塩津港では京・大坂から運ばれてきた茶、陶器、漆器、反物などの商品が降ろされ、北国諸藩からの年貢米や日本海や蝦夷地で採れたニシン、昆布などの海産物が丸子船に積み込まれた。200石から400石積みの大丸子船は、延宝7年(1679)、塩津に125艘、大浦に21艘あったという。
街道を歩き始める。国道の一筋北側の路地を東にたどったところに延喜式内社塩津神社がある。塩水が湧き出るという近くの池で塩を作っていた人たちが塩土老翁(しおつちのおじ)神を祀ったのが始まりという。江戸時代中期に伏見稲荷を勧請した。本殿は元禄7年(1694)の建築で、長浜の大工藤岡家によって建てられた。精緻な彫刻が多用されているのが特徴である。
旧街道に入る。白壁土蔵のある民家の板塀に寄りかかるようにしてタチアオイが赤い花をつけている。脇に「塩津海道」の標石が設置されていた。
切妻入り造りの家が多い。くすんだベンガラ色の柱や塀が懐かしさを醸しだす。塩津宿には本陣、問屋が置かれた。安政5年(1858)には問屋が6軒あったという。
左手に元造り酒屋、「沢屋」の重厚な屋敷が目を引く。白壁土蔵と主屋をつなぐ屋根付き塀の上から見越しの松が街道を覗き見している。二階に二カ所の出格子を設け、白壁に黒々と露出させた柱と梁が美しいコントラストをなして、英国チューダー風建築の粋さを呈している。一階には駒寄が設けられ、深い軒の雁木は雪国の風情である。
その道向かいに建つ総二階の箱型洋館は旧郵便局舎である。
右手の長屋風二階建て民家は趣きがある。二階の出格子は大きく突き出て、まるでベランダだ。一階の黒板塀に重ねるように設けられた格子も面白い。
旧街道は塩津浜の宿場風情がのこる家並みをぬけ、国道8号に合流する。
すぐ先の祝山(ほりやま)集落に通じる丁字路(県道33号)角に立派な常夜燈が建っている。天保5年(1834)の建立で、駄馬仲間や塩津浜およびその枝村8ヶ村(祝山、野坂、塩津中、岩熊(やのくま)、横波、余、集福寺、沓掛)の世話役たちが建立したものである。
そばに同時代の道標がある。天保12年(1841)のもので、同一面に「左 いせ たにぐミ きのもと」「すぐ竹生島 大津 諸浦出航」と刻まれている。「左 伊勢 谷汲 木之本」とは木之本で北国街道に出て中山道に連絡する道を示している。「すぐ竹生島 大津 諸浦出航」とあるのはほかでもない、塩津港を指し、そこからの湖上航路行先を示している。
なお、塩津と木之本を結ぶ道として、塩津神社の前から国道8号(県道514号筋)で賎ヶ岳の南腹を越えて木之本に至る道と、祝山から県道33号筋で権現峠を越え下余呉で北国街道に合流する権現越えの道があった。権現越えは余呉湖の北湖畔を通り、羽衣伝説の情緒を体験できるのでロマン派にはお勧めである。 他方、賎ヶ岳は古戦場跡で、歴史派に向いているであろう。これらを含めて塩津街道の終起点を木之本とする意見がある。
その祝山集落に国指定重要文化財の豪農辻家住宅があるというので寄っていくことにした。県道33号からすこし北にはずれた集落のほぼ中央に、堂々とした長屋門(1808年)と白壁土蔵2棟(1813、1832年)、そして入り母屋茅葺造りの主屋(1825年)からなる辻家住宅があった。ちょうど垣根を剪定していた御主人と出会って、門の中に入れてもらった。家の中は公開していない。
街道にもどり、国道を北上する。
国道の右手、塩津小学校のある集落が旧野坂村、その先近江塩津駅の西方にのびる集落が余。それぞれに集落内をぬける旧道がある。
右手に集福寺集落に通じる北陸本線のトンネルが見える。
国道が大川をわたる手前で右の旧道にはいる。沓掛集落が大川の左岸にそって長く延びている。古い建物等は残っていないが現代の美しい里山を描いて心和む風景があった。大川はこれから越えていく国境の深坂峠に源を発する。その上流の山峡に沓掛がある。天保5年 (1834)の記録では家数104戸、人数530人となっていて、峠下の集落としては大きな規模だった。集落の北端近くで大川をわたり国道にもどる。
およそ1km行ったところで左に分岐する県道286号が大浦街道で、塩津と海津の間に位置する大浦港に通じている。大浦は丸子船の造船基地であった。
大浦街道分岐点から1.5kmほどいったところに鶴ヶ丘バス停があり、左手の小さな集落に通じる道が出ている。バス停脇に地蔵と「中部北陸自然歩道」の標識がある。ここが4.5kmの深坂古道入口である。実は元の古道入口はここから国道を700mほど戻ったところにあった。そこの古道はすこし残っているだけで、大川の湿地に消えているとのことだったので試みなかった。
鶴ヶ丘からの古道は自然歩道として人気があり、よく整備されている。国道からしばらくは造成工事現場があって、古道の雰囲気にほど遠いが、まもなく無事草道にはいっていった。入口には通行止めの石が置いてあるだけで案内板も標識もなくそっけない。
草道は大川に接近していく。川の流れは見えないが、平らに広がる草むらが河川敷であることがわかる。そこに細い道跡がつづいているのが認められた。これが、国道700m手前から出ていた古道が湿地に消失した後復活してきた姿である。
その合流点に「塩津海道」の道標が建てられている。塩津浜でいくつかみた道標と同じく、旧道は「海道」で統一されている。
いまや細い沢になった大川に沿って山に入っていくと、建物跡とみられる苔むした石垣の遺構があった。沓掛問屋跡だという。沓掛は宿駅としては数えられていない。敦賀から来た馬の荷はここで塩津から迎えに来た馬に積み替えられた。
また、「近江へ向かう道」として深坂古道が示されている。沓掛から古道にはいってまもなく出合った自然歩道の標識「←↓」は何を意味していたのか?
古道は坂を下りきったところで右に折れて五位川にかかる橋の北詰で西近江路と合流する。
トップへ追分集落を歩く。旧街道の面影を残す民家が見受けられる。道端で出会った男性に宿場の遺構を尋ねたが何もないとのことだった。ただし「昔は雲助をやっていた。最近まで駕籠が残っていたんだが」と、貴重な証言を得た。山間の静かな集落である。紫式部が父親と深坂峠の難所を越して一息ついた風景が蘇る。
国境の新道野を開拓したのが塩津谷9ヵ村の一つ岩熊村の西村孫兵衛である。西村孫兵衛は小浜藩の米を一手に引き受け塩津へ輸送する問屋に指名された。孫兵衛茶屋は茶屋兼営問屋場跡である。西村家は奥の細道素竜本を秘蔵している旧家である。道を挟んで本家があり、そこに芭蕉句碑があるとのことだが、茶屋が定休日であったこともあり、行きそびれた。
茶屋から1kmほどで右に新道集落が見えてくる。旧道沿いには茅葺屋根をトタンで覆った大きな入母屋造りの民家が散見される。継立は孫兵衛茶屋で行われたので宿場と言っても静かな集落だった。
山裾の玉泉寺から集落全体が俯瞰できる。山間に家々が体を寄せ合って生きている。
国道にもどり一路疋田をめざす。国道は曽々木集落で大きく左に方向を変える。旧道にはいって集落を歩いてみたが、特段記するような風景はみかけなかった。奥野集落を右にみて国道8号は疋田信号三差路で国道161号と合流する。疋田集落内の旧道に入るべく国道161号をすこし南下して右手旧道に入っていく。
その先に疋壇城跡の標識が立っている。街道を離れて奥の石段を上がりつめると広いグラウンドに出た。「西愛発小学校跡地」の標石がある。グラウンドの北側に説明板と城跡の石碑が建っていた。その後ろの高台に遺構の土塁と石組が残っている。周囲はロープが張られていて立ち入れない。個人所有の畑地になっているらしい。
疋壇城は文明年間(1469〜1486)に越前朝倉氏の家臣、疋壇対馬守久保により築かれ、以後7代約100年間疋壇氏の居城となった。この地は、柳ケ瀬越・深坂越の塩津街道と海津越の西近江路が集結する交通軍事上の要衝であるため、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものである。織田信長の二度目の越前侵攻で敦賀の金ヶ崎城と共に破壊され廃城となった。
疋田は近江と越前の境にあったとされる日本三関の一つ愛発(あらち)関が置かれていた所と考えられている。不破の関、鈴鹿の関と異なり、愛発の関の比定地は諸説あって確定していないが疋田が最有力視されている。
右手から清冽な水が走る水路が現れた。この水路の原型は疋田舟川と呼ばれた運河に遡る。文化13年(1816)小浜藩は家老三浦勘解由左衛門を普請奉行に任じ、敦賀町の小屋川(児屋川)と疋田村の間に幅9尺、総延長約6.5kmの舟川が完成した。敦賀町から舟で運ばれた荷物は、疋田村から牛車で近江の大浦村へ輸送され、そこから丸子船で琵琶湖を縦走して大津や京に運ばれた。
さらに昔にさかのぼれば、平清盛は敦賀と琵琶湖を運河で結ぶ壮大な夢を持っていた。琵琶湖からは淀川を経て瀬戸内海から太平洋に出る道が確保されている。日本海と太平洋を短絡させる、パナマ運河に匹敵するような夢であった。追分から深坂古道を通って塩津に出るルートが策定されたが、深坂峠の堅固な岩盤にぶつかって断念せざるを得なかったという。その後も敦賀―琵琶湖の運河航路の計画はいくどとなく持ち上がるが、結局陸送の権益をもつ地元の反対や、北前船による西廻り航路の発達により計画は頓挫した。疋田舟川は清盛の夢の一部であった。
その舟川も荷物を奪われた馬借座の訴願により天保5年(1834)廃止された。のち安政4年(1857)になって京都町奉行の検分によって舟川は再掘されて再開されたが、慶応2年(1866)大洪水で破壊された。悲運の運河は通算27年の現役を終え親水公園と生活用水路として余生を送っている。
左手に高い石積みの上に塀をめぐらし門を構えた立派な屋敷がある。疋田宿には小浜藩の本陣があったというから、それにふさわしい佇まいである。中にはいると古い建物が残っていた。六地蔵や五重石塔などもあってどうやら寺(定広院?)のようだ。
石垣脇に「船溜跡」の説明板があった。疋田総蔵屋敷に船溜りを作って川舟を回転させ、米・海産物の上り荷を降ろし、茶などの下り荷を積みこんだ。先の屋敷は蔵屋敷跡であり、小浜藩は本陣としても使っていたのではないかと想像する。
疋田は享保12年の記録では家数84戸、人数411人とあって、中山宿の2倍、追分宿の4倍の規模を誇り小浜藩の本陣が置かれて郡内最大の宿場であった。しかし、西廻り航路が開かれて以降、敦賀湊から琵琶湖経由の輸送が減少し、衰退の道をたどらざるをえなくなった。
疋田の集落を出るあたりに不釣り合いなほど大きな祠に小ぶりの光明不動明王が納まっている。旧道の道筋について他の資料では疋田の中央あたりで右折、疋田診療所前を左折する曲尺手を経るルートが示されている。後日知ったため、そこを通る機会がなかった。古い家並みが残っていたかもしれない。
集落を出て排水施設の先で国道を横切り、笙の川を渡って市橋集落に入る。
集落中央あたり右手に日吉神社、集落の北はずれで自然石に掘られた小さな大日如来が祠に安置されていた。
旧街道は山と笙の川に挟まれた道を行く。山側の崖は切り立っており、かなり切り通した跡がうかがえる。昔は川に向かって山塊がおちこむ険しい道であったのだろう。
旧道はそのまま小河口(おごぐち)集落に入っていく。笙の川は国道の西側に去って、土地は平らである。ここにも日吉神社があった。追分・疋田・市橋・小河口と、すべての集落で日吉神社をみてきた。なにか謂れがありそうな気がする。
小河口集落をぬけると旧道は川の手前で失われていた。その先、国道の導入路、バイパスなどが入り混じって複雑である。
国道8号に出て敦賀市内に向かう。北陸本線のガードをくぐり鳩原で農兵隊の鳩原水害記念碑を右にみて、道口への旧道に入る。
道口は笙ノ川が敦賀平野に向かって開ける扇状地に位置し、古くは三口ともよばれ若狭・敦賀・越前の三方にわかれる分岐点であった。交通の要所にあたり、江戸初期には宿駅と女留番所が置かれていた。
集落の上空に見上げるようなコンクリートの塊が聳えている。北陸自動車道の笙の川架橋工事であるらしい。もう少し低い所を通ればいいのにと思う。
夏の風物詩であるノウゼンカズラが満開であった。軽トラックが側溝に前輪を嵌めている。JAFを呼び出し中だろうか。
集落のほぼ中央に三口の分岐点があった。東に出ていく道が古代の北陸道で、木の芽峠を越える険しい道であった。西近江路の延長でもある。
JR小浜線の道ノ口踏切をこえるといよいよ敦賀市内である。旧道はこの先国道8号に合流して北上し、国道27号を越えた先で左の旧道にはいっていく。道はまもなく東洋紡の広大な工場で途絶している。工場北側の旧道復活点はあきらかでない。地図をながめる限りでは、津内緑地から敦賀漁港に至る道筋に近い。漁港のすこし手前を西にはいったところにある真願寺が敦賀城跡である。
敦賀
国道8号を市内に進む。敦賀駅前通りとの交差点白銀信号を越え、本町を通り抜けると大きな交差点の北東角に越前国一之宮気比神社がある。芭蕉が奥の細道の旅で敦賀に着いてまず訪れたのがこの神社だった。
高さ11mの赤い大鳥居は正保2年(1645)の建造といわれ、春日大社、厳島神社と並ぶ日本三大木造鳥居の一つである。大宝2年(702)建立の古社で、北陸道の総鎮守・越前国一之宮、明治時代に官幣大社となった。
参道をすすむと境内右手に松尾芭蕉の像と句碑がある。
芭蕉は気比神社に詣でるにあたり、逗留先の出雲屋の主人から、砂持ち神事の故事を教えられた。気比神社交差点の向かいにそのモニュメントがある。
承安3年(1301)、時宗2代遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道とその周辺が沼地で参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者とともに改修にあたったという。
月下の社頭で故事に深く感じた芭蕉は一句を詠んだ。
なみだしくや 遊行のもてる砂の露
のち推敲を重ねて「奥の細道」には次の句を採用した。
月清し遊行のもてる砂の上
国道8号にもどり、一つ先の曙信号交差点を左折、一つ目の信号を右折して山に向かって進む。廃線となった貨物線路踏切をこえると山裾に金前寺がある。泰澄大師が天平8年(736)に開創したという古刹である。元禄2年(1689) 8月芭蕉が訪れ、「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」と詠んだ。芭蕉の思いは南北朝時代にある。その句を刻んだ鐘塚が本堂の南西側に建てられた。
南北朝時代の延元元年(1336)、新田義貞らの南朝軍は後醍醐天皇の皇子恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下り、金ヶ崎城に入った。しかし、足利軍との戦いに破れ義貞の子で大将の義顕は陣鐘を海に沈めた。のちに国守が海に海士を入れて探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、龍頭が海底の泥に埋まって引き上げることができなかった。
後醍醐天皇の二皇子、尊良親王と恒良親王を祀ったのが金ヶ崎城の域内に建てられた金崎宮である。
金ヶ崎城跡は新田義貞が足利軍と戦って敗れた古戦場であり、戦国時代にも織田信長と朝倉義景が覇権を争った場所でもある。近江浅井氏の裏切りに遭って信長が窮地に陥った時、金ヶ崎城でしんがりを努めて信長の退却を助けたのが木下籐吉郎(豊臣秀吉)であった。
敦賀の町を見下ろす天筒山(てづつやま)の西端を登って行くと月見御殿に至る。南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡といわれ、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えている。見晴らしは西と北に限られ、北は右手に敦賀火力発電所の巨大な施設が広がっていて、月見の風情は期待できない。
来た道をもどる。金前寺の手前右手、一段下ったところに敦賀港駅のランプ小屋が保存されている。敦賀港駅は1882年(明治15年)金ケ崎駅として出発した。敦賀は日本海側で最初に鉄道が敷かれた町である。港の荷物を直接取り扱うのが金ケ崎駅だった。その後、1912年(明治45年)新橋〜金ケ崎間に欧亜国際連絡列車(新橋〜敦賀〜ウラジオストック〜シベリア鉄道経由ヨーロッパ)が週3往復走るようになり、国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。列車を誘導する時に用いられたカンテラ用の灯油貯蔵庫がランプ小屋である。
踏切を渡った先を海岸に向かって歩くと左手に2棟の赤レンガ造り倉庫が並んでいる。敦賀港は明治32年(1899)に外国貿易港に指定された。 これを受け紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が明治38年(1905)に石油の輸入を開始したときに石油貯蔵庫として建設されたものである。 数年前までは昆布貯蔵庫としても使用されていた。
日本海に出る。海は湖のように静かである。敦賀港に商船は見かけず県警と海上保安庁の巡視船だけが目についた。
海岸に海を背にして旧敦賀港駅舎が復元されている。国際列車といえばオリエント急行を連想するが、敦賀駅を発着した欧亜国際連絡列車はシベリア横断鉄道をその一部としユーラシア大陸と日本海をまたぐ壮大なスケールの国際列車であった。日本が東のターミナル駅だったとは夢のような話ではないか。
きらめきみなと館に北前船の展示があった。いつか北海道に渡って函館から江差まで松前街道を行きたいと思っている。北前船は近江商人が深くかかわっていることもあって以前から関心があった。寄港地として北海道ではまさに函館と江差が示されている。敦賀は西廻り航路が開かれる以前から、琵琶湖経由で蝦夷地と京、大坂を結ぶ重要な中継地であった。西近江路や塩津街道が賑わっていた時代である。
海岸に沿って快適に歩道を走るとまたたくまに漁港に着いた。魚市場はすでに水揚げが終わったようで人影はほとんどなく、裏では遅刻気味の買い付け業者が魚問屋から荷を軽トラックに積み込んであわただしく走り去っていった。
港の西側に灯台のようなものが見える。漁港の南側を回り込んで近くに寄ってみると瀟洒な石塔の頂に火袋を乗せた高燈籠であった。享和2年(1802)に地元の回漕業者が建てたものである。
真願寺の先の十字路を右に折れつぎの通りを左折して笙の川を渡る。道なりにそのまま西に進んでいくと小学校前を通り過ぎて松原公園に入って行く。三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つ、気比の松原が広がっている。東西1km、南北400mの範囲に約13000本の樹木が生い茂っている。黒松が典型な海岸林にあって気比の松原はその85%が赤松である特質をもつ。
公園のなかほど、気比の松原碑が建つ丁字路を右折して海岸に向かうと駐車場に出る。左手に立派な明治天皇駐輦の石碑が建っている。碑に刻まれているのは明治天皇駐輦の文字でなくて、勝海舟の漢詩である。もちろん読めない。説明板をみても読めない。勝海舟は明治天皇の巡幸に
おくれること13年の明治24年、この地に来て天皇と同じ気分になったのであろう。感慨にふけって漢詩を一作したためた。
海岸に出る。松原海水浴場は海開きを1週間先に控えて開店準備の最中であった。