佐原
佐原からの起点は木下からの銚子街道が佐原新宿に入る丁字路である。そこに佐原町道路元標がある。明暦3年(1657)創業の虎屋菓子舗と明治7年創業の紀の国屋が並んでいる。佐原は小江戸とよばれ利根川・小野川水運の拠点として、また、成田・香取・鹿島の寺社をめぐる巡礼観光の拠点として栄え、海運・酒造で財を成した豪商がひしめいていた。伊能忠敬もその一人である。
仁井宿という名のバス停を通り過ぎる。「宿」の一字が気になるが特に独立した宿場だったということでもなさそうだ。佐原の市街地を出た落ち着いた住宅地という雰囲気である。
高塚歯科の先、右手丁字路の角に石柱が見える。正面に「飯沼観世音江九里」と刻んである。飯沼観世音とは、めざす銚子にある円福寺の飯沼観音のことである。木下からの銚子街道沿線にある滑川観音(坂東33カ所観音巡礼28番札所)から同27番札所である飯沼観音の間一里毎に、天明3〜4年(1784〜5)に眞永が願主となって12基の道標を建立した。眞永がどういう人物であったかは分かっていない。ここから目的地終点まで36kmの道程である。利根川水運は物資の輸送に、そして巡礼道として陸路が存在していたことを示す。飯沼観音道標は一里塚の役割を果たした。
篠原バス停の先右手に袖を従えた立派な門構えの旧家が目を引いた。槇の生垣も手入れが行き届いて美しい。
佐原信号から1.4kmほど行ったところに「渡船場入口」バス停があり細い道を川に向かっていくと成田線の「渡船場踏切」を渡り利根川堤防に突き当たる。渡船場の遺構はなく、近くに取水口があった。
子育神社の先で県道253号を潜りJR成田線踏切をわたって国道356号に出る。右折しすぐの十字路を左折して利根川の堤防につきあたる。
土手の手前右側に「香取宮」と刻された明和6年(1754)の常夜燈が、左には「かきつばた 香取の神の 津の宮の 宿屋に上る 板の仮橋」と刻まれた与謝野晶子の歌碑がある。
土手に上がるとの川側斜面に鳥居が建っている。反りのない白木の簡素な神明鳥居であるが、かつてはこの津宮河岸が香取神社への表参道口で、津宮の鳥居は香取神社一の鳥居であった。今も12年に一度の香取神宮式年神幸祭では、津宮河岸から神輿が御座舟に乗せられる。
利根川水系を利用してくる参詣客は利根川の津宮河岸で下船し、そこから約2kmの参道をたどって香取神宮の森に至った。森には旧参道が昔の姿のままで残っている。津宮河岸には旅籠が数軒あって香取神宮の参拝客で繁盛していたという。
国道356号にもどって銚子街道を東に進む。JR鹿島線の高架をくぐり、丁子(ようろご)バス停の先右手に玉田神社の石標が建っている。JR成田線の踏切を渡り丁子公民館前を通って進んで行くと森の中に入っていく。右手に石塔が7基並んでいる。崩れた2基の他は文化3年(1806)の十七夜塔、寛政11年(1799)の観音、享保3年(1718)の石仏など古いながら仏像の浮彫は保存状態がよい。
土道を進んでいくと一軒の民家があり、その庭先にもみえる小高い一角に玉田神社の赤い社殿があった。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、鎌倉時代に本矢作城主国分胤通が鬼門除けとして創建したと伝えられる。本殿は一間社流造りで、寛文12年(1672)当地の領主だった坂部三十郎が再建したものである。玉田を中心とする大倉丁子一帯の台地からは弥生時代から平安自体にかけての古墳、土器、住居跡が発掘されていて、大倉丁子遺跡群として保存されている。
街道に戻り東に進んでいくと東関東自動車道の手前右手に側高神社がある。香取神宮第一の摂社で、創建は香取神宮と同じ神武天皇18年(紀元前643年)と伝わる古社である。社殿は江戸時代初期の造営で、彩色文様や彫刻には桃山時代の建築様式の特色が見られ県指定重要文化財となっている。この地は古く香取郡と海上(かいじょう)郡の地であった。海上郡とは現在の銚子市を含む香取市以東の地で、古代は香取の海とよばれた広大な内海に面していた。
境内の一隅に古びた4個の甕が玉垣に囲まれてある。「四季の甕」と呼ばれるもので、春の甕、夏の甕、秋の甕、冬の甕、と称して各々の甕の水量が、四季折々の降水量を示し、自然に溜まった雨水の量を以て占いの基礎としたものであろうとされる。
街道は東関東自動車道の下を通りぬけ大倉集落に入ってくる。
最初の十字路あたり、成田線土手に飯沼観音8里道標があるとのことで、何度も探したが見つからなかった。
右手に大きな長屋門や茅葺の家などもあり、古い土地柄を偲ばせる家並みである。
大倉小学校の先左手に石塔が3基並んでいる。奥から高、中、小と整列しており、一番低い二十三夜塔は道標を兼ねており、側面に「左 小見川 てうし道」「右 さくみち」と刻まれている。「さくみち」とは地名ではなく「作道」のこと、つまり農道、つくり道のことらしい。
水郷駅を通り過ぎ旧道はその先で国道と分かれて右に入って行く。地名は「一ノ分目(いちのわけめ)」という珍しい名である。1kmほどで一旦国道に合流したのち今度は「三ノ分目(さんのわけめ)」にはいっていく。一ノ分目も三ノ分目も江戸末期におこなわれた新田開発の際の地割の名残だそうだ。
三ノ分目にはいってすぐ国道を左に分けて右の旧道に入る。
すぐ左手に大塚山古墳がある。利根川下流域最大の前方後円墳で全長123m、5世紀中頃の築造と考えられている。後円部の階段から墳丘へ登ると、墓地となっていた。東に前方部の全容を見下ろすことができる。発掘調査で石棺や埴輪が出土した。
古墳から400mほどいった左手に風情ある屋敷を構える旧家が佇む。表は武家屋敷を思わせる品格ある門を構え、裏に回ると長屋門が控えていた。どうやら篠塚医院の本宅のようである。
小見川北小学校の東側を通り抜け丁字路を右折、道なりに左にカーブして進む。三叉路を左にとって、浄福寺の前を右折して諏訪神社の先で国道に合流する。
諏訪神社の手前右手に庚申塚と2体の石仏がある。
又このあたりに7里目の飯沼観音道標があるとのことだが、またしても見つけることができなかった。左手に石柱がたおれているが、これではなさそうである。
諏訪神社の社殿は左右両側に雨除けであろうか、トタン張りの覆いが取り付けられていて、正面からは武者の兜のように見えた。
国道に合流して小見川大橋入口交差点を右折して小見川城山公園に寄る。小見山は内田氏一万石の城下町であった。利根川を望む高台にあり平安時代から室町時代にかけて豪族粟飯原氏が小見川城を築いたところである。公園入口に前方後円墳の石室が復元されて口を開けていた。頂上をみてまわったが城址の遺構らしきものを見ることは出来なかった。
小見川大橋入口交差点にもどり、二つ目の十字路を水路に沿って左折する。左手実相寺の前で右折するのが旧道筋であるらしい。沿道は静かな住宅地である。右手に須賀神社と波切不動がある。
その先右手に善光寺がある。入っていくと本堂前に出る。左手、橋を渡った墓地の右手に「腹切り様の墓」という尋常ならぬ墓がある。小見川の回船問屋平塚屋の娘弥生と江戸の医学生源之進の悲恋物語で源之進は割腹自殺、弥生は喉をついて後を追った。
善光寺は初代松本幸四郎の墓所で知られる。本堂の左手墓地の一角に案内板が立っており、墓には三つの法名が記されている。真ん中の「白譽単然直道大徳」が幸四郎のことだという。初代松本幸四郎は延宝2年(1674)小見川外浜の島田家に生まれ、10歳の時に佐原の小間物屋「高麗屋」に奉公した。元禄の初めに歌舞伎役者久松多四郎の門に入り芸名を小四郎、享保元年(1710)に幸四郎と改名した。弁慶などの荒事立役を得意とし、2代目市川団十郎と並び当代の名優と称された。
旧街道にもどり、左手内浜公園に佐藤尚中(山口舜海)誕生地の碑が立つ。佐藤尚中は小見山が生んだ日本の名医で、東京大学医学部の前身、大学東校の主宰として迎えられた後明治天皇の侍医にまでなった人物である。明治5年順天堂病院を建てた。この病院は後に湯島に移って順天堂大学となる。
成田街道を歩いた時、佐倉で順天堂記念館に寄ったことがある。その佐倉順天堂の創始者佐藤泰然が養子としたのが佐藤尚中である。尚中は佐藤泰然の家督を継ぎ、佐倉から東京に進出したのであった。
街道は黒部川に突き当たる地点で枡形を形成している。その左手に建つ豪壮な門構えの屋敷は鶴嶋製作所で、元は江戸時代末期の創業で銘酒「菊水」を醸造していた蔵元であった。昭和37年(1962)蔵元を廃業、一転機械加工業者として今に至っている。
川に沿って利根川方面に歩いてみる。
左手に水神宮がある。川向かいに小ぶりの長屋門を構えた民家が見え、岸辺の柳とともに風情ある佇まいを見せている。
北下宿町青年館を通り過ぎて広い黒部川に出る。左から合流してくる小掘川には川船がきまぐれに繋がれて水郷の趣を醸している。
小見川は城下宿場町であると同時に黒部川の河岸町としても栄えた。黒部川に沿って今度は内陸方面に足を延ばす。枡形の大橋袂に土蔵の名残がみられる。角地の総二階建て板壁造りの商家も古そうだ。
国道を横切る細い路地はかつて河岸の賑わいの主役を演じた米、肥料、廻船などの問屋や旅籠、茶屋などが軒を連ねていた。芸者も数十人もいて小見川は遊里としても名を馳せていた。
国道の南側に移り朱色の欄干の仲橋で黒部川を渡る。橋上からながめる両岸には河岸の雰囲気が漂っている。
その脇道に沿って小見川中央小学校があるが、そこは明治まで続いた内田氏1万石の陣屋跡である。校舎全体が改築中なのか、プレハブの建物で埋め尽くされ、工事現場に足を踏み入れる余地がなかった。敷地のどこかに陣屋跡の石碑があるそうだ。
文禄3年(1594)松平家忠が入封し、享保9年(1724)4代目藩主内田正親が一万石を与えられ、はじめて小見川に居住が定められて名実ともに小見川藩が形成された。堀と土塁を伴う平地単郭で一辺約100m方形の砦が築かれ、内田氏の支配は明治維新にいたるまで13代にわたって続いた。
枡形十字路にもどり大橋をわたると新町通商店街に入る。人通りもない閑散とした商店街にあって嘉永元年(1848)創業という谷屋呉服店が唯一かつての賑わいの名残を見せている。広い間口に紺の暖簾を堂々と広げ左に白壁がめだつ袖蔵を配している。この土蔵は明治初期ごろの建築で国の有形文化財に指定され、今は夢紫美術館として公開されている。
小見川駅からの通りが交差する曲尺手を経る。ここも枡形の名残だろう。
左折したすぐ左手に出格子が美しい民家がある。
川を渡り琴平神社前で右折して国道にもどる。
琴平神社には芭蕉の句碑があった。
時雨(しぐる)るや 田のあら株のくろむほど
元禄3年近江から郷里伊賀に帰る途中で詠んだ一句である。句碑の上部にかすかに読めた。
国道は県道265号を右に分けて直進する。
川をわたって右折する手前に、八坂神社と吉祥院が道を挟んで建つ。
八坂神社は小ぶりながら大社造りの立派な社殿であり透塀で囲まれ完結した一画をなしている。
吉祥院の門前に立つ百万遍供養塔は安政4年(1856)のものである。
右折した街道はJR成田線佐原銚子街道踏切を渡って左に折れる。冒頭で銚子街道の起点についてふれたが、この踏切の名称はまさに佐原起点の銚子街道を示している。
阿玉川集落の家並みが尽き街道は丘陵に沿った山裾の道となる。左手はJR成田線が寄り添いその向こうには田圃を隔てて黒部川の流れが見える。
香取市から香取郡東庄町笹川に入って行く。
成田線第二佐原銚子街道踏切を渡る。
笹川駅入口交差点を通り過ぎて東庄交番前信号を左折して諏訪神社の前で右折して川を渡るのが旧道筋である。
諏訪神社参道右手に天保水滸伝遺品館がある。まずこの天保水滸伝なるものを知る必要がある。一言でいえばヤクザの抗争物語である。利根川と東庄を舞台として笹川繁蔵と飯岡助五郎という二人の侠客の勢力争いの物語で、浪曲や講談に取り上げられて人気を博した。
街道歩きをしていると英雄化された土地の任侠にまつわる伝承が石碑と共に残っている場所に出会う。古くは中山道信濃追分付近で沓掛時次郎に出会った。東海道は言わずと知れた清水の次郎長であり、例幣使街道では国定忠治、下田街道では大場久八であった。いずれも私には興味が全くない。
諏訪神社は大同2年(807)坂上田村麻呂が東征の折り武運長久・海上安全を祈願して勧請されたと伝わる。境内には立派な土俵と相撲の元祖と言われる野見宿禰(のみのすくね)の碑、また出羽海部屋の笹川夏合宿を記念した「心技体」と大きく彫られた石碑がある。相撲好みの土地柄は他でもない笹川繁蔵自身が元力士であったことによる。
野見宿禰の碑は天保13年(1842)、笹川繁蔵が農民を救済する目的で大々的な花会(親分衆のみを客とした賭場)を開いた際に建てたものである。そこには清水次郎長や国定忠治も参集したという。
花会から2年後の天保15年(1844)、利根川河原から諏訪神社境内あたりにかけて飯岡助五郎一家と笹川繁蔵一家の大乱闘が繰り広げられた。
諏訪神社と延命寺の間の通りは昔の面影を残している。表札がわりに「電話五番」と書かれた札を架けた民家は門と板塀をめぐらせた旧家風の趣ある屋敷である。その北隣には赤レンガの瓦屋根付塀が続いている。同じ屋敷の建物であろう。造り酒屋かなにかの豪商であろうと想像する。
延命寺には「天保水滸伝発祥之地」の碑が立つ一画があって、そこに笹川繁蔵の碑や平手御酒の墓、勢力富五郎の碑が立っている。極め付きは「笹川繁蔵の勝負石」であろうか。御影石のサイコロが斜めに立っている。傍にそえられた碑を読んで白けてしまった。
「人生の岐路に立ち、何れの道をと迷うときその選択と決断は、運命の勝負である。神仏を念じつつ、この勝負石に触れれば必ずや勝者とならむ」
寺社が博徒ヤクザの幻影に浸されている。
旧道にもどり、桁沼川をわたって右斜めに進んで国道に合流する。
合流点から400mほど先、ほうき松バス停の向かい、民家の三段ブロック塀脇に飯沼観世音五里道標があった。横面に「天明三年」の銘があり真正な眞永道標である。
さらに1.3kmほど行った左手の菰敷青年館の敷地隅に石塔が並んでいる。四基あるが手前から二体の石仏はレリーフが繊細ですばらしい。
左手に八坂神社をみて、コメリの手前から左に短い旧道が残っている。交番のところで国道にもどる。
利根川大橋入口信号交差点を左折して利根川、常陸利根川、黒部川の3河川が合流する様と、それぞれの間に設けられた河口堰を見て行くことにした。
黒部川河口堰は橋からはなれた上流側にある。
利根川の中央で千葉県から茨城県に入る。利根川には利根川大橋の両側に魚道が、茨城側に船通しが、その間に9基の水門が設けられている。河口堰は近隣都県への水源供給確保の他に、海水の遡上による塩害を防ぐことが目的である。
利根川と常陸利根川の間に延びる中洲の突端まで進んでみた。左右の大河が合流するダイナミックな風景を期待していたが、突端部の建物と高い草で見晴らしが遮られ、全体を見渡すことができなかった。太平洋まで18kmの地点である。
街道に戻る。
下総橘駅前を通り過ぎ、800mほど行ったところで、右斜めに出ている旧道に入る。
その先の丁字路角にも道標があった。正面に「東大社参道」、側面に「みゆき坂」と刻まれている。全体の様子からこの道標は比較的新しそうだ。参道をのぞくと右手に総板壁造りの家があり、奥には大きな森がみえたが、それ以上入ってはいかなかった。
街道は田園地帯の真ん中をのどかに走る。笹本町で下総豊里駅を通過、森戸町にはいって旧道が左に折れる。地蔵堂観音院のところで道なりに右折して、家並みの中を通り抜けて国道に戻る。
600mほど先、富川町バス停の手前右手の民家の庭に飯沼観音3里の道標が保管されている。移設されたものと思う。
街道はその先のY字路を左にとって第三佐原銚子街道踏切を渡る。踏切の中央に立って線路を眺めるのが好きだ。みごとな一直線の鉄路が延びていた。
道なりに集落を次いで県道73号を横断したところから椎柴に入る。丁寧に手入れされた生垣が印象的な家並みを見ながら椎柴小学校の南側を回り込むように進んで小船木町の中程に入ってきた。
家並みから小船木河岸で賑わった名残を感じることができる。右折した右手に石造りの蔵をもった旧家が建つ。石質は大谷石のようだが定かでない。
野尻町に入った左手に建つかしや旅館には「滑川」の表札がかかっていた。「かしや」は「河岸屋」ではないか。このあたりはかつての野尻河岸にあたる。滑川家は野尻河岸の回船問屋で由緒ある家柄らしい。
曲がりくねっていた道が直線となり野尻の中心街に入ってくる。左右に「滑川」を冠した商店が見られる。それらを束ねた滑川家の母家が左に大きく構えている。長い板塀と長屋門の背後には植え込みが鬱蒼と繁っている。かつては家の裏手が野尻河岸に通じており、浜門をくぐって荷の積み卸しがおこなわれていた。
右手の高台に風情ある茅葺き屋根の祠が見える。小さな祠だが全体に彫刻がほどこされ、階段、高欄つきの立派な社である。地図で八坂神社と分かった。
すぐ左手に新宮大神がある。拝殿、本殿が双子のように独立して並んでいる。共に板壁に覆われて内部を窺うことができない。拝殿は瓦葺きで本殿は銅板葺きである。本殿は鹿島神宮本殿と向き合う為北向きに建てられた結果街道に背を向けることになった。色んな神社があるものだ。
旧道は野尻町信号で国道356号に合流し、高田町に入っていく。小船木町、野尻町、高田町は後背地の利根川岸辺を共有してそれぞれ小船木、野尻、高田河岸として「三河岸」と呼ばれて繁栄を享受していた。野尻河岸を経営していたのが滑川家で、高田河岸を支配したのは豪商宮城家であった。高田河岸の勢いは銚子を脅かすほどだったという。当時の河岸は現在の国道付近で、その面影を追うことはできない。
宮城家の煉瓦造りの蔵が残っているとのことであったが、見かけることはなかった。取り壊されたのであろう。宮城家は元宮内姓であった。宮内家は江戸時代高田の名主を務めた家柄である。
高田農協バス停の脇、右手に飯沼観世音二里の道標が建っていた。
その先、芦崎町と余山町で国道の右側に500mほど残っている旧道を経て、四日市場町で国道と分かれて二股を左にとる。右にカーブし八坂大神を左にみて、道なりに垣根町に入る。
右手に阿弥陀院がある。広い空地のような空間に朱塗りの仁王門と本堂がある。仁王門には左右に「長者山」と書かれた大きな板が貼られ、格子窓からは多くの草鞋、サンダル、スニーカーが吊り下がっている。奇妙な風景である。右のほうには「史蹟長者屋敷之跡」の石標が立っているが説明板はない。山号「長者山」」と関係があるのだろう。
奥には多数の庚申塔が整然と集められた一画がある。百庚申と呼ばれるものだ。
無住職の寺なのか、そもそも寺ではなく、なにかの史蹟なのか、この空間にあるものが有機的な結合を欠いていてよくわからないままに去った。
川を渡って松岸町に入る。ここもまた松岸河岸で栄えた町である。それ以上に松岸は河岸に建ち並ぶ遊郭で知られていた。
遊郭街は松岸町北信号交差点から利根川に至る道筋辺りだった。明治に入っても4軒の置屋に60人を越す遊女がいたという。その道筋を歩いて行く。勿論今は格子造りで欄干付の窓を設けた家などない。料亭風情の建物があるのみである。岸近くには場違いなモダンな結婚式場が現れた。ノートルダム寺院風の建物である。ここに開新楼があった。松岸遊郭は昭和16年まで続いた。
岸辺は銚子ヨットクラブになっていて、番小屋がぽつりと建ち、右側には帆をたたんだヨットが多数繋留していた。
松岸町交差点にもどって600mほどいくと十字路の右手角に長塚神明神社があり、鳥居脇に飯沼観世音一里道標が建っている。これが最後である。
街道は八幡川に突き当たり、右折して八幡橋を渡っていく。右手土手上に鮮やかな赤色の小祠が見えた。
道なりに銚子市街地に向かっていく。道は銚子大橋へと続く国道124号に分断され、銚子大橋前交差点を迂回して旧道復活点に戻る。
銚子大橋交差点は国道356号の終点で、北に国道124号が、南に国道126号が、そして東へは県道37号が出ている。
銚子駅前交差点で旧道は枡形を経る。交差点を右折し、銚子プラザホテルの南側を通って二つ目の十字路を左折して県道244号を横断、銚子信用金庫本店の東側を通って本通りに出る。右手角に「ひしお」製造の山十商店、北西角に白幡神社がある。
白幡神社の創建年代は定かではないが、名前の由来は、源義経が弁慶と亀井六郎をつれて参詣に訪れた時、白い旗(幡)を残して帰ったという伝説による。祭神は大国主命の子、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)で、大国主命の国造を助け諸国を巡り土地を開いた「開拓の神」とされている。
交差点を右折して広い銚子本通りを東に進んでいくと、右斜めにおれてココロード銚子(銚子銀座)という商店街に入っていく。飯沼観音の門前町として鎌倉時代から拓け、かつては銚子随一の商業地域だった。突き当たった前に目が覚めるような朱色の飯沼観音仁王門が堂々と建つ。
門をくぐって境内に入ると五重塔と本堂、その間に大仏がコンパクトに配置されている。
飯沼観音は神亀5年(728)、漁師の網にひっかかった十一面観音像の奉安に始まり、弘仁年間(810〜824)に東国を巡っていた弘法大師が開眼したと伝えられている。猟師が観音像を引き上げた話は浅草寺縁起にもある。人気あるエピソードのようだ。
本堂(観音堂)は天正6年(1578)に建てられ、昭和46年(1971)に再建されたものである。階段上には「ヤマサ醤油」と「ヒゲタ醤油」が奉納した醤油缶が三段に摘まれている。銚子は漁港の他に古くから醤油醸造の町でもあった。後に両社を訪ねる。
五重塔は平成21年(2009)5月に竣工した真新しい建造物である。
大仏は正徳元年(1711)に鋳造された約5mの青銅製阿弥陀如来坐像である。向きや位置は変遷を経て今のポジションに納まった。
境内にはまた「飯沼水準原標石」がある。鉄柵に囲まれてコンクリートの中に円形の傷跡のような凹凸が認められた。明治5年(1872)、明治政府の招きにより来日したオランダ人技師リンドが、この地に日本における河川測量の原点として設置したものである。これを基点として「日本水位尺」が定められ、各地の高低深浅が測られることになった。
本堂の右方に銚港神社がある。旧称は龍蔵権現といい、養老年間(717〜724)の創建と伝えられ、銚子発祥の祖神として歴代領主の祈願社として尊崇されてきた。明治にはいって銚港神社と改名、飯沼、新生、荒野、今宮、松本、本城、長塚村の総氏神として郷社に列せらる。
飯沼観音の東側、田中町・後飯町に旧赤線地帯があった。松岸・本城の両遊郭が廃絶した後も私娼窟として銚子の歓楽街を担ってきた。今はスナックなどの散見される閑散とした地区である。
仁王門の前から県道254号を道なりに北東方向に進むと2km弱で港に出る。利根川河口にあたる場所で、川沿いに公園が設けられている。道路の右側に川口神社の参道入り口がある。川口神社は寛和2年(986)創建の古社で、明治3年まで白紙明神と称した。川口を出入りする漁師の守り神とされている。
安部清明と銚子在住の長者の娘、延命姫にまつわる悲しい伝説がある。
「今より千余年前天暦元年当地に民部職で根本右兵衛義貞なる長者あり 延命姫と云へる一女ありて遊学中の地学者阿部の晴明に失恋し遂に小浜の海に投身す この歯櫛流れて川口浦に漂着す 土地の人ねんごろに供養すれば折しも荒天不漁続きも止む 後祭りて白紙大明神 今の川口明神となる」
道をさらに400mほど太平洋にむかうと、道が右に曲がる角に河口を見下ろす千人塚が築かれている。利根川河口は「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」といわれた日本三大難所の一つであった。慶長19年(1614年)10月25日、突風により、出漁中の漁船が風雨にほんろうされ、多くの漁師が溺死した。その犠牲者を埋葬したのが千人塚である。現在は河口から運河方式の新航路が完成し、漁船の出入り時の危険はなくなった。
その運河のせいで、期待していた大河利根川河口の洋々たる風景は大幅に削減されていた。坂東太郎とも呼ばれる利根川は群馬県利根郡みなかみ町にある三国山脈の一つ、大水上山にその源を発し、延長は約322kmで信濃川に次いで日本第2位、流域面積は約1万6,840km2で日本第1位の日本を代表する大河である。
飯沼観音のすぐ南、馬場町交差点に戻る。二筋西の通りを南に入ると陣屋町公園があり、角に「旧陣屋跡」の石碑が建っている。銚子を江戸への重要物流拠点と考えた江戸幕府は、親藩である高崎藩に明治維新まで統治を任せた。享保2年(1717)高崎藩主大河内松平氏は陣屋を設けて郡奉行と代官2名を派遣し、年貢徴収や治安維持にあたらせた。陣屋跡は郡奉行の役宅を兼ねた役所の他、勤番長屋に米倉まであって、堀割に囲まれた広大な敷地だったという。
陣屋町公園の南側の道を西にたどっていくと緑地の周囲にヤマサ醤油の工場が広がっている。正保2年(1645)創業という老舗である。高いブロック塀に囲まれて煙突、タンク、パイプが林立するジャングルに迷い込んだ感じがした。
左の方に曲がって行くと銚子電鉄の仲ノ町駅に出た。赤字田舎鉄道の代表格としてメディアに取り上げられることが多い。国、県、市の援助を得ながらとりあえず2023年まで路線は維持されることになった。仲ノ町駅が銚子電鉄の車庫であり本社である。二両編成の電車が手持無沙汰に止まっていた。
ヤマサ醤油工場の入口に来た。工場見学を行っているようだが日曜は休み。どこか外から土蔵が見える場所はないかと尋ねると土蔵はないが煉瓦塀が残っている一画があると教えてくれた。倉庫跡だろうか、それとも敷地塀なのだろうか。蔵元の風情はなく雰囲気は刑務所である。
そこからさらに西に向かい国道126号の西方、八幡町にあるヒゲタ醤油工場を訪ねる。元和2年(1616)創業で、ヤマサ醤油よりさらに古い。銚子の豪農、第三代田中玄蕃が、西宮の酒造家、真宜九郎右衛門の勧めで、銚子で醤油の醸造を始めたのがはじまりで、関東で最古の醤油業である。
両社のHPを閲覧していて、現社長は共に濱口姓であることに気付いた。濱口家は銚子を代表する実業家で代々銚子の醤油業を支配してきた。ヤマサ醤油を西濱口家、ヒゲタ醤油を東濱口家というらしいが、両家は同族である。