長浜城外堀跡(米川) 朝日町 長浜市 滋賀県
長浜城の構造
この石碑の前を流れる米川は、長浜城の外堀の一部として使用されていました。その外堀は、城の北から東を囲い、大手町付近では幅15間(約27m)といわれています。 長浜城は、天正2年(1574)から翌年にかけて、羽柴(豊臣)秀吉公か築いた城です。その後、山内一豊公など4人の城主が入りましたが、元和元年(1615)には廃城となっています。このように、長浜城の歴史は約40年に過ぎず、江戸時代の大半は城がなかったので、その構造(専門的には『縄張jといいます)は現状から推定することはできません。古絵図などを基にした長浜城の復元によれば、上図のように2重の外堀と内堀に囲まれた水城で、南北約1.2km・東西約0。7kmの大きさであったと考えられます。さらに、今回の「秀吉公ゆかりの石碑・石柱建立事業」では、左図に示したような石碑・石柱を豊公園周辺の城跡に建立し、城があった頃の状況が分かるようにしました。