山陽道(西国街道)2



御着−姫路鵤−正條−片嶋有年梨ヶ原−船坂峠

いこいの広場
日本紀行
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御着 

播州倉庫の前、国道2号「小林東」バス停脇に
「佐突(さつち)駅家跡」の石碑が立っている。古代播磨の国に設けられた駅家の一つだが、早い時期に廃止され延喜式にその名は載っていない。碑の周辺を見る限りではありふれた国道風景だが一筋北にはいり旧道を歩いてくと、野口でみた駅ケ池のような溜池がいくつもみられ、こんもりした小山を背後に古代の風景が残されている。

別所町北宿集落中ほどに「六騎塚」がある。南北朝時代の延元元年(1336)足利尊氏の軍に敗れた児島範長主従六騎がここで自害した。亀形の台の上に碑が建つ珍しいものだ。駅前から来る道との交差点角に別所村道路元標がある。静かなたたずまいの別所集落を抜けていくところに弁慶地蔵堂がある。別所は弁慶の母の生地である。姫路の書写山に預けられた弁慶が京からの帰途、この村の庄屋の娘玉若と狭いお堂の中で一夜を共にした。話が飛躍しているが、詮索すまい。

街道は別所口西交差点で国道を斜めに横切り、別所町
佐土(さづち)集落を抜けると御国野町御着に到着する。駅家の「佐突(さつち)」は「佐土(さづち)」の古名であろう。雨のせいかもしれないが、御着の町並みは今まで見てきた旧山陽道沿い集落以上に静かで落ち着いていてしっとりしていた。どこの家も塀を見越して植木が茂っている。集落入口にある延命寺は明治天皇行幸の折の小休所である。左手に「都市景観重要建築物」のプレートが張られた井内家住宅がある。寄棟造りの大きな瓦屋根に格子窓をしつらえた二階の白壁があかるく映え、一階の連子格子が全体を美しく引き締めている。右手にある御着公会堂が本陣跡である。公会堂は何の趣もない建物で、向かいの旧家こそ旧本陣かとまちがえるほど立派な家だった。御着宿は加古川−姫路の間宿だったが位置的には圧倒的に姫路に近い。

街道をはなれ、国道の北側にある
御着城址を見る。戦国時代、赤松氏家臣小寺政隆が築城、60年後秀吉に攻められて落城した。となりに黒田家の墓所がある。秀吉に仕えた天才軍師黒田官兵衛は小寺氏家臣であった。城(というより館)を模した公民館でしばし雨宿り。お年寄りたちが三々五々二階へ上がっていく。

天川を渡り、山陽新幹線のガードをくぐったところで右におれて、再び新幹線ガードをくぐり(勿論二度ガードをくぐらずに済む行きかたもある)
播磨国分寺跡をたずねる。学校の運動場のような広い敷地の一角に伽藍遺構が復元されている。

街道にもどってすぐ左手、工場の塀を背にして
一里塚跡の標識がたっている。西宮から何里目とも書いていない。明石を出て以降、旧道が延々として残っているが、いまだに「塚に榎」という典型的な一里塚を見ていない。一里塚跡の標識さえもめったにみなかった気がする。

街道は四郷町山脇集落をぬけ、市川にでる手前の崖裾に二基の石碑が立っている。一つは日蓮宗の題目碑で、川に近いほうは寛延2年(1749)の大洪水による溺死者408人をとむらうための菩提碑である。旧道は新幹線と山陽本線のガードをくぐって市川の土手を北上する。大洪水の源となった市川を渡り姫路市内に入っていく。昔は市川橋の位置に
「一本松の渡し」があった。

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姫路

市川橋をわたり市川橋西詰交差点を右折して、ケーズデンキの西側向かいから斜めに出ている路地に入って
京町を抜けていく。現代風の建物ながら、控えめなうだつとも目隠しともみえる民家が散見されて、町屋の名残を感じさせる小路である。広い国道312号(但馬街道)を横切り、突き当りを右におれて城南線の広い通りに出る。JR播但線の高架をくぐり右折して京口公園に出る。公園南側から西に進んだところ、東光中学校の東側に姫路城外堀が残っており、そこに姫路城の外京口門があった。姫路城下への東入口である。

そのまま西へむかい国道372号(播州路)を越え中濠にぶつかる。右におれて賢明女学院の東南角、鍵型にまがる濠の内側に
内京口門があった。西国街道(姫路からみれば京道でもある)にすぐつながる位置にあるため京口とよばれたものである。

その西国街道は外京口門からの道が中濠に突き当たるひとつ手前で左折して、国道2号を横断して古二階町で右折し、鍵の手に
二階町のアーケード商店街へ入っていく。どこからとなく線香のにおいが漂ってきて、京都の京極を思わせる通りである。

西二階町との境は姫路駅と城を結ぶ広い大手前通りが縦断しており、北方に世界遺産の
姫路城がその優美な姿を浮かばせている。城に向かうと家老屋敷の店先から甲高い呼び込み声が飛んできた。桜門橋をわたって大手門をくぐる。城内の三の丸広場の向こうに城郭建築の手本のような白鷺城がその端正な姿を表した。天守閣はひとつだけでない。5層7階の大天守と3つの小天守が渡櫓(わたりやぐら)でつながっている。長城をおもわせる長い白漆喰の城壁と櫓が現出するパノラマの広がりがすばらしい。桜の季節にはなお一層華やいだ風景をみせてくれることだろう。

城前の大手前公園から派手な鳥居をくぐって射楯兵主(いだてひょうず)神社による。
播磨国総社として歴代姫路城主の崇敬を受けてきた。播磨国174の神社を一まとめにして合祀している。 総社は新任の国司が地元の神々に参拝する負担を軽くするために考案されたシステムである。

姫路は播州を束ねる交通の要所でもあった。
国道312号に沿って生野峠を越え山陰城崎へ通じる
但馬街道
国道29号沿いに戸倉峠をこえて鳥取城下にいたる
若桜(わかさ)往来
国道372号で山中の笹山、亀山を経て京都丹波口にいたる
播州路と笹山街道
いずれも山陰道とを結ぶ道である。
姫路には2度3度と来ることになるだろう。一度は桜の時期に。笹山街道は秋がきれいそうだ。城崎は雪景色が合うかもしれない。又、
お夏清十郎の比翼塚や但馬屋跡など今回姫路市内で見切れなかった場所もある。

大手前通りをもどって旧道筋である西二階町を通り抜ける。かすりや洋傘店の前の街柱に
「椀箱屋三木氏本陣跡」の札がとりつけてある。本陣跡とあるが脇本陣である。

城下町初期の豪商で、18世紀始め本陣となる。当主は三木助右衛門、地理学者伊能忠敬測量日記に文化2年(1805)11年止宿あり


^
アーケード商店街が終わり飲食店やキャバレーなどが並ぶ猥雑な空気に包まれた福中町で、船場川手前の筋を左折すると、電柱に取り付けられたパネルから、かわいい千姫が道案内をしてくれる。
うずみ門筋 城の西玄関(備前門)から入り中濠の南西隅の埋門(うずみもん)、櫓を経て登城する道筋 




魚町で突き当たり、右手の船場川に架かる緑橋袂に備前門があった。
備前門跡(外濠) 城の西玄関。備前の国(池田輝政の子の所領)へ通ずると名付けられた。西国街道の要所



寛政9年12月、小林一茶が西国の旅で姫路に立ち寄り、この門の前で一句を詠んだ。

  
外堀の 割るる音あり 冬の月 

緑橋をわたった右手に「味処一茶」とあるのは偶然か。

船場川をこえ、大通りの一筋西を北上する。途中、左手の
本徳寺に寄る。明治天皇行在所であった。本堂は大屋根のスロープが美しく、幅の広い回廊を配した堂々たる構えである。山門も立派だ。境内も広く由緒ある名刹の風格をそなえているにもかかわらず、全体の雰囲気になにか大雑把なところが感じられ、建物や境内の手入れもかならずしも行き届いていないように見受けられる。それがかえって、気取らない無頓着な古寺の空気を醸して、親しみを感じさせる不思議な寺だった。

国道2号を横切って長屋のような船場東ビルの通路を通り抜け
龍野町に入る。右手船場川沿いに西国街道の新しい石標がある。旧街道が通る龍野町1丁目から5丁目まで、二階町のような商店街を形成してはいないが、沿道には古い家構えの町家が多く残っている。1丁目の初井家は都市景観重要建築物である。3丁目にある春霜堂は明治大正歴史資料館として、ガラス戸にレトロな蓄音機のポスターが張ってあった。

街道は龍野5丁目でつきあたりを左に折れ6丁目の町並みをぬけていく。丸みを帯びた切妻屋根に一階の格子作りが美しい旧家が目をひく。国道の車崎東交差点の北でV字形に方向転換し水尾川をわたって
今宿にはいる。高岡郵便局の手前に新しい「西国街道」の標石が立っている。

西今宿で久しぶりに国道に合流するが播磨高岡駅前をとおりすぎ、線路を高架でまたいだところで再び国道と分かれて右の旧道を
下手野の集落へと入っていく。下手野公民館脇に高岡郵便局横でみたのと同じ「西国街道」の標石が立っていた。
県道516号との交差点右手の水路脇に明和4年(1767)の古い
道標がある。「圓光大師二十五番霊場」「右第一番みまさか誕生寺道」「左たつの道」と刻まれている。

夢前川(ゆめさきがわ)の土手に出る角の民家先に、文政10年(1827)建立の大きな金比羅大権現
常夜灯がある。ここが渡し場跡だった。対岸からも道がでていて旧道につながっている。

県道724号を横切った旧道入口に姫路市内最大という
五角柱の道標が立てられている。安政2年(1855)の建立で、南面に「左 備前・九州・金比羅・宮島往来」西側面に「すぐ姫路・大坂・京・江戸往還」北面に「右 因州・伯州・作州・雲州往来」ときれいな文字で深く彫られている。さらにそれぞれの下部には、彫りが浅くてわかりにくいが各所までの里程がきめ細かく刻まれていて一級品の道標である。

青山集落にはいるとまもなく左手に立派な家がならんでいる。白漆喰の虫篭窓に出格子をそろえた町家風の旧家が3軒つながっているように見える。道標が示すように青山は山陽道と出雲・因幡街道の分岐点にあたり、制度上の宿場ではなかったものの、旅籠や特産の和紙を扱う商家で賑わった場所である。
青山5丁目のおわりで一旦国道に合流し、青山西5丁目交差点で左の旧道にはいり、国道に平行して西に進む。

坂道が左に曲がるところに二体の石地蔵があり、隣に青山史跡保存教会による
「旧山陽道山田峠登り口」の立て札がある。すぐ先の二股を右にとり順海寺道標を右に見て山田峠を越える。峠道は短く、越えた左手に古道が残っている。たどっていくと、すぐに道は林の中に消失していた。姫路市とわかれて揖保郡太子町に入ってくる。町名は聖徳太子の太子である。

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鵤・正條片嶋

山田峠の坂をくだって、二股道を右にとると
山田集落に入っていく。小さな集落だが古い家並みの中に「明治天皇山田御小休所」の標石と、文部省による「説明」書き札を設置した旧家がある。

国道2号バイパス高架をくぐり「山田」信号で国道179号に合流する。北山の南裾をまわりこみ、「原西」信号で右の旧道に入る。丁字路分岐点にゴルフ場の大型案内板、その横に古臭い題目碑、その後ろには「大衆演劇」の看板がなつかしいヘルスセンター、国道の両側にはレストランなど、人の需要をみたそうとするごちゃ混ぜの風景がおかしかった。

原坂の峠を越えたところの左手竹やぶに
「桜井の清水」がある。播磨十水のひとつという名水だそうだが、今は石で囲って蓋をしてあって使える様子でなかった。さらさらとした竹の落ち葉が心地よい。

原坂を下り、田中公民館の辻にいろいろなものが集まっている。
「片袖式古墳」の石標と木標、大きな自然石の常夜灯と黒岡神社の石鳥居。少し先に行基作という「太田の地蔵様」がある。


大津茂川を栄橋で渡り、まっすぐ進んで「東出」歩道橋の下で179号にでるがほどなく「東保」信号先で国道とわかれ、旧道はそのまま
鵤(いかるが)宿の町並みに入っていく。ちょうど国道を歩いているときにミドリ電気の前で大阪から100km地点を通過した。

鵤の地名は推古天皇14年(606)聖徳太子が推古天皇よりこの地に与えられた鵤荘に由来する。「斑鳩村道路元標」の辻を進んでいくと右手
斑鳩寺への参道入り口両側に「聖徳皇太子」と彫られた常夜灯2基が立っている。参道は国道をよこぎって斑鳩寺の仁王門前に出る。多くの仁王門が金網で囲まれているなかで、ここは何の隔たりもなく至近距離から親しく撮らせてもらった。白木作りで、やや痩せ型面長の実直そうな仁王である。大小の藁ぞうりがぶら下げてあった。広くて清潔な境内には大木が朝日の木陰を落とし、講堂、鐘楼、三重塔などが整然と配置され、心安らぐ空間である。そんな中、母親に見送られた児童が集団登校してきた。となりの小学校へいく近道になっているらしい。しばし体をやすめて、街道にもどる。

地名や看板には「斑鳩」と「鵤」の文字がランダムに使われているようである。1400年もの歴史をもつ由緒ある古い土地だが基本的には門前町であって宿場としてはさほど活躍していなかったように思われる。本陣は鵤東本町にあったようだがその気配はない。一軒だけ元旅籠ふうの古い建物をみかけただけで、町並みとしてはすこし物足りなかった。実際、鵤宿は人馬の継立てはしない宿場であったという。半宿とでもいおうか。

鵤の集落をぬけ、のんびりした下阿曽集落を通る。林田川の手前に茶屋垣内地蔵がある。付近に一里塚があったらしい。堤防下の明るい田園風景のなかで、三人のおばあさんが御堂に仲良く腰掛けて並んでいる。黙ってカメラを向けていいものか、許可を得て撮るほどのものか、もっとはなれて超望遠レンズで隠し撮りしてみようか、しばらく考えたがどうでもいいように思えてきて、地蔵の記録写真はあきらめることにした。

林田川を少し北の誉鳩橋で渡って、たつの市に入る。昔は徒渡りであった。

西側の堤防を左にはいると、土手を下っていく旧道が続いている。
「庄屋弥右衛門顕彰碑」の前を通り、道なりに揖保町門前、揖保小学校の南側を通過し、新幹線を左に見ながら広々とした畑中の道を行く。造成されたばかりの広い敷地に幾層にも立派な屋根をかまえた民家がぽつんと建っている。やがて道はUCCの工場につきあたり、国道で迂回して揖保川をわたる。橋の上まで香りよいコーヒーの匂いが流れてきた。

揖保川大橋を渡り左に折れ山陽本線をくぐり堤防に出る。すぐ右におりていく道が旧道で、ここに
「正條の渡し」があった。いつも数隻の高瀬舟が待機していたという。堤防の道を右に下りずにそのまま行くと果ては室津に通じる。室津街道と山陽道との分岐点がここなのか、それともこの先の郵便局前なのかしらないが、正條宿から室津街道が分かれていた。

揖保川郵便局の脇に道標があり、
「右ひ免ぢかうべ 左た津の山さき 道」と刻まれている。姫路・神戸は今来た山陽道で、龍野・山崎は北に向かう出雲街道筋である。ここより正條の渡し場角にあるほうがふさわしい。郵便局の前から南に道がでている。室津街道はここから出るのかもしれない。

郵便局の隣の井口家が本陣であった。「明治天皇御駐駕所碑」と刻まれた大きな石碑が立っている。
井口家本陣から正條の町並みを抜けていく。白壁に瓦屋根の落ち着いた家並みは美しいが、みなまぶしいほど新しくて宿場の情緒は希薄である。

龍野駅前を通過して原集落に入っていく。スポーツセンターの先の二股を左にとって山裾の細道をたどっていくと、馬路川の手前左手に
「旧片島本陣趾」の標石がたつ山本家が現れる。正條と有年の間宿であった片嶋宿の唯一の証である。建物は古くない。元の立派な門が近くの了福寺に移されていることを後で知った。

大きな西池を右に見て、たつの市から相生市
那波野集落に入る。

西宮宿から約20kmごとに兵庫・明石・加古川・姫路と大きな宿場を次いできたが、その後、鵤−正條−片嶋と小さな宿場がいびつに続いた。相生市に山陽道の宿場はなく次の兵庫県最後の宿場有年(うね)は赤穂市にある。相生の町は海沿いの港町で、新幹線の止まる相生駅前にはただ
「右さいごくみち左あこう城下道」と刻んだ道標が旧西国街道であることを伝えている。

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有年

相生から、旧街道と国道2号との乗り合いが急に増えてきた。大型車が激しく行き交うだけでなく、まともな歩道が設けられていない。深くかぶっているつもりでも幾度か帽子を飛ばされそうになった。若狭野町の鶴亀、上松、八洞集落を通り、国道が山陽本線をまたぐところで赤穂市に入る。有年駅の南側に旧道が残っており、
有年横尾集落を通っている。駅前の交差点南寄りの民家前に有年村道路元標があって、ここが有年の中心かとも思われるのだが、宿場はここでなく西有年にあった(その後東有年に移されている)。

町家風の旧家も残る静かな横尾の町並みをすぎると道は右に曲がって国道に合流する。交差点をそのまま進む道との分岐点に昭和3年の新しい道標があり、
「右 上郡鳥取道」「左 岡山広島道」と刻まれている。右の道は国道373号に入って上郡から上月(こうづき)に至る道である。そこで179号を右にとれば因幡街道で鳥取へ、また左にとれば出雲街道で米子に通じている。
左の国道2号に乗るとすぐ左の山すそに、地蔵ととなりあって
「池魚塚」と彫られた珍しい石塚が見えた。近寄ってみると、標柱に「道路改修資金のために売られた池の魚への感謝と供養の塚。天保7年(1836)の年号が見られる」と説明書きがある。よほど多量の魚であったか、高級魚であったか。

千種川を渡る。橋の上手の堤防に
「亀の甲」と書かれた標柱がたっている。「河川改修のためその面影はないが、有年橋左岸上流約100mの間の石畳のことを呼び、赤穂藩浅野時代の護岸・高瀬舟の荷積み場であった」。 念のため有年橋からその辺りを眺めてみたが、深緑色した静かな淀みがあるだけであった。千種川は赤穂の海に流れ出る

橋をわたって左の旧道に入る。有年宿の本陣があった東有年集落である。道は広くてまっすぐにのびていて見通しがよい。落ち着いた家並みながら、めだった古い家は見かけなかった。家並みの終わるあたり右手の空き地に
有年宿番所跡(旧松下家宅跡)の標柱が立っている。説明に「寛永年間に東有年に宿場が移された」とあるが、どこから移ってきたのかが、書いていない。後日教育委員会に問い合わせたら、最初の宿場は西有年の立場跡付近にあったという。

向かいの立派な家は現在の松下家住宅である。主屋と長屋門の間に白壁土蔵を配して堂々たる構えである。これが本陣ではと思ったものだ。

道はすぐ先の丁字路を右におれて東有年交差点で国道を横切り八幡神社の前を進んでいく。神社の石鳥居は1744年建立の古いものである。その先、白漆喰の練塀がまぶしい
長屋門が石垣の上に構えている。江戸時代の大庄屋であった有年(ありとし)家の住宅である。地名と同じ読みにしなかったのは遠慮したものだろう。

有年幼稚園の近くで民家の軒先に咲いている花を接写していたら二階の窓からおばさんが顔を出し、「あそこの畑の花、なにか知りませんか」と出し抜けに声をかけて下りてきた。畑に案内して、得体のしれない植物を指差す。「花は咲いたのですか」「前からずっと生えていたのですか」答えはいずれも「NO」で、突然地中から伸びてきたのだという。「植物図鑑でしらべたら
マムシなんとかに似ていたのですが…・」珍しいからぜひとも写真に撮っていけ、といわんばかりであった。「分かったら連絡します」と、住所・氏名をメモった。道沿いの肉厚の花を無造作にちぎって「これ挿し木でいくらでも増えるから。しばらくこのままでも平気」とサボテン類の茎を三本、新聞紙に包んでくれた。

路傍の石仏群を通り過ぎ、二股を左にとって淳泰寺の前を行く。右の道の先に立っている標柱が気になって見に行くと、
「西有年・堂場ケ市遺跡」とある。「弥生時代中期(約2000年前)〜江戸時代(約400年前)の集落遺跡である。室町時代(約650年前)の建物跡が最も多く見つかった」

県道90号と長谷川を渡り田畑の中の道を歩いていくと、右手に先ほどと同様な標柱が立っている。
「西有年・宮東遺跡」で「平安時代(約1200年前)末から鎌倉時代頃(約800年前)の掘立柱建物跡が多数見つかった。一緒に壷や、皿などの土器も出土した」と説明書がある。
有年地域一帯はずいぶん古い土地柄のようで、古代から人が住み着いていたようである。
大避(おおざけ)神社をまわりこむように右折し、小さな宮原集落の南端をかすめて長谷川沿いに国道2号を横断する。

右手に南北朝時代の
石造宝篋印塔、左手に一里塚跡をみて、上組橋で長谷川をわたる。茅葺をトタンで覆った民家が目を引く。赤さびたのか、赤く塗ってあるのか、トタン屋根の色と、肌色の土壁とが美しく調和して、暖かい色合いを見せている。このような風景が好きだ。

西有年には上組、北組、原組の三集落があって、最初の有年宿は西有年の上組に形成された。宿場が東有年に移った後も、旧宿場は立場として機能していたようである。親亀の背中に乗った小亀のような、大きな煙出しを頂いた土壁の魅力的な建物の隣に、立場であった大屋根の
三村家住宅が並んでいる。両方とも三村家の建物なのかもしれない。

有年峠に向かって集落を通り抜ける途中、二人のおじさんに出会った。「有年峠は通りぬけられますか?」と、どちらに聞くでもなく声をかけると、「そりゃ、むりだよ」、「いけるんじゃないの」と、可否両論の答えが返ってきた。二人の間で2、3のやり取りがあって、「行ってみて、自分で判断するんだな」という折衷案で落ち着いた。半信半疑で足を進めていくと、早速山道に入ろうとするところで金網のゲートがあって閉まっている。行くなということか。ロックをはずして入っていく。内側からロックし直すのが結構難しかった。有年峠は播磨箱根といわれたほどの難路であったという。今は国道2号が北を迂回し旧山陽道は廃道となった。国道から導入路をつけて、峠の横でゴルフ(赤穂国際CC)ができるほど容易になった。

轍の跡が残る道をすすむと左に
坂折池が見えてくる。池の淵につり禁止の立て札があって、その余白に「旧山陽道ヤブ多いが梨ケ原へ行けます」との書き込みがあった。楽観気分に浸れたのもつかのま。勾配が次第にきつくなるにつれ道も細ばり、轍は途絶え、草は深まり、ついに笹竹と草と倒木に塞がれる所まできてしまった。道に汚れたゴルフボールを一個見つけた。峠近くであることは分かったが、這っていく勇気をもてなかった。「自分で判断するとはこのことだな」と思いつつ、きっぱりと引き返した。もうおじさんたちの姿は見えなかった。

国道をいくしかない。ゴルフ場があるくらいだから近くまでバスが通っているだろうと、草刈をしていた青年に最寄のバス停をきくと、「国道にバスは通っていません」といわれて愕然とした。県境を目前にしてトラックの勢いはますます激しい。わずかな白線の内側を身を細くして歩いていく。帽子は脱いだ。

鯰峠をめざして左に大きくカーブする手前に大きな池があり、
「西有年・馬路池遺跡」の標柱がある。「縄文時代の石器が多数採取されたことで古くから知られていた遺跡である。ここで採取された石鏃や石匙などの石器は、有年生楢原の有年考古館に展示されている。」西有年遺跡はますます古くなる。
そばの木陰に石垣に組まれた「明治18年 今上天皇駐蹕(ちゅうひつ)之碑」が建っていた。

鯰峠で赤穂市から赤穂郡上郡町にはいっていく。兵庫県最西端の町である。

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落地・梨ケ原・船坂峠

坂を下ると視界が開けて落地集落が現れる。国道をはなれて県道5号沿いにある落地(おろち)遺跡を見ていくことにした。山すそを長い貨物列車が一直線に這っていく。このあたり、もともと今昔物語に大蛇伝説が伝わる古い土地柄で、散発的に瓦などの古代遺物が出土していた。平成2年から始まった一連の大規模発掘調査で、古代山陽道の
野磨駅家跡であることが判明した。駅家跡としては最初の国指定史跡に指定された。「史跡概要図」の「現在置」に立たって前の乾いた田んぼを凝視しているのだが、図にあるような地面の凸凹がどこにも見当たらない。視野を広めて見渡してみたがここ以上にそれらしき場所は見えなかった。埋め戻したとしか考えられないが、それでは国指定の意味もないし、キツネにつままれたような印象を残して、古代山陽道を梨ケ原に向かった。

梨ケ原は野磨駅家を通ってきた古代山陽道と有年峠を下りてきた近代山陽道(西国街道)が重なる貴重な場所である。古道から集落に入り、有年峠からやってきた近代山陽道が合流する角に、海鼠壁をめぐらせた豪邸が構えている。土地の名士宅であろう。

合流点から有年峠出口あたりまで遡行してみることにした。峠越えを断念した無念がまだ晴れていない。国道2号を横ぎり田んぼと林の境を上っていくとまもなく山道に入り、左側は猪除けの金柵で仕切られている。やがて足もとが草で埋もれるようになり、引き上げることにした。峠道は有年側よりよほど短そうだ。

合流点に引き返し、左におれて船坂峠に向かう。家並みが途絶えたところに梨ケ原・宿遺跡の案内板が立っている。中世から近世にかけての集落跡が発掘され、他方で南北朝のころ「梨原商人」がいたことを記す古文書が残っていること、また現在のこる「宿」の字名等から、このあたり一帯が中世山陽道沿いにおこった「梨原宿」ではないかという。古代からの交通の要所であったことは疑いないが、近世の宿場にはならなかった。

再び、整った梨ケ原の家並みを通り抜け、一旦国道に出るがすぐに右にはいって山陽本線の踏み切りをわたる。ちょうど貨物列車がさしかかるところで、長い長い車両の列を見送った。二股を左にとってゆるやかな坂を上っていく。播磨自然高原に通じる右側の道は古代山陽道の道筋らしい。近代山陽道は山陽本線、国道2号と並行して船坂峠へ向う。国道がトンネルにはいるのをみて間もなく、旧道も県境に到達した。

船坂峠はたびたび掘り下げられて、昔の峠はもっと高い位置にある。峠の岡山県側には車止めと倒木がトオセンボしていた。



(2007年5月)

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