旧山陽道・吉田松陰歌碑・小瀬一里塚跡付近 小瀬 岩国市 山口県
山陽道は、大和朝廷成立の初期に開かれ、大化の改新(645)により、都(奈良)から大宰府までの官道として整備され、七道中唯一の大路であった。また、古代には「かげとものみち(光の面)」とも呼ばれていた。 この道は、安芸国高庭(広島県大野町高畠)の駅家から遠管(おか)(大竹市小方)の駅家を過ぎ、小瀬川を渡って周防国小瀬(岩国市小瀬)に入り、山道を越えて石国(いわくに)駅家(岩国市関戸付近)に至る道であった。中世に入り、やや荒廃したが、近世の山陽道は、大坂から下関を経て九州小倉を結ぶ行路で、西国大名の参勤交代等により、往来も盛んで、国内陸路の主要道として利用された。道幅は、慶長12年(1607)に、二問(約3.9m)と定めている。小瀬川の渡り場跡は、ここより南東約50m付近にあり、茶屋は、西方約100m付近に設けられていた。 平成10年10月吉日  岩国市教育委員会
        夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川
明治維新の先達吉田松陰先生が幕府の召喚を受け、籠で護送されながら、岩国市小瀬川に差しかかり、防長二州と最後の別れをされるとき詠まれたものである。時は安政6年(1859)5月28日、先生30歳の時である。