北国街道(近江路) 



鳥居本・米原-長浜速水木之本(余呉)柳ケ瀬椿坂中河内・栃の木峠
いこいの広場
日本紀行


「北国街道」はどこからどこまでと統一された定義はない。越の国(現在の福井・石川・富山・新潟)を日本海に沿って縦断する古代~近代の幹線道路を指す場合はほぼ古代の官道「北陸道」に重なる。他方、江戸時代の中山道から大きく日本海側を迂回する主街道とする場合は信濃追分宿から高田までの信濃路と、越前今庄から近江鳥居本宿で再び中山道に合流するまでの近江路を前後に加えることとなる。今回の旅はその近江路の部分である。畿内から北陸に向かう場合の北国街道第1章として、中山道との分岐点から近江・越前国境の栃の木峠まで湖北55kmの道を旅する。


鳥居本・米原

近江鉄道フジテック前駅に降り立つ。35度の暑い夏の日であった。国道8号を400mほど南に下ったところ、矢倉川の手前を川に沿って左にはいると旧中山道との分岐点に着く。今年の五月に岐阜から旧中山道を歩いたとき、摺針峠から下りて下矢倉集落に出てきたところである。「左北国 米原きの本道」「右中山道摺針 番場」と刻まれた新しい道標を確認して、改めて北国街道を歩きだす。

国道にもどり、すぐ右手に大きな石標が建って、「旧中山道 明治天皇御聖蹟 弘法大師縁の地 磨針峠望湖堂」と刻まれている。碑は昭和52年(1977)に名神高速道路建設のための作業道路として、摺針峠からの山道にかわる車道が作られた時に建てられた。

北国街道は大型トラックが疾走する国道8号を北にすすみ、右手ラブホテル入口を越えたところで彦根市から米原市に入る。右手に出ている市境をなす道は旧道であろう。200mほどで国道にもどっている。さらに進んで飛騨運輸の先の信号交差点を右折しで旧道に入る。

祠が建つ二股を左にとって梅ヶ原集落を通り抜ける。家並みがとぎれ、山裾の道をすすむとふたたび小さな集落にはいる。親鸞会滋賀会館の道向かいに一里塚と思われるような大きな塚状の高みがある。樹木の茂みの中に東屋が建てられていた。そばに「梅香原」と記された標柱がある。ここの地名と同じ「梅が原」と読むのであろう。戦国時代の浅井家臣伊藤氏の屋敷跡だそうだ。

街道は道なりに国道に出た後、米原駅東口手前で再び右の旧道に入るが、先に米原湊跡を見ていくことにする。駅東口に石碑とモニュメントがある。米原は昔、内湖の奥に作られた宿場である。江戸時代に入った慶長8年(1603)、彦根藩がここに湊を造り、中山道番場宿を結ぶ道を開いて物流の拠点とした。米原は長浜、松原とならぶ彦根三湊として繁栄し、一方それまで古代より湖上輸送の要衝として栄えた天野川河口の朝妻湊は以降衰退の一途をたどることになる。

彦根藩の命を受け湊・運河の開削を請け負ったのが北村源十郎である。湊から街道に向かって6つの舟入りが設けられ、多くの蔵が建ち並んで賑わいを見せていた。現在の近江鉄道ターミナルの東側にひときわ大きな屋敷を構えていたのが北村源十郎本陣である。屋敷跡地は現在造成更地となっており、跡地を示すものもない。ただ明治天皇小休湯谷神社所となった奥座敷だけが近江鉄道開通時に湯谷神社境内に移築保存されることになった。

国道8号から旧道に入っていく。「南町通り」の標識が掲げられている道はちょうど車一台分の幅で旧街道の雰囲気を色濃く残しており、格子造りに漆喰塗の梲を設けた家が多くみられる。米原湊ができるまでは数軒の家があるだけの寒村だったが、幕末の慶応4年(1868)の記録によれば、家数185軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋16軒、問屋場1ヶ所、人口は900余りを数える宿場となった。左手に小刻みに細い路地が出ている。今はすべて国道に出る道だが、昔は米原湊の舟着場に抜ける道であった。

善行寺参道の一筋北の丁字路を右に入って坂を上がっていくと湯谷公園に突き当たる。右手奥に湯谷神社、その左手奥まったところに明治天皇小休所となった北村源十郎本陣奥座敷が保存されている。

背後の山は太尾山といい、中世の城址である。登らず説明板を読むにとどめた。

みどりと戦国ロマンの里山 史跡太尾山城址について
南北朝時代、源頼朝が平家を滅ぼすや、佐々木氏は戦功により近江の守護職に任ぜられて、この地が京都に通じる北陸道及び中仙道の要路のため、ここに小城を築づき警戒にあたった。 山城は、痩せた尾根を堀切って、左右の絶壁から敵の攻撃を不可能にする地形を選んで、山全体を利用して築かれた。 北条高時の時代(1316)京極高氏の支城となり、その後京極氏と六角氏の勢力争いが繰り返された境目の城で永禄4年6月(1561)、浅井長政は、六角方の吉田安芸守が守備していたのを攻め落とさんとしたが能わず 引き退した。元亀3年1月(1573)、織田信長の兵2万が佐和山城を攻め、ついで朝妻、太尾の両城を攻撃し、太尾城は灰燼に帰した。 この太尾山城は、北と南に主郭があり、別城一郭といわれ、今も見事に堀切や土塁、曲輪跡が残されている。頂上の城跡からは、琵琶湖や湖北、湖東、西江州が展望できる絶景の里山である。 太尾山城跡は、平成13年9月19日、米原町の史跡に指定された。  (尾根まで約20分)

公園の西縁を北にたどると旧米原尋常高等小学校正門に付きあたる。建築年は明らかでないが、途中建て替えられていないとすれば明治時代の木造校舎である。

街道にもどる。簡易郵便局がある辺りが宿場の中心地であった。今も土壁造りの商家が連なる家並みが残っている。

格子造りの近江屋旅館の先で道が二手に分かれる。分岐点に立つかめや旅館の前に追分道標があり「右中山道 ばんぱ さめがい」「左北陸道 ながはま きのもと」「弘化三年再建之」と刻まれている。右の道が米原と中山道番場宿を結ぶ道で、米原湊の完成を受けて慶長16年(1611)に開通した。

北国街道はこの三叉路を左にとる。左に曲がったところで国道に分断されその先旧道は失われた。国道を米原駅方面にもどって警察署前信号を右折して地下道で線路の西側に出る。その後、線路に沿った細道をたどり米原西区公民館前を通りすぎて米原保線所の北側の道を右折するとJR線にぶつかる。ここで右手新幹線と変電所の間の空地を通っていた旧道筋が復活している。

県道234号に合流するがすぐに左に分かれて、北陸本線の西側を北上し、次の十字路で旧道は途絶、十字路を右折して北陸本線を渡り県道556号に合流する。合流点の右脇に「国宝薬師如来」「やくし道」などの道標がある。

県道の多良口バス停脇で右斜めに旧道が復活していて、分岐点に「旧北国街道」の新しい道標が設置されている。旧道は200mほどで国道8号に分断される。右に50mほど移動して米原バイパスをくぐりぬけたところで天野川堤防道として旧道が復活している。

ここで寄り道をして歌枕朝妻湊を訪ねることにした。天野川に沿って琵琶湖まで歩く。河口の左岸(南岸)が古代から湖上交通の要衝であった朝妻湊である。奈良時代には大膳職御厨(朝廷の台所)がおかれ、都へ北近江、美濃、飛騨、信濃国等から朝廷に献上品、税物、また木材、食糧等と合せて役人、商人などを運ぶための定期便が大津、坂本港へ出ていった。

また朝妻は室津と並んで遊女発祥の地としても知られている。江戸時代の流行作家井原西鶴は「好色一代男」で「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」と紹介した。津を結ぶ渡し船は朝妻舟と呼ばれ遊女が同船して客を慰めた。あるいは湊に小舟を浮かべて一夜を共にした客を見送った。

朝妻は万葉以来からの歌枕である。

子らが名にかけの宜しき朝妻片山岸に霞たなびく  (万)柿本人麻呂

恋ひ恋ひて夜はあふみの朝妻に 君もなぎさといふはまことか (新続古今)藤原為忠

にほ鳥の息長川は絶えぬとも 君に語らむ言尽きめやも  (万)馬史国人  (息長川は天野川の古名)

おぼつかな伊吹おろしの風先に 朝妻舟は会ひやしぬらむ   (山家集)西行

集落の中程に朝妻神社がある。説明板には湊との係わりを示す謂れはなく、専ら七夕伝説に触れている。

グラウンドゴルフ場が整備された湖畔に朝妻湊址碑が建つ。公園内に西行と万葉歌の歌碑があった。

街道にもどる。堤防道から、飯村橋で天野川を渡る。昔はすこし上流のところに徒歩渡しがあった。

堤防から飯集落に入る。蔵や黒板壁の民家がみられ落ち着いた町並みである。徳善寺手前の路地を右折するのが旧道筋だが、「若宮公園」の標識が気になって、北陸本線の高架をくぐった右手にある公園によった。郷士若宮氏の顕彰碑の他、茅葺の家が復元されている。若宮氏の屋敷跡のようだ。山内豊一の妻千代は若宮家の出であるとされ、詳しい説明板があった。

旧街道は飯集落を枡形に折れて、県道556号に接したところで直角に方向を北に変える。県道との接点辺りに天野川の渡し場があったらしい。飯村橋からここまでの道筋はいわば現在の集落内迂回道で、旧道筋とは直接結びつくものでないようだ。

復活した旧道も坂田小学校にぶつかったところで右折して県道556号に合流、左折して長沢に向かう。

長沢御坊前バス停で左に入っていって長沢御坊とよばれる福田寺に寄る。山門と長屋門が繋がって広い境内の前面を囲っている。福田寺は天武天皇の勅願によって白鳳12年(684)に創建された古刹である。説明板によれば、近江の名族息長(おきなが)家の菩提寺とあるが、息長氏の出自から始まってその内容はよくわからない。明治天皇の小休所であった。

街道にもどり切妻造りの家並みが続く長沢集落を抜けると米原市を出て長浜市に入る。広域行政の合併を重ね、長浜市は今や福井県との県境まで広がることとなった。

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長浜 
  

田村町に入り左手に田村神社。右手には切妻平入り造りで、低い二階は漆喰壁一色、一階部分を板壁と荒格子窓で埋め尽くし中央に板引戸の入口を切っただけの美しい建物が目を引いた。民家かあるいは土蔵か、その中間的倉庫か。清々しい佇まいである。

旧道はこのあと屈折を繰り返す。道順だけを追う。

右手に「国宝薬師如来多田幸寺」の寺標が建つ路地を数メートル進んで左の細い路地に入る。右手田村山の裾を北上して突当り忍海(おしのべ)神社参道を右折する。神社前で左折し、寺田町セフィロト病院の先の十字路を左折。県道556号を横断して高橋町に入る。

三差路左手に高橋の里として小祠の隣に石碑がある。その三叉路を右折、五井戸川を渡って集落内を北上する。県道「高橋町」信号の西方の丁字路を左折し高橋町と大戌亥町の境道を二筋西へ、十字路を右折して今度は大戌亥町と下坂浜町の境界を北に進むと右から来る二本の道と合流する。合流点右手に安政5年(1858)建立の道標があり、「右京いせ道」「左北こくみち」と刻まれている。「右京いせ道」も、中山道に合流するまでは北国みちである。変則四差路を左折し「左北こくみち」をたどる。

JR北陸本線をわたると下坂浜町集落の甍並みの上に大仏が独り立っているのが望まれる。いつものことだが電柱と電線がなければと思う。

琵琶湖の手前で長浜新川をわたると集落入口に樹齢400年というさいかちの木がある。昔は「さいかち浜」とよばれるほど多くのさいかちの木が茂っていたそうだ。信長勢と戦った門徒集団の謂れが伝わっている。

集落に入ると左手良畴寺に先に眺めた大仏があった。高さ28mの青銅製で平成6年二代目として再建されたものである。

少し先の左手八幡宮の境内に犬塚がある。昔、葦が生い茂るこの辺りに出没した怪物を退治した犬の死を悼んで塚を築いて弔ったという。

旧道は北陸本線に接近しながら沿道は徐々に都市の風景を呈しはじめる。県道「湖岸平方」信号から出ている地下道に降りて線路を潜り階段を上がって旧道筋にもどる。

十一川橋をわたると長浜市街地に入る。
十一川橋から上流を眺める風景は白壁の土蔵が川面に写って、旧船場の趣を湛える風情である。十一町は秀吉による城下町割の際南北を11町に分けた。旧十一町(現朝日町)はその最南端にあたる。

街道の両側には白壁、駒寄席、格子、虫籠窓、梲と、町屋造りの家並みが軒を連ねて、街道の景観として申し分ない。昔、このあたり一帯は豪商
石居四郎平の屋敷だった。

左にレンガ造りの洋風建物、下郷共済会・鍾秀(しょうしゅう)館が建つ。下郷共済会は、米、肥料、油商を経て近江製糸(株)を創設して財を築き、長浜銀行頭取、貴族院議員などを務めた下郷伝平の長男、久成が設立した法人である。

その前に保存されている石組は米川から上げた荷物を北国街道まで運ぶための馬通り道を復元したものである。

右手、松岡製靴店の前に小さな石標があり、「従是北西長浜領」と刻まれている。慶安4年(1651)に建立されたもので、豊臣秀吉が天正19年(1591)の朱印状で定めた「三百石朱印地」の境界石柱である。長浜領は年貢免除の特権を与えられていた。

その先の十字路を左に入ると路地の両側に船板塀の土蔵が目につく。琵琶湖に就船していた和船の古板を活用し、火除けの願いをこめて使ったものだと伝えられている。左側には下半分を船板で覆い、上部はまぶしいほどの漆喰壁に塗り固められた土蔵が長々と続く。元船問屋の屋敷で、裏側は米川に面していた。

右側の船板塀造りの建物は所々に庇屋根つきの窓を開き、高さを違えて長大な塀をめぐらせ、見越しの松が配された趣ある佇まいを見せている。船町にふさわしい景観といえよう。路地を進んでいくと米川に架かる朝日橋に出る。左手には地ビール「長浜浪漫ビール」の入口で、川沿いに「長浜城外堀跡」の石標がある。元船問屋の船着き場だ。

北国街道に戻り、北に向かうと左手幼稚園前に明治天皇行在所跡の碑が建つ。ここは本陣を勤めた吉川三左衛門の屋敷跡地である。説明板の絵図をみると西側は米川に面していて船着き場が設けられている。大屋敷に限らず、街道と掘割に面して町割りがなされたようである。

吉川家は豊臣秀吉の命を受け長浜城下町を整備した町人衆のうち、長浜十人衆と呼ばれた中での最有力であった三家、長浜三年寄の一人であった。十人衆とは、本町の宮部・西村・下村・田辺、呉服町の安藤、大手町の樋口・大依・川崎、魚屋町の今村、舟町の吉川家で、三年寄は、舟町の吉川三左衛門家、本町の下村藤右衛門家、呉服町の安藤九郎右衛門家であった。現在、安藤家の他残っていないが、吉川家・下村家の跡地は親戚筋の下郷家が購入して、吉川家跡地の長浜市立長浜幼稚園、下村家跡地の滋賀県第一小学校となっていた。

駅前通りとの交差点角にある滋賀銀行の東側に「長浜三年寄下村藤右衛門邸跡」の石標が、北側には「滋賀県第一小学校跡」の石標が立つ。下郷家が引き継いだ後、滋賀銀行に移ったのであろう。

ここで長浜町散策はほぼ半分。ここで駅の西側に移って港町長浜を見ておこう。琵琶湖に面して豊公園があり、長浜城歴史博物館として天守閣が復元されている。天正元年(1572)に浅井長政攻めの功績で浅井の旧領12万石の領主となった秀吉は、小谷城から今浜に城を築き、信長の一字を拝領して長浜と改めた。小谷城下から町ごと移住させ城下町も急ピッチで建設された。秀吉の後は柴田勝豊、山内一豊、内藤信成らが長浜城主として居城したが、寛永10(1633)に井伊直孝が加封されると長浜は彦根藩領となり、城は廃された。城の一部分は大通寺の山門、彦根城へ移築された。廃城後は米原、松原港とともに重要な港町として、また北国街道の宿駅として栄えていった。又湖北の養蚕地帯を背景にして製糸業が古くから栄え、「浜ちりめん」は全国に知られる長浜特産品である。

公園を南に散策する。県道港町交差点から長浜港に入る。数隻の船が停泊するなかひと際大きいのは琵琶湖遊覧船「うみのこ」である。

防波堤をはさんで東側の外港には米川と十一川が流れ込んでいる。遠く湖上から元気な若い声が聞こえてきた。8人の漕ぎ手と前後に1人ずつ計10人を乗せた数隻のボートが湖面に浮かんで、早朝練習のようすであった。遠くに長浜大仏が朝のシルエットを見せている。

県道を駅に向かって戻る。「市民プール前」信号を右に入ると、右手に慶雲館、左手に旧長浜駅舎がある。慶雲館ブロック塀前に「旧長浜港跡」碑がある。慶雲館は明治20年(1887)、明治天皇、昭憲皇太后の御休憩所として、長浜の豪商浅見又蔵氏が私財を投じて建設したものである。庭園は長浜盆梅展の会場として知られる。

道向かいに二本の煙突が目を引く洋風駅舎は明治15年、北陸線の始発駅として英人技師が設計した旧長浜駅である。当時は大津と長浜を結ぶ鉄道連絡港として南に面して湖岸に建てられていた。現在は鉄道記念館として保存されている。

駅の連絡通路を渡って滋賀銀行のある交差点にもどる。

北に向かって歩き始めるとすぐ左手に安藤家住宅がある。長浜三年寄りの中で現存する唯一の屋敷である。土蔵を脇に抱え、連子格子・虫籠窓・駒寄に紺の暖簾がよく似合う。ここからつぎの札の辻までの重厚な家並みは現役の商店が多く活気がある。

白漆喰壁に長い虫籠窓を切った町屋が軒を連ねる。バイオ大学は古町屋再活用の例である。その隣の浄琳寺は山門に櫓が建つ面白い造りである。これは太鼓部屋と呼ばれ、寺子屋として使われていた。

その隣の古美術店は玄関の両側にバッタリを設けている。間口一杯の長さに切り込んだ虫籠窓は見事である。

北国街道と大手門通りの交差点が札の辻・高札場跡である。対角線上に黒壁5号館・札の辻本舗と黒壁ガラス館が建つ。黒壁ガラス館は洋風、土蔵造り、黒漆喰仕上げの「黒壁銀行」(第百三十国立銀行長浜支店)を改造したものである。長浜の町おこしの好例として当時話題となった。「黒壁」コンセプトは浸透し観光地としても定着した感がある。

札の辻の北西角に寛政8年(1796)建立の古い道標が立つ。「左 たにくみ道」「右 多にくみ(谷汲)道」「右 北国みち 左 京いせみち」と刻まれている。谷汲み道は東西に走る岐阜県揖斐郡にある谷汲山華厳寺への道を指し、北国・京伊勢道は南北に延びる北国街道を指す。

左手黒壁美術館は江戸時代末期醤油の製造をしていた豪商河路家の邸宅であった。黒壁ガラス館開館を受けてガラス美術館としてスタート、その後一般の美術館を目指したが商業ベースには乗らず、今年7月で閉じることとなった。跡はフレンチレストランの入居が予定されている。

その脇に「必成社跡」の石標が立っている。西田天香の北海道開拓本部が置かれた場所だという。西田天香の北海道開拓は失敗に終わり、のち宗教家・社会事業家として京都山科に一燈園を起こす。倉田百三が一時期属し、その体験を描いた「出家とその弟子」はベストセラーになった。

左隣の門は正徳元年(1711)の創業以来の鐘鋳造工匠、西川家(鍋徳)の茶亭門である。西川家は古くより茶の道に通じ小堀遠州の蒐集家としても知られた。江戸期以前、この門は豊臣秀吉の茶亭門であったことが判明した。門の奥はカフェレストランになっている。

軒下に屋根看板と太閤ひょうたんをつるした店(黒壁12号館)は様々なひょうたんを売る装飾品店である。壁のみならず、柱や扉まで黒に染めて、広い間口が開放的ながら趣ある佇まいである。

旧下呉服町にはいると「武者隠れ道」の案内板が立てかけられている。沿道の家々が鋸歯状にギザギザ出入りして建てられている。武者が身を隠すのに便利だったという。中山道守山宿でも「稲妻型道路」としてみたのと同様である。

同じ案内板にうだつの上がる家が紹介されている。振り返ると白壁ならぬ白塗料を塗った横板壁が二階屋根の高さを上回って立ち上がっている。これをうだつが上がると呼んだ。私は今まで、二階の壁の両端に防火壁を道側に突き出して設けられている構造物をうだつと呼んでいた。それはまだ「上がっていないうだつ」だったか。

左手に繊細な連子格子が素晴らしい今重屋敷能舞館がある。長浜年寄十人衆の一家今村重兵衛は、代々造り酒屋を営んでいた。屋根の上に見える煙突が昔の姿を偲ばせる。蔵として使用されていた建物を新たに能の展示場『能舞館』として、平成23年7月にオープンしたばかりである。

能舞館の十字路を右折して大通寺による。「長浜御坊」の名で呼ばれている大通寺は、慶長7年(1602)に本願寺12世の教如上人が、湖北門徒に仏法を説き広めるための道場を、旧長浜城内に開いたのが始まりである。山門は修理中で見られず。

台所門は長浜城大手門であったと伝えられ、各所に桃山時代の様式を持つ重厚な薬医門である。門につながる長い築地塀も歴史を感じさせ見応えがある。

本堂と廊下でつながった広間付き玄関は入母屋造りに唐破風を付けた重厚な建物で国指定重要文化財である。

街道にもどる途中で近くの知善院にも寄った。表門は長浜城搦め手門を移築したものだという。本扉の太い格子が城門らしい頑丈な造りになっている。

街道にもどる。旧魚屋町や呉服町の大規模な商家は影を潜めたが、出格子造りに虫籠窓を設けた典型的な町屋が4軒連なる長屋風景は珍しく貴重な家並みであろう。

いよいよ長浜城下の北端に差し掛かった。右に郡上太神宮の常夜灯が建つ。横に小さな太神宮の祠が隠れるようにあった。ここが長浜宿の北出入り口である。又、開国論に火花を散らし暗殺された金沢藩家老の仇討が明治4年この近くであり、これが日本最後の仇討とされている。

十字路を右折した右手に「従是南長濱領」の新しい領界標がある。左手、商店の東側の路地が旧街道である。

狭い路地にはいるとすぐ右手に小さな石鳥居と赤々しい祠が現れた。名も
河姫大神と、なんとなく可愛い。

その先で路地はすこし広くなるが十字路をこえて
再び狭くなり、次の車道に出たところで左折する。

北陸本線の踏切をわたり県道44号の「祇園町南」信号を右折して北上する。

森町信号交差点で国道8号を横断し、国道の右側に細くのびる旧道に入っていく。交差点右側に柳の木と地蔵がある。


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速水 


国道8号の東方を並走しながら曽根の集落を北上する。

角に地蔵堂が建つ十字路に出る。堂内には数体の石地蔵が安置されている。右二体はまだ新しい。十字路をくぐる水路は十郎川といい、ここに昔は100mもの大きな橋が架かっていた。

左角に「北国街道」の石碑がある。そばに「北国街道と十郎橋」の説明パネルが設置されているが、右上4分の一を残してタイルははがれ落ち、不思議にもその剥離部分に説明文の一部が記された円形のタイルが残っているのだ。

静かな集落を進んでいくと右手に長禅寺がある。蓮如上人御影(ごえい)道中の宿泊所である。御影道中とは、比叡山延暦寺の迫害を逃れた蓮如上人が1471年、越前吉崎に拠点を構え、北陸に教えを広めた苦労をしのぶ行事である。毎年4月17日に京都の東本願寺を出、西近江路をたどって吉崎御坊まで約240キロを6泊7日で歩く。帰路は5月2日に吉崎御坊を出発し東近江路(北国街道)から中山道を経て5月9日に東本願寺に帰る。帰路の途中毎年5月6日、夕方4時頃になると一行が長禅寺に到着し一泊する。翌7日は中山道の愛知川宿、8日は草津に泊まる。

一行は御影を収めた黒塗りの駕籠を台車に乗せ、門信徒ら約50人が綱を引いて「蓮如上人さまのお通りー」と声を掛けながら歩き続けるという。江戸時代中期に始まり、今年で340回目を数える。門徒勢力、一向一揆が北陸において強かった歴史を今に伝える姿で、現代的には異様な光景と写るであろう。


国道曽根北信号に出る通りと北国街道との交差点に竹生島道標が立つ。文久2年(1862)の建立で、高さは3mを越える大きな道標である。竹生島は琵琶湖に浮かぶ小島である。ここから姉川に沿って河口までたどる道を示すものか。どこかで船に乗る必要がある。

街道はその姉川にぶつかって国道に出る。姉川大橋をわたり、さらに田川を渡って唐国町に入る。国道を右に分け、左の歩道の延長から旧道に入る。唐国は山内一豊が初めて領地を得た場所である。集落中ほど左手にある准願寺は蓮如上人御影道中の休憩所。その先丁字路の右角に天保15年(1844)の道標が立ち、「右 木之本みち」「左 元三大師 谷汲道」「すぐ 京いせ 長濱道」と刻まれている。木之本・京伊勢長浜が北国街道である。元三大師とは慈恵大師良源をいい、虎姫駅の東方にある玉泉寺は良源生誕の地とされる。「谷汲」はよく見かける行先で、美濃に通じる道はすべて谷汲道のようだ。

旧道は直進して国道の手前で古い馬渡(もうたり)橋を渡る。高時川を渡った先にも竹生島道標があった。県道255号を西に行きついたところに早崎港があり、そこに竹生島神社辺津宮がある。早崎港から竹生島への渡し船が出ている。

堤防から石段を下ると旧街道を挟んで馬渡集落が延びている。馬渡(もうたり)の地名は馬渡し(うまわたし)が訛ったものである。南北朝時代、足利尊氏が北陸へ向かおうとしていたとき高時川の増水にあって難儀していた。土地の庄屋赤堀藤八郎は村民を大勢動員して尊氏軍の人馬を渡すことに尽力した。その時尊氏は村名を「馬渡」に改めるよう庄屋に伝えたという。

茅葺家屋が残る馬渡集落をぬけると一旦国道にもどるが、すぐに小倉信号の先で左の旧道に入り、湖北高田町を通り抜け間宿速水に至る。

速水は長浜―木之本間15kmのほぼ中間に当たり旧東浅井郡の中心地であった。平安時代には速水荘と呼ばれていた古い土地柄である。江戸期は北国街道筋にあって商業の盛んな郷村であった。江戸末期から明治にかけては養蚕が主産業となり、製糸業や織物業の工場が建設されて繁栄した。宿駅としては定められてはいなかったが、間の宿として賑わっていたようである。

集落のなかほど右手に式内社伊豆神社がある。八朔まつりで知られ毎年9月1日、五穀豊穣を祈って青物神輿が練りこども相撲が奉納される。

左手に繁栄していた間宿速水の歴史を感じさせる立派な家が建つ。瓦屋根の棟に茅葺屋根を乗せた入母屋造りの主屋に黒袴板に白壁の長屋門を連ねた重厚な構えである。その先に一本の松が往時の面影を残していた。

速水集落をぬけると国道に合流して北陸自動車道をくぐる。「高月南」信号を越えた先の変則五叉路で右斜めの旧道に入る。突き当たりの丁字路を右折し、最初の十字路を左折する。このあたりに高札場があった。旧街道は高月町の集落内を北上する。

高月は観音の里と呼ばれ国宝の渡岸寺の十一面観音をはじめ重要文化財指定の観音6体が近辺の寺にある。また高月は雨森芳洲の出身地で東アジア交流ハウス雨森芳洲庵が資料館としてある。雨森芳洲 (1668~1755)は伊香郡高月町雨森に生まれ。18歳のとき江戸に出て木下順庵に儒学を学び、新井白石、室鳩巣らと並び木門十哲と呼ばれた。 1689年、順庵の推挙で対馬藩に仕え、中国・朝鮮語を修めて朝鮮外交に才腕を発揮、朝鮮通信使の応対役を務めている。朝鮮語会話や朝鮮との外交心得を示した本を書いた。墓は対馬厳原にある。

これらと小谷城跡はいずれも北国街道よりも北国脇往還の近くにあり、その時訪れることにしたい。一カ所だけ線路を渡ったところにある高月観音を見ていくことにした。昔は大伽藍を誇った大円寺も今は無住で、観音堂を残すのみ。それも拝観は事前予約が必要とのことであった。

街道にもどる。十字路の北西角に大きな屋敷が建つ。南と東に接する道路に沿って白壁塀と犬矢来を長々と巡らせた威風ある佇まいである

旧道は高月町役場前で国道に合流、分岐点に高い「国宝観世音」の碑が立つ。

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木之本 


国道「千田」信号の手前で右斜めに入っていく細道が旧道である。
左手に石作神社の参道が出ている
県道281号に突き当たって右折する。旧道はそのまま北東方向に直進して国道303号の「田部西」信号交差点手前辺りに通じていた。今は田んぼの中に消失している。

県道281号で踏切をわたり、3本目の農道を左折して田部西信号まで迂回する。

木之本宿手前で日吉神社を右に見て、北国脇往還との追分十字路に出る。右手に追分道標が立ち、「みぎ 京いせミち」「ひだり 江戸なごや道」 と刻まれている。この道標は複製で、本物は意富布良(おおふら)神社境内にあるという。本物は見損なった。

追分は北国街道としては小さな筋違いになっていて、十字路からは道幅が広がって木之本宿場が北方向に延びている。昔は道の中央に川が流れて、牛馬をつなぐ並木があった。沿道には旧街道の雰囲気を濃く残した町並みが続いている。

左手に嘉永5年(1852)創業の大幸醤油店がシックな色相の格子造りと一階屋根に乗せた板看板、のれんが品の良い調和を奏でている。他にもすぐ近くに岩根醤油、白木屋醤油が店を構えて、醸造業が盛んな町であることをうかがわせる。

左手、石造りの洋館は問屋場跡で、昭和時代に建築された湖北銀行の建物を「きのもと交遊館」として再活用している。

その先の角地占めるのは地酒「七本槍」の富田酒造である。店先に吊るされた杉玉と路地沿いに見える白壁酒蔵と赤レンガ煙突が造り酒屋を象徴している。富田家は天文2年(1533)当地へ移り住んで以来造り酒屋を営む傍ら代々庄屋を務めた旧家である。明治天皇北陸巡幸の際、岩倉具視が宿泊したというから、さしずめ江戸時代には脇本陣格の家であったろう。

向かいの繊細な連子格子が美しい中二階町屋建物は旧本陣竹内五左衛門家である。「百毒下し」と左横書きされた看板に「ばいどく、・・・」と効能書きが添えられている。どんな毒も下すという意気込みが感じられて微笑ましい。軒下に吊り下げられた主要商品の看板はそれぞれに趣があって味わい深い。先々代の当主は明治26年、全国で日本薬剤師第一号の免状を取得したという老舗である。

木之本のシンボル、木之本地蔵の門前に来た。この三叉路が札の辻で宿場の中心地であった。地蔵院前に明治天皇行在所旧蹟の碑がある。木之本地蔵院は天武天皇の時代、難波浦に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりという。その後木之本に移ってきた経緯については省く。境内に立つ6mの地蔵銅像は地蔵院本尊秘仏の3倍レプリカである。

札の辻から北に続く宿場街も白壁、うだつ、連子格子を備えた古い家並みが木之本宿の景観をよく保って見応えがある。右手に庄屋を勤めた上阪五郎右衛門家住宅がある。江戸末期の弘化4年(1847)に建てられたものである。説明板には「二階を低くした典型的な役人家屋」とあるが、見たところ二階が低いとは思われない。本陣薬局の二階が典型的な低い二階の町屋ではないか。

江戸時代の宿場町割りを描いたイラストや昭和初期の写真を窓に飾ってある民家もうだつを持った格子造りの建物である。

丁字路角に構える屋敷は山路酒造である。富田酒造と同じく、山地清平家も造り酒屋の他方で庄屋を勤めていた。さらに脇本陣を勤め、江戸末期には伝馬所取締りとして、柳ヶ瀬関所通過の人馬を検認した。明治に入ると駅逓が置かれた場所でもある。駅逓とは宿場が廃止された後の人馬継立所のようなもので、旅籠も兼ねていた所もあった。赤い円柱ポストがなんとなく象徴的である。角の道標は山地家当主が建てたもの。

この道を山に向かって上がっていくと、追分道標の本物がある意富布良神社に至る。

街道の左側に目を向けると、牛馬市の里が主題となる。室町時代から昭和の初期まで毎年2回この地区20軒ほどの民家を宿として伝統の牛馬市が開かれた。藩の保護監督もあり地元近江を初め但馬・丹波・伊勢・美濃・越前・若狭などから数百頭以上の牛馬が集まり盛況を極めた。

その馬宿の一軒が馬宿平四郎宅で、山内一豊の妻千代が名馬を購入した所である。織田信長に仕え始めたころの一豊は非常に貧しく馬を買う余裕はなかった。そんな時、妻千代は母親から「どんなに貧窮しても手を付けてはならぬ。夫の火急の折に時こそ用立てよ」と渡された10両を思い出し、自分の鏡箱の中から取り出して名馬を購入した。一豊は馬揃えの場で信長の目にとまり後の出世のきっかけとなった。千代は良妻の鏡と称えられた。

宿場の北端に一里塚跡がある。一本の松の木が跡地を支えている。その南隣の民家はもと茶屋で、一里塚で休む旅人の休憩所であった

街道は黒田集落を通りぬけ北陸自動車道をくぐって余呉町坂口に入っていく。黒田は黒田家発祥の地である。佐々木源氏の末流、京極氏信の孫・宗清(宗満)が姓を黒田に変えたことに始まる。その後黒田高政の時足利幕府の勢力争いに巻き込まれ、近江を出て商業の町備前福岡に移住し、商才と力を蓄えて行った。高政の子重隆は子職重を連れて龍野を経て姫路に移住、御着城主小寺家の家臣となった。職重は小寺家の信任をえて姫路城代に任ぜられる。天文15年(1546)職重の嫡男として姫路城で誕生したのが軍師黒田官兵衛である。

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余呉
 

旧道は北陸自動車道賤ヶ岳SAの西側で国道に出てすぐに右の旧道に入る。

坂口集落のほぼ半ば右手に「菊水飴本舗」がある。350年余りの歴史を誇る老舗で水飴を製造販売する。昔は北国街道余呉の名産品として人気が高かった。

道は国道にもどるが「下余呉」信号で再び旧道に入る。まもなく左下に降りていく細い道が分岐していて、「左権現越」の新しい道標が設置されている。権現越えは余呉湖北岸の川並集落を経て塩津の北方、西浅井町祝山に至る峠道である。峠に蔵王権現が祀られていた。県道33号の古道にあたり、JR北陸本線余呉トンネルの上を越えていく。

敦賀と近江を結ぶ主要街道は塩津街道であるが、その塩津街道と北国街道を結ぶ道が二つあった。一つは余呉と塩津を結ぶこの権現越えであり、他の一つは柳ヶ瀬から刀根を経て曽々木に出る道(現県道140号)である。芭蕉は奥の細道の最終行程で敦賀から木之本にでて北国脇往還をたどったのであるが、刀根を通ったのか塩津を通って権現峠を越えたのかはっきりしていな.。

右手民家の庭先に「蓮如上人御休息所」の碑が立っていた。御影道中のことであろう。現在は公民館がその休息所らしい。

その先に注連縄を巻いた大石を中心とした岩場があって、「八幡谷の水」と呼ばれる冷たい水が注いでいる。

道は余呉町中之郷に入る。


練比古(えれひこ)神社は新羅の王子天日桙命を主祭神としていたが、現在では大山咋命が主神である。天日槍は来日後、中郷に留まりこの地域の開墾を手がけたと伝わる。道向かいに大きな石碑が亀の背に建っている。亀趺碑(きふひ)という型らしい。何の碑かわからなかった。

道は丁字路に突き当たる。右手奥に「清酒 大湖」と書かれた倉庫があってそばに赤レンガの煙突が建っている。湖北の造り酒屋8社が合併して長浜国友に新工場を建設したことに伴い、この工場は廃された。

街道はここで大きな曲尺手を描いて、左折・右折していく。

最初の丁字路角に
明三寺があり、明治天皇駐輦之蹟の碑が建っている。このあたりに高札場があった。

街道から外れて明三寺の南側の通りを西に進んで国道8号に出る。この通りは
ステーション通りと呼ばれ、かつて現在の国道を走っていた北陸線の中之郷駅に通じていた道である。

国道に面してそのプラットフォームが保存されていて、左:柳ヶ瀬、右:木之本と表示した駅標が再建されている。
中之郷駅が廃止されたのは昭和39年であった。

人気のないこのプラットフォームに立ってしばらく私は遠い昔の追憶に浸った。まだ小学校にもいかない幼いころ、母親に手を引かれて二人で遠出の旅をしたのだ。当時神崎郡御園村といった田舎からバス、電車、汽車を乗り継いで北国に着いた気分で降り立ったのがこの駅であった。昭和25、6年のころだったろうと思う。北陸線はまだ電化されていなかった。母の妹が伊香郡余呉村中之郷に嫁いでいたのだ。姓を雨森といった。駅からどう歩いていったのか、母の後を追って茅葺の家に着いた時、生まれて初めて蚕という虫と桑という木の葉を見た。幼児期の記憶の中で残っている数少ない情景である。早くに夫と死別した叔母は三人の立派な子どもを育て上げて自らも若くして病で亡くなった。その家は中之郷のどの辺だったろう。街道筋だったか。当時の住所を調べようと思えばできないことではなかった。「余呉」と「中之郷」という言葉を聞くたびに「中之郷のおばさん」と呼んでいた叔母のことを思い出す。

街道に戻る。右手に天保6年(1835)の道標がある。

北陸自動車道と国道365号に挟まれて旧街道は東野、今市を通り抜ける。

今市と新堂の境をなす丁字路で街道を離れて左折し、国道を横断して川をわたり、400mほど北に農道をいったところに柴田勝家の武将、毛受(めんじゅ)兄弟の墓がある。兄弟は賤ヶ岳合戦でここまで出陣してきたが、勝家が秀吉軍の優勢にあって撤退するにあたり、主君の身代わりとなって討死した。秀吉はその武勲に感じ兄弟の遺体を丁重に葬ったという。

街道にもどって北上を続けると北陸自動車道に接近し旧道は途絶。トンネルをくぐって自動車道の東側にでて、復活した旧道を北に向かう。



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柳ケ瀬  

街道は小谷(おおたに)集落を通り抜ける。小谷はもと大谷と書き、敦賀城主大谷吉継の祖先が平安末期からこの地に住んだという。

国道にもどって3000m余り北上したところで左に出ている旧道を入ると旧柳ヶ瀬宿である。右手に数体の石地蔵を収めた石祠がある。トタンを被せた茅葺屋根の民家が散見され、道の中央には融雪装置が延びている。山並みが迫り山間集落の雰囲気が濃厚に感じられる。静かだ。

道を進むと左手に元郵便局の瀟洒な洋風建築が建ち、その北隣には対照的に純和風の長屋門を構えた鈴木家住宅が並ぶ。

元郵便局舎は玄関戸と窓枠を青色で統一し、清楚な佇まいを見せる。

鈴木家の長屋門は、元関所役人柳ヶ瀬家住宅にあったものを移築したとされる。長屋門の前には柳の大木がどっしりと根をはり、少し離れて明治天皇行在所の碑が立つ。明治11年天皇は敦賀から倉坂峠越えでここに着いた。いかにも本陣の装いだが、柳ヶ瀬は木之本・中河内間の間宿的存在で、旅籠はあったが本陣は置かれなかったようである。現地にもそのような案内板は見かけなかった


旧道は集落の中央を流れる水路の右側から左に移る。人為的な曲尺手か偶然なのかはわからない。


右手の水路脇に
「柳ヶ瀬関所跡」があった。昭和47年に老人会が建てたものである。教育委員会の説明板はない。元和6年(1620)彦根藩はここに関所を設け、特に北国へ行く女性を厳しく取り締まったことから「女改め関所」とも呼ばれた。

石碑の傍を通って国道まで出る。明治15年、長浜―柳ヶ瀬間に鉄道が開通したとき、この辺りに柳ヶ瀬駅のプラットホームがあったというが、中之郷でみたような遺構は見当たらなかった。

街道にもどり、集落の北端で二股にさしかかる。北国街道と刀根(とね)越えの分岐点である。分岐点に道標と詳しい説明板がある。「右えちせんかかのと道」とあるのが越前・加賀・能登方面の北国街道で、「左つるが 三国ふ祢(ね)のりば」が刀根(倉坂峠)を越えて敦賀・三国港に至る道である。

明治天皇はここを越えてきた。天正11年(1583)の賎ヶ岳合戦で柴田勝家がこの付近で構えた本陣「玄藩尾城」跡が峠の尾根伝いに残る。

不動明王の祠を見て、古道を少し入ってみた。余呉川を渡って荒谷川に沿った道が続いている。行く手に小屋らしい建物がみえ、道は山の中に消えていった。その後古道がどこまで続いているのか、峠越えは歩ける道か、調べていない。

二股に戻って国道に出る。北陸自動車道や現在の刀根越えルートである県道140号が柳ヶ瀬トンネルに消えていくのを見やりながら国道365号を北上し、まもなく左に降りていく旧道に入る。

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椿坂 

余呉川縁におりた所に一本杉が聳えている。ここに一里塚が築かれていた。根本周辺を注意深く探したが標識や説明板の類は見られなかった

川に沿ってのんびりした道を進んでいくと右からの道と合流して椿坂集落に入っていく。もとは椿井といったが、藩主伊井氏に遠慮して井を坂に変えたという。

榎の大木の根元に数体の地蔵が赤い前掛けをして並んでいた。二体は前掛けでなく前に幕を垂らしたものだ。

右手、石段を上がったところに八幡神社がある。社殿は大きくないが高欄を巡らせて凛とした姿である。

集落を抜けて国道に戻る。


余呉川に沿っておよそ2km上がっていったところに「余呉川上流端」の標識が立っている。ここで余呉川は国道の下に姿を消してしまった。国道の左手に作業小屋があって、その脇に椿坂用峠を越える旧道跡が出ている。入口は鎖とドラム缶で塞がれ立ち入り禁止になっていた。草道の旧道は林の中をしばらく続いているようである。

国道は九十九折の道を1.5kmほど上がっていったところで、椿坂峠にたどりつく。きわめてなだらかな峠である。右手山裾の岩を穿った祠に地蔵が安置されている。赤幕に仕切られて地蔵の姿はみえない。そばに「かりかけ地蔵菩薩」と記された木標があった。どのような地蔵か説明もない。実際見た人の情報では文字に記すのがためらわれるというから、男根か女陰ではないかと想像する。椿坂集落入口にあった赤布で隠された地蔵も同様かもしれない。幕や扉は開けてみるものである。

峠の左に林道が出ていて別荘が建っていた。「余呉川上流端」からの旧道は一直線に山を登ってこの林道のどこかにでていたのか。

峠を境に椿坂から中河内に入る。



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中河内  

椿坂峠から2.7kmほど国道を下ったところ右手に「己知の冷水」が見えてくると、左に旧道が分かれている。近江最奥の宿場中河内の入り口である。旧道はS字形に国道をまたいでいて、集落は二つに分かれた形に見える。国道の手前に広峰神社がある。

国道を渡って右手に分岐する県道285号に入っていくと十字路角に本陣跡の石碑があった。栃の木峠を越えて北国街道を旅する人々は今庄と木之本に宿泊して、この中河内宿で昼食を取るのが通例だった。国境の宿場として伝馬数23匹を常備し、本陣柳橋家、脇本陣中村家、問屋山口家が宿場の役割を担っていた。幾度かの大火で宿場の景観は失われ本陣跡の石碑が残るのみである。

街道は本陣前の十字路を左折する。

左手の空地あたりに脇本陣があった。街道沿いの民家はこぢんまりとした切妻造りが多く、一瞬スキーリゾートか高原の別荘集落かと思わせる風景であった。

国道に戻って山間の道を一路峠に向かう。県境を越えて行き交う車は多くない。4km近く行くと国境の風景が見えてきた。余呉高原リゾートの巨大な案内看板である。峠の手前に一軒の古民家が残っているとのことで注意していたが、見かけなかったようだ。

右手の少し奥まったところに石碑があって「淀川の源」と大きく刻まれている。「淀川」が大阪湾にそそぐ淀川と認識するまで数秒の時間を要した。普通は直近の川の水源と表記するものだが、大きく飛躍して末端の川を指していたからだ。ここは高時川の水源地である。高時川は姉川に合流して琵琶湖に注ぐ。瀬田川として琵琶湖を出た水は京都に入って宇治川と名を変え、大阪府の手前で木津川、桂川と一束になり、淀川の巨大な流れとなって大阪湾にそそぐ。全体を淀川水系と呼ぶ。その源(の一つ)が栃の木峠であるというのだ。淀川の源はおそらく100近くあるのではないか。その中の最北端という意味ではここしかない。スケールの大きさに感動した。

峠には詳しい説明板が立ち、福井県側にはいると急に視界が開けて素晴らしい眺望が広がっていた。北国街道は今庄を経て越前北ノ庄(福井市)に続いている。北ノ庄と信長の居城である安土城を最短距離で結ぶ軍道として柴田勝家が大改修を行って以来、越前と近江を結ぶ幹道として利用されるようになり、江戸期には、北陸の諸大名の参勤交代道としても使われた。

完(2013年7月)
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