山陽道(西国街道)7



関戸-玖珂高森今市呼坂久保市花岡

いこいの広場
日本紀行
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関戸  

両国橋を渡ってすぐ左折し、堤防道を進んで右手小瀬小学校の先で堤防を下りる。再び堤防道と合流する丁字路右角に「吉田松陰歌碑」と「旧山陽道跡」の案内板がある。

  夢路にもかえらぬ関を打ち越えて いまをかぎりと渡る小瀬川

松蔭は安政6年(1859)5月、幕府の召還を受け駕籠で江戸へ護送され、その年10月に江戸伝馬町の獄舎で斬罪に処せられた。

この角の空き地に小瀬の一里塚があったという。また、この辺りは木野との渡し場跡にあたる。

旧街道は丁字路を右折して小瀬峠に向かって坂を上がっていく。川に沿って数軒の民家がならぶ。右手に白い塀を囲い、風情ある門を構えた屋敷跡が現れる。小瀬の茶屋跡である。大名の休息所や川止めの時の宿泊施設として使われた。門の格子から内側を覗き込むと小瀬川を取り込んだ広い庭が覗えた。

家並みを抜け暫く舗装された道を上がって行くと、左手に「歴史の道 旧山陽道跡」と書かれた標柱が立っている。ここから山道に入っていくが、山道は150mほどですぐ舗装道路に戻った。一回のヘアピンカーブを短絡しただけの旧道である。

舗装路をしばらく上がると新道の小瀬峠の手前で、右の山道に入っていく旧道が残っている。「旧山陽路跡」の標柱が倒れていた。短い急勾配の道を駆け上がると道が二手に分かれ、中央に「←旧山陽道」の標識がある。左の道を進むと竹林の中に入ってその先にまた、二股が現れる。このあたりが旧小瀬峠のようであるが、「旧山陽路」の他峠を示す標識はない。
藪道を下っていくと再び舗装路へ出た。その後は舗装道路を一路関戸集落に向かって下りていく。

右手、客神社の参道入口に村尾本陣跡の説明板が、その横に「吉田松陰先生東遊記念碑」が建っている。本陣跡の名残として参道の右側に赤褐色の土塀がのこっている。

関戸宿はまた古代山陽道の石国(いわくに)駅家比定地である。古代山陽道は安芸国遠管(おか)(大竹市小方)の駅家から、小瀬川を渡って小瀬の山道を越えて石国駅家を経て野口駅家(玖珂郡玖珂町野口)に至っていた。石国駅家には20頭の駅馬が常置されていた。

本陣跡の先左手に旧関戸庄屋屋敷があった。今も板壁、大屋根の古い家がその面影を残している。

その先に建物は新しいが白壁塀に古い門を構えた家がある。ここが牧野脇本陣跡である。

道は国道2号の関戸信号に突き当たり右折する。この辺りに高札場があった。

国道で左に大きく回りながら多田に入る。

岩国コンクリート(合田産業)前から右手の山に多田見坂と呼ばれる険しい旧道が残っている。擁壁の切れ目から崖をよじ登り、道を遮る倒木を搔い潜りながら進むと忠魂碑のある空間に出る。その後は下り坂で石段が整備されている。途中二股に「旧山陽道 岩国往来」と書かれた標識があり、右に折れて下って行くと民家の脇に下りて藤河郵便局の所に出た。

西に向かっているこの道は岩国往来(石州街道)と呼ばれ、岩国と萩を結ぶ山越えの道であった。

JA山口東の道路向かいに、多田の一里塚があった。安芸境小瀬より1里、赤間関より35里の地点である。山口県に入って、ただの4km。終点まではまだ140kmもある。

「多田一里塚跡(旧山陽道)」をトップに、「旧山陽道」、「岩国往来」、「多田の渡り場跡」と書かれた木札が一本の杭に取り付けてある。

案内にしたがい下多田信号を左折して多田の渡り場跡を見て行くことにした。山陽自動車に突当り少し北に戻ったところで地下道を潜って自動車道の東側に出て県道1号を横切ったところに立派な「多田の渡り場跡」の碑と説明板が立っていた。通常呼ばれる「渡し場」と違ってここでは「渡り場」と呼ぶ。錦川の向こうは蛇行部に舌状に突き出た横山で、山の頂上に岩国城が、その向こう側の錦川には錦帯橋が架かっている。そこへは新岩国駅からバスで行くことにしている。

下多田交差点に戻り、国道を南に下る。

右手、塩田歯科医院は多田の庄屋塩田氏の屋敷跡で、赤土の蔵があったことから多田の赤蔵屋敷と呼ばれていた。

上多田信号を通りすぎ錦川が近づいてきた辺り、右手に白壁土蔵が見えてくる。本庄八幡宮の宮司宅の蔵だが、この付近に紙蔵があったという。右手高台にある本庄八幡宮を見やって錦川に出る。


御庄

旧道は錦川堤防下で右折して現在の新幹線辺りで川を渡っていた。元は現在の御庄大橋付近に渡り場があったが、度々の水害を蒙ったため、延宝4年(1676)に道筋を山沿いに移したものである。

御庄の渡り場は徒渡りか船渡しで、渡守は常時一人詰め、一か月のうち十日を多田側、二十日を御庄側が担当した。渡し賃は、武士は無料、百姓・町人は一人二文、牛馬は四文で、これは木野川の渡しと同水準である。

御庄大橋北詰めからの旧道筋はしばらく消失している。堤防をたどって御庄橋を渡る。

すぐ右折して新幹線高架の東側の道を南に進む。

左手に宮島などの瓦を葺いたという瓦師の旧家があり、その家の西側の軒下に旧道の道筋が残っている。

県道114号の手前で新幹線の高架下をくぐる。再び県道にもどるがすぐに右の旧道に入っていく。

右手に蓮乗寺を見て御庄の町並みを南に歩いて行く。このあたりの空き地が本陣跡ということだが、それらしき空き地が幾つかあって、どれであるか分からなかった。御庄は本来の宿場ではなく錦川の川止の時の宿泊用に作られた宿場である。渡し場を挟んで川の両側に作られた多くが川止め時の宿場であった。なお、御庄は中世の石国荘の一部だったことに由来する。
大名などの通行の時には境内が人馬の集積場所に使われたという
多賀山大明神をみて、新幹線の新岩国駅に向かう。ここからバスで錦帯橋に寄っていくためである。

15分ほどで、橋の袂に着いた。さすがに観光名所とあって人出が多い。往復の通行料を払い橋に入る。ペットボトルやソフトクリームを手にしていると入れてくれない。錦帯橋は、甲州街道大月の猿橋、中山道木曽の桟とともに日本三奇橋といわれる。

延宝元年(1673)、第三代岩国藩主吉川広嘉によって創建された。現在の橋は平成15年に架替えられたものである。橋の長さは橋面にそって210m、幅5mである。分厚い板が水平に並べられていて足が滑るということはない。

橋上から城山山頂(標高約200m)に岩国城が小さく見える。初代藩主吉川広家によって1608年に築かれた山城で、錦川を天然の外堀にしていた。天守閣は三層四階の桃山風南蛮造りといわれたが、築城後8年の元和元年(1615)一国一城の制により取り壊された。現在の天守は、昭和37年(1962)に再建されたものである。城へのロープウェイが午後4時で終了し、見学は断念した。

橋を渡って左の岸に下りてみる。錦川の清流を5連の太鼓橋が跨いで良い眺めである。岸に「槍こかし松」と呼ばれる一本の松があった。昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのだが、大藩が小藩の城下を通る場合は槍を立てたまま通る無礼が許された。6万石の小藩であった岩国藩の武士達はこの侮辱に耐えられず、横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえども槍を倒さなければ通ることができないようにしたものだという。県民性を垣間見た気がした。

吉香公園内を散策する。左には土産物屋が建ち並び、縁台でソフトクリームを食べる観光客が目立った。食べながら橋を渡れないせいもある。

右手には岩国藩家老香川氏の表門である長屋門が建つ。元禄6年(1693) の建立で、武家屋敷の構えをよく残しており 山口県文化財に指定されている。

公園の奥まったところに国重要文化財目加田家住宅が簡素ながら端正な佇まいを見せている。目加田家は近江国愛知郡の出で、天正年間に吉川元春に召し抱えられ、慶長5年(1600)関ケ原の役後、吉川広家に従ってこの地に移り住んだ。この住宅は18世紀後半の建築と推定され、中級武家の住宅としては全国でも数少ない遺構の一つとされる。屋根瓦が特徴的で、両袖瓦と平瓦を使用した二平葺き (にひらぶき) は岩国の瓦師が開発したもので、西岩国地区に集中して見られる地方色として注目される。

新岩国駅まで戻り、旧山陽道の旅を続ける。旧道を道なりに左に曲がって、新幹線の先の二股を左にとって錦川鉄道のガードをくぐると、左手からの県道1号と合流する。

山陽自動車道をくぐり再び錦川鉄道のガードをくぐった先に思案橋がある。旅人はここで橋を渡って岩国錦帯橋に寄ろうかどうしようかと思案したところだという。錦帯橋までは一里余りあり、寄り道としては遠い。

橋の西詰あたりに口屋番所跡があった。街道はここで御庄から柱野に入る。



柱野

思案橋からしばらく右の歩道を行くと、右手道路下にトタン屋根の小屋と家一軒分の空き地が見えてくる。この辺りが
市ノ瀬一里塚跡である。

柱野駅に通じる西氏橋を通り過ぎ、岩徳線のガードをくぐって道なりに右に曲る。その先、下市橋で御庄川を渡って右折し旧柱野宿に入って行く。元々柱野宿はこの上流にある古宿に作られたが江戸初期の頃火災があって、この付近に移転してきた。下市と上市で柱野宿を形成しているが、本陣等は下市に集中している。

下市の中央左手にある集会所が
本陣跡、その向かいに脇本陣があった。脇本陣の北側空き地には馬立て場があって、伝馬12頭を常設していた。

柱野宿と御庄宿とは一里ほどしか離れていない。御庄宿は錦川の川渡り、柱野宿は欽明路の峠越えを控えての間宿として機能していた

落ち着いた静かな集落の中を進んで上市を通り過ぎ、右に曲って上市橋で再び御庄川を渡る。

その先で旧道は御庄川と分かれ、その支流である古宿川にそって遡上する。古宿の集落に入ったところ右手に千体仏がある。お堂はしっかり鍵がかかっていて中を見ることができない。江戸中期の作で当初は千体あったが、現在は795体が保存されているという。説明板によれば、信者は千体仏の中から亡き人の顔に似た仏像を選び、これを本堂に移して位牌とともに仏壇に飾って読経を乞い、帰りに再び元の位置に納めて退出したという。興味深い慣習である。

旧道は古宿を抜け県道を斜めに横切ってなおも古宿川に沿って延びている。岩徳線のガードをくぐって左折する。「二軒屋団地入口」の標識のところで旧道は一旦県道15号と接するが、すぐに左斜めに入っていく。農夫が田植えを控えた水田を慈しむように見歩いている。美しい日本の原風景を見た思いであった。

道は勾配を高めて県道のガードをくぐると、左手に県道の欽明路トンネル(長さ1136m)入口が見えた。この辺り旧道といっても道幅が広い舗装車道で、滑り止めの切目が入っている。やがて切目がなくなり平らな舗装になったところが峠であった。ただし欽明路峠ではなくて
中峠という。柱野と南河内廿木(はたき)の村境となっていた。昔はここに駕籠立て場と茶屋があったというが、それを示すものは何もない。

二股を左にとって下っていくと左に道が分岐する丁字路に差しかかる。右手路傍にコンクリートの祠に入った石地蔵があった。首と胴体が切り離されている。

その先で僅かな高みがあって、ここが欽明路峠である。標識はなく峠の実感もない。廿木から玖珂に入る。

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玖珂 

右手に簡易舗装された道がでている。一見、山陽自動車道の欽明路トンネル工事のために作られた取り付け道路にみえるが実はこれが欽明路峠七曲坂旧道で、ここから一気に下りていた。ただしトンネル工事のためにすぐ先で途絶して、現在は廃道となっている。

やむなく新道(七曲坂新道)をいく。すぐ先の二股を右にとってヘアピンカーブを下っていくと旧道の復活点に出た。左手に水を湛えた棚田が美しい風景を現出して、その向こうに欽明路の集落が望める。旧道復活点に「歴史の道 旧山陽道」と題する案内板が立っている。古代山陽道の野口駅家と、近代の参勤交代の宿場としての玖珂宿は共に大いに利用されたことが記されている。

「周防なる磐国山(いわくにやま)を超えむ日は手向けよくせよ荒しその道」という万葉歌が添えられている。天平2年(730)大宰府の少典山口忌寸若麻呂の歌で、この峠が周防国の道筋の中でもっとも険しいところであることを詠ったもの。

案内板の手前に出ている旧道を遡ってみた。沢の水流をまたぐと急な階段道になっていて右側は金柵で隔てられている。どうやら山陽自動車道トンネルの換気ポンプ場への管理道路を兼ねているようだ。まもなく右手にポンプ場への出入口が出てきて、旧道筋の前途は絶えていた。古道の趣はない。

欽明路集落に入ってすぐ右手高台に欽明寺がある。欽明天皇(540~571)が当地を通行の際、立ち寄ったとされる。神輿を立てたとか、岩に腰かけたとか。

欽明路バス停のすぐ北を右手に入った所に周防源氏武田家屋敷跡がある。草が生い茂る台地の奥に白壁土塀を巡らした門構えの屋敷跡があった。塀の中は武田家の墓地となっているようだ。

欽明路駅を通り過ぎ上野口第2踏切を渡って岩徳線に沿って西進する。このあたり野口は古代山陽道野口駅家の比定地である。丈六第五踏切の手前線路沿いに野口一里塚があった。小瀬より四里の地点である。

旧道は丈六第五踏切を渡って左にまがり、国道437号を横切って細い道に入る。右手に岩隈八幡宮の参道に通じる一対の石柱と常夜燈がある。細道は車道に出て左折。岩徳線のガードをくぐって、その先の二股を右に入って行く。

右手に大きな自然石の
「義民田坂市良右衛門碑」がある。文政12年(1829)代々町方大年寄格を世襲してきた田坂家の田坂市良右衛門は、代官の悪政を改めるように進言して幽閉されたが、村民有志の訴えによって無罪となった。普通、「義民」といえば処刑されるのが常で、村民の訴えが通ってハピーエンドに終わる話は聞いたことがない。

その先、「市頭の角」を右折する。玖珂の町は玖珂三市と呼ばれ、本郷市(本町)、新市(新町)、阿山市の三市から成っていた。本郷市は市頭から柳井小路まで、新市は柳井小路から水無川まで、阿山市は水無川から市尻までとなっている。

本郷市には岩国藩の御茶屋(本陣)と代官所が置かれ、新市には高札場が置かれた。右手玖珂駅に通じる道を横切る。その先右手、岩国市玖珂総合支所の裏側にある駐車とその背後の小学校との間付近に代官所が、その左手の消防団機庫付近に御茶屋があった。御茶屋は本陣として大名の宿泊所にも使われた。

この辺りが玖珂宿の中心地だろうと思われるが、一向にその面影を偲ばせる家並みに出会わない。

玖珂総合支所のすぐ西、左手のこどもの館がある路地から新町に入る。このあたりが高札場跡か。低い二階に虫籠窓を設けた古そうな家が一軒あった。

水無川を渡ると阿山である。玖珂宿場の西端だが、ここに旧街道の趣をもった家並みが残っている。

左手に藤川醤油味噌醸造場がある。入母屋造で屋根がかすかに反っているようにみえる。母屋の壁面に繊細な斜め格子をほどこして、清々しい佇まいである。

右手に同じく入母屋造りで、漆喰塗の二階の半分はガラス窓を、右半分には大きな虫籠窓を切った趣ある家がある。明治初期の建物らしいがそれほど古くは見えない。

右手に樹高28mという2本のモミの木が聳える菅原神社(玖珂天神)がある。境内の街道脇に瓦屋根付の立派な共同井戸がある。菅原神社は玖珂本郷の大庄屋岡氏が、弘治元年(1555)防府天満宮より分霊を勧請したことに始まる。

玖珂天神参道から西に50mほど行った左手に、刀工二王清綱末裔の清綱分家宅がある。その家の西側の小路が山陽古道「相ノ見越」の起点である。路地はすぐに右に曲がって民家の裏道を西に100mほど行って三叉路を左折する。道なりに100mほど南に下ると市道に出、右折して150mほど西に進んだところの右手畑地の古道沿いに刀工二王清綱屋敷跡の標識が立っている。

ここが鎌倉、室町時代の周防の刀工二王清綱の住んだ二王屋敷跡で、大正の頃まで二王氏の子孫である清綱本家があった。道向かいの民家には二王清綱が刀身の焼き入れに使った「清綱淬水の井戸」があるそうだが、見逃した。

古道筋をさらに西にすすむと川に差しかかる。相ノ見越とよばれる古代山陽道はここから南西に延びていた。のどやかに広がる田園風景は古道の道筋にふさわしい。


古道の散策はこのくらいにして近世の山陽道(県道144号)に戻る。このあたりは千束畷と呼ばれる真っ直ぐな道である。岩徳線と国道2号に接した後、再び離れていく。


大型小売店が建ち並ぶ十字路の手前右手に道標と常夜燈がある。道標には「妙見道従是二十一丁」と刻まれている。道標は寛政9年(1797)、常夜燈は天保4年(1833)の建立である。街道は東川を渡って高森宿に入って行く。

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高森 

高森宿は東川から西の島田川まで1.2kmほどの一直線の町並である。東端を市頭、西側を市尻と称し、その間を東から上市、中市、下市に分けられていた。中市、下市には当時の町並が残されている。

右手に椙杜(すぎのもり)八幡宮への参道が出ている。突当りの山は泉山といい、文禄元年(1592)、秀吉は朝鮮出兵(文禄の役)の途中椙杜八幡宮に参詣し、ここに陣を張った。街道沿いの鳥居は元禄4年(1691)の建立で、施主に相川正太夫の名が刻まれている。高森宿本陣を勤めた相川氏であろう。石段左手に白馬木像が安置されている。神馬(しんめ)と言い、昔は活きた馬が奉納されたが、それが木馬となり最後は絵馬になっていった。木馬が現存しているのは珍しいという。

椙杜八幡宮の手前西側に小学校がある。社務所と小学校の間に石垣と土塀後が残っているが、この辺りに久原村のい米蔵があった。

街道に戻って、すぐ右手に高森一里塚があった。標識等はない。

高森信号交差点の所に番所・御物送り場・高札場があった。

交差点を渡った右手に受光寺がある。山本家とともに脇本陣を勤めた。その山本脇本陣は受光寺の筋向い、現在のスパーヴァリューマルシンの東側駐車場辺りにあった。

右手になまこ壁の白塀に門を構えた屋敷跡がある。造り酒屋を営んでいた中村酒造跡であるが、平成21年に取り壊された。

その先に相川本陣跡がある。平成27年相川邸宅は取り壊され塀と起り屋根の玄関門だけが残されることとなった。「旧山陽道 高森本陣跡」の標識が立つ。

右手礒田酒店の裏側に宇野千代(1897~1996)の文学碑がある。岩国生まれ。高森は父親の実家があった。恋多き女性で結婚離婚を繰り返した。小説家の他に実業家でもあり一生行動的な女性であった。文学碑に刻まれた一文は当時の高森宿の特徴を端的に描いている。500mにわたって街道の中央に用水路と並木を配した美しい町並みだったが昭和30年頃に水路は埋められた。

左手に入母屋造りの商家が二軒続いている。右側の家には大庭書店とあった。共に古びた趣を湛えている。

高森駅前交差点を通り過ぎ下市に入ると右手に立派な門と白壁の塀を構えた家がある。ここは宿場専属医を代々勤めた三戸家の邸宅である。

街道は島田川堤防に突き当たって右に曲がる。この辺りが宿場の西端、市尻に当たる。

すぐ右手に高森天満宮がある。境内右手に芭蕉句碑があった。右から左に「ほととぎす一聲の江に横たふや」と読む者が多いが、正しくは「一聲の江に横たふや ほととぎす」である。

元禄6年、芭蕉は弟子から、「水辺のほととぎす」という題を出されて二つの句を詠んだ。

一つは「一聲の江に横たふや ほととぎす」で、他の一つは「ほととぎす声や横たふ水の上」であった。芭蕉自身、どちらにしようか決めかねていた。

島田川に沿って道が続く。「タケダ電気」の先で堤防に上がる道がある。下流を振り返ると朱色の天神橋が見える。川岸にはコンクリートの枡型ブロックが敷き並べられている。ここに島田川通船発着場があった。明和5年(1768)に着工され、ここから島田川口の浅江(光市)に、穀類、味噌、塩、綿、炭、薪などを運んだ。

400mほど川に沿って進み、道が左に大きく曲がったところ右手に斎宮(いつきみや)神社がある。垂仁天皇と皇女倭姫が八咫鏡((やたのかがみ)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を奉じて伊賀、丹波、近江、美濃等各地を遷幸した後、五十鈴川の辺り(現在の伊勢神宮)に鎮座した。初代斎宮となった倭姫は周防国熊毛郡相津、中村、末法の三村を「食地」とし、その後も歴代斎宮の御領地となる。大同2年(807)、時の斎宮は初代斎王倭姫の旧蹟を慕い自ら下向、ここに倭姫を祭神とする神社を建てた。私は斎宮(斎王)の存在を東海道土山宿で初めて知った。伊勢神宮からはるか離れた周防国に斎王所縁の土地があるとは驚きである。

街道に戻る。道(県道144号)は島田川に沿って延々と続く。JR岩徳線と並走するようになってまもなく、右手に大きな石碑が建てられている。孝行塚といい、元文、寛保(西暦1736年~1743年)のころ、差川村の旧家三右衛門につかえ、主家の恩に報いるため生涯妻帯もせず独身を通して一意専心働いて主家の没落を救った百姓六松の顕彰碑である。文政元年(1818)藩命により建立された。

孝行塚から1kmほど県道を行くと蛍橋バス停の左手土手に広場のような空間がある。そこで県道と分かれて土手伝いに500mほどの旧道が残っている。快適な明るい草道をすこし入ったあたりに差川一里塚があった。


県道に戻り隅名橋を渡った先、右手に
天王社がある。永正10年(1518)大内義興によって造営された。立派な石鳥居と数基の常夜燈がある他、社殿はない。左手に隣接する広い空地に発掘遺跡のように多数の方形の石板が並べられていた。

差川十字路に出る。県道144号は左折し、旧山陽道は県道142号となって直進する。

家並みの中を上って行くと、道が二手に分かれ、右手に4体の観音石仏がある。天保2年(1831)貞昌寺僧淡海が島田川沿いの差川弘末間に新道を開いたのを記念して地元の人々が建てたものである。天保6年、天保10年の銘が読める。

旧道は石仏のある二股から左へ坂を下っていく。他方、直進する県道は丸子坂新道と呼ばれ、明暦3年(1657)に造られ明治8年に拡幅されたものである。

旧道を200mほどいくと水路を越えた右手に民家があり、その手前から山に入って行く道が出ている。これが丸子坂旧道である。ながらく廃道となって通行不能であったが平成24年になって整備され通行可能となった。

旧道入口の手前右手に、急坂に喘ぐ精悍な馬の粗暴を防ぐため、数リットルの血を抜いた瀉血場があったという。

山道の入口はネットで塞がれているが中央に隙間が作られていてそこをすり抜ける。深くえぐられた切通し風の山道は落ち葉が厚く積もって足元は柔らかい。しばらくして沢伝いの湿地部分があるが、そこを越えると開けた草道となった。かつてはこのあたりが笹薮で通行不能だったのだろう。

畑の端を通って民家の脇に出る。左手畑に少し入ったところの石垣に一本の石柱が見える。自然石のようだが途中で斜めに折れた不思議な形をしている。石仏でも道標でもなさそうで、その両方でもありそうである。地元ではこの場所を「石仏の田」とか石柱を「境の石仏」とよんでいるらしい。

県道に合流して坂を上がる。県道と言っても舗装された山道である。ほどなくして峠の100m手前、右手に「中山峠駕籠立場跡」の表札が立っている。

中山峠の右側に「従是東玖珂郡」「従是西熊毛郡」と刻んだ明治19年の郡境碑がある。岩国市から周南市に入る。




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今市 

道は坂を下って中山道踏切を渡って左折し、線路を左に見ながら今市新町に入っていく。右手の大きな石碑は江戸末期から明治にかけて子弟教育に尽力した宮川米水の顕彰碑である。

左手、岩徳線ガード手前に一対の高水神社常夜燈が立つ。高水神社までは700mもありパス。

家並みに入って川の手前を曲尺手状に右折、左折する。右折した右手の一角に「高水村塾之址」の碑、「高水竹工の始祖 塚本與十郎翁碑」などが集められている。今市一里塚もこの場所にあった。高水村塾は宮川米水の没後、米水の開いた私校磨鍼塾(ましんじゅく)が荒廃したことを受けて、塾出身者三名の発起により正覚寺敷地を借りて明治31年に開塾したもの。高水村塾之址の碑は、立命館大学総長、末川博氏の揮毫である。

背後の高台に正覚寺がある。入口に「ほろほろと山吹き散るや滝の音」と刻む芭蕉句碑がある。本堂はコンクリート造りで新しい。正覚寺は寛永年間(1624~43)に三丘領主宍戸就尚が夫人の菩提を弔うために建立した。今市宿の脇本陣も勤めた。

石光川に架かる今市橋を渡ると今市宿の町並みが始まる。今市宿は高森から2里、呼坂宿まで半里しかなく、中山峠を控えての小さな宿場であった。必要に応じて次の呼坂宿と共同で対応した。

左手海鼠壁土蔵はかつての有海酒屋であった。その先右手に白壁土塀をめぐらせ立派な門を構える武家屋敷の品格を備えた屋敷がある。白壁に「有海」の黒い表札が目を引く。

道向かいの起り屋根の風情ある建物は呉服・酒醤油醸造を営む竹本本店である。屋根に載せた板看板、「山口の山奥の小さな酒屋 獺祭」と白抜きした紺の暖簾、店先に並べられたにぎやかな植木鉢などが風情を醸す。「獺祭」は「だっさい」と読む。岩国市周東町獺越に酒蔵をもつ旭酒造の銘酒で、獺(カワウソ)は捕らえた魚を川岸に並べる習性があり、これが先祖を祭るときの供物のように見えたことから来ている。

右手丁字路門に道標がある。「北 米川、川越、桑根村 約四丁上リ西ヘ、八代、中須村 道」と刻まれている。鳴川道といわれる古道との追分であった。

道は上り坂になって辻堂跨線橋を渡り、高水駅前の交差点を直進して高水原に入る。

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呼坂 

高水村はもと原村といい、県道8号を挟んで東原と西原に分かれていた。

東原に入り、水田の向こうに長い白壁塀をめぐらせたもと庄屋山本権蔵宅が見えてくる。この近くに年貢米の収納蔵だった呼坂御米倉があった。

県道8号を横断すると緩やかな下り坂がつづく西原に入る。白壁や土壁の塀を配した趣ある家並みが見られ、旧街道の情緒を感じさせる。左手の広壁塀の屋敷はかつて西原庄屋であった河村宅である。

その先の十字路を過ぎると呼坂本町となって旧宿場町に入る。右手電柱脇に「従是東高水村」と刻んだ石標が立っていた。

応安4年(1371)今川了俊の旅日記には呼坂の地を「えび坂」と記してある。えび坂が転じてよび坂となったといわれる。呼坂宿の本陣は庄屋の河内家で、西善寺が脇本陣を勤めた。呼坂でまかないきれないときは今市に援助を求めた。

右手に古びた「八代の鶴」の木製看板を吊るした鶴声軒本舗がある。もとは最中を作っていたというが廃業したらしく宅配の取次を営んでいる模様である。ここから北に10kmほど行った八代盆地は本州唯一のナベツル(鍋鶴)の越冬地として知られる。首から下部が鍋底のように灰黒色をした鶴で特別天然記念物に指定されている。

元禄15年(1702)の橿原神社の鳥居を過ぎて、左手に白壁がうつくしい切妻土蔵を据えた重厚な旧家がある。呼坂本陣の河内家宅で、門から中をうかがうと現役の居宅であった。河内家は江戸時代、代々庄屋や大庄屋を勤め、天明年間(1781)七左衛門が本陣を引き受けた。家業は酒造業であったという。大きな土蔵は酒蔵であったのだろう。

呼坂本陣を過ぎた右手の旧家は門を犬矢来で閉ざした風格ある屋敷で、かつては漢方薬店を営んでいたという。姓は本陣と同じく河内である。

中村川を境に呼坂本町から呼坂西町に入る。すぐ右手に寺嶋忠三郎松蔭訣別地の碑がある。安政6年(1859)江戸送りとなった吉田松陰がここを通過したとき、弟子の寺嶋忠三郎が師松蔭と無言の別れを告げた場所である。碑にはかりそめの今日の別れは幸なりき ものをも言ハば思いましなん 松蔭 
よそいに見て別れゆくだに悲しさを 言にも出でば思いみだれん 忠三郎 とある。

吉田松陰は同年の秋、江戸伝馬町牢屋敷で処刑された。その5年後の元治元年(1864)、寺嶋忠三郎は蛤御門の変で長州藩が敗北し自刃した。

右手角地に構える古風な大邸宅は旧庄屋宅で屋号を松屋という。所々漆喰がはげて肌がみえる土壁塀が愛らしい。

西町の端右手に西善寺がある。天正4年(1576)の創建で、天明年間(1781~1789)より呼坂宿の脇本陣を勤めた。西善寺の参道入り口付近の交差点右側に高札場があった。呼坂宿の西端である。

旧山陽道は交差点を直進して細い坂道を上って行く。左に曲がった後右に急カーブを描いて急坂を上りきると古市集落に入る。短いが急なこの坂は古市坂、またコックリ曲りと呼ばれて、人力車も客に降りてもらうほどの難所であったという。

古市の家並みを通り過ぎて地蔵堂がある突当りを右折する。坂を下ると国道2号の手前で左に細い旧道が延びている。草深い道だが地面は舗装されていた。山裾に沿って岩徳線を右下に見ながら200mほど進んでいくと民家の脇に出て、その先の車道地下道を潜っていく。

潜った先で車道を右折し、大江踏切を渡ってすぐ左折、クスリ岩崎チェーンの裏側を通って国道2号に合流する。

勝間歩道橋で、旧道は国道を右に分けて左に入る。勝間集落をとおりぬけて国道にもどる。岩徳線の跨線橋の前後に短く旧道が残っている。

道は呼坂から大河内に移り、遠目交差点で右斜めの旧道に入る。坂道を上がって土塀を囲った民家の道向かいあたりに遠見の一里塚があった。

旧道はまもなく山裾の草道となって竹薮の山道に入っていく。ほどなくして左手に国道が見えて、畦道をたどって国道に戻る。

国道を右折しすぐに岩徳線のガード下をくぐる。

この先山陽自動車道の近辺は丘陵の峠を越える道筋で、昔は駕籠立場や茶屋があったという。今その面影は全くなく、「垰」という名がバス停と国道の信号交差点に残るのみである。

その垰信号の先で旧道は国道を右に分けて左に入っていく。その脇に郡境表示碑があり、「東 周防國熊毛郡 西周防國都濃郡」と刻まれている。周南市大河内から下松市切山に入る。

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久保市 

旧道は国道垰市交差点から南下して来た車道を横切ってすぐ車道に合流する。

その先で県道140号を左に分け、右斜めに入って行く。

周防久保前で県道140号を横切ってすぐに県道にもどり岩徳線のガードをくぐる。

切山信号の先で二股を左に入るのが旧道である。二ノ瀬橋を渡って久保市宿に入っていく。久保市は切戸川に沿った窪地にできた小さな宿場である。

切戸川の久保市橋の手前を左に入って行くと由加社がある。天保9年(1838)に久保市に大火があったとき、呼坂にあった由加社を防火の神として当地に勧請したものである。それまで度々あった火災がその後は全くなくなったという。

久保市橋を渡った右手に杉玉を吊るした蔵店風の旧家がある。たまたま家から出てこられた主人から久保市の話を聞くことができた。木原氏で、味噌醸造元であった。酒の田原、味噌の木原が久保市の代表的商家であったらしい。「昔は切戸川の水位は高く、オヤジはここから川に飛び込んでいた」と、川底を覗き込んだ。今飛び込めば自殺行為である。

本陣を務めた原田家は転出し後裔がアパートを経営していると、その場所を教えてもらった。奥にアパートが見える空き地が原田本陣跡だという。酒造を営んでいた。小学校の裏山中腹にある金比羅神社は原田家が建てたものだそうだ。

主人の話に従って下校中の子どもと逆行して、小学校裏手の金比羅神社を訪ねる。石段途中の右手に墓地がある。のぞくと、そこは木原家代々の墓地であった。

神社は祠程度の小さなもので、横に原田氏の名が刻まれた石塔があった。

街道は二股の右手を上がっていく。その分岐点に恵比須社がある。

坂の途中に西蓮寺があり、門前に篤農家小林武作君之碑がある。山口県の米作の改良などをした篤農家だそうだ。


坂を上がった右手、県道の先に「息の地蔵さん」とかかれた立札と鳥居が見える。高良社という神社で、階段下に地蔵がある。江戸後期、岡市一帯にかぜが流行し、咳に苦しんでいた酒好きの村人が、かぜが治るように高良社麓の地蔵に酒をかけたところ、翌朝せきが止まった。それ以降、地元では「息の地蔵さん」と呼ぶようになり、せきなどの病を患うとお参りするようになったという。
坂を登り切った所に「武運長久」と刻む大きな自然石の燈籠と恵比寿社の小祠がある。この辺りは窪地にある久保市宿から続く坂の上の岡にあるので岡市と呼ばれた。この付近に岡市一里塚があったとされる。

左手に土塀の風情ある民家が建つ。半ば廃屋の様子である。

国道に接近した後、久保中学校前の交差点を横切る。斜めに下りてくる道路を横切ってなおも上がって行くと、民家が途切れて山が迫る峠道となる。塩売峠(しおりがたお)と呼ばれ、昔はこの辺りまで海が来ていた。国道2号と一旦合流したのちすぐに左斜めの旧道に入る。旧道筋は国道の南側にあったようだ。生野屋に入ってきた。この辺りに古代山陽道の生野屋駅家があったといわれる。

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花岡 

国道の「下松市生野屋」信号で国道2号と新幹線を潜り、岩徳線生野屋踏切を渡って左折する。

教應寺の前で二股を直進して花岡宿の町並みに入る。初め花岡八幡宮の門前町として発達した宿場町である。

左手に白壁に虫籠窓を切り、平入りの一階には繊細な千本格子を施した旧家が花岡宿の面影を偲ばせる。

その先花岡医院は武弘本陣跡である。

右手、「花岡ふるさと花だん」という小公園の奥に花岡勘場跡碑を始め、石碑や説明板がかたまってある。「勘場」とは萩藩代官の役所で、西に隣接して御茶屋があった。当時の番所、勘場、お茶屋の絵図も掲示されていて興味深い。

ここには「春雨桜」の石碑もある。幕末の藩主毛利敬親公が文久元年(1861)萩を出発して江戸に向かう途中福川で病にかかり、花岡のお茶屋で静養したとき、この桜が心を慰めたという。春雨は敬親公の雅号である。

川を渡った右手に法静寺がある。山門をくぐって境内に入ると左手に立派な花岡福徳稲荷大明神の社殿がある。享保9年(1724)、時の住職が遠石浦の白狐夫婦の死をねんごろに葬ったところ、白狐は感謝して、火難、盗難を避け出世の功徳を授けることになったという。11月3日の稲穂祭には狐の嫁入り行列が盛大に行われ賑わう。

花岡八幡宮参道の手前に「銘酒金分銅醸造元」の屋根看板を掲げる金分銅酒造本店が風情ある佇まいを構えている。明治33年(1900年)の創業で三棟の土蔵が今も現役である。

参道をすすみ石段を登っていくと花岡八幡宮の豪壮な楼門が建ちはだかる。花岡八幡宮は和銅2年(709)に、宇佐八幡宮の分霊を歓請して祀られた由緒ある古社で毛利家の祈願社でもあった。楼門を潜った右手には見事な桧皮葺の屋根と繊麗な木組みの多宝塔(閼伽井坊塔婆)が優美な姿を見せる。藤原鎌足公の建立と伝えられ現存の塔は室町時代の再建で、国重要文化財に指定されている。

花岡宿を後にして街道は西にむかって進む。周防花岡駅前通りと県道41号を横切って新幹線の高架下をくぐると末武川に沿った道となる。この辺りに広石一里塚があった。国道2号の高架下を通ってその先の和田橋で末武川を渡り、西に向かってすすむ。坂川を渡って下松市から周南市久米に入る。

(2015年5月)

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