資料37

江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越礒を伝ひ、いさごをふみて、其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して、「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて雨の晴を待。 
其朝、天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。比處に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝえ、 其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて浪打入る所を汐こしと云。 江の縦横一里ばかり、俤松嶋にかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
 

  
象潟や雨に西施がねぶの花 
  汐越や鶴はぎぬれて海涼し 

   祭礼
  象潟や料理何くふ神祭 曽良
  蜑の家や戸板を敷て夕涼 低耳

   岩上に雎鳩の巣をみる 
  波こえぬ契ありてやみさごの巣 曽良

6月15日(新暦7月31日)−6月16日新暦8月1日)

吹浦

宮海橋を渡って最初の十字路を左折し、すぐの十字路を南北に走る細道が旧道である。旧道を北に進む。まもなく国道7号に合流し500mほどで再び左の旧道に入ってみるが結局何もなくて国道と県道374号との信号交差点に出る。

ここを左折して海側に進むと左手に願専寺、その隣に旧青山本邸がある。北海道でのニシン漁で成功した青山留吉がここ郷里青塚に明治20年から3年間かけて建てたニシン御殿で、国の重要文化財に指定されている。小樽市祝津には旧青山別邸が現存し、札幌郊外の北海道開拓村には鰊漁場に建てられた漁家住宅が保存されている。

旧浜街道はここから海岸沿いに庄内砂丘の中を北上する。人の気配は全くない。砂丘といっても鳥取砂丘のような立体的ダイナミズムは感じられず、平坦な砂浜が延々と続くという静的風景である。所々に船溜まりが設けられている。右手に風力発電機が景観を乱している。約5kmの砂道を歩いて十里塚海水浴場に出た。漁港もある。脱衣所か、海の家らしい建物のところで浜道が絶えている。十里塚集落への道をたどって国道7号に出る。

国道は吹浦町に入ってきた。道の駅鳥海の先で国道7号から国道345号(旧国道7号)に移って、先に名勝十六羅漢岩を見ていく。鳥海山から流れ出た溶岩が日本海に突き出た奇岩を作りだした。幕末の元地元年(1864)から明治にかけて、海禅寺の石川寛海大和尚がそれらの岩面に釈迦、文殊、普賢の三尊等22体の仏像や羅漢像を彫り刻んだものである。

「芭蕉句碑」の案内標識に従って吹浦川河口に向かう。河口と吹浦漁港を見下ろす道路傍に昭和15年建立の新しい句碑があった。

  あつみ山や吹浦かけて夕すずみ

芭蕉が象潟から酒田に戻った翌日の6月19日(陽暦8月4日)、不玉亭で行った三吟歌仙の発句である。まだ見ていない温海宿東方にある高さ736mの温海岳と、見てきたばかりの吹浦をかけての雄大な連想である。その所以あって温海の塩俵岩公園にも同句の碑が建てられた。

眼下の波打ち際に伊勢二見浦夫婦岩に見立てた大小一対の岩に注連縄が掛けられている。この浜辺は出羽二見と呼ばれているそうである。

国道345号で南にもどって、吹浦駅の北方で羽越本線秋田街道踏切を渡り駅前通りを北に進む。

正面に大物忌神社の二ノ鳥居がみえるこの辺りは宿町といって、羽州浜街道と内郷街道が交わる宿場街であった。町並みに往時を偲ぶ面影はないが、本陣もこのあたりにあった。6月15日(陽暦7月31日)、芭蕉が酒田から象潟に向かう途次、吹浦で激しい雨に出会い、まだ昼間であったがやむなく宿町の旅籠に泊まることにした。その旅籠がどこにあったかは知る由もない。

鳥居の西側付近は横町といい、大物忌神社の門前町として発達した。大物忌神社は景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられているが、詳細は不明である。二ノ鳥居をくぐると石段麓右側に下拝殿があり、100段の石段を上がって三ノ鳥居の後ろに拝殿がある。拝殿の裏側には本殿が二社並び建つ。右が大物忌神社で、左は摂社月山神社本殿である。彫刻等をのぞいて両本殿は同大同型の一間社流造りである。拝殿と本殿が二つある珍しい社殿である。

大物忌神社の西側を回り込むようにして横町の細い道を登っていく。この辺りにも横町の本陣があったらしい。県道210号を潜りぬけてさらに進んでいくと家並みが尽きるところで日本海を見下ろす峠にでた。右手に南光坊坂が下っている。南光坊永淳順法師が、庄内から秋田に通ずる悪路から住民旅人の難儀を救おうと新道開削を決意し、1839年(天保10年)生涯の事業として独力で工事をはじめ完成させた。芭蕉の時代はもっと山側の峠道を通ったのであろう。その断崖に唐船場という地名が残っている。唐船番所ともいい、出没する外国船を監視する番所があった。

南光坊坂を下りて線路に沿って道なりに進み、湯の田踏切を渡って国道345号に合流する。国道345号はJR女鹿(めが)駅の北方で吹浦をバイパスして来た国道7号に合流。旧街道はそのまま合流点を横断して女鹿集落に入っていく。

右手に松葉寺があり、山門には白木の立派な仁王が睨みを利かせていた。集落中程に神泉(かみこ)の水とよばれる清水の洗い場がある。一列六段の水槽はそれぞれ使い道が決められていて最上段が飲み水用、下に行くほど清潔度が落ちる。女鹿は庄内藩最北の集落で、本庄藩との間を行き交う旅人を監視する番所が置かれていた。曽良もここで出国の手続きをしている。

女鹿集落を抜けて国道7号にもどり、北上を続ける。いよいよ山形・秋田県境の三崎峠である。昔は羽州浜街道の難所であった。現在は三崎公園として整備され、その中に芭蕉が歩いた旧道が保存されている。駐車場脇に「奥の細道 三崎峠 ←100m」との標識が立っている。さっそく林に分け入ってみる。100m来たはずが峠の高みも標識もない。見る間に眼前が開け、左に海、目先に横切る遊歩道、そして前方のなだらかな丘陵を這い上がっていく山道が延びていた。地図上の県境線はまだ先である。あの岩がそうだったか、と半信半疑の気分を抱きながら旧道を進んでいく。

再びタブ林の中に入っていくと左手に古いお堂と周りに林立する低い五輪塔が現れた。
大師堂と呼ばれ、今から1200年前に慈覚大師(円仁)が建てたものと伝わる。当時この境内には23もの寺院があったという。説明板は遊佐町のもので、まだ県境には来ていない。

すぐ先で道が分かれている。左は三崎灯台にでる道で、右が奥の細道旧道である。道は次第に荒くなってくる。しばらく進んで右手に一里塚跡の標柱が見えてきた。位置を示すだけで、塚などの遺構はない。

説明板は「にかほ市教育委員会」によるもので、大師堂と一里塚の間で県境を越えたことになる。林の中に県境を示す標識の類は見なかったように思う。山道は下り坂になって車道に出た。一山越えたことは確かだ。

三崎の名は南から不動崎、大師崎、観音崎の三つの崎をまとめて付けられた。それぞれの岬に峠があってもよい。最初に100m先にあるとあったのは
不動崎の峠であろう。遊佐町にとっては不動崎峠が唯一の三崎峠であったのだ。車道を横切って再び旧道山道に入る。にかほ側では旧道を「三崎山旧街道」と統一している。しばらく歩いてまた車道に出た。ここを右におれて国道にでると、遊佐町とにかほ市がそれぞれ歓迎の看板を立てている。ここが国道の県境であろう。

旧道地点にもどる。入口に曽良随行記の立派な石碑と「奥の細道 三崎峠」の標柱が設置されている。

十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是 より難所。馬足不通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。

芭蕉が三崎の古道を越えたのは、元禄2年6月16日(1689年陽暦8月1日)であった。象潟を訪ねるため前日酒田を出立したものの激しい雨に逢い、やむなく吹浦に一泊し、当日も雨であつたがむかし有耶無耶の関があったというこの難所を越えて行ったのである。番所とは庄内藩女鹿の番所。三崎峠は馬も通れない難所といわれていた。小砂川の番所は当時庄内預かり天領の番所である。後に本庄藩領となった。

碑の傍から旧道が延びる。道は乱高下して荒々しい。所々に「奥の細道」「三崎山旧街道」の標識が立つ。再び車道を横切って最後の旧道区間へ入っていく。石畳の道が残っている。やがて海が見える場所に出た。右手に国道も見える。藪を漕いで蜘蛛の巣を顔面に受けてようやく三崎山旧街道を脱した。国道出口には「秋田県史蹟 三崎山旧街道」の細い標柱が立つ。

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6月16日
(新暦8月1日)−6月18日
新暦8月3日)


象潟 

ぐに国道7号を右に分けて小砂川集落に入っていく。中磯地区に茅葺の大きな家が目を引いた。渡部家住宅で、天明4年(1784)、文人紀行家菅江真澄が2泊した磯家跡である。当時旅龍「半右衛門」を営んでいた。

上浜集落の旧道を経て国道7号は関集落に入る。左手明星保育園の先、「関」の標識が立つ丁字路を左折する。道なりに右に曲がると地名が「象潟町関ウヤムヤノ関」となる。有耶無耶とはそもそも有るか無いかよくわからない意である。すでに通って来た三崎峠の国道沿いにも有耶無耶関跡の標識があった。また笹谷峠の南にも有耶無耶関跡を主張する場所があり、文字通りはっきりしない話だが、古代に出羽国と陸奥国を分ける辺りにあったと言われている。曽良の随行日記にも「半途ニ関ト云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。」と記している。当時からこの土地が有耶無耶関跡の場所だとされていたようである。

竹内酒店前を通って関集落を抜け、奈曽川を白糸橋で渡って国道7号に戻る。国道を1.3kmほどいった市役所入口信号で左の旧道に入る。象潟町内である。古四王神社、光岸寺をみて象潟駅前通りに出る。駅前に蚶満寺所蔵の芭蕉筆「象潟自詠懐紙」を刻んだ芭蕉文学碑がある。

 象 潟
きさかたの雨や西施か ねぶの花
  夕方雨やみて処の何がし舟にて江の中を案内せらる、
ゆふ晴や桜に涼む 波の華
  腰長(こしたけ)の汐といふ処はいと浅くて鶴おり立てあさるを
腰長や鶴脛ぬれて 海涼し
       武陵芭蕉翁挑青 

芭蕉と曽良は6月16日(陽暦8月1日)から18日(同8月3日)まで2泊3日の間象潟に滞在して島めぐりを楽しんだ。象潟は「奥の細道」の最北の地である。

旧道は駅前通りを直進する。本隆寺の向かいに「御蔵屋敷跡」、その北隣の佐々木麹屋前に「木戸跡」の説明札が立っている。

旧道が左に曲がった先、右手に向屋、筋向かいに旅人宿、能登屋の跡がある。関氏宅が向屋(佐々木左衛門次郎)跡で「奥の細道 芭蕉が宿泊した向屋跡」の説明板が立つ。能登屋跡(佐々木孫左衛門)は駐車場になっていて説明板はなかった。

芭蕉が着いた16日、能登屋に泊まるつもりで草鞋を脱いだのだが、熊野権現の祭りで女客があって、やむなく筋向かいの向屋へ移ってその夜を過ごした。翌日は能登屋に泊まっている。

公会堂の街道沿いに奥の細道の大きな絵看板が設けてあり芭蕉の象潟滞在中の動静が描かれている。その脇に倒れかけた象潟町道路元標があった。

16日 吹浦を発って三崎峠越えをする。雨が激しく船小屋に雨宿りする。
昼ごろ能登屋孫左衛門を訪ねその夜は向屋の左右衛門治朗に泊まり17日は能登屋に泊まる。
象潟滞在中何度も象潟橋から全景を眺望した。
17日 夕方、舟で潟巡りをして島々を眺めた。夕方、潟巡りの最期に蚶満寺へ参拝した。
18日 早朝、鳥海山の全容を眺めて酒田へ向かう。

若宮八幡神社の角を右折、ひまわり幼稚園の向かいに今野嘉兵衛の家がある。今野加兵衛は象潟滞在中の芭蕉主従を時々訪ねて世話をした。嘉兵衛は名主の又左衛門の実弟であり、又左衛門が祭りで忙しかったため、名代で芭蕉主従をもてなしたのである。当時、嘉兵衛の家があったこの場所は又左衛門の屋敷内であり、現在は嘉兵衛の直系の子孫が住んでいる。

その先を右折した右手に名主今野又左衛門の家がある。17日の夜には能登屋を訪ねて、芭蕉に象潟の由来や伝説などをいろいろ語っている。

象潟川の手前左手に熊野神社がある。文治2年(1186)に紀伊国熊野三山の別当の孫にあたる大円坊が熊野山から分霊を奉じて海路象潟に至りこの地に祠を建てて祀ったのが始まりと伝わる。芭蕉が着いた日はこの神社の例祭であった。慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、秋田藩の遊撃隊はこの神社前で髻を切って奉納し、必勝を祈願して庄内藩と戦うために三崎峠の戦場に向かった。

象潟川に赤い欄干の欄干橋が架かっている。慶長8年(1603)に架けられ象潟橋といった。この橋から眺める九十九島と鳥海山は「象潟八景」の一つと言われている。曽良の旅日記には、象潟に着いた6月16日(陽暦8月1日)に「先、象潟橋迄行テ、雨暮気色ヲミル・・・」とあり、象潟を去る18日は「快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル・・・」とあり、ここからの景色が気に入っていた。

この橋を渡ったところから象潟めぐりの舟が出ていた。左手川縁に残る石柱は舟つなぎ石で、象潟八十八潟九十九島を巡る舟が発着した場所である。石には道標を兼ねて「左右往還」と刻まれている。説明板には「土地の道案内文字」とあるが何のことかよくわからない。石の前の道が羽州浜街道であるということか。

舟つなぎ石の傍を通り、右に折れてすぐ丁字路を左折し、道なりに右に曲がりながら国道7号を横断する。羽越本線の踏切を渡ると蚶満寺門前の庭園である。芭蕉の像、池のほとりに古代中国の美女西施像が立っている。合歓の木も植えられている。芭蕉は象潟を松島に比すべき名勝の地として楽しみにしていた。奥の細道の最北端であるこの地を実質的なフィナーレの舞台と考えていたと思われる。『奥の細道』においても一段と力を入れた名文を残している。

俤(おもかげ)松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

象潟や雨に西施がねぶの花

松島と象潟の対比は太平洋と日本海の対照でもある。陽と陰、喜と悲、闘と忍、男と女。それらの統合的直観をはるか中国の西施に馳せた。

松並木が美しい旧参道を通って仁王像が納められている古い山門をくぐる。八脚門両脇の正面、裏面ともに板がはめられていて仁王の姿は通り越しにしかみえない。海からの塩害対策かと思われるが珍しい形である。

蚶満寺は仁寿3年(853)□慈覚大師の開山と伝えられる古刹である。昔は九十九島の一つであり、舟でしかアクセスできなかった。境内の水辺には船着き場跡と舟つなぎ石が残っている。

境内は史跡であふれ、本堂・鐘楼などの建物の他、夜泣きの椿、樹齢千年を越える霊木犬楠(タブノ木)、樹齢700年という北条時頼のつつじ、西行法師歌桜、菅秀才の梅などの木々。猿丸太夫姿見の井戸、親鸞聖人腰掛石紅蓮尼彰徳碑、木登り地蔵そして芭蕉の句碑と、実に盛りだくさんであった。

蚶満寺を後にして、フィナーレの九十九島めぐりに出かける。昔はおよそ一里四方の潟に大小百数十の島が浮かぶ景勝の地であった。起源は紀元前466年の鳥海山噴火で潟に流れ出た溶岩である。文化元年(1804)象潟大地震で約2m地面が隆起し、現在の原形が形成された。本荘藩は島跡を開削して新田を開発しようとしたが、蚶満寺の住職が中心となって保存運動が展開され、現在の景勝地が残された。

さてどこからどの島を見て歩くか。芭蕉が訪ねた能因法師の三年幽居跡の能因島と、曽良が岩上にミサゴの巣をみたというみさご島だけは見て行こうと思う。黄金色の穂を垂れる田んぼのあぜ道をたどって、駒留島からみさご島、そして少し離れた能因島を訪ねる。島に上がったのは能因島だけ。大きな松が生え稲穂の海にその影を落としている。その先にみるのが伊勢鉢島であろう。能因法師はこの島に庵を結び3年暮らした。

芭蕉は能因島を訪ねた後、向こう岸に上がって「花の上こぐ」とよまれた桜の老木を見ている。蚶満寺境内にあった西行法師歌桜に符合する。

きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟  西行

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6月18日(新暦8月3日)−6月25日(新暦8月10日)

酒田
 

十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。

芭蕉と曽良は18日、快晴の天気に気分をよくしてもう一度象潟橋から鳥海山の全貌を見納めた後、酒田に向けて出立した。
「アイ風吹テ」という記述から、二人は象潟から海路酒田に戻ったとする説もある。酒田ー象潟はおよそ10里。これは当時の平均的な一日の徒歩行程であった。順風をうけた帆船が陸路に比べ沖合を遠回りする航路を行く所要時間はどれほどであったか、調べてみるのも面白かろう。

18日夕方酒田に着く。19日から21日にかけて三日がかりで
不玉亭で三吟歌仙を巻いた。


温海山や 吹浦かけて夕涼み 芭蕉
みるかる磯にたたむ帆莚 不玉
月出は関やをからん酒持て 曽良

22日は休養にあて 23日は
近江屋三郎兵衛(玉志)宅に招かれて即興の句を作って興じた。玉志から真桑を供されての余興である。

初真桑四にや断ン輪に切ン  はせお
初瓜やかぶり廻しをおもひ出ヅ ソラ
三人の中に翁や初真桑     不玉
興にめでゝこもとなし瓜の味 玉志


25日、
不玉父子・近江屋三郎兵衛・加賀屋藤右衛門・宮部弥三郎(低耳)等多くの門人に船橋まで送られて酒田を立った。袖の浦(現宮野浦)は川向こうである。この中の低耳という人物は象潟で知り合った美濃の商人で、芭蕉の為に各地に宿泊の紹介状を書いている。今夜泊まる予定の大山では丸屋義左衛門あての紹介状を曽良に持たせている。

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6月26日(新暦8月11日)−6月27日(新暦8月12日)

大山 

酒田の船橋を発った芭蕉は最上川を渡って対岸の袖ヶ浦に上陸する。そこから羽州浜街道の浜中宿を通過して3時ごろ大山に着いた。酒田から浜中まで5里近く、浜中から大山までは3里近く、と曽良は記している。私の計算では酒田―浜中間は約3里余りである。

袖ヶ浦(現宮野浦)は古くから最上川河口の湊として栄えた酒田の発祥地である。赤川、最上川の度重なる水害で1520年ころから対岸に移住が始まり現在の酒田港が形成された。

宮野浦集落をぬけてクロマツ林の中を国道112号で南下する。庄内砂丘の強風と砂を防ぐための植林が江戸時代から行われてきて、見事なクロマツ林を形成している

旧道で十里塚の集落を通り抜け国道に戻ってまもなく袖浦橋で赤川新川を渡る。新川橋下流で最上川に向かっていた旧赤川を付け替えたものである。芭蕉の時代、この川はまだなかった。

浜中集落の入口で国道から離れて集落内の旧道を行く。細い通りは国道とちがっていかにも旧道らしい雰囲気を漂わせている。板やブロック塀で囲った民家の軒を縫うように路地を進んでいくと集落のほぼ中央あたりの左手に石船神社があった。天文元年(1532)、浜中開村時の創建だという。

庄内空港に通じる大通りの手前で国道に戻り、庄内空港の下をトンネルで抜け、2km余り行ったところで国道と分かれて二股を左に取る。県道43号をよこぎってゴルフ場を回り込んで道なりにいくと善宝寺の総門前に来る。善宝寺は天慶年間(938〜57)に創建された曹洞宗の名刹である。守護神として竜宮竜道大竜王と戒道大竜女を祀っている事から、古来から海の守護神・龍神の寺院として航海安全、大漁祈願を祈願する全国の漁業関係者の信仰を集めている。出羽三山、酒田、象潟とビッグイベントを終えた芭蕉と曽良にはこの名刹も興味を引かなかったようだ。

県道38号の一筋西に並走する旧道を南に下って来ると大山の中心街に入ってくる。土蔵や黒板塀、格子造りなど風情ある街並みを感じることができる。大山は江戸時代から酒造の町であった。大山の町全体で「大山酒」という統一的な名称を用いて酒造、販売する特徴ある戦略をとってきた。全盛期には40軒もの酒蔵があったが、現在では出羽ノ雪酒蔵冨士酒造加藤嘉八郎酒造羽根田酒造の4軒だけになってしまった。

富士酒造の一筋北の角地に旧醤油屋丸谷義左衛門宅があった。数年前に当主が亡くなってから空き家となっていたが最近とりこわされ空き地は売りに出されている。芭蕉と曽良は象潟で出会った美濃商人低耳の紹介状でここ丸谷義左衛門宅に泊まった。なお、丸谷醤油の蔵は鶴岡けやきホールに移築されている。

二人は翌26日、早々に大山を立っている。曽良の日記には「大山より三瀬へ三里十六丁、難所也」とあるだけで泊めてくれた丸谷義左衛門の人物に関する記載もない。心は越後路に飛んでいるようであった。

浜街道は国道112号を横断し、いくつかの曲尺手を経て県道38号で水沢に向かう。日本海東北自動車道を潜った先で右折する。交差点に明治41年建立の八幡神社道標が建つ。羽前水沢駅に通じる県道335号を横断して県道334号を道なりに進んでいく。自動車道、羽越本線を潜って途中左折する県道と分かれて旧街道は直進して中沢集落の薬師神社前で丁字路を左折する。

旧道は日本海東北自動車道を潜った先で左に曲がって行く県道と分かれて真直ぐ山中に入っていく。矢引峠に至る旧道である。舗装された林道を山中にたどっていく。山は深くなっていくがどこまでも歩きやすい道である。いずれは林道が途絶え山中に消えていく獣道になるのであろうか。熊が怖くて適当な所で引き返した。矢引峠は曽良が記した「難所」である。

県道334号に戻って山中集落を通り抜ける。県道が日本海東北自動車道に接近したところでトンネルがあって、くぐってみると自動車道に沿って左に舗装された道が延びている。たどっていくと二股に出て、土道の旧道が田んぼの北端の山裾を縫って山中に入っていく。遠くの谷間に山道らしい筋がみえる。矢引峠に至る旧道であろう。

県道にもどって西に進む。自動車道のガードを潜った先で右手に矢引峠越えの旧道入り口が残っている。自動車道建設のための作業道にも見える。少し入ってみたが先は分断され笹薮の中に消失しているようであった。


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三瀬 

県道334号は下り坂になって三瀬をめざす。降矢川に架かる降矢橋の50mほど先右手に三瀬一里塚跡」標柱が立っている。

三瀬集落に入ってきた。
駅前を通過して最初の十字路を左折するのが旧道である。川に架かる上町橋の南詰めに三瀬宿東の木戸があった。木戸跡の標柱が立てられている。旧道はすぐに県道に戻る。

気比神社に至る
丁字路あたりが三瀬宿の中心地であった。通りに「藤沢周平著『三年目』当時の江戸時代三瀬宿場町絵図」が掲げられている。木戸が東西端に二カ所、西木戸付近に坂本屋、本陣の向かいには越後屋、常盤屋、秋田屋などの商家が軒を連ねていた。山側には大日堂長泉坊など寺が集まっていた。町並みに昔の面影は残っていない。


右手旅館坂本屋の前に「羽州山浜通三瀬組御本陣跡」の標柱が立っている。江戸時代の絵図では坂本屋は峠道出入口木戸付近に在って、この場所ではないようだ。その先で県道から分かれ、左に折れて
笠取峠への山道に入っていく。この丁字路に三瀬宿西の木戸があった。

笠取とは強風で旅人が笠を飛ばされることから名づけられた。道は全長4.5kmのハイキングコースとして整備され歩きやすい。距離標識も充実している。山道にかわりないが日本海に面した山の中腹を開いた道筋で、終始日本海を見渡せる景勝の地である。

峠道は大きく左に回り込むように山腹を縫う。ほぼ中程、漁港が真下に見下ろせる個所で崖が大きく崩落していた。山側に残された細い道を越えて小波渡側に渡る。このあたりが笠取峠らしいが、標識もなければ足元に峠のふくらみを感じることもなかった。

さらに峠道をたどっていくと東屋が見えてくる。草を刈っていた地元の人たちが休んでいた。ここが笠取峠かと尋ねると、ここは鯵ヶ崎峠だという。

小波渡集落が見渡せる快適な山道を下りていくと出口付近に不動宮があり、その奥に滝が落ちている。旧道は羽越本線のガード下を通って小波渡集落に入ってきた。

集落の中ほどに
御水屋(オミジャ)と呼ばれる湧水がある。その由来は小波渡村の開村につながっている。話は義経伝説にまで遡りきわめて古い。小波渡とは隣の堅苔沢に行くには切通しの難所があったため、小舟で渡ったので、小波を渡るということから名づけられたという。

国道7号に出て堅苔沢に入る。堅苔沢公民館の先に「奥の細道 遺跡 鬼のかけ橋」と刻まれた石碑がある。昔、ここから北に600mほど戻ったところ(堅苔沢と小波渡の境辺り)に長さ11m、高さ3mほどの自然石橋が海に突き出ていた。「鬼のかけ橋」といわれた難所で、旅人はその下を通っていったという。芭蕉と曽良も見たこの橋はその14年後、元禄16年(1703)の大地震で崩壊した。小波渡開村伝承に出てくる切通しの難所とは鬼の架橋の場所であろう。

曽良は「小波渡・大波渡・潟苔沢ノ辺ニ鬼かけ橋・立岩、色々ノ岩組景地有」と記している。

堅苔沢集落に圓通寺がある。時宗の寺で留棹庵と呼ばれている。康平元年(1058)に創建された古刹で、特に漁師の信仰を集めていた。この寺は海上の関所も担っており、「棹を留める庵」と命名されたと伝わる。

国道7号にもどり、しばらく行ったところで国道と分かれて左の県道61号に入っていく。鳶ヶ坂トンネルを抜けると五十川集落である。川におりたところで右折、古四王神社の前で橋を渡り右折して国道に戻る。

国道7号を南に進んでいくと、前方にトンネルが二つ見えてくる。左側歩道の延長にある旧トンネルが旧道筋である。トンネルを出て国道の海側を見下ろすと国道を斜めによこぎって旧道らしい道が崖下の浜辺に降りていた。こんなところにも民家があり、畑が耕されている。

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温海 

暮坪集落手前の海岸沿いに、広い駐車場と小さな公園がある。公園には芭蕉の句碑があった。酒田で詠んだ一句である。

芭蕉遺跡 温海 あつみ山や吹浦かけて夕涼み 芭蕉

海辺には「塩俵岩」がある。玄武岩の柱状摂理であるが、俵を積んだように横に積み重なった姿である。これらの岩が連なっていて注連縄が張られている。

その先に瘤状に海に突き出た巨岩が孤立している。巨岩の前に矢除明神の小社がある。立岩と呼ばれ高さ51mの柱状節理の玄武岩である。頂上はベレー帽をかぶったように松が低く生え、岩の北側には大小の岩を繋いで注連縄が架けられている。立岩は古くから温海温泉の景勝地として知られ曽良も随行日記に記した。

温海の宿場街に入ってきた。国道から左の旧道に入る。
浜街道の宿場ではあるが、町並みにそれを偲ばせる面影はない。僅かに芭蕉が一泊したという鈴木家宅前に「奥の細道芭蕉宿泊の家」の標柱が立つのみである。6月26日(陽暦8月11日)、芭蕉と曽良は鈴木惣左衛門宅に一泊した。ここも美濃の商人、宮部弥三郎(低耳)の紹介による。

このあたりは浜温海とよばれ、温海の本命は温海温泉にある。温海宿は羽州浜街道にあって、温海温泉への入口に過ぎない漁村ではなかったか。

廿七日 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ケ関 被レ趣。予ハ湯本へ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及レ暮、中村ニ宿ス。

芭蕉は翌日越後をめざして馬で鼠ヶ関に向かったが、曽良は行動を別にして温海温泉に出かけた。別行動の理由は定かでないが、曽良は「見物して行く」と言っている。他にも何らかの目的があったのではないか。あやしい。

温海温泉へは温海川に沿って県道44号を約2.5km東に行く。

温海温泉は1000年以上の歴史をもつ古湯で、歴代領主の庇護を受け発展した。温海温泉の名前の由来は源泉から日本海まで距離が短く海が温かく感じられたからだと言われている。庄内藩主の御茶屋御殿が置かれ、盛時には旅籠40軒が軒を連ね娼家の数は10軒を数えた。与謝野晶子、横光利一、斎藤茂吉などの文人墨客にも人気があった。与謝野晶子は「さみだれの出羽の谷間の朝市に傘して売るはおほむね女」という歌を残している。

温泉街入口の二股を左にとって表通りを進むと、創業宝暦3年(1753)という老舗あさひや旅館を通り過ぎた左手に温泉神社があり、その境内に十人余りの年配男女が集まって飲食を楽しんでいた。この場所は300年の歴史をもつ温海温泉の朝市が開かれる広場である。4月から11月まで毎日開かれる温海温泉の朝市は能登輪島、飛騨高山と並ぶ日本三大朝市に数えられている。曽良もこれを見物したであろう。

通りの東端に熊野神社があり、参道石段の途中左手に芭蕉供養碑があった。元禄2年夏、芭蕉と曽良が温海宿に一泊したこと、翌日芭蕉と別れて曽良が単独この温海温泉を尋ねたことが説明されている。曽良がここで何をしたかは誰も知らないが、日記を見る限り、街を見物しただけで、中村に向かって急いだようにも見える。

27日、芭蕉は独り馬で鼠ケ関に赴いた。小国川を渡って釜谷坂、大岩川、小岩川、早田集落を旧街道が繋いでいく。

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鼠ケ関 

国道7号鼠ケ関信号交差点の左手に「念珠関址」がある。民家の前の一角に「史蹟念珠関址」碑が立つ。ここが近世の念珠関所(鼠ケ関御番所)跡である。関守は大庄屋である佐藤掃部家が歴任した。冠木門の前に「勧進帳の本家」と記した標柱が立っている。歌舞伎『勧進帳』での安宅関のエピソードは『義経記』の中の鼠ヶ関通過の条に描かれている、とする解説が添えてあった。ここから南に1kmほどいった旧道県境には「近世」に対して「古代」の鼠ケ関址がある。

交差点を右に入って弁天島に立ち寄る。厳島神社の境内に、大河ドラマ「源義経」(昭和40年)を記念して原作者村上元三の揮毫で建てられた「源義経ゆかりの浜」の碑がある。源頼朝に追われた源義経は安宅の関から海上に逃れ佐渡を経て鼠ケ関弁天島付近に上陸したと伝えられている。鼠ヶ関を弁慶の機知によって通ることができ更に、関守の世話で当地に宿泊、疲れを癒したという。

マリンパークの前にも同じく村上元三による「義経上陸の碑」が建っている。鼠ケ関の義経に対する思いは熱い。

町中にある
「念珠の松」にも寄った。石庭風砂敷き庭園に一本の黒松が長々と地を這うように枝を張っている。400年程前に元村上屋旅館(昭和35年廃業)を営んでいた佐藤茂右ェ門が植えたとされる松で、7mほど地を這い、それから斜上して支柱で支えられ全長20mの見事な臥龍松である。「村上屋の念珠の松」として、山形県の天然記念物に指定された。

旧道に一本の点線ラインが引かれ脇に県境碑が建つ。新潟県村上土木出張所が昭和33年に建立したものでまだ新しい。右手に「村上市 新潟県 最北」の看板が立ち、地蔵尊を安置した祠がある。

県境碑の建つ三叉路を左折し、JR線路に沿って左折する角に古代鼠ヶ関跡の石碑がある。蝦夷地との国境に設けられた古代の関所、鼠ヶ関址で、白河の関勿来関と共に奥州三古関と呼ばれている。昭和43年(1968)の発掘調査で関所の軍事施設と高度の生産施設をもつ村の形態を備えた古代関所址の存在が確認された。年代は平安中期から鎌倉初期の10〜12世紀にわたっている。江戸時代に入ると庄内藩の御番所が鼠ケ関集落の北端に設けられ、街道のみならず船番所の機能もはたしていた。その跡地を、この古代関所と区別して近世念珠関址と呼んでいる。

芭蕉は古代関所跡のことは知らずに黙々と越後の国に入っていった。

(2014年9月)
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今様奥の細道 14

6月15日−6月27日(新暦7月31日−8月12日)


吹浦−象潟酒田大山三瀬温海鼠ケ関
いこいの広場
日本紀行

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