今様奥の細道 15

6月27日−7月12日(新暦8月12日−8月26日)


中村(北中)−村上築地新潟弥彦
いこいの広場
日本紀行

次ページへ
前ページへ

資料38

酒田の余波日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々のおもひむねをいたましめて、加賀の府までは百三十里と聞く。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改めて越中の国一振の関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりてことを記さず。

  文月や六日も常の夜には似ず

  荒海や佐渡によこたふ天河 

出羽三山への巡礼を果たし象潟でその北限を極め酒田でくつろいだ時、芭蕉は奥の細道の旅を成就した気分になっていた。越後から先の北陸道の旅は帰路である。体は疲労が蓄積して、奥州路を北上していた時の気力も萎えてしまった。鼠ヶ関から加賀まで、慰めは延々と寄り添う日本海の荒波であった。『奥の細道』では9日間で越後路を通過したとあるが、曽良の日記には8月12日から27日まで16日を費やしている。

6月27日(新暦8月12日)− 6月28日(新暦8月13日)

中村

二十八日 朝晴。中村ヲ立、到蒲萄 (名ニ立程ノ無レ難所)。甚雨降ル。追付止。申ノ上刻ニ村上ニ着、宿借テ城中へ案内。喜兵・友兵来テ逢。彦左衛門ヲ同道ス。

県境を越えて越後に入る。「新潟県・山形県/境標」の標識と「新潟県最北端の村上市伊呉野です」と書かれた集落案内図がある。伊呉野の集落を抜け国道7号に合流、伊呉野より中浜、岩崎を経て府屋に入る。

府屋信号で国道を逸れて海沿いの旧道に入る。府屋第二トンネルの右側に旧国道「間の内隧道」が残る。通り抜けると府屋漁港が入り江に隠れるようにある。現国道府屋第一トンネルの区間を岬隧道大崎山隧道で旧国道を抜ける。芭蕉が歩いた浜通りはさらに海側の波打ち際の道であったのだろう。

府屋から碁石を経て勝木に入る。国道勝木交差点で7号と分かれて国道345号に入る。

勝木川を渡った先に巨大な岩が海中に突き出ている。鉾立岩とよばれる奇岩岬で寝屋漁港のシンボルとなっている。旧出羽浜街道はこの鉾立岩の切通しを通っていた。

芭蕉は勝木で旧出羽浜街道と分かれ、東に方向を転じて中村に向かう。勝木駅の東口から県道288号を東に向かい、国道7号を横断して勝木集落をぬける。勝木は出羽街道の宿場と出羽浜通りをつなぐ連結点にある宿場で、交通の要衝であった。現在浜通りにそって走る羽越本線も当初の計画では村上―中村(北中)−勝木―鼠ヶ関のルートが検討されたようである。国道7号はこのルートを採用した。

勝木の町並みには漁村に見られる下見板張り造りの民家や、旧街道の雰囲気をのこす家並みが見られる。集落の東出口近く、八幡小学校(統合されて現在は「さんぽく南小学校」)前に湯殿山供養塔と庚申塔が旧道の道筋を示していた。その先で国道7号に合流する。国道7号は北中まで勝木川に沿って走る。

下大鳥トンネルの手前で右手に旧道がのこる。「ぎんなんの里 北赤谷」の看板が立っているが旧道は北赤谷には入らずトンネルの東側を回り込んで国道に戻る。

まもなく国道の左側に短く残る旧道に沿って下大鳥集落を抜ける。

勝木川が大きくS字に蛇行する部分に上大鳥集落がある。国道と分かれてしばらく左の旧道を行く。静かな山間の集落である。集落の東出口あたりで勝木川を渡り旧国道に出で山の北側を回り込む。「熊出没注意」の看板があった。

現在は上大鳥トンネルができて勝木川の蛇行部分を直線で貫通している。国道7号に接する手前で旧国道は再び左に回り込んで笠取トンネルを迂回して国道に合流する。

左手に八幡神社をみて国道は北中(旧中村)に近づいて、国道が大きく左にカーブしていくところで旧道は直進し北中集落に入っていく。突き当たりの三叉路が出羽街道との合流点で、そこに「芭蕉の宿泊地」と添え書きされた道路標識と黒川俣村道路現標が設けられている。黒川俣村は明治22年、岩船郡の北中村、北黒川村、大沢村、大毎村、中津原村、荒川村が合併したもの。北中は明治時代までは中村といい、出羽街道の宿場として賑わっていた。

芭蕉は温海で分かれた曽良とここで落ち合い1泊した。曽良は温海温泉を見物した後、山中の道を通って出羽街道の宿場である小国宿に出てここに下ってきたものと思われる。

芭蕉と曽良が一泊した旅籠がどこであったかははっきりしていない。三叉路の交差点北側に「旅館」の看板が見える家がある。ここが庄内藩酒井侯の本陣であった小田屋五兵衛宅跡で、芭蕉はここに泊まったとも、秋田屋佐治右衛門宅に泊まったともいわれている。北中には明治始めまで、小田屋、秋田屋等5軒ほどの旅篭屋があった。

三叉路を右に折れて旧出羽街道を南にたどる。道路の中央を融雪装置が延びる雪国の街道風景である。建物は新しいながら、落ち着いた雰囲気を湛えた家並みが見られる。

川の手前で丁字路を左折し、すぐ二股を右にとって細い道をたどり三叉路を右折して広い農道に出る。

坂を上がったところ右手の林中に北中芭蕉公園がある。道からではわからない。平成元年(1989)芭蕉の旅から300年を記念して整備されたものだが、25年の間に施設は風化したようだ。公園に通じる山道は旧出羽街道の雰囲気を感じさせるが古道ではない。

突き当りの広場に「さはらねば汲まれぬ月の清水かな」と刻まれた芭蕉句碑が建てられている。芭蕉が中村に一泊したときの句だといわれるが芭蕉句集には見当たらない。傍の説明碑によれば、この辺は清水が豊富な土地だというが、句にある清水がどこなのかも分からない。

旧出羽街道の案内地図板が建っていて、それには現在地、芭蕉公園の西側に旧道が通っているように描かれている。公園の西端を注意深く探ってみたが、旧街道らしき道筋を見出すことはできなかった。実は坂を上る前、広域農道に出てすぐに林の前で道が二股に分かれており、その右をいくのが旧道であった。それを知らずに公園を後に、広域農道を快適に行く。

やがて丁字路にさしかかり、右手に「吉祥と清水の里 大毎」の大きな看板が建っている。案内板に従って右に折れ、道なりに進んで大毎の集落に入っていった。十字路角になつかしい土蔵が建っている。そこを右折、集落内の主要道路らしき道をきまぐれにたどっていくと満願寺の前に来た。境内入り口に「バス折り返し地点」とあるのは、勝木―大毎間のバス路線のことである。大沢まで行くバスはない。境内には大きな観光案内地図が建てられているが残念ながらそこには旧出羽街道の道筋は示されていなかった。

その隣に吉祥清水がある。大きなポリ容器に清水を汲み入れて帰る人たちが多い。この道が旧街道であるのか、水を汲んでいる人に聞いたが知らなかった。

カーブミラーの立つ変則十字路に道路標識があり、「←大沢2.2km」「←吉祥清水0.3km」そして「旧出羽街道」として右方向を示した指差し道標が記されている。大沢はこれから向かう道であり「大沢」と「吉祥清水」が同方向であるのはおかしい。「大沢」は「旧出羽街道」と同じ右方向であるべきだろう。ともかくここでようやく北中芭蕉公園で見失った旧道に復帰できた。

十字路を左折して旧出羽街道を大沢に向かう。次の三差路にも道路標識があって「大沢2.0km→」に従って進む。

右手、地蔵堂の脇に三基の石塔が並んでいる。左が馬頭観世音、中央が法華石写塔、右が青面金剛塔で宝暦の銘が読める。いずれも背が高い立派なものだ。

その先の丁字路に「出羽街道大沢峠 芭蕉が歩いた石畳」の案内板があり、案内板の表示通り180度にするどく右にカーブして坂を上がっていく。

国道7号への分岐点に「芭蕉が歩いた奥の細道出羽街道 大沢峠石畳古道」の案内板が立っている。石畳を整備したときに設置されたのであろう。

その三叉路を左にとって山に向かって進んでいくと旧国道との分岐点に出た。右が旧国道で左が大沢集落に入っていく旧出羽街道である。ここにも「出羽街道大沢峠 芭蕉が歩いた石畳」の案内板がある。大毎集落の出口からは旧出羽街道の案内標識が充実していて迷うことはなさそうだ。

大沢集落に入る。大沢は大沢峠、葡萄峠を越える旅人が休んだ宿場であった。方形に造られた道に沿って集落が形作られている。今は現国道からも旧国道からも隔離された静かな山里である。異邦人の侵入をしらせる犬の遠吠えだけがこだましていた。

旧道は集落の東端を成して、突き当りで左の路地に入っていく。すぐに家並みがつきて大沢峠への山道が始まる。入り口に「出羽街道」、「奥の細道」と記した案内標識が整備されている。

山道に踏み入れるや石畳の道が始まった。丸まった古来の石畳と思われるものと、修復された新しそうなものが混じった道である。まもなく出羽街道古道は羊歯が生い茂る暗い杉林に入っていった。

石畳は秋田藩主佐竹侯が敷き詰めたという出羽街道に残る唯一の石畳である。

大沢峠越えの古道は約2kmの山道で、途中「座頭落とし」とよばれる難所を経て明神岩にでる。50mあまりの垂直の断崖下に漆山神社がある。神社自体は一間四方の小さな祠であるが式内社で、また源義家が弓羽で屋根を葺いたという伝説から矢葺明神とも呼ばれていている。

漆山神社で旧国道と合流し、旧街道は勾配の険しさを感じないままに峠の切り通しに至る。葡萄峠は標高260mとさほど高くなく、加えて舗装された車道では難所の実感を得ずじまいであった。奥の細道でも曽良は随行日記に大沢から葡萄の間に「名ニ立程ノ無難所」と記している。

右手下に葡萄集落がみえてくるあたりで旧国道からわかれて右手の急坂を下っていく。突き当りで道はヘアピンカーブするが、その先に直進する土道が延びていて山中に消えていた。これが蛇行する旧国道に直結していた旧道跡であろう。

棚田を縫う旧街道から谷間に延びる美しい葡萄集落が見渡せる。旧道は集落の北端で国道7号に出た。丁字路の角に道路標識が立っていて、来た道に向かって「←矢葺明神方面(出羽街道)」と示されている。芭蕉と曽良はここへ出てきた。

旧葡萄宿の町並みは国道の両側に延びている。葡萄トンネルをくぐり、左の旧道に入って大須戸集落を通り抜ける。

その先、国道を横切って陣屋が置かれていた塩野宿大満虚空蔵尊の門前町でもあった猿沢宿に残る旧出羽街道をたどって三面(みおもて)川を水明橋で渡る。

昔はすこし下流に「お宮の渡し」があった。


トップへ



6月28日(新暦8月13日)−7月1日
新暦8月15日)


村上 


廿九日 天気吉。昼時(帯刀公ヨリ百疋給) 喜兵・友兵来テ、光栄寺へ同道。一燈公ノ御墓拝。道ニテ鈴木治部右衛門ニ逢。帰、冷麦持賞。未ノ下尅、宿久左衛門同道ニテ瀬波へ行。帰、喜兵御隠居より被レ下物、山野等より之奇物持参。又御隠居より重之内被レ下。友右ヨリ瓜、喜兵内 より干菓子等贈。

小川で国道を離れて宮の渡しからの旧道筋にもどる。県道205号を横切った先、古渡路(ふるとろ)集落の逆Y字路分岐点に二基の自然石塔が立つ。左は庚申塔で、右が題目塔道標である。正面に「奉納大乘妙典六十六部」、左側面に「左 出羽道」と刻まれており、出羽街道旧道であることを示している

門前川を山辺里(さべり)橋で渡り左折する。宮尾酒造の隣、地蔵堂境内に明治2年(1869)に建立の芭蕉句碑があり、「けふばかり 人も年よれ 初時雨」と刻まれている。元禄5年10月3日、赤坂彦根藩邸中屋敷で開かれた五吟歌仙での発句である。

けふはかり人もとしよれ初時雨   ばせを
野は仕付たる麦のあら土       許六
油実を売む小粒の吟味して      洒堂
汁の煮たつ秋の風はな        岱水

上片町信号で県道3号に出て右折、片町信号を左折したあと曲尺手を繰り返して庄内町のビューティーサロンコジマ前の丁字路に出る。街道は左折するが、ここで右に折れてもう一つの芭蕉句碑を見て行く。加賀町佐藤内科医院前の丁字路を右に折れた先、稲荷神社の境内に湯殿山供養塔、庚申塔と並んで、一番右に「雲折々 人をやすむる 月見かな」と刻まれた芭蕉の句碑がある。この句は、芭蕉七部集「春の日」にあり、貞享2年(1685)の作とされている。句碑は天保14年(1843)10月に、芭蕉の150回忌追恩の為に加賀町観法院の別当であった白露観夢為坊が建立したもので、稲荷神社脇は夢為坊の住んでいた観法院の門外であった。

ビューティーサロンコジマ前にもどり、突き当りを右折して庄内町を通り抜ける。この通りは鮭塩引き街道と呼ばれ、12月に入ると家屋の軒先に鮭が吊るされ村上の風物詩となっている。

枡形跡を左折して小町に入ると角地に井筒屋の風情ある旅館が建っている。ここがかつての旅籠大和屋があった場所である。佐藤久左衛門が営んでいた。元禄2年6月28日(陽暦8月13日)の午後4時頃、芭蕉と曽良はここに草鞋を脱いだ。曽良と久左衛門は伊勢長島時代の知己で、他にも村上には松平良兼に付いてきた長島商人がいて曽良とは親しい間柄だった。曽良の日記には菱田喜兵衛、友兵、友右、鈴木治部右衛門、太左衛門、彦左衛門等の名が出てくる。

身なりを整えた二人は休む間もなく村上藩家老の榊原帯刀(たてわき)を訪ねる。帯刀は、曾良が伊勢国長島藩で仕えていた松平良兼の長男、帯刀直栄のことである。良兼は村上藩筆頭家老榊原直久の養子となり榊原家の家督を継ぐことになった。榊原良兼は芭蕉主従が村上に来た2年前の7月29日、村上城下にて病死して菩提寺の光栄寺に葬られた。家老屋敷は現在の市役所の場所にあった。

翌日、帯刀から金百疋(現在の数万円程度)が届けられた。二人は光栄寺に赴き良兼の墓に詣でた。偶然か予定の日程か、29日は良兼の月命日であった。光栄寺は浄念寺の隣にあったといわれるが、宝永元年(1704)榊原氏の移封に伴い姫路に戻ったのち上越高田の寺町に移っている。

午後には宿の主人久左衛門の案内で瀬波海岸に出かけた。小町を出発して大町札の辻を右折、北国浜街道(北国街道浜通り)をたどっていくと瀬波の海岸に出る。明治時代、石油採掘のおり偶然に井底から熱湯が噴出して今では温泉街として人気があるが、昔は日本海の荒波が打ちつける寂しい浜辺であった。ただ夕日が沈む日本海の絶景は昔から知られていたのであろう。ここで芭蕉は「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」の着想を得たのではないか。ここから佐渡島は見えないが、浜街道を歩いていればいずれは見えてくる。

宿に帰ると曽良の知り合いから色々な届け物を受けた。

翌7月1日、朝のうちに二人は村上藩主榊原氏の菩提寺である泰叟寺(現浄念寺)に参拝した。そして午前10時ごろに喜兵、太左衛門の見送りを受けて次の宿泊地築地に向けて村上を出発した。

村上での3日間、旧知に歓迎されて活き活きと動き回った曽良に比べ、芭蕉の影は薄かった。村上は曽良のために寄った気分であった。

村上城下から二人は二日目に行った瀬波海岸を通って北国街道の宿場町岩船宿を通り抜ける。岩船集落は石川河口にある湊町である。大化4年(648)大和朝廷が蝦夷対策の前線基地として磐舟柵を置いた。その時あった石の小祠が延喜式内社石船神社の始まりと伝わる。

境内には二基の芭蕉句碑がある。

  文月や六日も常の夜には似ず 

七夕の前夜7月6日、直江津での作。奥の細道本文に出てくる数少ない越後での作である。

  花咲て七日鶴見る麓哉

貞亨3年3月、尾花沢の鈴木清風の江戸屋敷で開かれた歌仙の発句である。

芭蕉一行は岩船集落を過ぎると石川を渡り、越後砂丘に続く松林の中を通っていった。

岩船と塩谷の間の3kmにわたる赤松林は「お幕場森林公園」として整備されているが、昔は海が見渡せる景勝の地であった。村上藩主の巡村や幕府の巡見使の藩政視察などの折、また奥方や奥女中も一日の遊山をこの地に幕を張り巡らして楽しんだといわれている。

公園の海に近い場所に「馬方道」と名付けられた細い土道が南北に延びている。いかにもこれが旧街道の道跡にみえるが確証はない。そこから海までの100mほどの林は国有林で、浜辺に出る道はついていない。

あえて灌木を踏み分けて入ってみた。足元は砂丘地である。ようやく林をぬけると砂丘の断崖となっており海辺に下りることはできなかった。浜辺に沿った旧道跡らしき痕跡を発見することもなかった。芭蕉はどこを歩いてきたのだろう。馬方道までもどり、南にたどっていくと塩谷集落に入っていく。

塩谷も荒川河口に開けた漁港である。北国街道浜通りの宿場としても港に出入りする船乗りや商人、旅行者で賑わった。街道筋には千本格子に妻入り板壁造りの町屋が往時の面影をとどめている。宿場町景観保存のためだろうか、屋号札を掲げた家が多い。「北前船と港町商人の町屋 塩谷の町屋散策 芭蕉も歩いた浜街道」と書かれたイベント案内ポスターが貼られている。

町並みの突き当り、荒川河口への出口に木戸が設けられていた。今もその名残が見られる。

右手の稲荷山は標高15.3mである。天気の良い日は佐渡島が見渡せるという。塩谷の港を出入りする商い物から役銀(税金)を徴収するための番所が、慶安4年(1651年)に設けられた。その名残で稲荷山は「番所山」とも呼ばれている。

トップへ


7月1日(新暦8月15日)月2日(新暦8月16日)

築地

七月朔日 折々小雨降ル。喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右等尋。 喜兵・太左衛門ハ被レ見立。朝之内、泰叟院へ参詣。巳ノ尅、村上ヲ立。午ノ下尅、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙宝寺へ同道、帰 而つゐ地村、息次市良方へ状添遣ス。乙宝寺参詣前大雨ス。即刻止。申ノ上尅、雨降出。及レ暮、つゐ地村次市良へ着、宿。夜、甚強雨ス。朝、止、曇。

昔は河口手前の入り江から渡舟が出て対岸の桃崎浜へ継いでいた。いまは少し上流側に迂回して国道345号で旭橋を渡る。ここで旧道の道筋が二手に分かれる。そのまま海岸沿いを走る国道345号が旧北国街道である。国道から分かれて
桃崎浜集落に入っていく内陸の道筋は乙(きのと)村・築地村方面へ向かう。芭蕉が歩いたのはこの道であった。

龍福寺や荒川神社を見ながら落ち着いた雰囲気の桃崎浜の集落を通り抜けていく。

松林をぬけるとのどかな田園風景が広がる。


二股を左にとると乙(きのと)地区である。

依然として右手に続く松林は越後砂丘防砂林の延長であろう。この道を歩く人はいない。時々思い出したかのように車が通っていくだけである。

国道113号を横断して、左からの道と合流して乙集落に入っていく。時刻は午後1時半ごろであった。

芭蕉一行は乙村の庄屋、次作を訪ね大変な歓待を受けた。次作の案内で乙宝寺に参詣する。乙宝寺は天平8年(736年)聖武天皇の勅願により、行基菩薩と婆羅門僧正の二人が開山したと伝えられる古刹である。乙村は乙宝寺の門前町である。街道沿いには瓦の剥がれた海鼠壁の土蔵が建っており、古い家並みが見られる。

豪壮な仁王門をくぐると右手杉木立の中に繊細華麗な国の重要文化財三重塔が建っている。村上城主が願主となり元和6年(1620)に竣工した。昭和26に解体修理されて往時の姿に復元された。芭蕉が見た姿と変わらないであろう。各層に高覧を配し細かな装飾が木肌の美しさと調和して荘重で均整の取れた容姿は見とれるほど美しい。

境内には、円板の形をした芭蕉の句碑がひっそりと建っている。

うらやまし 浮世の北の 山桜

元禄5年春、金沢の門人句空宛に贈った句である。浮世の北とは金沢のこと。句空は加賀商人で芭蕉が金沢滞在中に門下に入り、後加賀蕉門の重鎮となった人物である。

乙宝寺を後にして築地に向かう。乙から築地まで8km。乙集落をでると道は県道3号に合流してやがて築地の交差点にさしかかる。

交差点を越えた右手に入ったところに十一面観音を安置した清楚ながら立派な観音堂がある。また左手の「こんげん」前に「旧築地村役場跡地」の標柱がたっていた。この辺がかつての築地村の中心部なのであろう。

芭蕉は乙で次作の強い勧めもあって築地に住む次作の息子次市良宅に泊まることにした。次市良の家がどこにあったか、知ることはできない。

翌7月2日、一行は築地を立って新潟に向かった。その道筋について曽良は何も触れず、ただ「アイ風出。新潟へ申ノ上刻、着」と記している。アイ風とは船にとっての順風を指す。二人は築地から船を使って新潟に着いた。

当時築地を北端として南北6km、東西4kmにも及ぶ広大な
塩津潟があった。18世紀半ば落堀川が開削され日本海への排水路が整備され大規模な干拓事業が行われて潟は徐々に姿を消した。江戸時代の前期までは信濃川河口の新潟湊まで潟を繋ぐ河川水系が重要な交通の手段となっていたのである。塩津潟の先には鳥見前潟、福島潟などがあり、それらを大小の河川と水路が網の目のようにつながって阿賀野川に流れ、信濃川と合流して新潟湊で大きな河口を形成していた。

トップへ


月2日
(新暦8月16日)−
7月3日(新暦8月17日)

新潟
 

二日 辰ノ刻、立。 喜兵方より大庄や七良兵へ方ヘ之状は愚状に入、返ス。昼時分より晴、アイ風出。新潟へ申ノ上刻、着。一宿ト云、追込宿之外ハ不レ借。大工源七母、有レ情、借。 甚持賞ス。

水路をたどることができない現在、築地から新発田城下を経由する北国街道の道筋をたどって新潟に入ることにする。

途中、県道3号で内島見東交差点を左折して福島潟に寄っていく。
福島潟は新潟砂丘により阿賀野川などの河川の流れがさえぎられ、さらに砂丘列の内陸側に徐々に土砂が堆積してできた。江戸時代に市島氏等が主導して福島潟の干拓が進められたが完結しなかった。福島潟は塩津―新潟水系のほぼ中間点にあたる。

芭蕉は新潟のどのあたりに上陸したか定かでないが、享保15年(1730)阿賀川が日本海に放流される以前の旧水路跡である通船川が新栗ノ木川と合流する沼垂地区ではなかったか。

芭蕉は信濃川の左岸に形成された新潟の中心地に入る。現在の本町6番町交差点には道路元標があり一昔前は本町から古町にかけて主要な公共機関や金融機関が集中していた。江戸時代も繁華な町でおそらく札の辻になっていたのではないか。

芭蕉もこの一角を通り抜けて古町交差点を左折、古町通りを南に下って行った。今はモダンなアーケード商店街である。北から順に6番町から1番町まで並び旅籠は5番町を中心に建ち並んでいた。3番町には遊女屋が多かった。芭蕉も旅籠町で宿を探したが、どこも満員で一部屋に何人もの客を詰め込む追込宿と呼ばれる下級の宿しか空いていなかった。例祭の時期にぶつかったようである。途方に暮れていると大工源七の母親が自宅に泊めてくれることになった。どこで源七とであったのかその間のいきさつは知らない。

古町通1番町の船江大神宮の境内に芭蕉句碑、浮身塚がある。 安政4年(1857)、地元の句会(柳々舎)によって建てられたものである。

海に降る 雨や戀しき うき身宿

説明板には、「元禄年間北越路へ旅行せられ新潟に於いてうたわれし松尾芭蕉の「泊船集 付録」に納められた名句」とある。

この句をめぐってはいくつかの議論がある。まず、この句について芭蕉と曽良の記録には何も言及がなく、そもそも芭蕉の句であるかが疑われている。

仮に新潟での芭蕉の句であったとして、その句は雨降る七月二日の夜に宿が見つからずに難渋した自身の「憂き身」を語ったものか、それとも越前・越後の海辺で逗留する旅商人が遊女と一月ほど同棲する「浮身宿」のことなのか。

最後に、浮身宿のことだったとして、それは源七の母から聞いた夜話だったのか、それとも芭蕉が大工源七の家に泊まったのはそもそも嘘で、3番町あたりの遊女屋に泊まったのではないか。芭蕉が「源七の家に泊まった」といったのならともかく、これは曽良の記録であるから、曽良が嘘をついたとは考えにくい。

いずれにしても、問題の句はリズム感のあるよい俳句だと思う。

新潟にはもう一つ芭蕉ゆかりの塚がある。西堀通り7番町の宗現寺に、芭蕉の蓑を埋めたという「蓑塚」がある。芭蕉がこの地に寄ったことを偲んで、後人が偲んで善導寺(西堀通4番町)に塚を建てたことに始まるが、大正6年(1917年)、当寺に移設されたと伝えられている。

芭蕉も曽良も新潟に特段知り合いはいなかった模様で、大工職人の家に一泊しただけでそそくさと弥彦に向かって出立した。馬賃は高いからという源七の助言を受けて歩くことにした。芭蕉の門人に歓待された町では自腹で馬に乗ることはなかっただろうに。何につけても芭蕉にとって越後の心証はよくなかった。

芭蕉と曽良はここからひたすら北国街道を歩く。

白山公園から県道164号−県道16号とたどり、内野駅前の内野四ツ角交差点で県道2号になる。

右手に佐潟が現れる。公園として整備され湖畔に芭蕉の句碑がある。

説明板には芭蕉が赤塚の旅籠を訪れて詠んだ句とあるが、句は金沢で詠まれたものでこの地に関係ない

あかあかと 日はつれなくも 秋の風

佐潟のすぐ先で県道と分かれて左の旧道に入り、赤塚宿場通り抜ける。赤塚には石黒家、中原家といった庄屋を勤めた豪農がいたが、芭蕉には関わりがなかった。

県道2号で松野尾地区の新保五差路を越えた左手に北国街道の標柱と、その脇に化3年(1806)建立の「右やひこ道」と刻まれた道しるべがあり、その道向かいに自然石の芭蕉句碑がある。

涼しさや すぐに野松の 枝になり

これは元禄7年(1694)、伊賀上野の雪芝亭で巻かれた歌仙の発句である。

松野尾交差点を直進し上堰潟から出る水路を渡った先の二股で県道2号を左に分けて旧道に入る。布目集落の理容カネコ前の三叉路で旧街道は右に折れていく。道は布目集落を出て角田山のなだらかな山並みを眺めながらのどかな田園の中をたどる。


トップへ


7月3日(新暦8月17日)−7月4日(新暦8月18日)

弥彦 

三日 快晴。新潟を立。馬高ク、無用之由、源七指図ニ 而歩行ス。 申ノ下刻、弥彦ニ着ス。宿取テ、明神へ参詣。

県道562号に出て右折する。すぐ左手に稲島集落への入口があり、北国街道の標柱が建ち、右手に出ている山道が旧道であると記している。

集落に入ると三叉路に「北国街道稲島宿」の標識があり、弥彦へ2里半、新潟へ6里半と記してある。標識の背後に建つ白壁土蔵は二階に重厚な漆喰窓と大きな家紋が施され立派である。右手の民家は格子造りの大きな家で、大きな鬼瓦を載せている。このあたりには宿場の面影が残っている。

稲島の家並みを出て伏部のY字路角に北国街道の標柱があって「稲島へ0.4km、竹野町へ0.8km」とあった。標柱の脇に「右やひこ道」刻まれた道標が立つ。

「弘法清水前」バス停の手前、角田山登山口に「ごりん石」の標識があり、すこし入った左手に大きな丸い石があった。高さ約2メートルの自然石で、芭蕉一行が休憩のため腰をかけた石と伝えられている。石には「涼しさや すぐに野松の枝のなり はせを翁」と刻まれている。松野尾の道標近くにも同じ句の碑があった。越後路で詠んだ句でもないのになぜか人気がある。

その先の十字路を左に50mほど入った右手に「弘法の清水」がある。ちょっとした小公園に整備されている。水汲み場には多くの柄杓や漏斗が用意されていて利用者の多いことがうかがえる。芭蕉も口を湿らせたことであろう。

街道は道なりに進んで松郷屋集落の景清寺前を経て、その先の十字路を北国街道標柱にしたがって右折、平沢集会場を通り過ぎると右手に縄文時代頃から使われていたという平沢清水がある。この辺り清水が多い。

旧街道は新潟GCの中を横断する。ゴルフコースの林に沿った土道がゆるやかなカーブを描いて延びる。福井集落の入口三叉路に茶塚とよばれる三根山藩のさらし場跡がある。道の向こう側には嘉永2年(1849)建立の庚申塔がある。三根山藩は寛永11年(1634)長岡藩牧野忠成の四男定成を初代藩主としたことに始まる。芭蕉は茶塚前を通ったが庚申塔は見ていない。

街道は県道460号にでて右折し、すぐ尚古堂あめやの前を左折する。県道から南にむかって200mほどの区間は道路沿いに庭の植え込みが整えられ妻入り造りの家並みが旧街道の面影をのこし、旧宿場街かとも思われる雰囲気がある。右手、千本格子が見事なゆべし作りの老舗本間屋が趣ある佇まいを見せている。昔は福井に6軒柚餅子を作る店があったが、今はここだけになってしまった。

街道は福井を出て、三叉路を左の南方向にとって道なりに進み樋曽集落に入る。県道55号を横切って突き当りを道なりに左にまがって再び突き当たりを右折して出っ張った山裾をたどっていく。

岩室集落に入り、旧道は大きな温泉旅館「ゆもとや」の裏側を通っていく。このあたりに源泉があった。昼間の温泉街特有の気だるさがただよう道であるが夜には岩室芸者が行き交う賑わいをみせるといわれる。岩室温泉は正徳3年(1713)に公認されたとされ、江戸時代後期の文政3年(1820)の記録には「旅籠30軒、妓家12軒、人家80余軒、…人馬の往来は昼夜絶えることはない」とあるという。芭蕉が奥の細道でこの地を通った時もなんらかの湯がでていたのかは定かでない。

岩室信号交差点に出る。岩室の中心地で、角に岩室村道路元標がある。交差点のすぐ南側、右手に建つ大きな建物は料亭旅館高島屋で、江戸時代の庄屋屋敷が本館として利用されている。明治11年、明治天皇北陸巡幸の際にはここが休憩所として使われ、前庭に「明治天皇岩室御小休所」石碑が建っている。

岩室交差点にもどり道路元標の立つ細い坂道を上がっていく。その先の十字路で南北に延びている道が旧街道の道筋で、慶覚寺の西側を通っていた。

十字路を左折して旧街道を南に進むと右手に
岩室神社がある。天照皇大神と豊受大神を祭神とする岩室の産土神である。

鳥居の脇に「北国街道と岩室温泉の道」として中部北陸自然歩道の案内地図板が建っていた。「このみちは、湯けむり賑わう岩室温泉と、越後一の宮で崇拝されている弥彦神社につながる歴史深い北国街道を訪れるみちです。」とあり、これこそ旧道だと思い込んでこの道を行くことに決めた。舗装された林道をたどって天神山城址登山口を通過する。十人余りの高齢男女が登山を終えて下りてきた。

林道は結局宝光院手前で県道2号の弥彦・岩室口信号に出たのだが、別の資料によれば、旧北国街道はこの林道ではなくて、天神山(235m)の山麓に沿って蛇行しながら種月寺前に出て石瀬の浄専寺の先で県道2号に合流する道筋が正しいようである。

結局石瀬と金池集落を通らずに弥彦に着いてしまった。

県道2号は弥彦・岩室口交差点で左に分かれて行く。旧道は細い道となって杉並木が続き昔の面影を保っている。

右手に宝光院がある。宝光院は建久6年(1196)源頼朝の発願によって大日如来を本尊として開基されたといわれる古刹である。境内には芭蕉の句碑がある。句碑には越後路の名句が刻まれている。

荒海や 佐渡に横多ふ天乃河  芭蕉

杉並木通りから右折して社家通りから一の鳥居をくぐり杉木立の中を拝殿に向かう。弥彦神社は元明天皇の勅願により養老3年(719)の創建といわれ、義経一行も参拝したと伝わる古社である。社殿は新しく、明治45年に焼失した後大正5年に再建された。

門前町として発展した弥彦はまた北国街道の宿場としても栄え、越後路でも数少ない山越を控えた旅人で賑わった。鳥居前の十字路界隈は土産物や旅館が立ち並ぶ。当時の弥彦神社祠官五十嵐盛厚の邸宅跡に明治天皇行在所の碑が建つ。元禄2年(1689)7月3日芭蕉と曽良は夕方近くに弥彦に到着。この辺りに宿をとって越後国一之宮弥彦神社に詣でた。

街道は鳥居前から県道29号で南に向かう。大森橋の先の信号で左に折れていく県道とわかれて旧道は直進、つぎの二股を右にとって矢楯集落の南端で広い道を斜めによこぎって観音寺の先あたりで弥彦山スカイライン(県道561号)を横切る。

旧道は湯川の先の丁字路を右にはいっていく。家並みをぬけて山道へと入っていく。弥彦山登山道をしばらく登っていくとまもなくスカイラインに出る。左に折れてすぐ右手の草むらを入ったところに立派な宝篋印塔が建っている。明和8年(1771)寺泊港の本間弥平治ほか2人が先祖供養のために建てたと刻まれている。

街道はその少し先で猿ヶ馬場峠に差し掛かる。特に峠を示す標識もなく道路の最高点に来た実感がない。この場所は永正6年(1509)弥彦領主が越後守護代長尾為景と戦って敗れた古戦場跡である。高さは180mに過ぎないが、旧北国街道の難所といわれるほど冬場は厳しかった。昭和10年ころまでは茶屋や湯治場もあったという。県道561号スカイラインと分かれて左の旧道に折れ長岡市にはいる。

(2015年10月)
トップへ 前ページへ 次ページへ