四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立。 弘智法印像為レ拝。峠より右ヘ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲ、ノヅミト云浜へ出テ、十四五丁、寺泊ノ方ヘ来リテ、左ノ谷間ヲ通リテ、国上へ行道有。荒井ト云塩浜ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハ
、ワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。 五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至ニ柏崎一ニ、天や弥惣兵衛へ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎 。宿たわらや六郎兵衛。 |
芭蕉は弥彦から猿ヶ馬場峠を越え西生寺の即身仏を訪ねた。境内の一角に建つ弘智堂に弘智法印のミイラ仏が安置されている。法衣で包まれているため見えるのは手と頭だけである。弘智法印は下総国匝嵯村(千葉県八日市場市)の僧で、各地での修行を経て貞治2年(1363)にこの地で即身仏になったという。
西生寺から日本海側に出た。野積から野積橋で大河津分水路をわたり三国街道と合流して寺泊に入っていく。もちろん芭蕉の時代に大河津分水路はなく、野積から浜伝いに寺泊にきてそのまま出雲崎に向かう。曽良は日記で寺泊から国上への道筋について渡部を通っていくと記している。寺泊は三国街道の終着点で、そのひとつ前の宿場が渡部であった。また渡部は古代北陸道の渡戸(わたりべ)駅家の比定地とされている場所である。国上には元明天皇和銅2年(709)に越後一の宮弥彦大神の託宣により建立されたとする越後最古の古刹国上寺がある。一行が三国街道との追分に来たとき、曽良の意識にふとその辺の地理が上ったのであろう。
寺泊では土地の長、菊屋五十嵐氏の屋敷前を通り過ぎて行ったであろう。今は聚感園(しゅうかんえん)という歴史公園になっているが、五十嵐家は平安時代から明治初年まで千余年にわたって勢力を振るった豪族でここに大屋敷を構えていた。義経、順徳天皇、藤原為兼、宗良親王等、錚々たる歴史上の人物を屋敷に匿った。
集落ごとに短い旧道を通り抜けながら午後4時頃出雲崎に入る。妻入りの民家が建ち並ぶ。出雲崎は江戸時代、徳川幕府の直轄地であった。佐渡金銀の荷揚げや北前船の寄港地として栄え、また北国街道の宿場町として賑わった。宿場街には廻船問屋や旅館などが建ち並び、遊廓も充実していた。
右手に良寛(1758〜1831)の生誕地、橘屋跡がある。芭蕉にとって良寛は知らない人物だが、その生家橘屋山本家は中世以来の名家で、出雲崎町の名主の傍ら神職を努めていた。芭蕉の時代は橘屋の全盛期にあたり、佐渡で産出された金銀の荷受け業務を一手に引き受けていた。
その先左手に芭蕉園がある。ここは橘屋の競争相手敦賀屋の屋敷跡である。公園の中には芭蕉像と句碑(「銀河ノ序」を刻んだ碑)などが建てられている。
芭蕉は奥の細道越後路の段では二句を記しているだけである。
文月や六日も常の夜には似ず 荒海や佐渡によこたふ天河
曽良の日記ではこれらは直江津での句会にて詠まれたものとなっているが、当日の天候から佐渡の島や天河は見えなかったはずで、この句は出雲崎で作られたと考えられている。その根拠の一つが「銀河ノ序」と呼ばれる芭蕉の文章である。芭蕉園の碑にその全文が刻まれている。
ゑちごの驛 出雲崎といふ處より佐渡がしまは海上十八里とかや谷嶺のけんそくまなく東西三十余里によこをれふしてまた初秋の薄霧立もあへすなみの音さすかにたかゝらすたゝ手のとゝく計になむ見わたさるけにや此しまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るをむかし今に到りて大罪朝敵の人々遠流の境にして物うきしまの名に立侍れはいと冷(すさま)しき心地せらるゝに宵の月入かゝる此うみのおもてほのくらくやまのかたち雲透にみへて波のおといとゝかなしく聞こえ侍るに 荒海や佐渡に よこたふ 天河 芭蕉 |
芭蕉はこの日、芭蕉園の斜め向かい側にあった旅籠大崎屋に一泊した。大崎屋跡は民家になっていて何の説明板もない。
翌朝、一行は佐渡の金銀が荷揚げされた出雲崎漁港を横目でみながら出雲崎の宿場を出た。朝雨が止んだのを見て出たのだが、まもなく又雨が降り出した。
今年は雨の多い夏である。
椎谷(しいや)宿、宮川宿を経て柏崎宿に入る。その間曽良の日記には何の記載もない。早く柏崎の宿に着きたかった。
五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至ニ柏崎一ニ、天や弥惣兵衛へ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎 |
柏崎までは、25kmほどの平坦な浜街道である。荒浜から松波をとおりぬけて鯖石川をわたる。安政町交差点で国道と分かれ、旧街道は交差点を直進する。東柏崎駅前付近で県道151号に合流し、東本町交差点で右折する。東本町郵便局あたりに柏崎宿の東大木戸があった。道向かいにある閻魔堂は木戸外で、旅人や浮浪者の宿に利用されていたという。その後天保頃からは旅商人、見せ物、博徒の集う季節市となった。
東本町2目と西本町2目にかけて、東本町局と西本町局に挟まれた大通りが柏崎宿の中心であった。
西本町交差点の手前に石井(いわい)神社がある。その西隣に天屋弥惣兵衛の屋敷があった。電柱脇に「天屋跡」の石碑がある。天屋弥惣兵衛は柏崎の大庄屋で豪商で俳諧も嗜んでいた。芭蕉は象潟で知り合った俳人低耳からもらった紹介状を届けたにもかかわらず天屋の主人はこれを断ったのである。プライドを甚く傷つけられた芭蕉は柏崎を即座に立ち去り意地でも16km先の鉢崎までいくことに決めた。すでに新潟宿でも芭蕉は気分を害している。越後の印象はますます悪化した。村上からここまで、「芭蕉」の名が通らない土地なのである。
旧北国街道の六割坂はそこを一挙に谷底まで下りようとする急坂である。坂をのぞいてみたが草が深くて道跡がはっきり認められない。手摺があるようだが、廃道かもしれない。真下に海が見える勾配に恐れをなして六割坂を下ることを断念した。かわりに1kmあまり迂回することになる。青海川駅の手前まで戻ってくる。右手、谷根川に架かる小さな橋の向こう岸にも民家が見える。六割坂を下りてきた旧道はここに出たものと思われるが、下から崖を見上げる限りではその道筋を確認することはできなかった。従ってここから旧道をたどることにする。
駅に通じる通りを横切って民家の間の路地を上がっていく。コンクリートで整備された階段を上る。すぐの二股を左にとり米山大橋の真下に向かう。道なりに右折すると右からきた農道と合流し、橋の下に沿ってまっすぐの坂道を上がっていく。このあたり、コンクリート舗装の坂道ではあるが、右手に日本海が望めて旧道の趣を感じる区間ではある。
登り切ったところに牛頭大王の石碑と旧北国街道の標柱があり、この坂道が旧道であったことを示している。旧道に面して「酒の新茶屋」の看板を出した酒屋があった。「ここは芭蕉も旅した旧北国街道青海川」とあるのが嬉しい。江戸時代、青海川のこのあたりは高台で日本海が見渡せる景勝の地で北国街道の立場であった。この店は当時の茶店を引き継ぐ古い歴史を持っている。
旧道はやがて国道に合流し笠島に向かう。
トップへ国道8号の米山IC入口信号を越えた先で旧道が右に分かれる。100mほど先で左に入っていくのが旧道である。右手に海や断崖、漁港あるいは谷間の緑地、箱庭のような畑地などを見下ろしながら段丘上に形作られた笠島の集落内を歩いていく。崖縁に設けられた木杭の柵は路肩を守るガードレールの代わりであろうか、見るからに危うい姿である。
旧道は笠松集落を抜け、旧国道に合流する。旧国道が大きく海側に迂回する区間を現国道8号は芭蕉ヶ丘トンネルで一抜けし、信越本線は長い米山第二トンネルの中を走っていく。
見晴らしの良い地点で後方を眺めると田塚鼻の地層がよく見える。その形から「牛ケ首」と呼ばれる岬であるが、地層の上下部分は整然としていながら、その中央部が不規則に褶曲したり、途切れたりしている。層内楷曲といわれ、海底火山の活動によって局所的な海底地滑り現象が起きて形成されたものといわれている。
旧道は芭蕉ヶ丘トンネルの西出口付近で旧国道と分かれて右の細道にはいり米山第二トンネルの上を越えていく。旧国道に接した後すぐに再び右の細道にはいっていく。このあたりは上輪新田集落で間の宿だった。そこに明治天皇上輪新田小休所の碑が建つ六宜閣がある。元庄屋田中家の子孫が今も割烹旅館を営んでいる。趣ある平屋建て建物は安政2年(1855)の建築で国登録有形文化財となっている。柏崎特産の真鯛料理が有名らしい。
ここから米山(993m)の秀麗な姿がよく見える。「米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと音がする」の名調子で広くその名が知られる。米山が上越と中越の境界をなしていた。手前に見える小高い山は旗持山(366m)で上杉家の山城があった。
米山三里と呼ばれる青海川〜笠島〜鉢崎の北国街道は、断崖絶壁を通る危うさ、谷の上り下りの険しさ、うち寄せる波の激しさ、九十九折りの山道などの難所が続き、親不知・子不知と並ぶ難所中の難所として知られていた。
旧道は六宜閣から300mほど西に進んで左に曲がり、国道8号をくぐって払川の近くの亀割峠に至る。そこで180度方向転換して急な下り坂に入り、河口近くで払川を渡る。払川を渡るとまた上り坂をたどって国道に出る。すぐ右手に聖ケ鼻展望広場に通じる旧道が出ているのだが、入口が完全にふさがれて通行止めとなっていた。国道で米山トンネルをくぐり、出口の少し先の丁字路を右折して展望広場から降りてくる旧道筋とY字路で合流、Y字路を左にとってヘアピンカーブを左に下ると鉢崎集落に入ってくる。
家並みの始まる右手に関所跡の碑が立っている。難所米山三里の終点である。鉢崎関所は旗持城の戦略的拠点として慶長2年(1597)上杉家により設けられた。江戸時代には鉢崎は北国街道の宿場町としても栄え、また、ここは出雲崎に荷揚げされた御金荷が輸送1日目に泊まる地であり御金蔵が置かれたこともあって街道の警備上重要な場所であった。金蔵に金箱が納蔵される夜は、70人もの役人が警備にあたったといわれる。
関所からすぐ左手に芭蕉が宿泊した俵屋六郎兵衛の家があった。俵屋は代々庄屋で、三百年以上も古くからこの集落に栄えた旧家で、宿屋を業としていた。椎谷の馬市の時期はこの町も馬の往来が激しく、俵屋は馬宿でもあったという。
旧街道は鉢崎宿場を出て国道8号に戻る。合流して国道を1kmほど行ったところ、上越市境の手前で左手に「大清水観音堂」の標識が建っている。北陸自動車道をくぐって左折し道なりに上がっていくと右手に山道が出ている。この道が北国街道の旧道のようだ。かまわずつづら折りの舗装道を上がって大泉寺に着く。朱鳥元年(686)泰澄禅師によって創建された古刹である。今は定住の住職はいない。しかし人気のない境内には古い重要文化財が健在である。
茅葺板壁の気品漂う観音堂は幾度か落雷により焼失、再建を繰り返し、現在のお堂は永禄2年(1559)上杉家によって再建されたものである。
観音堂の西側には、茅葺き屋根の山門がひっそりと建っている。裏側から見ているので小さな長屋門に見えるが両側の部屋には仁王が鎮座している。背後が正式な参道だが、今は誰も歩かない獣道になっている。
大清水観音堂から国道8号にもどり、西に向うとすぐ柏崎市から上越市にはいる。市境から2kmほどで旧街道は国道と分かれて右の県道129号に入っていく。
町並みに入って間もなく、右手福沢酒店の先の二股を左にとるのが旧道筋である。ここは柿崎宿東の枡形跡で、街道はすぐに丁字路に突き当たり右折する。左手角の民家脇に浮彫の指差し道標があり、「右山みち 左奥州道」と刻まれている。
旧街道は柿崎橋をわたった先で線路に分断されている。少し先で右折してガードをくぐり線路の海側を川に向かって分断された延長線までもどる。旧道は県道129号に合流する。この東方600mほどに、国道8号の馬正面(ばしょうめん)信号交差点がある。このあたりに古代北陸道の佐味(さみ)駅家があったとされる。
北国街道は砂丘に沿った砂防林の中を行く。右手、林の中に石碑が見える。柿崎から大潟にかけて犀浜と呼ばれる砂原に黒松の防砂林を完成させた藤野条助の顕彰碑である。苦難の末松林が完成したのは18世紀末の頃だったといわれる。芭蕉がここを歩いたときはまだ、砂嵐が舞い上がる砂丘であった。
柿崎区上下浜から大潟区雁子浜に入る。旧街道(県道129号)は鵜の浜温泉街をとおりぬけていくが、温泉は昭和31年(1956)帝国石油による石油試掘の際に湧出したもので、芭蕉にはただ多くの潟が点在している低湿地帯の道であった。
六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ浜ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺へ弥三状届。忌中ノ由ニテ強 而不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不レ帰。 及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各来ル。発句有。 七日 雨不レ止故、見合中ニ、聴信寺へ 被レ招。再三辞ス。強招 ニク(クニ)及暮。 昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨甚。 八日 雨止。欲レ立。強 而止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下刻、至ニ高田一。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ来ル。春庵へ不レ寄シテ、先、池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状来ル。頓 而尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。 |
犀潟駅前通りを通過して県道129号は県468号に代わる。黒井宿に入ってくる。左手、本敬寺門前に黒井宿の説明板が立っており、境内六地蔵脇に芭蕉句碑がある。
さびしさや花のあたりのあすならふ
句は次の句文と共に笈日記に掲載されているもの。
「明日は檜の木とかや、谷の老木のいへる事あり。 きのふは夢と過て、あすはいまだ来らず。ただ生前一樽のたのしみの外に、あすはあすはといひくらして、終に賢者のそしりをうけぬ。」
句碑説明板の中に、「奥の細道行脚の際、松尾芭蕉が黒井宿の旅龍屋伝兵衛で休んだのに因み寛政の頃、地元の俳人熊倉平十郎幸亭らによって建てられた句碑と言われている。」とある記述が気になった。
7月6日の芭蕉一行の足取りは、昼頃鉢崎を立って黒井からまっすぐ浜を通って関川を渡り今町(現直江津)に到着したことになっていて、黒井で休んだ記録がみあたらない。黒井宿から今町まではわずか一里足らずである。
今町にはいった芭蕉は聴信寺をたずねた。ここでも低耳(美濃の商人宮部弥三郎)の紹介状を携えていたにも拘らず、忌中とのことで宿泊を断られた。やむなく寺をあとにするが、門前に住む石井善次郎が芭蕉と知り、使いを走らせて戻るように説得した。芭蕉はここでも意地を張って再三断ったが、雨も降り出してきたので旅館を営む古川市左衛門の家に泊まることになった。古川市左衛門宅跡は直江津郵便局の西隣あたりで、今は駐車場になっていて案内板もない。旅館古川屋は現代になって本家が廃業した後も直江津駅前に分家が支店を出して経営を続けていたが、2012年に廃業し22代続いた老舗の幕を下ろした。
古川市左衛門宅に落ち着いた芭蕉はその夜土地の俳人たちと句会を催している。その発句が奥の細道に採用した「文月や六日も常の夜には似ず」である。
文月や六日も常の夜には似ず ばせを
露をのせたる桐の一葉 左栗(石塚喜右衛門
朝霧に食(めし)たく烟立分て 曽良
蜑の小舟のはせ上る磯 眠鴎(聴信寺住職)
烏啼むかふに山を見ざりけり 此竹(石井善次郎)
松の木間より続く供鑓 布嚢(石井源助)
夕嵐庭吹払ふ石の塵 右雪(佐藤元仙 )
句会に集まったメンバーの中に芭蕉の宿泊をすげなく断った聴聞寺の住職と、それを取り直そうとした石井善之助がいる。必ずしも気まずかったわけではなさそうである。葬儀の最中であって寺側が断ったというよりも芭蕉が遠慮したのかもしれない。翌日にはしつこい聴聞寺の招きに芭蕉が折れて夕方まで長居する結果となった。 両者のわだかまりが解けたものと理解しよう。
関川河口の畔に建つ琴平神社の境内にその句を刻む新旧二つの芭蕉句碑ある。
古い句碑は文化年間地元の俳人福永里方らが建てた句碑を慶応年間に福永珍玩らが再建したものである。新しい句碑は三八朝市周辺まちづくり協議会が建立したようである。
なお、琴平神社の境内の川縁に安寿と厨子王の供養塔があった。小学校の学芸会での定番の一つであった。人買いにさらわれていった姉弟の悲劇に涙したものであるが、いまは成長した厨子王が佐渡の畑道で探し当てた盲目の老母に対する追慕の情と老女の母性愛に圧倒されている。
安寿恋しや ほうやれほ 厨子王恋しや
ほうやれほ
鳥も生あるものなれば 疾う疾う逃げよ 追わずとも
翌7日、雨が降り続いて出発を見合わせていると、聴信寺から再三に亘って迎えが来た。結局寺に赴き夕方まで居ることになった。夜は地元の俳人佐藤元仙宅にて句会を持ち、そこに一泊した。その場所がどこか分かっていない。
星今宵師に駒ひいてとどめたし 右雪(佐藤元仙)
色香ばしき初苅の米 曾良
瀑水 躍に急ぐ 布つぎて 翁
さて注目の句、「荒海や佐渡に横たふ天河」についてだが、それがどこで詠まれ、いつ披露されたのか諸説があってはっきりしていない。佐藤元仙宅での発句がそれであるという説、前夜の古川宅で提出されたという説、翌日以降の高田滞在中に披露されたという説。いずれにしても直江津・高田の滞在中の出来事であったらしい。また実際芭蕉の頭に詠まれたのは雨が強かった七夕の夜ではなく出雲崎でのことだというのが通説化されている。実際佐渡の島が見えたかについても懐疑論が存在している。まことに謎多き名句である。
トップへ
八日 雨止。欲レ立。強 而止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下刻、至ニ高田一。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ来ル。春庵へ不レ寄シテ、先、池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状来ル。頓 而尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。 九日 折々小雨ス。 俳、歌仙終。 十日 折々小雨。中桐甚四良へ 被レ招、歌仙一折有。夜ニ入テ帰。夕方 より晴。 十一日 快晴。暑甚シ。巳ノ下尅、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不レ届。直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。月晴。 |
8日、雨が止んで高田に向け出発したかったが、左栗(石塚喜右衛門)が熱心に誘うので昼をごちそうになった。午後3時過ぎに高田に着く。
どの道を通ったかについて資料がない。黒井にもどって春日新田経由で高田に入ったとは考えられず、関川左岸を南下したのであろう。当時の公道である加賀道の木田新田三叉路に立つ追分地蔵の光背に「左かゝかいたう」「右いまゝちみち」と刻まれている。左が本道の加賀街道(北国街道)で、右の細い道は今町道といって芭蕉が泊まった今町へ通じる脇道だったのである。おそらく芭蕉はここへ出て、左折し高田城下へ向かったのではないかと推測する。
加賀街道は道なりに南にくだり北本町1丁目交差点に出る。街道はそこを左折して本町7丁目交差点に至る。ここが北国街道の三街道が出会う追分である。南へは信濃路、今来た道が加賀街道、東へ向かう道が奥州街道と区別されている。交差点の北にある宇賀魂神社の境内に、かつて本町7丁目交差点にあった道標が保管されている。道標には「右 おゝしう道 左 かゝ道」と刻まれている。
ところで芭蕉は来ずに、北本町1丁目の交差点を直進した。道はそのまま高田城下の三大通り(大町通り、本町通り、仲町通り)の一つである仲町通りにつながって、高田駅前の歓楽街を貫通している。芭蕉が今晩泊まることになっている池田六左衛門の家は駅前通りをすぎた辺りの仲町通りにあったといわれる。かつては石碑があったらしいが現在その跡を示す物はない。
六左衛門宅にたどり着くが来客中につき近くの寺を借りて休むあいだ、高田の医者で俳人の細川春庵より招待状が来たので、さっそくそこで句会を開くことにした。細川春庵亭も近くであったらしいが確かな場所は分かっていない。
藥欄にいづれの花をくさ枕 翁
荻のすだれをあげかける月 棟雪(細川春庵)
爐けぶりの夕を秋のいぶせくて 更也(鈴木與兵衛)
馬乘ぬけし高藪の下 曾良
句会がおわると六左衛門宅に戻った。翌日も翌々日も雨に降られて結局ここで3泊することになる。
10日の夜になってようやく空が晴れて来た。11日の11時頃、高田城下を観光することもなく高田を出る。大町通りを北に上がり本町7丁目追分を左折、北本町1丁目交差点を右折して高田城下をでていく。北本町の家並みは二階建て切妻平入の長屋スタイルである。雪下ろしの為に一階屋根に梯子が常設されている。
北本町2丁目で左斜めに折れた後県道13号を横断する。この辺りに陀羅尼口番所と一里塚があった。石碑等は見当たらない。
白山神社の先で右斜めにおれて真北に方向転換する。川を渡った先で左に曲がり、木田新田に入った直後の丁字路に追分地蔵がある。先日今町から高田に向かう道でここに出たのだった。
春日城下の中屋敷宿を通り抜け越後国府所在地とされる場所を通る。国府別院はまだ建っていなかった。街道には松並木が整備され、今もわずかに往時の面影を留めている。その先、街道は五智国分寺と居多神社の傍を通って浜道へ抜けていく。
街道から離れて左手にある居多(こた)神社に詣でた。この神社は越後国司、越後守護上杉家・上杉謙信の厚い保護を受け越後国一の宮として崇敬されてきた。創建は不詳であるが式内社である。南北朝時代から越後国一宮を主張、弥彦神社と競合しているが、勢力の差は歴然である。社殿は平成20年(2008)に造営されたばかりで新しい。
境内の一隅に片葉の芦が群生している。親鸞が居多神社に参拝して祈願をすると境内の芦が一夜にして片葉になったという。この片葉の芦は「越後七不思議」の1つにも数えられている。片葉の芦を他の地でも見た気がするが思い出せない。
薬園にいづれの花をくさ枕
3日前の7月8日、細川春庵を訪れた時の作句である。春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だった。
聖武天皇の勅願によって建立された本来の越後国分寺の所在地はわかっていない。永禄5年(1562)近隣の日山城主上杉謙信によって現在の場所に再建された。その後幾度となく災興を繰り返し現在の本堂は平成9年に再建されたものである。
街道にもどる。二股を右にとって国分寺入口交差点で県道468号を横断して浜辺の道にでる。居多ヶ浜に展望台が設けられており、多くの観光客が出入りしている。浄土真宗の開祖親鸞聖人は承元元年(1207)旧来の仏教による弾圧を受け、帰依していた法然に連座して京を追放され越後国府に流されることになった。聖人は北陸道を下って木浦(能生町)から船で国府にいたり、この地居多ケ浜に上陸したと伝えられている。親鸞聖人は、35歳から42歳までの7年間をこの国府ですごした。
居多ヶ浜の旧道にもどり西に向かう。県道468号に合流してまもなく郷津信号で国道8号に合流する。
長浜交差点で左の旧道にはいる。谷浜郵便局あたりが長浜宿場の中心であろうか。駅もバス停も郵便局もみな「谷浜」であって「長浜」の文字をみかけない。素朴な民家をみかけるだけで谷浜集落を通り抜けた。民宿を2、3軒見かけた。海水浴シーズン用のものであろう。
国道8号に戻って西進する。有間川信号を左折し100mほどで右折して川を渡り有間川集落に入る。家並みには新しい家が多く閑静な住宅街の雰囲気である。街道は集落の西端近くの二股を左にとり、坂を上がっていく。有間川保育園前の丁字路を左折し、すぐ右の山道に入っていく。昔はまっすぐにつながっていたのだろう。右手下に有間川の駅と漁港がよくまとまって覗かれる。
山道をしばらくたどっていったが次第に山深くなっていく。その先の道筋に自信がなく、保育園前まで引き返した。車道で坂を上り丹原集落内の十字路に出た。左の細道に入っていくのが旧道筋らしい。しばらくたどってみたが、民家の庭先を縫うような細道である。十字路に引き返し車道を直進して集落を抜けた。
広い田園地帯に出る。前方近くに北陸自動車道が走っている。十字路に、直進は「西横山」右は「鍋ケ浦」の標識が立っている。右折して川をわたり突き当りを右折、その先の三叉路を左折して車道に突き当たる。右にいけば国道8号に出る。旧道は左折して右に曲がり、三叉路を直進する。道なりに蛇行をしながら吉浦集落内の丁字路に突き当たる。右折して吉浦集落を北に抜けていく。
家並みが尽きたあたりで二股を左にとり、その先で左に半円を描いて回り込み、丁字路を右折すると茶屋ケ原集落である。集落内で左方向に90度曲がって丁字路を直進、道なりに右に大きく曲がり込んだ後、左に曲がってようやく直線の道に入る。
途中いくつか左の家並みに入っていく路地があるが、すべて無視して本道をまっすぐ進んでいく。家並みがしだいに疎らになったところで迷いそうな二股が現れるが、ここも右をまっすぐに進んでいく。民家は途絶え林中の道をしばらくいくとやがて右手に乳母ヶ岳神社がある。いかにも古そうだがしっかりとした繊細な彫刻が施された社殿である。
道はその先浅い切通しとなりやがて視野が開けて道は草道となった。
右手前方に日本海が見えてくる。明るい段丘の草道を歩いていくと左手に小さな道標を見つけた。「左神社道 右山道」とある。「神社」とは乳母ヶ岳神社のことであろう。
こんどは日本海に滑り落ちそうな斜面に木の標識を見つけた。「加賀街道」と書かれている。歩いているのは頼りない草道だが、加賀藩大名が参勤交代で通った道に間違いなさそうだ。
町並みに旧街道の匂いはないが、ここ名立大町は古代北陸道の名立駅家が置かれた所である。遺構等は発見されていない。
正光寺前にある曲尺手を経て、二つ目の路地を左に入ったところに名立寺がある。永正年間(1504〜1520)の開基と伝わる。度重なる火災で焼失し、本堂は昭和10年に再建されたもので新しい。ここは江戸時代名立宿の本陣だった。明治11年の明治天皇名立行在所でもあった由緒ある寺である。
十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡。川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言伝有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。 |
国道8号弁天大橋東詰交差点で左の旧道にはいる。すぐ左手に重厚な茅葺屋根の白山神社がある。奴奈川姫(ぬながわひめ)を祀って産土神社としたのが始まりと云われており醍醐天皇の命よって造られ「延喜式」に記載されている奴奈川神社にあたるといわれている。本殿は明応年間(1492−1501)に火災で焼失したが、永正12年(1515)能登守護畠山義元寄進により再興された。その建築様式は、三間社流造の前面に一間の向拝を付けたもので室町時代の特色を示しており、国の重要文化財に指定されている。
社務所の前に「越後能生社汐路の名鐘」と題した大きな芭蕉句碑がある。「汐路の鐘」とは、義経主従が山奥へ逃れる途中能生浦に滞在し、武運長久を祈って常陸坊の名を刻んだ梵鐘を寄進したといわれる鐘である。この鐘には汐が満ちてくると、人が触れずとも一里四方になり響くという伝説がある。明応のころ消失したが、その残銅をもって再鋳された。
碑は文政5年(1822年)岡本五右衛門憲孝が建立したもの。元禄2年(1689)芭蕉が奥の細道の途次能生に宿泊した際、詠んだ句とされるが、奥の細道にも芭蕉句集にも載っていない。
曙や霧にうつまくかねの聲 芭蕉
こんぴら神社の先の曲尺手を経て宿場の中心街へ入る。郵便局の先、水路の手前左手のヘアーサロンが村田家本陣跡だそうだが、それを示す物はなかった。水路の先の路地を左に少し入ったところに玉屋という旅館がある。7月11日高田を発った芭蕉は夕刻能生に着き、玉屋五郎兵衛方に宿泊した。現在もその子孫が経営しているという。当時玉屋は旧道沿いにあった。
国道で木浦、鬼舞、鬼伏、浦本、中宿を経て早川をわたると梶屋敷である。
芭蕉は早川でつまずいて衣を濡らしてしまった。川は浅く徒歩わたりであったが、石がごろごろしていてバランスを失ったらしい。やむなく河原でしばらく休んで、濡れた衣を乾かした。
早川橋西詰信号で左折して旧道に入る。水路を渡って梶屋敷宿に入って行く。田伏交差点まで600mほどの小さな宿場である。家並みには比較的妻入り造りの民家が多くみられる。見ている間に梶屋敷の集落を抜けていく。
田伏交差点で国道8号に合流するがすぐに大和川小学校の前で右手の旧道にはいる。大和川集落をぬけ、竹ヶ花十字路交差点で国道をよこぎって海川をわたると糸井川宿である。
押上信号交差点の手前右手に鳥居と玉垣に囲まれて五輪塔がある。なにかを祀るものらしいが、詳細は分からず。一里塚跡だともいわれるが、案内板はない。信号を渡ると県道222号となり、一直線に糸井川宿に入っていく。
旧街道は本町2丁目交差点から左折、右折する曲尺手を抜けるのだが、そこを右折して国道8号との丁字路に出てみる。丁字路角に奴奈川姫の像が建っている。「古事記」に出てくる高志国の沼河に住む沼河比売の美貌の評判を聞きつけた出雲の八千矛神(大国主命)は妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに好意的な歌を返し、翌日の夜、二人は結ばれた。話が早い。
曲尺手の大町交差点にもどり西にすすむとすぐ右手に小林家本陣跡加賀の井酒造がある。慶安3年(1650)の創業で新潟最古の酒蔵という。加賀三代藩主前田利常は参勤交代のときここに本陣を置き酒銘「加賀の井」と命名した。加州三候(加賀藩、大聖寺藩、富山藩)の宿泊記録が残っている。小林九郎左衛門家は町年寄りも勤める名家であった。
すぐ先に大きな赤いローソクの看板を庇屋根に乗せた京屋がある。間口の広い平入町屋で江戸時代から続く老舗である。特に柚餅子は400年も前から作られている銘菓で、加賀侯が土産として将軍に献上したことから、「御」の字が付けられ、この店のゆべしは「御ゆべし」と呼ばれる。柚餅子と仏具を売るという奇妙な商品組み合わせである。
旧街道は横町(旧新屋町)で国道148号と交差する。この道はフォッサマグナ(糸魚川・静岡構造線)に沿って信州松本に至る道で、約120kmの街道である。「塩の道」とも千国(ちくに)街道、松本街道、糸魚川街道とも呼ばれた。
交差点の北東角に糸魚川町道路元標と、電柱に「旧塩の道問屋街・白馬通り商店街(松本街道)起点」の標識が貼られている。今は人気もない通りだが、昔はこのあたりに信州方面への荷を扱う問屋が軒を連ねていた。信濃国松本藩領内の塩と肴の大部分は当地から送られており、この輸送に6軒の信州問屋が携わっていた。毎年3千駄送るよう申し付けられていたという。
人や物の行き交う要衝にあって、問屋だけでなく、旅籠や茶店も賑わっていたことだろう。奥の細道に同行した曽良はここ新屋町の左五左衛門の茶店で休んだことを記している。ちょうど昼時であった。親不知の難所にいどむ腹ごしらえでもしたのだろう。茶店の主人は芭蕉と曽良が加賀の大聖寺に立ち寄ると聞いて、そこの僧への伝言を頼んだ。
寺島で国道8号を横断した先、姫川港をまわりこんで旧道(県道486号)で姫川橋をわたる。急流で知られる姫川は綱を繰って船を渡した。この川の流域はヒスイの産地で、河口付近の海岸や河原では今でもヒスイ原石を見つけることができるという。
青海駅前交差点に差し掛かる。手前右手の電柱脇に青海村道路元標があり、その先の民家前に青海宿本陣清水家跡がある。
交差点を挟んだあたりが宿場の中心であったのだろう。青海は北国街道の宿場であるとともに古代北陸道の蒼海(あおうみ)駅家が置かれた所でもあった。
この先は親不知の難所を越えなければならない。親不知の先の市振宿との間に残されたわずかな浜に歌宿、外波宿が置かれた。
港町信号で旧道は国道8号に合流して青海川を渡る。
国道は坂道を上がって断崖に造られた洞門とトンネルを潜り抜けながら歌地区に入る。青海までの浜辺道はなくなり、昔は崖が日本海に落ち込む波打ち際を歩かねばならなかった。洞門の窓から見た海岸にはまだテトラポットに守られた浜が残っているが、この先で浜がなくなる。青海から歌までの海岸を子不知、その先市振までを親不知とよぶが、合わせて親不知という場合が多い。
国道はしだいに下り坂になり、駒返トンネルを出たところ歌信号で左の旧道、県道525号に入る。右に大きく旋回しながら日本海ひすいラインの高架橋の下をくぐって歌川をわたる。このあたりは歌集落の北端である。集落は歌川に沿って南北に形成され、街道筋には郵便局しかない。すぐ先が親不知駅で、この辺りに本陣があったらしい。
子不知の西端駒返しトンネルと親不知の東端風波トンネルの間3kmほどの海岸は断崖から海岸線まで少しの幅があり、海水浴場や漁港まである浜辺を形成している。そこに歌と外波の宿場が設けられた。両宿場の距離は2kmに満たない。青海からの荷は歌で継いで市振へ、市振からの荷は外波で継いで青海へ送られた。
県道はそのまま外波の集落に入っていく。この集落も外波川河口部分に沿って南北に長い町で、街道はその北端をかすめるように走っている。歌に比べると海岸部分が広く民家の数も多い。海岸には親不知海水浴場や親不知漁港があって街道沿いにも民宿が数軒見かけられる。
外波川をわたると国道8号が北陸自動車道の高架をくぐり、左に大きく曲がる手前右手に親不知記念広場が設けられている。見晴台があり、断崖が日本海に落ち込む姿がよく見渡せる。波が直接崖岩に打ち寄せ、そこには獣が歩く余地もない。
広場に愛の母子像が立ち、台座には相馬御風の歌が刻まれている。
かくり岩によせてくだくる 沖つ浪のほのかに白き ほしあかりかも
Breaking on a lonely rock Waves rising in the sea glow faintly white Like starlight.
トップへ資料39 今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。 一家に遊女もねたり萩と月 曾良にかたれば、書とヾめ侍る。 |
国道は大きく山側に回りこみ風波川を渡って市振地区に入る。まもなく右手に親不知観光ホテルが建っている。ホテルの脇からコミュニティロードと呼ばれる旧国道が残されている。親不知を越えるのに4世代に亘る道が開削された。1世代の道は芭蕉が歩いた文字通りの旧道である。引き潮の時を狙って波打ち際を駆け抜ける。波が押し寄せるときは断崖の洞窟に避難した。
2世代の道が明治16年に断崖の修復を掘削して開通した旧国道である。国道開通を記念して、絶壁に「如砥如矢(とのごとくやのごとし)」と巨大な文字が刻まれている。砥石のように滑らかで、矢のように速く通れる道が完成した喜びを表した。
第3世代が昭和41年に開通した現在の国道8号で、第4世代は北陸自動車道である。
ホテルの入口近くから海岸に降りる道がついている。道というより石段といった方が正しい。極めて急な石段道である。途中の踊り場に旧北陸本線のトンネルが残っていた。堅固なレンガ造りで昭和40年(1965)年までの53年間使われた。
浜辺に降りる。猫の額のような空間があった。そこから北を見ても南を眺めても崖下を波が打ち寄せる険しい自然である。
コミュニティロード(旧国道)は天険トンネルを越えてきた国道8号と合流する。4か所の洞門をくぐりながら2.5kmほど行ったところで右手に分かれる旧国道に入って富山県境の市振集落に入っていく。
漁港に降りる道との分岐点に「海道の松」が立っている。目通り2.5mで樹齢200年を超える老樹であるが、今もよい姿を保持している。親不知を越えてきた旅人はこの松の姿を見て安堵の気持ちに浸ったことであろう。
集落のなかほど、桔梗屋前バス停脇に芭蕉が泊まったという桔梗屋跡の標識が立てられている。桔梗屋は市振宿の脇本陣だったが、大正3年の大火で焼失してしまった。芭蕉の宿泊地というだけでない。ここで「一つ家に 遊女も寝たり萩と月」という名句を残した。
奥の細道本文に掲載された句であるのに、曽良の日記には触れられていない。芭蕉得意の虚飾であったか、曽良の無視あるいは失念か、というだけでなく、句意についても議論が多い名句である。とにかくこの一句で市振の地は有名になった。
郵便局を通り過ぎて集落の西端近く、市振小学校辺りに市振の関所があった。寛永年間(1624〜)に設置されたもので、小学校の校庭にある関所榎は樹齢250年を越え、高さ17.5m、目通り幹周り4.6mの巨樹である。市振の関所は行旅の人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所から成っており、東西21間、南北95間の敷地内に両番所、上役長屋、足軽長屋などがあった。本陣はこの付近にあったという。