山陽道(西国街道)3



三石−片上香登藤井岡山

いこいの広場
日本紀行
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三石 

船坂トンネルの中央真上で播磨・備前国境を越える。道は舗装された旧国道である。県境に東宮行幸を記念して「岡山県和気郡三石町」の標石が建つ。峠は幾度も切り下げられて現在の位置になった。古い峠はここより北西の高みにあり、そこには元禄16年(1703)に建てられた「従是西備前國」と刻んだ古い国境碑が残っている。

緩やかな峠道を下っていくと右手に旅人が喉を潤したという「雲水の井戸」がある。昔ここに「下の茶屋」「中の茶屋」「上の茶屋」と三軒の峠の茶屋があった。雲水の井戸はそのいずれかに用いられていたものと思う。

その先、右手前に上がって行く古道が延びている。すこし入った左手に大きな「船坂山義挙の碑」が建つ。昭和15年(1940)地元の青年団によって建てられたものである。元弘2年(1332)、後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、備前国の武将児島高徳は、船坂山で待ち伏せして天皇を助け出そうとしたが、一行は出雲街道沿いに美作を通過した後で果たせず、高徳は一人後を追って行在所に潜入し、やむなく桜の木に「天莫空勾践 時非無范蠡」(天勾践を空しうするなかれ 時に范蠡の無きにしも非ず)という十字の漢詩を彫り書き入れて去った。天皇はそれを見て微笑んだという。

碑の前の細道をさらに進んでいくと旧峠の国境碑にたどりつく。

引き返して旧国道を下りていくとまもなく国道2号に合流する。振り返ると船坂トンネルが岡山側の口を開けている。国道を600mほど歩いて右に分かれる旧道に入る。山陽本線の踏切を渡って三石集落に入る手前、石垣の上に「三石一里塚跡」と書かれた白板看板が立っている。備前市教育委員会による公のものだ。

旧道は旧国道と合流して集落に入っていく。駅前の三叉路角にも新しい石柱一里塚碑がある。これも備前市教育委員会の物だ。どちらの位置が正しいのか知らない。

三石は古代山陽道の坂長駅家所在地であり、近世山陽道の宿場町として、また三石城下町として栄えたが、現在はレンガの町として耐火煉瓦造りの工場が林立している。右手レンガ工場をのぞくとアーチ型の窓を設けた煉瓦造りの建物が駅舎にも登り窯にも似て美しかった。

その先の横道を入ったところに三石神社がある。社殿の前、玉垣の中に一個の岩が安置され、その岩に別の白い石が抱かれたようにくっついていた。子を抱く姿に似て「孕岩(はらみいわ)といわれ、神社の別名ともなっている。懐妊中の神功皇后に遡る伝承が伝わる。

郵便局を過ぎ、丁字路左角に建つ白い塀を囲った大きな家は三石宿本陣跡である。最近まで角屋旅館を営んでいた。電柱にまだ「かどや」の広告が残っている。

本陣の街道向かいの工場がある場所に脇本陣があった。

丁字路をこえた左側にある伊賀金物店は問屋場だった。おそらくこの丁字路が札の辻であったのだろう。


伊賀金物店の主人と出会って、宿場の話の他、丁字路を左に入っていくと煉瓦造りの4連アーチ鉄橋があると、薦めてくれた。金剛川に架かる山陽本線鉄橋は地元産の煉瓦で造られ、アーチの一つが道路トンネルとなっている。緻密に積み上げられた赤レンガが歴史を醸している。

丁字路にもどる。右手の路地を入って行くと三石城登り口がある。 三石城は、元弘3年(1333)に地頭の伊東大和二郎が築いたとされる。その後赤松氏の守護代だった浦上氏が三石城主となった。享禄4年(1531)浦上宗景の美作進出に伴い三石城は廃城となった。浦上宗景はその後宇喜多直家に滅ぼされている。

天王山(291m)の頂上に築かれた山城跡には石垣、土塁、堀跡が残っているそうだが、見学するには1時間以上もかかりそうなので登るのは止めることにした。

金剛川を渡ると右手に光明寺がある。山門をくぐると本堂脇に大きな明治天皇行在所碑がある。

街道はレンガ造りのトンネルをくぐる。4連アーチと同じくこのトンネルも煉瓦を長手だけの段、小口だけの段と一段おきに規則正しく積むイギリス積みである。

街道はこの先で国道2号に合流し、「弟坂」と呼ばれる坂を上がっていく。少し先、左手に清水地蔵がある。東からは船坂峠を越え、西からは兄弟坂を越えて来た旅人が湧き出る清水に喉を潤したという。説明板に逸話が付記されている。備前の殿様が姫路城下青山峠の清水を汲んでくるように家来に命じたところ、早速家来が持ち帰ったので、茶を立てて飲んだ途端にこれは清水地蔵の水だと笑ったという。備前からわざわざ姫路まで行くのがいやで、手前の三石の清水で済ませた部下の怠慢を笑いで済ませた殿様はえらかった。

弟坂は大西峠で終わり、その後は延々と下る兄坂が続く。岡山側からは実に長い上り坂で、清水地蔵で休みたい気がよくわかる。古代の駅家名「坂長」はこの兄弟坂から来たものにちがいない。

街道は兄坂を下りきった山陽自動車道備前ICの誘導路を越えた所で国道を離れて、右の旧道に入って行く。左側を歩いてきた場合、歩道を下りて地下道で国道の西側に出る。

八木山集落入口右手に五輪塔が数基集められている。

八木山集落は道の両側に側溝が設けられ落ち着いた家並みが続く。集落のはずれ右手に二体の地蔵尊がある。旧街道は旧国道に出、すぐ現在の国道2号に合流する。その先高速道路をくぐる手前、右手歩道崖下にも二体の地蔵がある。

左手、整備された空き地に「明治天皇八木山御小休所阯」の碑と「旧山陽道八木山一里塚跡」の碑がある。

国道に合流してから2km近く行ったところ、四軒屋の信号を越えたあたりで国道から右の旧道に入っていく。左手には備前前焼の窯元、神田宮鳥居がある。

旧道は持手川を渡って廣高下集落を通り抜ける。県道261号を横切り伊里川を渡ったところに小さな祠があり、その前に「閑谷神社」「従是丗壱丁十四間」と刻まれた明治10年の道標がある。閑谷神社に至る川沿いの道は県道261号の旧道であろう。県道261号を4km北上すると閑谷神社と、日本最古の庶民学問所である閑谷学校に至る。閑谷学校寛文10年(1670)岡山藩主池田光政によって創建された庶民向けの学校である。現在の建物は元禄時代の建築で、国指定特別史跡である。見て行きたかったが歩いて4kmの寄り道をする気にはなれなかった。

道標の丁字路を左折し、集落内の二又を右にとる。

西池の北縁を進み一本松集落に入る。火の見櫓の下に一本松公会堂があり、前に小さな観音堂がある。ここから伊里中より東片上に入る。

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片上

観音堂から坂を下った左手、立派な塀を巡らした備前焼桂花園の前に
「藤之棚茶屋跡」と書かれた白い標柱がある。江戸期に岡山藩主の休憩所と茶屋があった。三石と片上の間に位置し、立場になっていたものか。

街道は国道2号と合流する。すこし行った左手、大池の北縁に片上一里塚跡がある。説明板によると塚はここより東50m付近にあったといい、今でも「塚跡」という番地が残っているという。50mくらいなら、その場所に碑を建てればと思うが。

右手に備前焼一本松窯と書かれた看板が目を引く。その先で国道から分かれて右の旧道に入る。新幹線の高架前に出る。高架をくぐる道が二つあるが、右の道が旧道筋である。大東集落に入って二又を左にとって進んでいくと火の見櫓が見える十字路にさしかかる。右手水路の傍に三体の地蔵を納めた堂がある。

火の見櫓と大東公民館を通り過ぎ、立石川を渡った右手に題目石がある。方向を左にかえ国道に向かって坂を下っていく。国道に出る手前右手に天神宮がある。狛犬は備前焼で金属製の色合いが迫力ある顔つきを強調している。

国道を歩道橋で横切る。上から片上集落が見渡せた。備前市の中心地である。JR赤穂線を渡り、細い道を片上宿場の町並みに入っていく。左手に土壁の建物と黒々とした焼板壁の蔵が続いている。近づいてみると板は消し炭のように縮れ焦げた艶を放っている見事な焼板である。一筋南に移って建物の正面に回り込んでみると玉泉酒造が街道を背にして建っていた。

右手に法鏡寺があり、門前に「藤原審爾(しんじ)旧宅跡」の標石が立っている。藤原家は大庄屋であった。 『秋津温泉』、『罪な女』で知られる小説家審爾は東京に生まれたが幼くして父母と死別し、ここで祖父に育てられた。

東片上から西片上に入った右手に宇佐八幡宮がある。その前に「旧山陽道片上宿(方上津)」「藤井宿四里半(約十八K)」「三石宿二里半(約十K)」と書かれた標柱が立つ。宇佐八幡宮を守る大きな狛犬も備前焼である。石段を登って行くと、数人のおじさんが拝殿の幕張に忙しそうだった。明日片上祭りがあり、ここで餅投げが行われるのだという。そういえば、先から片上祭りの幟が各所に立っているのが気になっていた。

宇佐八幡宮の先の丁字路は津山街道追分である。角に「津山街道(片上往来)」「十二・五里(約50km)」と記された標柱がある。津山を経て山陰に通じていた。

その先左手に「刀工備州祐高造之宅跡」の標柱がある。

宝永橋の手前右手に「往還名主跡(木屋岡島氏)」と書かれた標柱が立っている。片上駅の駅長といってもいい調査取締りの権限を有していたという。

宝永橋を渡る。多数の鯉のぼりが流川をまたぐようにかけられている。橋の西袂に「前海屋跡」の標柱がある。前海屋は宝永橋が落ちても、前海屋は倒れぬと言われた片上の富豪である。海を埋め立てて今日の郵便局辺りまで土地を拡張した。「明治24年遊郭 遊女12名」とあるが、倒れぬといわれた富豪前海屋の本業だったのか、それとも明治に入って転業したのか、文脈が飛躍気味でよくわからない。

右手に「志賀家の跡」の標柱がある。滋賀の出身で岡山城築城の際に城下町の建設に寄与した人物のようだ。「出身地名をとって岡山市片上町と命名す」とある。滋賀県に片上町/村があったということか。ここでも記述が飛躍している。

左手に「日本売薬備中売薬の祖(薬祖)万代常閑翁」の標る柱がある。第11代万代常閑が富山に返魂丹を伝授したとある。越中富山売薬のルーツということになる。

右手空き地の隅に「明治天皇行幸の地」と書かれた標柱があり、「旧方上署の開署式の時には、片上中のだんじりがでたとされる。明治天皇行幸の際は、葛坂へ住民総出で出迎え新築の分署へご案内した」とある。この場所が分署跡というのだろうか。行幸の地は行在所、小休所を示すことが多い。相変わらずこの宿場に設けられた多くの標柱の記載事項は個性的だ。

その角を右に入っていくと左手に三階建ての風情ある旅館風建物がある。一階の玄関屋根が複雑な意匠を示し、暖色の土壁塀に切られた窓が印象的である。遊郭だったかもしれない。

街道右手にアルファビゼンという巨大な廃墟ビルがある。その前に「恵美須屋跡」「片上脇本陣跡」の標柱が並ぶようにある。恵美須屋跡は商店でなく恵比寿宮の跡である。脇本陣は京屋中村氏が勤めていた。

街道はその先の丁字路を右折する。右手角に「右恵美須 左大坂」と刻まれた道標がある。ここで街道をはなれ丁字路を左折して片上港に寄り道する。

角に建つ旧家風の壁際に道標がある。「天保六年」(1835)の銘と「左渡海場」「右ゑびす道」と刻まれている。

そのすぐ先右手に「片上駅本陣小國氏邸趾」と刻まれた石碑がある。傍の案内板は本陣のことよりも小国氏の出自、系譜に主眼が置かれている。どうやら小国氏の私的な顕彰碑のようだ。

そのまま南に進んで国道250号の片上信号を横切りマックスバリューを回り込むと片上港である。瀬戸内海の入江が深く切りこんだ自然の良港で、瀬戸内の海路と山陽道を繋ぐ交通の要衝として栄えた。

アルファビゼンの丁字路にもどり、そのまま北西に進む。明神社の祠がある角を右折しすぐ「お夏の墓」「お夏茶屋跡」の案内標識がある丁字路を左折する。

ゆるやかな坂を上がっていく。二股を左にとって更に坂を上っていくと「お夏の墓」、「お夏茶屋」の標識がある。右手の墓地に題目碑、その前にお夏追悼碑が建てられ「「情熱の炎となりて燃えつくすお夏のみたまここに鎮まる」と刻まれている。井原西鶴「好色五人女」の第一番目に取り上げられたお夏は、室津の造り酒屋の息子であった清十郎が奉公に出た姫路本町の米問屋但馬屋の娘である。二人は熱烈な恋に陥った。途中は省いて結末を急ぐと、清十郎は処刑され、お夏は発狂した。二人の比翼塚が姫路の慶雲寺にある。お夏がこの地に流れ着いた経緯は知らない。

街道はお夏の墓を右に見て葛坂と呼ばれる山道に入っていく。峠近くで左に短く旧道が残っている。新道との合流点付近に葛坂の案内板がある。葛坂は片上と伊部を結ぶ旧山陽道で、室町末期片上富田松山城の浦上氏の兵と伊部の城を攻め取った宇喜多氏の兵とがこの坂で合戦した。

その先左手に「お地蔵様」の標識が立つ古い道があり、登っていくと峠に素朴な浮彫の地蔵を納めた堂があった。

その真下にあたる街道の峠にお夏茶屋跡の井戸がある。説明板には、「葛坂峠お夏茶屋跡 お夏は天性の美貌と知れ渡った評判の店は随分はやった」とある。狂乱したお夏とは別の話のようだ。

峠を下りて国道2号を斜めに横切って行く。国道の土手下の道を西に歩いていくと右手に鬼ケ島窯元が古美術として大きな備前焼の壺を並べている。

伊部東信号に出て、国道の南側歩道を100mほど戻った所に伊部一里塚跡の石碑がある。

伊部東信号交差点を右斜めに折れて備前焼の中心地伊部の集落に入って行く。街道の両側には備前焼の商品を並べた店や工房、レンガ煙突を建てた窯元が建ち並ぶ。海鼠壁造りの風情ある佇まいを見せる店舗や住宅が多い。備前焼銀座の様相を呈した観光地となっている。

商店街のほぼ中央右手に天津(あまつ)神社がある。当然のように狛犬は備前焼である。備前焼の陶板が敷かれた参道を進む。神門、随身門の屋根も備前焼瓦で葺いてあり、備前焼づくめの神社である。まだ新しい拝殿の後ろには延宝6年(1678)建立の堂々とした一間流れ造りの本殿が奥ゆかしく佇んでいた。備前焼は平安時代から鎌倉時代初期にかけて生まれ、瀬戸、常滑、丹波、信楽、越前と並んで日本を代表する六古窯の一つに数えられている。備前焼は土そのものを原料とし、釉薬を一切使わず、火の力だけで焼き締める製法で、艶のある金属製の色合いを特徴としている。

右手露地をはいり窯元家並みの終わりに、天保窯が保存されている。崩れた五段の登り窯を修復したものだが、外壁や窯の内部からは古い歴史がよく感じられる。江戸後期まで、南・北・西の三大窯で大量生産していたが、藩の保護の減少や燃料の関係で、規模を縮小した三基の小窯が造られ、古備前写しの壺、茶器、花器、角徳利など小形の品が生産されるようになった。天保窯は、そのうちの一つである。備前焼の古窯で、原姿をとどめているのはこの窯だけである。

不老川に架かる伊部橋を渡る。親柱は備前焼である。

左手に茅葺の大きな屋敷が建つ。窯元か旅館のような雰囲気だ。ツートーンカラーの街道沿いには依然として窯元や備前焼を並べる店が続く。

やがて山陽新幹線の高架下をくぐると左手に大きな池が現れる。名も大ケ池である。平安時代末期の記録にその名が現れる古い池である。その上を新幹線が横切っている。池の北縁を通り過ぎる間に新幹線が3度通り過ぎた。水面を滑るように走っていく。実に早い。

池の途中で伊部から大内に入る。池の西端に大ケ池竣工の碑が、その向かいに地蔵と石塔が大ケ池を守るように眺めていた。

すぐ先の変則十字路右手の用水路の傍に「臥龍松之道」の道標がある。松は枯れてしまっているとのことで、訪ねることはしなかった。

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香登(かがと) 

街道はその先で伊部から香登(かがと)本に入る。

東町公民館手前右手に大内神社がある。白壁塀を巡らせた境内に入ると西端に組まれた石垣の上に香登一里塚碑と常夜燈が建っている。ここは北塚で、街道向かいに南塚の塚石を利用した「用心井戸」が残っている。

大内神社は、随身門の他広い境内に多くに境内社があり、参道の石段を上がっていくと拝殿、幣殿、本殿がある。本殿は、元禄16年(1703の建築で桧皮葺、三間社流れ造りの見事な社殿である。

弓場川を渡った右手に鷹取醤油の風情ある建物が目を引く。明治38年鷹取市平が創業した老舗である。屋号である伏見屋と市平を合わせた「伏市」を白字抜きした幕の前に巨大な「しょうゆソフトクリーム」が立っている。味はともかく色は普通に白かった。格子窓に漆喰壁の他珍しく犬矢来を見た。低い二階建ての典型的町屋建築である。

その向かいにある地蔵堂は門と塀を構えた立派な堂である。

左手に下見板張り造りの教会がある。大正12年の建築で、洋館ながら歴史を感じさせる存在である。

街道は漆喰壁、海鼠装飾、虫籠窓、格子造りなどの風情ある家並みを楽しみながら延びている。香登は吉井川を控えて作られた間の宿で増水で川止めにあったときには賑わいをみせた。

その先、宿場や城下町でよくみる曲尺手を経て香登西に入ると右手に石長姫神社がある。鳥居の前に立つ嘉永2年(1849)の常夜燈は自然石造りで特に笠に乗った烏帽子のような石塊が奇怪な風貌を呈している。薬医門、随身門をくぐって社殿前に出る。

350mほど行った小川の手前右手に天保10年(1839)の常夜燈がある。これも自然石で笠に乗ったとんがり帽子は石長姫神社の常夜燈とそっくりである。その足元に「森の本橋」と刻まれた小さな石碑がある。

街道は道なりに二之樋集落を通り抜ける。海鼠白壁の蔵が街道風情を醸している。

右手に最上稲荷を見て集落の西のはずれの水路にさしかかる。右手に「従是熊山道」「宮まで四十五丁」と刻まれた元文2年(1737)の道標がある。

旧道は橋をわたって南西に向きを変え新幹線の高架下をくぐって国道2号に合流する。

左手に刀の鍛冶場として知られた長船(おさふね)集落をみやりながら国道は吉井川沿いに南下していく。二股で国道を左に分け右の土手道を備前大橋に向かって進む。右手に「明治天皇巡幸記念之碑」が建っている。この辺りに渡船場があった。街道はすぐ先の備前大橋を渡るが、ここで長船町の福岡集落に寄り道する。今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」所縁の地で人気があるということだ。

黒田家の起こりは、近江伊香郡黒田村(現長浜市木之本町黒田)に住む佐々木源氏の末流、京極氏信の孫・宗清(宗満)が姓を黒田に変えたことに始まる。その後黒田高政の時足利幕府の勢力争いに巻き込まれ、永正8年(1511)近江を出て当時山陽道随一の商都といわれた備前福岡に移住し、そこで財と力を蓄えていった。大永5年(1525)、高政の子重隆はその子職隆(もとたか)を連れて龍野を経て姫路に移住、御着城主小寺家の家臣となった。

職重は小寺家の信任をえて姫路城代に任ぜられる。天文15年(1546)職重の嫡男として姫路城で誕生したのが軍師黒田官兵衛である。後官兵衛の子長政が筑前一国を与えられると共に移住。高政の故地・福岡の名を取って福岡城と名づけた。福岡県・福岡市のルーツはここ備前の福岡である。

備前大橋を通り過ぎて堤防の道(県道464号)を南に歩いていく。右手河川敷にある長船CCあたりに備前福岡城があった。

土手を下りて福岡集落に入って行く。海鼠壁土蔵、土壁塀、格子造りなどを備えた重厚な家並みが連なる。特に二階の壁のみならず屋根の妻側にまで黒漆喰の上に白漆喰で海鼠など幾何学的模様を入れる装飾は三石以来、ほとんどの集落で見かけてきた。岡山県独自の建築様式か、それともより広範な中国地方特有のものか、今後が楽しみである。

その中の一軒が仲ア家である。複数の郡にまたいで土地を所有する大地主であった。建物は明治時代最末期から大正時代にかけて建てられたもので、週末だけ公開されている。

その先左手の妙興寺には黒田官兵衛の曽祖父高政の墓をはじめ黒田家の墓がある。永正8年(1511)近江から当地に移住してきた黒田高政は十数年過ごしてこの地で亡くなった。重隆、職隆(もとたか)はその後姫路に移り御着で小寺家に仕えたこと前述のとおりである。

妙興寺前の通りを西に歩いていくと右手集会所の敷地内に「福岡一文字造剣之地」の碑を見つけた。福岡一文字刀は鎌倉時代初期の則宗を始祖とし、鎌倉中期にかけて多くの名工を輩出して黄金時代を迎えた。刀工たちの居住地である福岡庄は当時皇室の庄園で、皇室の庇護を受け安定した生活の中で鍛刀していたという。

吉井川の堤防に突き当たったところに恵美須宮があり、その前に「福岡の市跡 一遍上人巡錫の地」と刻まれた石標が建っている。そばの説明板には鎌倉時代の荘園内で開かれている市に一遍上人が遊行に現れた様子が描かれている。刀に手をかけた三人の武士に立ち塞がれた老人が一遍上人だろうか。福岡に隣接して一日市(ひといち)や八日市などの地名が残っており、いずれも荘園時代からの市が立った場所を示している。

堤防に上がって備前大橋にもどる。橋の半ばで瀬戸内市から岡山市に入る。

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藤井 

橋を渡って左折、堤防上の国道2号を行く。一日市信号で街道は右に土手を下りていくが、左手の堤の中に大正2年建立の明治天皇御駐蹕碑と、その近くに小さな一日市一里塚碑が草に埋もれるようにあった。この辺りは吉井川のもう一つの渡し場であった。

国道から土手を下りていく道に「旧山陽道」の標柱と、その先に文政4年(1821)の常夜燈がある。

一日市集落に入り、まもなく右手の民家駐車場の奥に「一日市宿場跡」と書かれた標柱がある。一日市は吉井川の渡し場に形成された間の宿で本陣や旅籠があって、川止めの際にはかなり賑わっていた。上流には津山、下流には西大寺まで高瀬舟が行き来し、上流より木材、米、下流より塩などが運ばれ、下流の福岡と共に交通の要として栄えていたという。

左手に小さな祠が二つ並んでいて、その奥に禅僧嵐渓の句碑がある。「駒鳥や藤戸をわたす朝霞」と刻まれているらしい。

道が右に曲がるところに文化5年(1808)の題目碑が立っている。

福岡神社の鳥居を通り過ぎ国道250号を渡り道なりに倉安川の右側に移ってなおもいくと川の対岸に社柱と天保3年(1832)の常夜燈が見えてくる。その下に「右和田八幡宮」と刻む小さな道標があった。和田八幡宮は国道2号の東側にある。

街道は右に大きく曲がり県道37号を横断する。沼川の手前右角に大正6年(1917)の指差道標がある。「せとえき美作津山道」「神戸大坂道」「岡山廣島道」と刻まれている。

砂川を渡り、街道は丸山の北麓を巻くように進む。一度国道と接近した後二度目で国道に合流、すぐに反対側の旧道に入る。青津池に突当り、右折して山陽本線の踏切を渡る。

踏切を渡って街道は「旧山陽道」の標柱に従って左折する。反対方向の二又の付け根に「右のぼり道 左作州道」と刻まれた道標があった。

道は緩やかな上り坂になっていて、このあたりに昔は茶屋があったという。なんとなく情緒ある家並みが続いている。

新幹線に200mほど沿って歩き中尾架道橋を潜って左折する。もちろん一本の旧道を新幹線が分断しただけの話である。

二股を右にとるとすぐ左手に中尾往来館という名の公民館前に「旧山陽道」の標柱がある。

街は中尾から上道北方を通り抜け鉄(くろがね)集落に入る。

醤油屋の先の十字路手前右手に天保10年(1839)建立の常夜燈がある。確かに棹部分に銘が彫ってあるが、上部の石はとても200年近く前のものとは思えないするどい切り口を見せている。

十字路の南西角には安国寺跡の経塔が残っている。観応元年(1350)備前安国寺が建立された。安国寺は足利尊氏が国分寺の制にならって全国各地に建てさせた臨済宗の寺である。戦火で焼失して荒廃した安国寺を再建して記念に干時10年(1624)経塔を建立したとある。

藤井宿の落ち着いた町並みに入ってきた。右手に総社八幡宮があり、参道入口には「藤井」と題した宿場の説明パネル石が置かれている。それによれば山陽道は度々そのルートが変遷しており、宇喜多秀家の付け替え(藤井-長岡-原尾島-森下-内山下(桜の馬場)により、宿村(現在は岡山市古都宿)に替えて、藤井が宿駅となった。最初一軒だった本陣(安井家西本陣)は後に追加され、西崎家が東本陣を勤めるようになった。

左手に東本陣であった角屋西崎家があり、少し先右手に西本陣であった安井家がある。安井家は門塀を構えた大きな屋敷で土塀がいかにも古い歴史を感じさせる。空き地の奥に一本の大木が枝を広げその前に明治天皇御駐輦碑が立っている。ここも安井家の敷地であろう。

藤井宿の西端丁字路右手に素戔鳴神社がある。北に出ている道に珍しい三脚の常夜燈が建っている。この道は「新往来」といわれる。幕末の元治元年(1864)幕府が長州征伐を断行すると、備前藩では長州征伐に赴く諸藩の藩士が岡山城下を通過することを回避するため、一時的に山陽道の岡山城下の通過をやめ、その北方を迂回させた。藩は藤井宿から北に山陽道をつけかえ、宿奥、奥矢津、牟佐、旭川渡りの新往来を建設し、諸大名をはじめ、全ての山陽道通行者に新往来を通行させるようにした。

素戔鳴神社の随身門よこに備前焼瓦をのせた土塀の一部が残っている。

藤井集落を出たところの丁字路で北西に延びている細道は古代山陽道である。備前国府(現国府市場)を通って西進していたと考えられる。

街道は古都宿という集落を過ぎる。古代山陽道の駅があったと思われる。山陽道の付け替えに伴い藤井宿に替わった。それにしても「古都宿」とは郷愁を誘う名ではある。

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岡山 

近世の山陽道は新幹線の高架下をくぐり、山陽本線と赤穂線の踏切を渡って真っ直ぐな細い道を南西に進んでいくと東岡山駅に通じる県道との交差点にさしかかる。角の岡山長岡郵便局前に明治38年の道標があり、「長岡駅 西大寺観音道」「岡山玉島 神戸大坂京道」と刻まれている。

国道250号の一筋北の一車線幅の細い道を西進する。3.5km近く歩いて百間川堤防に突き当たる。その手前の信号で左折して堤防下にでると土手の中腹に石塔群がある。ここが渡し場跡である。最近ではここに橋が架かっていたようで、地図をみると対岸の旧道復活地点まで百間川を跨いで点線が引かれていて原尾島の1丁目と2丁目の境界線となっている。

現在は上流に架かる尾島橋を渡る。渡ってすぐ左折して旧道復活地点まで堤防を進むと旧道に降りる石段がある。降りたところに海鼠壁土蔵が建っていて旧街道の面影を残していた。

原尾島3丁目信号を渡って八丁畷と呼ばれた真直ぐな道を進み、国富で大きな交差点を斜めに渡って森下町に入る。最初の十字路に岡山城下への入口である惣門があった。右手にその説明板が立つ。天正元年(1573)宇喜多直家が岡山城下町の入口として惣門番所を設けた。

左手に古い建物が3軒続いている。二階を白漆喰と海鼠壁に揃え、また本瓦葺きであることからも新しい家を挟んだ2間はもと一棟の町屋だったのではないか。

左手に明治の文筆家内田百關カ家を中心にした楽しそうな絵地図を見つけた。百閧フ作品に出てくる場所を中心に解説を添えた地図である。

御成川を勲橋で渡る。街道を離れ川縁へ出てみた。堤防道脇の緑地内に内田百闍L念碑園の石碑がある。

河原に二艘のボートが繋がれている。このあたりが伊木の渡し跡である。岡山藩筆頭家老だった伊木家の屋敷が付近にあったことから渡しの名になった。

勲橋にもどり、街道は中納言町の路面電車駅にでて右折し、小橋、中橋、京橋で旭川の中州を渡っていく。

京橋の東詰めで中洲の西中島に降りてみた。江戸時代は旭川の船宿が建ち並んだ中洲で、明治時代になって船運が衰えると遊郭ができて賑わった。川東にあった旧六高(岡山大学前身、跡地に岡山朝日高校)の学生が遊郭客が行き交う中島を通って市内にでるのは教育上よくないという理由で明治39年、京橋の上流に相生橋が架けられた。西中島東側の川縁には今も出格子や二階の手摺窓など、情緒ある旅館風の建物が残っている。

京橋を路面電車がのんびりと渡っていく。電車の色は見るたびに異なっており車体まるごと、広告主のデザインに任せているようだ。

京橋の西詰め南たもとに岡山市道路元標があり、ここが交通の要衝であったことを示している。その横に橋姫稲荷大明神があり、その前道路に面して里程元標が建っている。「明治40年8月岡山縣里程元標岡山県橋本町」「藤井貳里壹町五拾八間壹尺」「真金貳里貳拾貳町貳拾貳間」と刻まれている。

京橋の南袂花壇に迷子しるべがあり、「たつぬる方」「志らする方」と太い字で深く刻まれている。傍には「京橋渡り初めの図」の石版画がある。中州をつなぐ木橋が三つ連なっていて、京橋の西詰めには番所門が設けられているのが分かる。

街道は京橋交差点を渡って西大寺町アーケード商店街に入っていく。二筋目で北に方向を変える。ここから市内で最も繁華な表町商店街である。すぐ右手に「おきな菓子司」と「漆器雑貨」を商う老舗店が並んでいる他は新しい店舗が軒をつらねる800mほどのモダンなアーケード商店街である。宇喜多直家が城下町を作った際、備前福岡から多くの商人をよびよせ福岡町と呼ばれていた。商店街は北から上之町、中之町、下之町、栄町、紙屋町と連なっていた。旧上之町南と下之町にはその由来を記す記念碑が設置されている。ほぼ中央の旧下之町に市内最大の百貨店天満屋がある。本陣は下之町と栄町にあったというが、史跡標識類は一切ない。

表町商店街は市電が走る桃太郎大通りに出て終わる。街道はここを左折して駅方面に向かうが、寄り道をして岡山城と後楽園を見ていくことにした。

天正元年(1573)宇喜多直家が現在の岡山城の西、石山にあった城砦に入城した。天正18年(1590)その子八郎秀家が石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597)天守閣が落成するにおよんで城普請は完成した。岡山城はその後池田家が12代に亘って居住し明治に至る。天守閣は、二階建の建物を大中小の三つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒塗りであったことから「嗚城(うじょう)」の別名がある。昭和6年に国宝に指定されたが、第2次世界大戦で焼失、現在の天守閣は、昭和41年(1966に鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。

本丸跡の片隅に建つ月見櫓は元和年間から寛永年間前半(1620年代)にかけて池田忠雄が城主であった時に建てられたもので国重要文化財である。

月見橋を渡って後楽園に入る。振り返ると旭川をはさんで美しい岡山城天守閣の姿を一望できる。

後楽園は池田綱政が貞享4年(1687)から元禄13年(1700)にかけてつくった回遊式大名庭園で水戸の偕楽園、金沢の兼六園とならんで日本三名園に数えられている。

池や築山の周囲に延養亭
廉池軒の茅葺建物が配置され、藩主の休息に供された。「流店(りゅうてん)」という停舎は建物の中央に水路を通し、中に美しい色の石を配した珍しい建物である。数人の作業員が水路に入って竹箒で水を撹いている。水中にゴミがおちているわけでなく、コケがつかないように石を洗っているのだ。

桃太郎大通りにもどって西に向かう。街道は柳川交差点を渡って一筋目を右折し北上する。250mほど行くと右手に金刀比羅神社がある。その先二筋目の十字路で後楽園通りを左折する。

西川を渡り岩田町信号交差点で岡山駅北側の線路に突き当たり、地下通路をくぐって西側に出る。地下道出口脇に智明権現と地蔵尊、地神が集められている。

奉還町東交差点で西口筋の大通りを横切ると奉還町商店街に入って行く。同じアーケード商店街だが、表町商店街と違ってこちらは庶民的な店並を見せている。「奉還町」は明治維新で職を失った士族が、藩から与えられた家禄奉還金を元手に街道沿いに商売を始めたことからきた。

奉還町3丁目の左手、防犯防災センター(御津郡役所跡)前に大きな「旧山陽道マップ」の案内板が建っている。東は一日市宿から西は吉備津神社まで、広域にわたって旧街道の史跡を案内している。これと同じものが京橋辺りにもあれば大いに役立ったことである。

大きな通りを横切って4丁目にはいるとアーケードはなくなって明るくなった。松井青物店横の細い路地に朱塗りの鳥居が三柱建っている。稲荷のようだ。神体は他所に移されたが鳥居だけが取り残されたのだという。鳥居をくぐった奥の空間はカフェの中庭のような雰囲気であった。

街道は奉還町西口交差点で国道180号を斜めに横切って、その先水路に沿った旧道が国道180号の一筋北に続いている。このあたり国神社の門前町の三門(みかど)地区で、東町、中町、西町と続いている。沿道には一階には格子窓、二階の黒漆喰壁には海鼠模様を施した古民家が建ち並び風情ある街並みを呈している。

右手、石橋をわたり元禄15年(1702)建立の鳥居をくぐって250段にも及ぶ急な石段を上がっていく。貞観2年(860)創建の式内社だが、由緒書きなどはない。息をい切らせて上がってきた割には社殿は簡素なものだった。但し上からの岡山市内展望がよい。

街道は五差路に突当り右斜めの北西方向に進む。右に成願院、常福寺をみて国道180号に合流、厳井富山町信号で国道を離れて左斜めに坂を上って行く。万世山を大きく左にまわりこむように坂が続き、上がりつめた所で左手の高台に大きな題目石が数基並び立っている。高台に上がってみると万世山の麓に低い石積みが残されていた。山頂には富山城の鎮守として北向八幡宮が建立されていた。

街道は下り坂をおりて万世西町から竜王谷川を渡って矢坂東町に入る。右手の矢坂東町集会所茶屋の前に「笑塚」がある。笑塚の由来はわからないが表面に芭蕉の句が刻んである。「八九間空に雨降る柳かな」

集会所の横に自然石の常夜燈が建ち、後ろには題目石が7基一列に並んでいた。
街道から離れて笑塚とは反対側の川沿いの道の突当りに北向八幡宮がある。寛平年間(889〜97)に矢坂富山城主の富山大掾重興が、城の東方に続く万成山の頂きに社殿を建立したのが始めという。明治27年に山頂から麓の現在地に遷宮された。

二階を海鼠壁にした民家は岡山県に入って以来各地で見てきたが、ここでも数軒みられる。

左手に「矢坂本陣」の石標が立つ民家がある。石標はこの住人の私的なもののようだ。矢坂は間の宿であったか、茶屋がある立場であったのか、説明板はない。

左手角地に格子出窓を設け二階は黒漆喰壁に方形の模様を施した趣ある旧家が建つ。西側には三階建ての重厚な白壁土蔵を配している。土蔵の二階と三階には黒帯状に海鼠壁を施している。一階の袴は黒々とした焼板壁である。

街道は国道180号と合流して矢坂大橋で笹瀬川を渡る。

寄り道 倉敷


備前から備中に移るに際して、拠点も岡山市から倉敷に移動した。倉敷は備中国の盟主として政治経済の中心地である。昔から備前・備中は互いに張り合って、岡山市と倉敷市は仲が悪い。倉敷は山陽道の宿場でないので、その美観地区といわれる所を散歩した際の写真だけを載せるに留める。買い物や建物の中に入ったりしなければ1時間で済む。

(2014年5月)

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