伊香保街道 



大久保−野田水沢伊香保
いこいの広場
日本紀行


大久保

北群馬郡吉岡町の大久保は佐渡奉行街道の大久保宿場がおかれたところである。利根川の西側を午王頭川から駒寄川まで南北2kmにわたって形成された宿場町は「大久保の長宿」と呼ばれた。佐渡奉行街道は高崎回りの三国街道が整備される以前の三国街道古道で、江戸と越後・佐渡を結ぶ幹線道路であった。また、中世から名湯としてしられた伊香保温泉に向かう旅人は大久保の宿場から佐渡奉行街道を分けて西に向かった。

駒寄小学校西側の三差路に自然石の
追分道しるべが立つ。寛政12年(1800)のもので、「右ゑちごしぶ川」、「左いかほみづさは」と刻まれている。まっすぐ北上して越後・渋川へむかうのが佐渡奉行街道、左におれて伊香保・水沢に至る道が伊香保街道(水沢街道)である。

道は宮東交差点から県道15号となり、関越自動車道をくぐっていく。

吉岡中学付近の街道右端にケヤキの巨木が大輪の花火のような枝振りをみせてそびえている。樹高は15m、目通り幹囲7.0m、推定樹齢300年以上といわれる古木である。巨大な根元幹には大きな穴が口を開け、なかには10体ほどの石仏が身を寄せ合っていた。
「史跡 穴薬師」と記された標柱のほか一切の説明はなく詳しくは分からない。個々の石仏は史蹟と呼ぶにはいささか貧弱に見えた。



野田

県道25号を横切って右にカーブするところに野田宿由来を記した大きな案内板がたっている。森田氏の寄贈によるもの。野田宿本陣の森田本家であろう。民家脇に二体の馬頭観音がいた。

S字にまがったところで高崎からきた三国街道と交叉する。標識には「水沢街道」とあった。

1kmほど西に進んだところが野田宿の中心で、通りは旧宿場の面影が色濃くのこる街並である。街道を挟んで本陣を勤めた酒造業者森田本家の屋敷が堂々とある。南側には「水沢街道野田宿 下宿・上宿」と相撲文字で書かれた柱が高々とそびえ前庭には道しるべと歌碑を兼ねたような石碑があった。

北側が本陣の建物のようで海鼠壁の長屋門の前には「伊香保街道野田宿旧問屋人馬継立」の石柱、
「野田宿 酒造業 森田本家」と書かれた屋号札、「大庄屋森田宗家邸宅及回遊式庭園 幕臣大久保家采地上州武州八ヶ村大庄屋旧役宅」と記された標柱が建物の多くの肩書きを誇示している。塀には高野長英が逗留したという板書きが貼ってあった。

宿場案内に「通りに建つ家並の外には幅2m程の通り
(盗人道)が作られ、それにも用水路があり」とある。どんなものかと路地をはいって一筋南の通りをうかがった。確かに街道に並行した真直ぐな道があるがそれが盗人道であるかどうか。そのことより、この道は表街道を歩けない盗人用の道だと言い出した者の機知がおかしい。途中、「明治小学校発祥の地」に常泉寺があり、向かいの空き地にはあらゆる種類の石仏類が寄せ集まっている。野仏や石塔の頭をなでるようにからみついた蔦や草木が秋の色合いを添えて廃寺跡の趣が濃い。

各家には宿場当時の屋号札がかかげられていて、旧宿場町の高い意識が感じられるのも森田本家の圧倒的な存在によるものであろう。

宿場の家並みをぬけると道幅もひろくなり開発された住宅地の景観をみせてくる。
左手に
「伊香保女神館・命と性ミュージアム」と名付けた意味深な建物がでてきた。奥州街道で寄り道した高柴デコ屋敷を思い出す。入場料が500円くらいだったら入っただろう。

県道164号がでている上野原交差点をすぎると道は林の中にはいるが、沿道には骨董店、美術館、博物館などが点在してリゾート地の空気が漂い始める。

左手に
「史蹟 野田堰」と書かれた白い標柱が目に留まる。隣には古そうな百番供養塔がある。杉林の中に堀状のくぼみがあった。街道に沿って近くを利根川支流のひとつ滝沢川が流れている。「史蹟 穴薬師」と同様、標柱以外の案内はないが、野田堰は江戸時代の治水・灌漑施設であろう。


すぐ右手に茅葺小屋に、水車、縁台、灯台などがそろった古そうな建物が店を構えている。先客の立つのを待って腰をおろした。メニューは葛餅、甘酒、葛湯、おでんのみの限定版である。おでんを頼んだら、串に刺したこんにゃくが三本でてきた。一本百円の勘定。
味噌たれが美味だった。

江戸時代の建物かとたずねると、昭和40年代のものだという。
「伊香保街道には宿場は野田だけですか。水沢は宿場ではないんですかね」
「お父さんに聞いてみます」と、若い女性は中に入った。
水沢は門前町で、宿場ではないと思うとのこと。
「森田さんなら知っておられますよ。」
「森田本家の森田さん?」
「そうです。この辺りの山は全部森田さんのものだったのですよ。農地解放で、この土地をもらって、ここに店を建てたのです。」

なにしろ上州武州八ヶ村の大庄屋だから上野田はすべて森田家の土地だったのだろう。桁外れの大地主である。

道を進むと左手、「おもちゃと人形自動車博物館」の手前に
万葉歌碑が立っている。

 
伊香保呂の八坂の井堤(いで)に立つ虹の   あらわろまでもさ寝をさ寝てば

吉岡町教育委員会の解釈は「榛名山にある大きな井堤に不吉な朝虹が現れるように、許されない二人の間が露見して悪い事態になるかもしれないが、どうなっても仕方がない。それまで共寝していられたら・・・と許されない悪におびえながら、それゆえに燃え上がる二人の恋心を歌ったものである。 不吉な予感と、それだけに今の一瞬を互いにいとおしみ確かめ合おうとする恋人同士の切々たる思いが込められている。」と、教育委員会にしてはなかなか進歩的である。

右手に
「珍宝館」が現われる。若いカップルが駐車場の車からおりてきた。女神館の類であろう。
吉岡町の西の端、沿道の林が深くなったあたりから突如ラブホテルが林立する区域を通り抜ける。杉木立が互いの距離をおいて姿を隠しているが、直感では10軒を下らなかったのではないか。渋谷でも新宿でもないこの山道ですべての経営がなりたっているとすれば需要はかなりなものでなければならない。負け惜しみの解釈をしながら通り過ぎた。

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水沢


ホテル街をぬけると伊香保町水沢にはいる。今度は
「水沢うどん街」だ。
歓迎の幟がはためいて観光客をむかい入れる。軒を連ねる庶民のうどん屋ではなく、一軒一軒が大型観光バス用の駐車場を設けるくらいの大規模うどん屋である。高齢団体客に飲み込まれるように中にはいってかけうどんを注文した。850円。うどんも具も盛りだくさんだった。
「水沢うどんって、なにが特徴ですか?」
「腰があるのです」
「ああ〜…」

うどん屋が尽きるところに
水沢観音がいる。子宝神社とも呼ばれ女性参拝客が多い。

駐車場の片隅に
万葉歌碑があった。先に見た歌碑とおなじ歌だ。こちらは万葉仮名で書かれていて解説がなければ、何も分からない。二種類の説明碑がある。ともに森田丈夫奉納とあるが、例の森田氏であろう。一つの解説では歌にある「やさかのゐで」は「この地に近い船尾滝より流下する滝沢川に設けた往古の堰提で、天保5年(1834)上野田村名主梅園森田四郎兵衛重信がその地に灌漑施設を造り後に明治用水となり現代まで恩恵を及ぼしている」とある。「史蹟 野田堰」もその一部ではないかと思い至った。

二つ目は森田氏による歌の解釈である。
「厳秀(榛名山)の八坂の堰提にあざやかな朝虹が立つ その虹のようにはっきりと二人の仲が知れてしまってもかまわない それまでも共寝をしたならばどんなによかろう さあ寝よう 寝ましょう。 …・ 上古の農民の大らかな情感が伝わって来るではありませんか。」
 
野菜や饅頭などをうる出店の前を通り過ぎると線香の煙と臭いがたちこめる境内に入る。右手の
六角堂(六角二重塔)がお目当てだ。錦色に染まった木々を背にして、ほどよい高さの均整のとれた気品ある姿を見せている。六地蔵が回転式台座に安置され、台座と共に廻る。老若男女が軸棒を押し歩き、左方向に三回廻って願をたてる。

本堂も小ぶりの建物で、扉の格子からは金箔の仏像が覗かれた。本尊の十一面千手観世音菩薩かと思いきや、本尊は秘仏で開帳されず、覗き見えたのは
本尊お前立ちという別物だった。格子にカメラをあてがい写真を撮ったがピンボケだった。

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伊香保

水沢をでると、道は開かれた高原をゆく。渋川CC、伊香保CCと二つのゴルフ場をかすめて県道33号に合流して、子宝の湯としても知られる伊香保温泉街にはいる。

温泉街とりつきに
竹久夢路伊香保記念館がある。いくつかの建物からなり、全体で「大正ロマンの森」と銘打っている。街道から坂道をくだると最初にあるのが洋風建物、「黒船館」である。モデルから三番目の妻になったお葉が黒猫を抱く夢路の代表作「黒船屋」のオリジナルが収蔵されている。ただし公開は年1回9月16日を中心に2週間だけで、それも予約を要するという秘蔵ものである。私の書斎にはオリジナルサイズの黒船屋暖簾がかけてあり、いつでも見ることができる。息子がはいってきて、「エロい」と言った。

伊香保温泉街の街道すじは意外に淡泊で、大型観光ホテルがならぶだけで一向に名湯の里らしき情緒が感じられない。「女神館」的な施設も見かけなかった。温泉の中心は坂をあがっていって温泉街の西端近くにあった。左にはいり坂道をたどると、
「関所通り」の案内標柱が立っている。右におれて伊香保関所跡に出る。

伊香保街道は水沢観音詣と伊香保温泉湯治が主な利用目的であった。水沢観音も伊香保温泉も子宝に恵まれるとあって、女性客が多かった。また、伊香保街道は三国街道の杢ヶ橋関所を避けて吾妻川をわたる抜け道として、あるいは杢ヶ橋で渡河できないときの脇往還として利用されることがあった。それらの監視のために伊香保の出入り口に関所を設けたものである。関守を地元に任せたので百姓関とよばれた。復元された建物のほかに、門柱の礎石、関所役人が腰掛けた取調べ石、旅人がその上に手をついたお辞儀石などが保存されている。

道向かいに赤いトタンで屋根全体が覆われた
ハワイ公使別邸がある。ハワイがまだ独立国であったころ、駐日代理公使が別荘として所有していたものである。中はせまく天井も低かった。崖側の廊下に椅子が一脚ぽつりとあり、それに透明人間が静かに座っていて、ガラス窓から飛び込んでくるかのような真っ赤なもみじ葉を愛でているようであった。

ハワイ公使別邸下の県道脇に
徳富蘆花記念館がある。伊香保は国民的ベストセラーになった悲恋小説「不如帰(ほととぎす)」の舞台であり、著者自身の終焉の地ともなった。

関所の東側から石段街が始まる。伊香保温泉の歴史は中世にはじまり、石段温泉街はその後戦国時代の末期、織田信長と武田勝頼が交えた長篠の戦の翌年である天正4年(1576)に形成された。石段の両側には老舗旅館や趣味を凝らした店が並ぶ。最上段に近いところに
「十一屋酒店」をみつけた。「近江屋」と等しく、「十一屋」は日野商人を象徴する。

石段を上りきった奥に
伊香保神社がある。社殿はちいさいが、天長2年(825)の創建といわれ、富岡の貫前神社、赤城の赤城神社とともに、上野国三之宮とされる名神大社である。里宮は大久保にある三宮神社で、伊香保街道の終起点をむすぶ因縁を感じる。

境内には万葉歌碑、芭蕉句碑がある。万葉歌は上野田、水沢にあったものと同じであった。しつこく「寝よう、寝よう」と訴えてくる。
芭蕉の句は

  
初時雨 猿も小蓑を欲しげなり

奥の細道の旅を終えて帰郷の折、伊賀越えの山中で初時雨にあって詠んだものとされる。

石段をおりて伊香保街道の旅を終えた。
大久保追分を出て、街道らしかったのは野田宿まで。
それ以後、女神館で気持ちを高め、ホテル街で性欲を発散し、うどん街で食欲を満たした後、水沢観音前でそれなりに心を清めて子宝を祈願し、伊香保温泉の子宝の湯につかって心地よい体の疲れを癒す。その都度万葉歌が背中を押してくれた。
伊香保街道はおおらかな人間街道であった。

(2008年11月)

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