にここ国府近くに宿駅が作られたのであろうか。

三差路の北側には蔵元三宅酒造の堂々とした建物が陣とっている。二階の高い板塀造り店舗の隣は街道沿いに門塀を構え二階建て白漆喰町屋造りで虫籠窓と海鼠の二階壁が印象的である。その西側には海鼠壁が美しい二棟の土蔵が続いている。

三宅酒造の圧倒的な家並みの先にも暖かい土壁の塀を囲んだ民家や、東北の曲屋造りに似た農家などが古代の里を自認する宿の町並みに趣を添えていた。

右手丁字路角に大正4年の国分寺参詣道標がある。ここを右折して国分寺跡を訪ねる。

既に国分寺五重塔の優美な姿が見える。県道脇に大きな駐車場ともてなし館が設けられていて、備中国分寺跡は今まで見た国分寺の中では最も観光地化された史跡である。五重塔の存在と、桃太郎伝説の舞台である吉備の里の所為であろう。

県道を渡り、田園の中の道をたどって国分寺跡に近づく。五重塔はどの方向からでも様々な前景を取り込んでなお美しい姿を見せる。中でも春の菜の花から立ち上がる姿は絶景だといわれる。南門跡の説明板が立つ。その前を東西に走る自転車道が古代山陽道跡で、そのまま東にいけば国分尼寺に至る。

現在建つ国分寺五重塔は文政4年(1821)から弘化年中まで20数年をかけて建立されたもので、奈良時代の国分寺の塔とは別の所に建てられている。

そこから境内を東に移動すると現在の国分寺がある。

国分尼寺に比べれば古代の遺構は少ないが、なんといっても江戸時代の五重塔が圧倒的な存在感を放っている。

街道に戻って、西に向かう。右手の民家の土塀の上に「金」の文字を切りぬいた金属製の火袋が取り付けられた珍しい景色を見た。「金」は金毘羅信仰の印である。

右手に地蔵堂が、左手少し奥まった所に寺山古墳がある。

その先の十字路には文化3年(1808)の国分寺道標がある。

小川を渡った左手に自然石の守安馬太之碑がある。大正13年の建立だが、どういう人物か分からない。

国道429号を渡って、左手丁字路角に「南すもうとり山」「東まかね」「旧山陽道」と刻まれた新しい道標がある。その道を170mほど南に行ったところに二基の古墳があった右手にある小さな古墳はギリギリ山古墳という。別の場所にあったものを移設したものだという。古墳の移転など初めて聞いた。円墳の中央に天井石が失われた玄室が露出している。

左の小山が角力取(すもうとり)山で、一辺30mほどの方形墳の頂上に石垣が築かれ松が植えられている。かつては黒松の大木が生えていたそうだ。この古墳の西側に土俵を設け奉納相撲が行われたことから角力取山と呼ばれるようになった。

街道に戻って総社市役所支所を過ぎ、山手駐在所の十字路に「吉備考古館」の立派な案内石柱がある。街道を離れて行ってみる。

右手に自然石の常夜燈と地神石塔を見て道を進むと、JA山手中央撰果場の南側の林中に御崎宮がある。御崎宮とは吉備津神社本殿の四方隅に置かれた社で、各地にある御崎神社は吉備津神社の遥拝所としての役目を果たしていた。

瓦屋根の短い回廊と拝殿の後ろに小さいながら杮葺きの古風な本殿があった。その境内の奥は土塀で囲われていて、その脇に
須賀神社という石殿がある。低い石垣の上に二基の円筒形の神体と思われる石造物が注連縄で結ばれている。なんでも仁徳天皇の后であった黒姫は吉備国窪谷郡司の娘であった。そしてこの場所は大化の改新(645年)に窪谷(くぼや)郡郡家(こおりや)があった場所であるという。

さらに、南側には古代山陽道が東西に通り、東側に隣接して津峴(つさか)駅があった跡が残るという。矢部と考えられていた津峴(坂)駅家の跡地として有力な対抗馬がここにあったことになる。ここを古代山陽道が通っていたとすると国分尼寺・国分寺前を通っていた道筋がどこかで近世の山陽道を横切っていなければならない。地図上ではむしろ近世旧山陽道の延長線にある。いずれにしても魅力ある場所を見つけて嬉しかった。

古民家を活用した吉備考古館は閉じられていた。

懐古の情に後ろ髪をひかれながら街道に戻る。

山手郵便局を過ぎ、公民館(公正館)に行く十字路の左手前に一里塚跡があり、「旧山陽道一里塚」「右おかやま」「左やかげ」と刻した新しい石碑がある。

静かな西郡の家並みを通り抜けたあたり左手の高台に地神碑、小祠と文化5年(1808)の自然石常夜燈がある。常夜燈の丸々とした鞘部分には「金」と薄く彫られている。先に見た土塀屋根の火袋と同様、金毘羅を祀るものであろう。

街道は山田池の縁を進んで県道270号に合流する。池のほとりに地蔵が立っていた。

街道は清音三因(きよねみより)に入るとすぐに左の旧道に入る。左手に清音ふるさとふれあい広場を見ながら坂を下り県道に戻る。

左手に清音小学校のある大きな丁字路の右手に藤原為貞が建立したという宝篋印塔と地蔵堂がある。宝篋印塔は相隣と宝珠の欠けた三重の石塔だが、嘉暦3年(1328)という古いものだ。藤原為貞が誰かは平安時代の貴族だろうという他明らかでない。

街道は伯備線の踏切を渡り、高梁川に突き当たる。堤防道の国道486号に出て川辺橋の下流にある歩行者専用橋を渡る。二車線用の中央線が残っているところをみると旧川辺橋であろう。歩行者、自転車には広すぎる橋となった。

橋の中央で総社市から再び倉敷市に入る。橋を渡って堤防を南に歩いていくと左手水辺に小公園が整備されている。降りてみると渡し場跡の碑があった。大正8年に木橋が架けられるまで、渡し船が両岸を繋いでいた。

傍に扇状に枝を広げた株立ちの大木があたかも一里塚木のように聳えている。実際、ここに一里塚があったが、川の大改修があった大正14年に堤防下に移された。

し場跡から堤防を石段で上がり、西側の旧道筋に降りていったところに「史蹟山陽街道一里塚 」と刻んだ一里塚碑が建っている。

ここが川辺宿の入口である。

旧川辺宿は落ち着いた町並みの中に白壁蔵造り、虫籠窓、なまこ壁、長屋門などの古民家が散在して旧街道の趣を残している。川辺宿は、遺跡などは発見されていないが古代山陽道の河辺駅家比定地でもある。

左手植村歯科が川辺本陣跡である。醤油屋を営んでいた難波家が勤めた川辺本陣は矢掛宿本陣に劣らない規模であったらしいが明治26年の大洪水により流出した。高梁川の渡しに直結する川辺宿は、川の増水や氾濫で川留めがある度に賑わった。

右手空き地の道路脇に「川辺脇本陣跡」と刻む石碑がある。
その先右手の路地を入っていくと、艮御崎(うしとらおんざき)神社がある。吉備津神社系の神社で祭神はなじみがない神9柱、境内社も多い。吉備津神社本殿の丑寅の方向に艮御崎宮があり温羅(鬼)が祭られている。その艮御崎宮の分社である。JR備前一宮駅の北東歩いて10分の所、中山中学校の北裏にある小山にも艮御崎神社があって、位置は吉備津神社の東北にもあたって分社の中でも格が高い。この小山は前方後円墳で、温羅の胴体が埋葬されているという。

川辺宿の西端近く左手に岡田藩主伊東氏の菩提寺、源福寺がある。緻密な石垣が目を引いた。説明板に「一日一石といわれる石垣は、蟻の入る隙間もないほど精巧なもので見事なものである。」とある。

街道は川辺集落を出て国道486号を横切り真直ぐに続く。

二万(にま)口信号交差点で曲尺手になっていて、直角に右折し細い道を左折して県道278号に合流する。この曲尺手をここでは、大曲(おおまがり)という。

左手に吉備真備駅入り口を通過する。いよいよ桃太郎に並ぶ吉備国の主人公が現れ始めた。「吉備公墳」石標にしたがって右折し川沿いに遡ってまきび公園に寄っていく。

公園の中のまきび記念館の他園内の造りは中国風である。主人公吉備真備は奈良時代、備中の豪族下道国勝の子で、若くして遣唐留学生に選ばれ、阿部仲麻呂らとともに19年の間、長安で儒学・歴史学等々、多方面にわたって学び、帰国した。囲碁の請来や、カタカナの発明も吉備真備によるといわれている。その後、遣唐使として再度中国に渡り、わが国へ初めて律宗を伝えた鑑真和上らとともに帰国し、国政の重鎖となり、晩年には、正二位右大臣の位階を授けられている。

園内には吉備真備の菩提所吉備寺の他、高台には吉備公廟がある。

街道に戻る。道が左に曲がる右手、民家の前に「史蹟山陽街道一里塚」の石碑が立つ。

道は箭田(やだ)西口信号で県道54号を渡り畑岡信号で国道486号に合流する。合流点右手に三体の地蔵が祠に安置されている。

すぐ右手ガソリンスタンドの先から右手に100mほどの旧道が残っている。熊野神社参道の前で国道に戻る。

山陽化成工場の先で右手、水路に沿って500mほどの弓形旧道が残っている。左手井原鉄道「備中呉妹(くれせ)」駅入口を通り過ぎて国道に戻る。

井原鉄道の高架をくぐり水路を二カ所渡った先で右斜めの旧道に入る。すぐに小川に突当るが橋がなく、国道を迂回して排水機場がある旧道復活点に戻る。のどかに広がる田園の中を旧道が真直ぐに延びる。

国道に合流する手前右手の山裾に地蔵堂があり、奥まった高台にある祠には石地蔵とともに三重の五輪塔が安置されていた。

国道に合流した右手山裾には小田川を見下ろすように「吉備公弾琴遺跡迹在南岸」の標石が立つ。吉備真備が晩年に仲秋の名月の夜にこの岩に座って琴を弾いたという伝説がある。目を凝らして幾度も小田川の対岸を眺めたが川に突き出るようにあるという琴弾岩は認められなかった。

街道は倉敷市真備町から小田郡矢掛町に入る。

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矢掛 

矢掛町に入ってすぐ右手に「史蹟旧山陽道一里塚跡」と刻まれた石碑がある。平成16年建立の新しいものである。

すぐ先の丁字路角に筆塚がある。吉備真備の遺徳を偲んで、全国1290名の書家の合力によって建立された。

丁字路を右に入って行くと吉備真備公園がある。

入口に「吉備公館址」の石碑がある。「だんのうち」と呼ばれる土塁に囲まれた平地が吉備真備の屋敷跡らしく、この辺りから奈良時代の瓦片が出土している。この土地の字名も瓦谷という。古代山陽道の駅家は当初備中国に東から津峴、河辺、小田、後月の4駅の他、河辺と小田の間にもう一駅あったが、後に廃止された。駅名はわかっていないが、その駅家跡がこの場所と考えられている。瓦の出土が有力な材料となった。

公園内には吉備神社、高さ6.5mの吉備真備公銅像産湯の井戸(星の井)の他、囲碁発祥の地を印す石碑もある。揮毫は関西棋院総師橋本宇太郎である。

街道にもどる。右手バス停横に自然石の常夜燈が、左手国道ガードレールの隙間に福頼(ふくより)神社道標がある。

旧道は常夜燈の所で国道486号と分かれて、右斜めの山裾に延びる細道に入っていく。

右手山裾には四国八十八ヶ所霊場の「第七番十楽寺」、「第八番熊谷寺」、「第九番法輪寺」と記された石仏がいずれも三体ずつ小祠に祀られている。この札所巡りの石仏群はこれからも各所で見ることになる。88カ所あるのだろうか。

道は上り坂になって「国指定重要文化財下道氏の墓」の案内標識が立つ。右手高台に「吉備公累代墓域」碑があり、天保4年(1833)の常夜燈もある。

街道から離れてさらに上って行くと山中の寂しい場所に下道氏公園がある。手前に「史蹟下道氏墓」と刻まれた石標が、奥には「右大臣真備吉備公之墓」と刻まれた石標が建つ。元禄12年(1699)、この場所で吉備真備の祖母のものと思われる骨蔵器が発見されたということで、国指定史跡に指定された。

街道に戻って、山裾の崖縁に延びる旧道を行く。家並みの中央あたり右手に石塔群がある。その一番右は「金精大明神」と刻まれた道標である。道で出会ったおじさんに場所を聞くと、山中に入っていかねばならないそうで、寄るのはあきらめた。

井原鉄道の高架をくぐる。右手に「第十七番井戸寺」の石仏があり、その後ろには二基の小さな亡牛供養塔があった。

東三成集落を通り抜け再び井原鉄道を潜ってまっすぐな道を西に進んで小田川に突き当たり堤防道の国道486号に出る。合流点左角に安政6年(1859)の道標があり、「左大坂道」「右玉しま道」と刻まれている。

国道を横切って小田川河原に下りる所に、安政5年(1858)の山上講供養碑と安政6年(1859)の常夜燈「第三十九番延光寺」と書かれた石仏が集められている。

国道を300mほど北に進んだところで、右手の旧道に入る。右手山裾に10本余りの赤い幟がはためいている。清水地蔵といい、4体の後背浮彫石仏の中央に一段と高い丸彫の地蔵が立っている。由緒書きはない。背後の山は茶臼山(別名中山)といい、総合運動公園の北まで広がる丘陵上に戦国大名毛利元就の4男元清が巨大な山城を築いた。現在は「ヘルシーロード茶臼山文化の丘」として整備されている。

十字路に差しかかる。街道はここを左折するのだが、右に折れて茶臼山西麓にある矢掛神社をみていく。吉備津神社の末社で主祭神は吉備津彦命。元は丑寅神社と称したというから艮御崎神社系であろう。脇本陣を勤めた高草家の寄進による弘化4年(1847)と、文久2年(1862)建立の古い常夜燈をぬけ、天正10年(1582)毛利元清が茶臼山(中山)城入城にあたり城下鎮守のため寄進したという鳥居をくぐる。現在の鳥居は元禄13年(1700)に庭瀬藩主板倉氏が寄進したもの。

本瓦葺きの隋神門をくぐると唐破風付の立派な拝殿があり内部は多くの絵馬で飾られている。その中に伊勢参詣図なるものがあるはずだが、どれかわからなかった。本殿も小ぶりながら立派な造りである。絵馬についてではなく、神社についての由緒書きが欲しかった。

街道にもどって、十字路を西に向かい、小川の手前左手に大きな矢掛神社郷社昇格記念碑が建つ。橋を渡って旧矢掛宿に入っていく。

最初から白壁土蔵がまぶしい家が建ち並び、宿場町の面影が濃い町並みが続く。

右手ふれあい広場に宿場の案内図板がある。宿場は東から東町・元町・中町・胡(えびす)町・西町と5町からなり元禄時代には200軒ばかりの商家や旅籠が建ち並んでいた。

左手角に「矢掛一里塚趾」の石標がある。両塚には黒松が植えられていた。

旧元町右手にすばらしい江戸時代の家並みが現れる。

山陽新聞矢掛販売所の建物は両翼に二階建て入母屋造りの蔵を配し平入町屋店舗で繋いでいる。建物に関する説明板は見かけなかったが古い建物に違いない。

その西側に脇本陣高草家住宅がつづく。高草家は脇本陣とともに庄屋や庭瀬藩の掛屋を勤めた。金融業で財を成した旧家である。17間という広い間口に東から海鼠壁の漆喰が目立つ松陰楼(蔵屋敷)、旧庭瀬藩の矢掛陣屋の門を移築した表門(薬医門)、低い二階の町屋造り店舗(表屋)と、家老門とならぶ。表屋は弘化2年(1845)に建て替えられた本瓦葺入母屋造の大きな建物で店として使用し、主屋に繋がっている。街道に面して縁石がならび駒寄の後ろに白壁と本格子が格調高いコントラストを見せている。

その西隣に現役の高草酒店がある。脇本陣高草家との関係は知らないが分家の一つでもあろうか。昨年11月の矢掛宿大名祭りのポスターが貼ってある。西端の二階部分に建てられた手摺付の蔵風の小部屋は何だろう。巨大なうだつのようにも見える。これほど豪華で大げさなうだつは見たことがない。

脇本陣から西に250mほどいった旧胡町に矢掛宿本陣石井家がある。石井家は大庄屋を勤める傍ら酒造業を営む豪商であった。間口は脇本陣より更に広い20間である。東から主屋、座敷、御成門と並び、主屋は酒屋店舗や酒蔵などの家業用で、屋敷と御成門が本陣建物である。駒寄と犬矢来が置かれて町屋の風情を添えている。

本陣、脇本陣ともに江戸時代の建物が残り、そろって国指定重要文化財である矢掛宿は貴重な存在である。

本陣向かいの本陣会館に矢掛宿の標柱と説明板がある。矢掛宿の名は室町時代に記録にあらわれ、当時は「屋陰」とよばれて茶臼山西麓の古市にあったという。矢掛神社のある場所と同じである。参勤交代制度ができると現在の位置に移された。

本陣会館の西隣の石井醤油店も本瓦葺き格子造りの古い家である。板看板の傍に杉玉が吊るされているのは造り酒屋の名残か。本陣石井家の現在の姿だろうか。

本陣の西側に狭い間口を竹垣で囲んだ旅館と、「篤姫様が召し上がった柚べし」の短冊を掛けた天保元年(1830)創業の老舗和菓子処佐藤玉雲堂が並んでいる。鹿児島から遠路駕籠にゆられてやってきた篤姫は石井本陣に泊まり、隣の菓子屋で柚餅子を買って食べた。

宿場は西町で終わり街道は栄橋で高通川を渡る。橋の西詰めに「高通川徒渡し跡」の碑がある。



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堀越・今市 

道は国道486号と合流するが、右側歩道が旧道筋である。歩道は国道より下って高岡製材所の前に出る。工場の前に天保13年(1842)建立の大きな先祖供養塔がある。旧街道は製材所の中を通っていて消失している。

国道に接する道を右に曲がって細い五差路をUターン気味に左折して畑中の道をたどると、右手に注連縄を巻いた地神があった。

街道はその先の十字路を左折して一旦国道にでるが、すぐに歩道から右下に降りて旧道に入る。

自動車整備工場の道向かいに常夜燈が立つ。

500m近く真直ぐな道を歩いて変則十字路を左折する。正面民家の前に「旧山陽道大曲  平成16年 やかげ歴史の道復元事業」と書かれた立札がある。城下町や宿場内の小刻みな鍵の手・曲尺手とは一線を画し、道中の直角な曲りを大曲と呼んでいるようである。

旧道は国道486号の五差路信号交差点に出て右折する。

すぐ先左手ふじのや青果店脇に「旧山陽道備中國江良村下原下座所跡」と記された石標がある。平成18年中川老人クラブが設置したものである。「下にい、下にい」と催促する参勤交代の行列を村民が下座して送迎した場所らしい。

矢掛町江良信号の一つ手前の十字路左角に文化7年(1824)建立の「貴布祢宮道」「是より南十丁」と刻まれた道標がある。この十字路を南に向かう細道が昔の貴布祢神社への参道であった。

国道は真直ぐに西進し本掘を経て浅海に入る。

左手に毎戸池があり、ほとりに二基の光明真言供養塔とその後ろに3体の石仏がある。供養塔は左が弘化4年(1847)、右が天保5年(1834)と古いもの。石仏は中央の明治40年が最古のようで、三体とも素朴な浮彫石坐像である。

その先バス停のある十字路を右に折れて井原鉄道を渡ったところに毎戸遺跡がある。そこから奈良時代から平安時代にかけての瓦や土師器、須恵器が出土した。その中に「馬」の文字を掘り込んだ土師器があった。また建物が3棟あったことも判明した。これらのことから毎戸遺跡は郡衙・駅家跡ではないかと考えられている。毎戸(まいど)も駅家戸(うまやど)転訛であり古代山陽道の小田駅跡に比定されている。

その十字路の先、左手岡山県家畜保健衛生所前に「史蹟旧山陽道一里塚跡」の碑がある。平成16年の新しいものだ。

街道はその先水路の手前から国道を分けて左斜めの旧道に入って行く。右手小田駅前を通り過ぎ小田川に寄り添うあたりから古い町並みが見られるようになる。素朴な手書きの堀越宿標柱が突如として現れる。

ここは
旧堀越で、矢掛・七日市間の間の宿として賑わった。低い二階に海鼠壁を施した町屋の他、郵便局舎とおもわれる下見板張りの木造建築、旧銀行か生命保険の事務所らしいタイル張りのコンクリート造り二階建て建物など大正から昭和にかけての西洋建築もみられる趣ある家並みが残っている。

右手の小路に本瓦の屋根に瓦の鯱をのせた立派な祠が建っている。路地を入っていくと左手石段に山王宮の鳥居がたち高台の上に日吉神社がある。境内には土俵が作られていた。

石段下の坂を更に上がって国道を横切った山麓に「ぼけ封じふくふく地蔵禅源寺」がある。境内からは眼下に小田川の流れと小田の町が一望できる。禅源寺はもと備中国霊場の一つとして栄え、ここには六地蔵が祀られていたという。荒廃し埋もれてしまった跡地から、その一つかどうかしらないが、首の欠けた地蔵が発見された。誰言うとなく「ふくふく地蔵」と呼ばれるようになったというが、いまだに意味不明。多分「福々」だろう。

堀越集落を出て小田西信号交差点で国道486号と合流する。交差点右手には金竜寺標石が立つ。

左手道路脇に「大岬國之助墓」と刻まれた安政3年(1856)建立の石碑がある。裏側には「近州野洲郡小南八幡産」とある。この土地で生き倒れになった大岬國之助という近江出身の力士を村人が弔ったという。

左手に地蔵堂がある。88ヶ所の一つか確かめなかった。

街道は矢掛町から井原市に入る。

旧道は井原市に入ってすぐ井原鉄道のガードをくぐる。左に旧道らしい道がのびているが鉄道敷設前の道であろう。ガードをくぐって山裾の細道を上がっていく。

右手に6体の石仏が石祠に安置されている。

街道の左手は段丘下を国道が走り、崖縁を井原鉄道が走っている。赤い一両編成の可愛い電車がやってきた。すこすこと通り過ぎてこれもかわいいトンネルに消えて行った。

押延(おしのべ)集落を通り抜ける。

右手石垣の上に石鉄山大権現石像がある。さらに上にはお堂が見えた。

旧道は再び井原鉄道のガードをくぐって国道486号に戻る。

下谷川を渡った先の交差点右手に「髙越城址 寶蔵院」の石標がある。右手の小山(高越山172m)は髙越城址で、北条早雲生誕の地といわれている。

左手には「万人講供養」「南やくし 玉した ミち」と刻まれた石塔と、「万人講 北 智勝院 法泉寺 道 明治廿九年」と刻まれ牛に乗った仏像の亡牛供養塔がある。

この十字路を右に入って井原線を渡ると東平井公民館前に「刀工女國重宅趾」と刻まれた石標と、右には大きな地神碑、左には小さな亡牛供養塔がある。女國重とは日本で唯一人の女刀匠である「大月源」をいう。お源は16歳で父の大月伝十郎に死別、伯父の伴十郎に引き取られ、12代目の大月甚兵衛国重と結婚した。病弱な甚兵衛に代わって北条早雲一族の高越城主に仕えてきた鍛刀の術を引き継いだ。作品はほとんどが短刀であったと言う。

街道にもどる。井原鉄道の「早雲の里荏原駅」を通過して、次の信号手前で右手の旧道に入る。

右手に自然石の常夜燈と小祠が並んでいる。常夜燈の火袋は四面がいっぱいに円形に開かれて、四隅にか細い柱が残る華麗な姿である。

旧道は青木信号の手前で国道に接するがそのまま歩道から右斜めの旧道に入る。

左手民家の植木に混じって一里塚跡がある。標石には「旧山陽街道一里塚 一五九二年豊臣秀吉設定」と刻まれている。江戸時代以前の一里塚という意味では貴重な存在だが、石碑自体は私的な色彩が強い。

井原鉄道のガードをくぐって国道486号に合流する。すぐ右手に分厚い石祠に納められた二体の石仏と外側に一体の地蔵がある。祠の脇には「第十五番国分寺薬師如来」と書かれた標識が立つ。例の四国88ヶ所霊場巡りの一つで、ここでいう国分寺とは徳島県阿波国分寺を指す。

西江原町にはいってすぐ国道を左に分け、右の旧道に入って行く。

左手漆喰壁の塀を囲った旧家らしい民家の前に「旧山陽道(参勤交代街道) 平成二年」と書かれた白い木柱が立つ。

その先にも塀や壁を海鼠模様で飾った民家が多くみられ、品のある家並みが続く。

中でも主屋と塀を黒漆喰で塗り固め、主屋の格子造り、黒板下見張りの塀から伸び立つ見越しの松、黒壁に白漆喰が一段と際立つ二階の海鼠装飾など、
藤井家住宅は見応えがある。

その先にも本瓦葺の屋根に門塀を重厚に構え、海鼠模様をあしらった二階壁に大きな虫籠窓を切った旧家があり、立派な屋敷である。

左手蔵内家の前に「史蹟今市駅本陣跡」の標柱がある。今市本陣は難波家が務めた。隣の空き地が本陣跡であろう。今市は矢掛・七日市間の間の宿だった。矢掛・七日市間には他に堀越という間宿がある。今市から次の七日市までは僅か2kmほどだから、ここに間宿が必要だったか疑問が残るが今市は一橋藩による問屋町が築かれていたところで町として充実しており小田川の川止め時には仮宿として利用されていたのであろう。川の両岸に宿場が形成されることはよくある。

雄神川を渡った先右手甲山八幡神社に寄る。参道入り口に「中堀城跡」の標柱がある。鎌倉時代那須氏によって築かれた平城である。

甲山八幡神社は建久元年(1190)、那須与一宗隆の弟、那須小太郎宗晴により創建されたと伝わる。背後の山は甲山といい、那須小太郎宗晴が武運長久を祈るため、与一が屋島の戦功を挙げた際、着用していた甲胃を頂上に埋納したとも言われている。境内には小堀遠州が建立したという自然石の石燈籠が建っている。慶長9年(1604)小堀遠州が備中国の奉行となって領内巡視のとき、急病になり、甲山神社に祈願したところ回復したので建立したといわれる。

右手、東荒神の境内に第22番平等寺第24番最御崎寺の祠がある。

街道は今市集落を東町、中町、西町と通り抜け、変則4差路を経て東新町に入る。東新町公民館のある小さな鉤の手をわたった左手に立派な旧家が建ち、「史跡相田嘉三郎邸旧宅」と記された標柱がある。相田嘉三郎は幕末に後月郡西江原村(現在の井原市西江原町)の相田家の次男として生まれ、その後、呉服商を営む伯父嘉助の養子となった。長じて養蚕・製糸の振興を計画し、養蚕の研究に取り組み、地域の養蚕普及に大きく貢献した。

神戸川の手前の十字路右手に揖取(かじとり)延命地蔵堂がある。標柱には第25番津照寺とある。高知県室戸の霊場である。

川を渡り右手平成一ツ橋会館の先で左の細道に入るのが旧道筋である。ここから500mほど北西に興譲館高校がある。ここに一橋徳川家の西江原陣屋があった。6代目代官の友山勝次が嘉永6年(1853)庶民子弟の教育のため開いたのが興譲館である。なお、興譲館高校前の国分山後月寺付近から奈良期と推定される屋根瓦が出土した。7紀後半に地方豪族により建てられた寺戸寺の跡と考えられている。寺戸寺跡はまた後月(しつき)郡衙推定地であり、古代山陽道の後月駅家に比定されている。

国道486号を横切りくの字に折れて小田川に突き当たる。堤防手前右手に石仏を祀った祠があり、傍に「第27番神峯寺十一面観世音菩薩」の標柱が立つ。祠におさまる二体の石仏のうちどちらも十一面観世音菩薩には見えない。ここまで各所で四国88ヶ所霊場を祀る石仏を見てきたが、近くにあった石仏を祠や堂に祀ってそれを88ヶ所のいずれかの霊場に見立てたのであろう。

日芳橋の手前に日芳橋碑がある。橋の向こうは七日市宿である。

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七日市 

橋を渡った左土手に「朗廬 芳郎 警軒 諌山 遺跡」と4名の名を刻んだ石碑がある。阪谷朗廬は興譲館の初代館長で坂田警軒は明治元年第二代館長である。興譲館関係の顕彰碑であろう。

右手に「七日市駅川越し上がり場跡」の石碑と常夜燈がある。小田川は徒渡しであった。

ここから堤防下に旧道が残っている。七日市信号まで、海鼠壁の民家が散見され旧七日市宿の面影を残した家並みである。

左手、漆喰がはがれた海鼠壁土蔵造りの脇に小さく「七日市停車場」「大正二年十一月開通」と刻まれた道標がある。井原と笠岡を結ぶ井笠鉄道の七日市駅への道標である。昭和46年まで走っていた。

その先空き地の隅に「旧山陽道参勤交代七日市宿場本陣屋敷跡地」の石碑が建つ。

七日市信号手前右手に武速(たけはや)神社がある。鳥居の左側に本陣家の「佐藤正左衛門」の名を刻んだ奉納石標がある。

井原郵便局前バス停前に小堂がある。堂内の下半分は空で、中二階部分に6体の石仏が並んでいた。変わったお堂である。

七日市町から上出部(かみいずえ)町に入り、東桜木信号を渡って道なりに南西方向に進む。

左から来る県道102号に合流するがすぐに二俣で県道を左に分けて細道を直進する。その分岐点に常夜燈が建つ。その下に道標らしき石標があるが、読めない。

小さな橋を渡った先左手に岩山神社の鳥居が建つ。井原線の高架下を通って石段をあがると唐破風付拝殿がある。6世紀前半の安閑天皇の時代、吉備津神社の摂社・岩山神社を分祀して岩山大明神と称したのに始まる。現在の社殿は昭和8年(1933)の改築である。


風情ある上出部集落を歩いていく。左手に荒神の祠と常夜燈がある。よろめいた体の自然石常夜燈が愛らしい。

本瓦葺の家や海鼠壁、虫籠窓にうだつを備えた町家造りの民家など、趣を感じさせる町並みである。

下出部に入ると古い家並みは姿を消し、現代の街道風景となる。自転車店の手前に下出部一里塚跡がある。

左手荒神社の境内に里程標があり、「距岡山元標十三里」「距三石管轄境二十三里十四丁」 「距高屋管轄境廿町」と刻まれている。備中最後の高屋宿が射程に入ってきた。

井原鉄道いずえ駅入口を通過して進んでいくと右手に舟形の台石の上に常夜燈が建っている。石段の上に建てられた常夜燈はよく見るが、このような姿は珍しい。文政9年(1826)の建立である。

その先右手に宝暦11年(1761)の題目碑が二基建っている。

街道は井原線に最接近したところで大曲に差し掛かる。

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高屋 

天保9年(1838)の大きな絵図を載せた大曲の案内板が立っている。枡形あるいは鍵の手とよばれるクランク状の折れ道は防衛上の理由とされるのが普通だが、ここの説明は「旅に変化をつけるため」とか「参勤交代の時殿様が駕籠を止め前後の行列を眺めて楽しんだ」などと、のどかで平和的であり、思わず微笑んでしまった。とにかく大きな一対の直角折れ道であることに違いない。現在の地図では直角でなく、45度に北西に折れているがもとは絵図にあるように90度であった。

曲がり角に水準点と指差道標、そして「薬師如来」と刻んだ石を安置した薬師堂がある。88ヶ所霊場とは関係がないようだ。

大曲の左折地点が明確でない。最初国道313号を左折して間違った。国道をわたり、道なりに右斜めに折れる。右斜めおれを二回繰り返して最初の直角折れを果たしたことになる。二つ目の十字路を左折する。区画整理がされていてかえって分かりにくい。

右手は住宅が立ち並ぶ笹賀町、左はのどかな田園がつづく下出部町の境界をなす真直ぐな道を歩いていくと十字路左角に「旧山陽道備中大橋跡」と刻んだ標柱があった。

その先で道は急に細くなって家後屋(けごや)集落を通り抜ける。

高屋川に突き当たった所で県道103号に合流し、川に沿って進み後月橋を渡る。

高屋川を渡ると左手に法泉院があり、入口に「日輪大師堂」と彫られた曼荼羅碑がある。

右手には文化14年(1816)建立の常夜燈が建つ。

旧高屋宿に入ってすぐ右手、赤レンガ造りの門を構えたモダンな家は上野家本陣跡で、声楽家上野耐之がここで生まれた。門前に「中国地方の子守歌発祥の地」と題した案内板がある。古くからこの地で歌い継がれてきた「ねんねこしゃっしゃりませ」の子守唄を上野耐之が山田耕筰の前で独唱披露したのがきっかけで山田耕筰が譜面に落とし全国的な愛唱歌になった。高屋町を「子守唄の里」として町づくり推進中である。

なお、高屋宿の脇本陣は久保木治平が勤めたがその場所は分からない。

上野家横の十字路角に「備中西國第八番」「従是高山寺十八丁」と刻まれた道標がある。

旧街道の趣ある静かで落ち着いた町並みである。

左手に奥行きの長いかすかにむくり屋根の一見して商家の佇まいを見せる屋敷がある。切妻平入り造りの正面は駒寄に格子戸、一階屋根に千鳥破風を載せ、二階は白漆喰の海鼠壁仕立ての蔵店である。表札に「大中屋 大塚」とあった。大塚家は明治27年(1894)この地で
「大中屋」として織物業を創業、その後昭和41年(1966)電子機器のメーカーとして成功した。二代目社長の実家らしい。

高屋宿は宿場町でありながら江戸時代、地綿と地藍を使った備中木綿の生産が盛んで、明治・大正期には繊維工業の中心となった。旧家の日本建築が残る一方で、コンクリート造りの洋館が残っているのは当時織物工場の名残である。

町並みを進んでいくと岡本歯科医院の向かいに入母屋平入り造りの立派な屋敷が重厚な佇まいを見せている。一階は駒寄に親子格子、白壁の二階とうだつがまぶしい品格を放つ。僅かに起れた屋根には数カ所に鬼瓦が睨みをきかす。表札に屋号はないが、ここも大塚家である。大中屋の本家であろうか。

左手に大きな常夜燈を見て高屋町の西端に向かって歩いていくと山裾が近づいてきて、ようやく国境に差しかかった。

備中国(岡山県)と備後国(広島県)の
国境だが、家並みが続いたままの丁字路に過ぎない。境界線上(丁字路の広島県側)に一本の石柱が立っていて、それぞれの県の里程元標までの距離を示している。岡山市橋本町までおよそ55km、広島市細工町(現中区大手町)まで約122km。

道程は遠い。


(2014年5月)

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