寺泊

 

九十九折に下っていくと観光案内板が立つ十字路にでる。右折して芭蕉が訪ねたという西生寺に寄っていく。

西生寺は奈良時代の聖武天皇の時代、天平5年(733)行基によって開かれたとされる古刹である。本尊は上品上生(じょうぼんじょうしょう)阿弥陀如来仏で、いまからおよそ3,000年前にインドで鋳造された、一寸八分(約5センチ)の純金仏である。この小さな純金の阿弥陀仏を行基自らが彫り上げた木像の阿弥陀如来像のなかに「お腹ごもり」の秘仏として収めた。後に、行基が彫った阿弥陀像をさらに包み込む形で阿弥陀像が造られた。12年に一度の開帳時に見られるのはこの三番目の阿弥陀仏像であって、行基作の木造阿弥陀仏像と当初の金製阿弥陀仏は永遠の秘仏とされている。

西生寺はまた日本最古の即身仏で知られている。全国に約24体の即身仏が現存するが、そのほとんどが江戸時代以降のもので、唯一、弘智法印即身仏だけが鎌倉時代のものとされている。芭蕉がここに寄ったのはその弘智法印即身仏を訪ねるためであった。

境内の一角に建つ弘智堂に弘智法印のミイラ仏が安置されている。法衣で包まれているため見えるのは手と頭だけである。弘智法印は下総国匝嵯村(千葉県八日市場市)の僧で、各地での修行を経て貞治2年(1363)にこの地で即身仏になったという。

村上市内観音寺には日本最後(日本最新)の即身仏が祀られていた。下越で日本最初と最後の即身仏を訪ねたことになる。

十字路にもどり直進、寺泊野積集落の手前で二股を右にとって野積集落にはいっていく。旧街道は国道402号まで下りずに段丘上の集落内を南北に走る。南に進んでいくと山王宮の石段下に「野積杜氏」の説明板があった。江戸時代中期、野積村が白河藩の配下にあったころ白河への出稼ぎで酒造りに従事したことが始まりといわれている。以来、野積からは優秀な杜氏を排出した。

旧道はその先のY字路を直進して国道402号に合流し、野積橋で大河津(おおこうづ)分水路を渡り寺泊集落に入っていく。日本海に接近してきた信濃川の水流を分け、近道を通って海へ流そうとするものである。江戸時代からそのアイデアは提出されていたが、実現したのは大正になってからであった。

寺泊は古代北陸道の渡戸(わたりべ)駅家が置かれた地だったとされる。佐渡国への官道はこの渡戸と、佐渡東海岸の国津松ヶ崎を結んだ。渡戸は燕市渡部(わたべ)が三国街道の宿場としてその地名を引き継いでいる。

国道402号が県道2号と合流する地点で、すこし県道に入ってすぐ右折する。この道が寺泊集落を縦断する旧街道である。1kmほど進んだところで左手の山中から下ってくる旧三国街道と合流する。右手の三角屋はこの追分を意識しての屋号だろう。

角に石地蔵が祀られていた。追分地蔵のようだが道標としての刻字は認められなかった。寺泊の家並みを通っていくが、建物は総じて新しくかつての宿場街を偲ばせる風景はでてこない。

川をわたった橋の袂に遊女初君の歌碑の案内標識が立っている。歌碑は愛宕神社境内にあるそうだ。寺泊宿には昔から多くの遊女がいた。

  ものおもひこしぢの浦のしら波も たちかへるならひありとこそきけ  初君

永仁6年3月(1298)藤原為兼卿が鎌倉執権北条貞時の計らいで佐渡へ流された際、風待ちで寺泊の菊屋五十嵐武兵衛宅に38日間滞在した。この時初君が親しく給仕した。別れに臨んで惜別の相聞歌を詠んだが、後に為兼が赦されて京都へ帰り、勅令によって撰んだ「玉葉和歌集」にこの和歌が入集された。  長岡市


大町に入る。沿道の雰囲気からして町の中心にきたらしい。左手に大きな公園があり
聚感園(しゅうかんえん)という。平安時代から明治初年まで千余年にわたって北陸地方に勢力を振るった豪族、菊屋五十嵐氏の屋敷跡で、多くの史跡が集められている。菊屋は北陸道の宿駅寺泊の長で、その屋敷には古来多くの貴人、文人が滞在している。

・文治3年(1187)奥州落ちの途次、義経・弁慶主従が菊屋にかくまわれた。そのときの浴室の跡と弁慶手掘りの井戸がある。

・承久3年(1221)順徳上皇が佐渡へ配流の折、ここに設けられた行宮で数ヶ月を過ごした。

・永仁6年(1298)藤原為兼卿が佐渡へ流された際、風待ちで菊屋に38日間滞在した。

・興国2年(1341)宗良親王はここ菊屋に滞在して南朝復興をめざした。

初君の歌碑のオリジナルがある。愛宕神社にある歌碑より100年古い。その奥には為兼と初君の歌を並べた歌碑がある。初君の歌碑としては3つ目だ。

薄暗い木立の中を上に上がっていくと弁慶の井戸、順徳上皇関係の史跡がいくつかある。頂上にある小さな祠は上皇を祀る越浦神社で、上皇が葬られた佐渡真野御陵に正対して建てられた。

白山媛神社前の二股を右にとる。分岐点に日蓮の碑が建っている。日蓮聖人が文永8年(1271)10月、佐渡配流の折に風待ちのため石川吉広邸に7日間滞在した。その折に説法を行った「北国最初の霊地」とされている。巨大な手をかざし佐渡に向かって獅子吼する日蓮像は昭和39年に建立された。

右に折れると寺泊港にでる。港の北側、海水浴場の浜通りは魚のアメ横とよばれる賑やかな魚市場である。大きな蟹の絵看板をだした鮮魚店やみやげ店が軒を連ねている。さまざまな魚がさまざまな形で売られている。活気があって楽しいが、安いのか高いのかわからない。

釣り船番屋の前を通る。生臭い潮の匂いが浜の風情である。漁船のたむろする港の端にロケットのようなモニュメントが立っている。その前に俳句と歌を刻んだ文学碑がある。寺泊を芭蕉は通り過ぎた。

佐渡汽船乗り場に来た。ここから佐渡赤泊行きのフェリーが出ている。寺泊から佐渡赤泊まで高速船で1時間の距離である。奥州落ちの義経、弁慶が難破してたどり着いたのはこのあたりだろうか。順徳上皇が流されていったのはここだったろうか。藤原為兼が遊女初君と最後の別れを惜しんだのはこの浜辺だったのか。佐渡奉行はここで船をおりたのか。唐丸籠に入れられた無宿人はここから佐渡金山に向けておくられていったのか。様々な思いが横切る。佐渡の島は見えない。

街道に戻る。寺泊水族博物館前で国道402号を横切っていくと左手に判官地蔵がある。文治3年(1187)、奥州平泉を目指して落ち行く義経主従は直江津から船に乗り、この地に漂着した。里人は一行の身の上を憐れんで地蔵を祈り、九郎判官義経に因んで判官地蔵と呼んだ。主従は町の長五十嵐家(聚感園)でしばらく休息し、奥州へ落ちのびたと云う。

金山海水浴場を通り過ぎて国道402号に合流する。

大和田、郷本集落の旧道を通り、山田を経て落水川を渡って長岡市寺泊山田から三島郡出雲崎町久田に入る

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出雲崎 

国道402号は井鼻海水浴場の先、県道193号との丁字路前で左の旧街道にはいる。分岐点に「歴史国道」の看板を貼った木造常夜灯が設置されている。出雲崎は妻入り家屋の街並みで知られ、4km近くの旧国道に沿って景観の保全が図られてきた。平成8年3月には、建設省の歴史国道として選定され、同年6月には新潟県の「景観形成推進地区」に指定された。

家並みに入ると確かに妻入りの民家が建ち並ぶが建物自体は新しいものが多く、昔の趣は薄くなりつつある。それでも浜集落特有の下見板張りの民家が旧宿場街の面影を偲ばせてくれる。ここに限らず宿場街の民家は道路に面した妻部分に戸口を設け、奥に長い短冊状の敷地割りが一般的である。町屋はその間口の広さに対して税金が掛けられたためだといわれている。

出雲崎は江戸時代、徳川幕府の直轄地(天領)であった。佐渡金銀の荷揚げや北前船の寄港地として栄え、また北国街道の宿場町として賑わった。宿場街には廻船問屋や旅館などが建ち並び、遊廓も充実していた。当時の人口は2万人もいたとされ、人口密度は越後一だったといわれる。

図書館の先右手の空き地におけさ源流の地碑が建っている。奥州丸山の領主佐藤庄司元治の子継信、忠信兄弟は源義経の忠臣として平家討伐に活躍した。兄弟の母「音羽の前」はせめて戦場の跡を訪ねようと奥州を旅立ちようやく出雲崎にたどりついたが先の長い旅を思い断念し大字尼瀬の釈迦堂(現在の善勝寺の前身)で尼僧となり二人の菩提を弔ったという。建久元年(290年)に義経のために立派な最後を遂げた子供達の詳報を開いた音羽の前が、うれしさのあまり尼僧たちと袈裟法衣のまま歌い踊ったのが「おけさ」の始まりで、「袈裟」が、「けさ」、「おけさ」となり、これが「おけさ」の源流となったと伝えられている。

国道352号と交差する石井町信号手前右手に良寛(1758〜1831)の生家橘屋の屋敷跡がある。良寛は宝暦8年(1758)出雲崎町の名主山本以南の長男としてここに生まれまた。山本家は中世以来の名家で出雲崎町の名主を努める傍ら石井神社の神主も兼ねていた。橘屋は江戸初期に最も栄え敷地は現在地の約2倍の広さで高札場にもなっていた。良寛の時代には西隣の尼瀬が台頭してきて橘屋は衰退の道をたどりつつあった。出雲崎にあった代官所は尼瀬に移り、橘屋が一手に引き受けていた金銀の荷受け業務も尼瀬の京屋(野口家)に移っていった。さらに出雲崎のなかでも敦賀屋鳥井家が廻船問屋業で財を蓄え経済的に橘屋の地位を脅かす存在になっていた。このような情勢の中で名主の見習い中であった良寛は突如失踪する。

良寛堂の先をしばらく行くと、左側に北国街道人物往来史などのほか東屋などがある芭蕉園がある。ここが橘屋の競争相手敦賀屋の屋敷跡である。公園の中には芭蕉像と句碑(「銀河ノ序」を刻んだ碑)などが建てられている。芭蕉は元禄2年(1689年)7月4日(陽暦8月18日)この斜め向かい側にあった旅籠「大崎屋」に一泊した。大崎屋跡は民家になっていて何の説明板もない。

芭蕉は本文の中で、越後路についてはほとんど出来事を記さず、その段の最後に二句を記しているだけである。

暑湿の労に、神(しん)をなやまし病おこりて、事をしるさず

      文月や六日も常の夜には似ず

      荒海や佐渡によこたふ天河

曽良の日記ではこれらは直江津での句会にて詠まれたものとなっているが、当日の天候から佐渡の島や天河は見えなかったはずで、この句は出雲崎で作られたということになっている。その根拠の一つが「銀河ノ序」と呼ばれる芭蕉の文章である。芭蕉園の碑にその全文が刻まれている。

ゑちごの驛 出雲崎といふ處より佐渡がしまは海上十八里とかや谷嶺のけんそくまなく東西三十余里によこをれふしてまた初秋の薄霧立もあへすなみの音さすかにたかゝらすたゝ手のとゝく計になむ見わたさるけにや此しまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るをむかし今に到りて大罪朝敵の人々遠流の境にして物うきしまの名に立侍れはいと冷(すさま)しき心地せらるゝに宵の月入かゝる此うみのおもてほのくらくやまのかたち雲透にみへて波のおといとゝかなしく聞こえ侍るに

          荒海や佐渡に よこたふ 天河     芭蕉

尼瀬地区に入る。明治22年(1889)、 町村制施行に伴い三島郡尼瀬諏訪町、尼瀬伊勢町、尼瀬稲荷町、尼瀬岩船町、勝見村が合併して尼瀬町が発足。明治37年(1904)、三島郡出雲崎町と合併して尼瀬町は消滅した。天領時代の初代代官高田小次郎は、自治意識の高かったこの町を「出雲崎」と「尼瀬」の2つに分け、出雲崎に橘屋(良寛生家)を、尼瀬には京屋を名主とした。当初は出雲崎が勢力を保持していたが次第に尼瀬地区が台頭し、最初出雲崎に置かれた代官所が尼瀬に移ることになって政治経済の中心は漸次尼瀬に移っていった。尼瀬湊(現出雲崎漁港)が築造されたのも寛永8年(1631)で、尼瀬興隆時期にあたる。

路地を右折してその出雲崎漁港に出る。ここに佐渡の金銀が荷揚げされて、北国街道信濃路から中山道を経て江戸に送られた。

国道に沿って立ち並ぶ妻入り家並みの方が旧街道のそれよりも色合いや板壁のスタイルが揃っていて景観が優れているように見えた。

街道にもどり西に歩を進める。右手に長い板塀を巡らせ大きく育った庭木が茂る熊木屋の屋敷跡がある。熊木屋は敦賀屋、京屋、泊屋とならぶ出雲崎を代表する廻船問屋であった。大きな屋敷を構え有名人の来泊も多かったという。中でも幕末の勤王家頼山陽の息子、頼三樹三郎は酒癖が悪く、幕政を常に批判して□論のあげく刀を抜くという性格であったらしい。結局彼は安政の大獄に連なり安政6年(1860)江戸で処刑された。

右手、海岸に通じる狭い小路に「御用小路(金銀小路)」の説明札が立っている。慶長年間、鶴子銀山につづいて相川銀山と大量の金銀が産出された。これはすべて塊として一箱13貫(49kg)とし100箱200箱と小木港より年何回となく出雲崎港に陸揚げされて、ここより車馬に積替えられ「御用」の札を立ててこの小路より出発し信濃路を経て江戸幕府に上納された。

「妻入り町並みギャラリー」の看板が建つ門構えの邸宅は、旧新津家邸で、その後同じく出雲崎の実業家青山庄司氏が譲り受け、平成20年3月に青山家より出雲崎町に寄贈されたものである。新津恒吉氏(1870年〜1939年)は石油元売会社(昭和シェル石油)の前身の一つである新津石油の創業者で、明治3年出雲崎町大字尾瀬字岩船町に生まれた。当時、出雲崎は手掘りから機械掘りに移り変わる石油採掘の全盛期で、実家の小間物屋から精油業を始め、その後、事業拠点を新津市(現新潟市秋葉区)に移した。新潟市内には外国人技術者のための迎賓館(現新津記念館、新潟市中央区)を建設している。

左の路地をすこし入った右手高台に「出雲崎代官所跡」の石碑が建っている。出雲崎は、文明年間(約500年前)上杉家によって、佐渡征伐の拠点と海岸鎮護のため陣屋が置かれた。元和2年(1616年)に徳川幕府は出雲崎代官所を幕府直轄地(7万石)とした。以後、出雲崎は唯一佐渡からの金銭荷揚げ港として栄えるようになった。代官所は町内の石井町、羽黒町、稲荷町と変遷し文化5年(1808年)にこの地に移転した。

街道にもどる。曲尺手を経て出雲崎の長かった家並みが尽きる場所に「北国街道」の標柱が建っている。「小諸まで55里(220km)、江戸まで97里(388km)とあるのは、ここから高田城下を経て信濃路小諸、追分を通って中山道を江戸まで送られた佐渡金銀の道のりを示している。佐渡奉行も江戸の重罪人も同じルートをたどった。

左手に半ば崩れた板柵に遮られた「出雲崎代官所尼瀬獄門跡」がある。代官所の付属機関としての刑場であった。少し内側に入っていくと、天明3年(1783)建立と言われる立派な供養塔と、刑人の霊を慰める地蔵が安置されている堂がある。今でも毎年9月1日には尼瀬町内の人達によって、この地蔵堂の前で百万遍講が行なわれているという。

まもなく旧道は国道に合流し、勝見集落を通り抜けて柏崎市に入る。

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椎谷 

石地集落北部の海辺に豪壮な長屋門を構える邸宅があり、門には「明治天皇駐輦碑」が立っている。新日本石油(株)の前身(有)日本石油の創業者、内藤久寛(ひさひろ)の生家である。内藤家は、先祖が上杉氏に仕え、主家の会津移封時に当地に残住した郷士といわれている。江戸時代より廻船業を営み、全国的に「石地の内藤」といわれるほど有名であった。内藤家の12代当主が内藤久寛(1859〜1945)である。

5kmほど海岸沿いの国道352号を進み、椎谷岬トンネル手前で右に旧道入口がある。手前が小公園になっていて、多くの石塔の中に一際高い「帆立観音堂」の石碑がある。第46代孝謙天皇の時代(718〜770)に泰澄大師が建立したという観音堂があった。海から漂着した仏像を机上に立てて土地の人がお参りしたことからこの名が付いたといわれる。中越沖地震で観音堂は被災し取り壊されて、現在は石碑のみが残っている。

旧道入口は塞がれていて通れないがその脇から海岸を覗き込むと数件の民家が見える。旧道はその中を通っていたのだろう。観音堂の説明板によれば、この海岸は帆船北前船の係留地となっていて、そのための宿場として茶屋が三軒あったという。

トンネルを潜り抜けてすぐ右手から旧道が合流してくる。その旧道を遡って観音岬に向かっていくと右手に観音堂への道がでている。ちょうど椎谷岬トンネルの頂上あたりに椎谷観音堂がある。

観音堂への石段下左手に香取神社がある。元禄11年(1698)、椎谷藩4代堀式部少輔直宥(なおさだ)が領内の鎮護、武運長久の神として、旧領内下総の本宮より勧請して建立したものである。平成19年の中越沖地震で大きな被害を受け、平成22年に修復された。そのせいか、社殿は清楚で初々しい。

石段を上がっていくと茅葺白木作りの古めかしい観音堂がある。本尊の観音は弘仁2年(811)に海中から現れたと伝わる。子授け観音として知られ椎谷藩の厚い庇護を受けてきた。隣の宝物殿には椎谷藩堀家から寄進された宝物のほか、馬市に関する絵馬などが奉納されている。

国道に戻るとすぐ左手に観音堂への道が出ている。観音堂からここに出てくる道こそが旧道であったか。道を入るとすぐに二股に分かれていて石段の上に仁王門が建っている。石段下にある芭蕉句碑には「草伏(くたびれ)て宿かるころや藤の花」と刻まれている。句は元禄元年(1688)大和行脚での吟である。碑は江戸の俳人巣也が文政4年(1820)この地に滞在中、椎谷観音堂で咲く藤の花を見て建立したもの。

椎谷集落に入っていく。右手空き地に「明治天皇椎谷御小休所」の碑が立っている。 明治11年(1878)9月14日、羽田善平宅で休息された。跡地は空き地のままである。

椎谷集落の中央を国道が走っているせいもあってか、沿道の風景に旧宿場の面影はない。

左手に馬市跡の史跡がある。建物は馬市居小屋を復元したもので、馬市に集まった博労達が滞在した簡易宿泊施設であろう。最盛期の馬市に集まった馬は8000頭、博労は1万人を数えたという。椎谷の馬市は安芸の広島、奥州の白河と共に「日本の三大馬市」と言われた。歴史は古く椎谷藩初代藩主の堀直之は着任早々、良馬の育成と馬匹の改良を奨励し農民に種馬を貸し与え、毎年7月1日に駿馬を買い取っていた。その後、一般にも馬の売買が許され、椎谷の馬市と呼ばれる様になった。その後昭和初期まで存続していた。

左の路地を道なりに入っていくと突き当りの民家が点在する一帯が椎谷藩堀家の陣屋跡である。藩祖である堀直之は堀直政の4男として生まれ、大坂の陣の功により1万石の大名となった。正徳5年(1715)5代直央の時に現在地に椎谷陣屋を築いた。陣屋は3000坪の規模で藩主邸、勤番所、馬場、砲術稽古場、井戸、土塁、表門、裏門、長屋、武家屋敷などの施設が建てられた。現在は藩主邸・勤番所・馬場・砲術稽古場・井戸・土塁・門などの遺構が残っていて当時の姿を偲ぶことができる。

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宮川 

椎谷集落を通り抜けると宮川に入る。ここも国道沿いの集落で、古い建物などを見ることはできない。わずかに県道23号との丁字路交差点に建つ広田酒店あたりに古い町並みの趣を感じるのみである。

海岸におりてみると小さな漁港になっている。宮川漁港でなくて名は高浜漁港である。

明治22年(1889)宮川村大湊村が合併して宮川町となる。

明治34年(1901)椎谷町と宮川町が合併して高浜町となった。

昭和32年(1957)柏崎市に編入。椎谷地区、宮川地区、大湊地区が地名として復活し、「高浜」は消えた。

高浜海水浴場も、椎谷・宮川・大湊の3地区に分かれる。明治34年に町名となった「高浜」はどこからきたのか?

地図上の地名やバス停は宮川だが、一方で郵便局、漁港、海水浴場には高浜の名がついていて両者が混在する奇妙な所である。ともかく宮川は北国街道の宿場であった。港は北前船の寄港地でもあったらしい。宮川村の起こりは古く、15世紀の初め鎌倉覚園寺の所領が存在したとする記録がある。元禄8年(1695)の村明細帳によれば、戸数222、男688人、女602人、漁船34、伝馬船3などの記載がある

県道23号をすこし東に進んだ右手に宮川神社がある。創建は延暦元年(782)、藤原政信が伊勢神宮の分霊を勧請したのが始まりとされている。文治年間(1185〜90)には源義経が奥州平泉へ下向する途中に立ち寄り武運長久を祈願し本殿、花表、御橋などを寄進したと伝えられている。現在の本殿は文政12年(1829)に建てられた古建築物で国登録文化財、又宮川神社を中心に周囲一帯の森は神域とされて古くから植生が守られ「宮川神社社叢」として国指定天然記念物に指定されている。

国道352号にもどり宮川集落を出るとまもなく大湊の集落で、刈羽原発を迂回していく国352号と分かれて浜道をたどる旧道筋が残っているが500mほどで高い金網で通行止めとなっていた。向こう側は柏崎刈羽原発である。


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柏崎 

国道で原発の山側を廻り込んで荒浜で旧道筋に戻る。荒浜から松波をとおりぬけて柏崎に入って行く。鯖石川をわたり、安政町交差点で右におれて海岸沿いに向う国道と分かれ、旧街道は交差点を直進する。東柏崎駅前付近で県道151号に合流し、東本町交差点で右折する。東本町郵便局あたりに柏崎宿の東大木戸があった。道向かいにある閻魔堂は木戸外で、旅人や浮浪者の宿に利用されていたという。その後天保頃からは旅商人、見せ物、博徒の集う季節市となった。

左手フォンジェの先、常福寺入口の東角に一里塚があったというが、何の標もない。

西本町交差点で浜通りから降りてきた国道352号と合流する。ここで国道352号を遡って柏崎小学校に向かう。明治11年明治天皇巡幸に際して校舎が建てられ敷地内に行在所が造営された。昭和48年行在所は解体され翌年鉄筋校舎が完成した。

西本町信号に戻る。この信号交差点の次の信号交差点は南も西も「西本町」である。従ってこの町では待ち合わせ場所として「西本町交差点」を指定することはできない。

東本町2目と西本町2目にかけて、東本町局と西本町局に挟まれた大通りが柏崎宿の中心であった。昭和41年以前は東本町3丁目から西本町3丁目まで、東から順に本町8丁目〜本町1丁目となっており宿場は本町区域と一致していた。

西の「西本町交差点」の手前で石井(いわい)神社に寄ったところで、日向ぼっこをしている一人の老人にであった。古い建物が残っていないのは2007年7月に起きた中越沖地震で柏崎は震度6強を観測し甚大な被害を受けたことによるとのこと。

芭蕉が宿泊を断られた大庄屋である
天屋彌惣兵衛宅はどこかと尋ねると、そこの石井神社の脇道にあったと教えてくれた。路地を上がっていくと、すぐ左手の電柱脇に「天屋跡」の石碑があった。芭蕉は象潟で知り合った俳人低耳からもらった紹介状を届けたにもかかわらず天屋の主人はこれを断ったのだ。プライドを甚く傷つけられた芭蕉は柏崎を即座に立ち去り意地でも16km先の鉢崎までいくことに決めた。すでに新潟宿でも芭蕉は気分を害している。越後の印象はますます悪化した。村上からここまで、「芭蕉」の名が通らない土地なのである。

なお、その路地を上がりつめたところ、石井神社の裏側から東西にのびる細道が北国街道の旧道であるとのこと。西にたどって行くと車道をまたいで西永寺の脇を通って割烹料理店が多い趣ある一角に入っていった。そのあとの旧道筋が見えず引き返す。どうやら国道の北側に旧道が部分的に残っているようである。

西の「西本町」信号交差点で国道352号は左折し国道8号に合流していく。旧街道はそのまま県道369号を西に進む。昔の大町、現在の西本町2、3丁目あたりが旅籠町で旅籠が軒を連ねていた。交差点から一筋西に行った十字路の右角に「立ち地蔵」がある。よく見ると左に日光菩薩、右に月光菩薩を脇侍とする薬師三尊が一つの石に彫られている珍しい石像である。以前は十字路の真ん中に立っていたが、明治11年(1878)9月、明治天皇の北御陸巡幸の際に現在地に移された。

その十字路から南にのびる細い路地は長井小路と呼ばれていた。路地の西側に本陣長井家が屋敷を構えていた。長井家は薬種業を営み代々与次右衛門の名を襲名している。江戸時代中期の当主で俳人長井郁翁(伴幽軒)は元禄16年(1703)「俳諧柏崎」を出版している文人であった。明治元年11月、新潟府知事であった四条隆平を本陣長井傳太郎が出迎えている。

西本町3丁目の右手に「ねまり地蔵」がある。延命地蔵のことだが、古くから街道の中央に立ち半身土中に埋もれていたので「根埋地蔵」と名付けられたという。立ち地蔵と同じく、明治天皇の北陸巡幸の際に近くの庭に移され、明治33年現在地に移された。

旧道は次の丁字路を左折し寺の集まる一角を通り抜けて県道316号につきあたり、右折して鵜川を渡る。

登り坂の途中、小熊金物店の角を左手に入っていくと
陣屋跡がある。住宅地の一角に石碑が建っているだけだが、辺りを歩いてみると崖があったり、空き地があったりで、開発されつくされていない場所であることが分かる。寛保元年(1741)、高田藩主松平定賢(久松松平家)が奥州の白河藩へ移封されたとき、飛地越後領の総支配所として新たに柏崎市大久保の高台の地に約9000坪の広さの陣屋が築造された。明治4年(1871)、陣屋は柏崎県庁となり、明治6年(1873)6月新潟県に編入され、その役割を閉じた。

街道は県道316号を西に進む。三ツ石交差点の先の二股で左の県道369号にはいる。

番神2丁目に右手に短い旧道が残る。右手地蔵堂の先で県道にもどる。その交差点を海側にいくと番神堂に突き当たる。文永11年(1274)日蓮上人が佐渡から赦免されここに上陸した時に、30番神を勧請したと伝えられる。30番神とは毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことで、日本中の代表的な神社が網羅されている。この建物は明治11年(1878)に再建されたものである。

番神堂は岬に建っていて東側から海をみおろすと柏崎港の全貌がみわたせる絶景である。堂の裏手から海岸を見下ろすと日蓮上人が着岸した跡という岩場が見られるとのことだったが、見落とした。

左手に薬師堂、文化7年(1810)の二十三夜塔をみながら県道369号は番神御野立公園入り口で左にカーブし、信越本線の少し手前で県道から分かれて左の旧道に入る。

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鯨波 

鯨波郵便局前を通って信越本線鯨波駅に向う。旧街道は線路で分断されている。駅の地下道を通って駅南側に出て旧道に戻る。鯨波集落は旧道の両側に形成された長さ1kmに満たない小さな集落である。柏崎宿からわずか1里のところに宿場が作られたのは何故だろう。

普通の民家が連なる町並みに旧街道の気配はない。海岸は奇岩と砂浜が交互に連なり変化に富んでおり、「日本の渚百選」に選ばれている。

鯨波集落の西端、鯨波3丁目バス停付近の二股に庚申塔、馬頭観音と並んで「右ハ上加多道」「左ハやま道」と刻まれた宝暦12年(1762)の道標が立っている。「上加多」とは「上方」つまり京都方面を指す。

右手の鯨波海岸をみようとしたが、奇妙な地形に視界が遮られて右手の遠景しか見られなかった。手前は長細い地塊上に松が生い茂って松島の体である。形がなんとなく鯨の背中のように思えた。街道とその松島の間は深い窪地になっていてしかもその地中を信越本線が潜っているのだ。つまり気づかない間に鯨波集落内の旧街道はかなりの高台に上ってきたことになる。ちなみに地図にはその松島の海側に弁天島が描かれている。鯨波海岸の多様さを認識させる景色である。

今度はすこし道を進んで西鯨波海水浴場の方向を見渡す。こちらは松島が消えて広々とした海岸線とそれに寄り添う信越本線の線路が美しく続く。

旧道は左にカーブして国道8号に合流する。海岸に沿って1.2kmほどいくと左に入る山道が出てくる。北陸自動車道の米山SAの西方あたりに位置する。山道といってもなだらかな勾配の舗装された自動車道である。この道は北国街道でも親不知、子不知と並ぶ難所中の難所として知られていた「米山3里」の始まりである。寺泊から青海川〜笠島〜鉢崎間の米山3里を越えるまでを中越と呼ぶ。それから西は富山県境の市振までが上越である。

旧道に入ってすぐ右手の草むらの中に道標がある。文字は一面しか認められず「右ハかみがた道」と刻まれている。鯨波にあった道標にも同じ表記があった。北国街道の越中、加賀方面を指して「上方道」と称するようである。

旧道は今や廃墟となった「道の駅 風の丘米山」にたどりつく。無人の玄関ドアに閉鎖公告の貼り紙があった。平成27年3月末に閉鎖されたばかりだ。

その前に二種の標柱が立っている。一つには「北国街道道標及び松並木」、他の標識には
「北国街道米山三里旧道・松並木」とある。後者の方が新しそうだ。つまりかつてあった道標(従是左 米山道)がなくなっている。山荘の閉鎖と共にどこかへ移設されたのだろう。

旧街道の名残の松だけは健在だったが、とても松並木とはいえず、1,2本のほかはまだ植えて数年の若木である。

寂しい気分で坂を下る。国道に戻る道だが、これが旧道か定かでない。国道を横断して海に向かっていくと猩々洞(しょうじょうどう)で知られる鴎が鼻(かもめがはな)に至る。福浦八景の名勝地らしいが、パスして国道を左折、青海川に向かう。まもなく国道を左に分けて右手の県道257号に入る。

前方に赤い大きな米山大橋が、海側には信越本線の青海川駅が見えてきた。出羽三山碑がある先に「北国街道・六割坂」の標識が建っている。県道257号(米山大橋が架設されるまでの旧国道8号)はここから500mほど谷根川を遡る迂回を取り北陸自動車道の下あたりで180度に折れて青海川駅近くまで戻っていた。それほど谷は深いのである。旧北国街道の六割坂はそこを一挙に谷底まで下りようとする急坂である。標識から坂をのぞいてみたが草が深くて道跡がはっきり認められない。手摺があるようだが、廃道かもしれない。真下に海が見える勾配に恐れをなして六割坂を下ることを断念した。

かわりに1kmあまり迂回することになる。坂を下ったところ右手に谷根川の鮭鱒増殖センターがあった。谷根川は河口付近でも川幅5m、水深は50cmほどの小さな谷川であるが、ここで産卵した鮭が毎年秋に戻って来るのだ。ちなみに川としての「青海川」は糸魚川の西方にある。

青海川駅の手前まで戻ってくる。日本で海に最も近い駅として知られる。右手、谷根川に架かる小さな橋の向こう岸にも民家が見える。六割坂を下りてきた旧道はここに出たものと思われるが、下から崖を見上げる限りではその道筋を確認することはできなかった。従ってここから旧道をたどることにする。

駅に通じる通りを横切って民家の間の路地を上がっていく。コンクリートで整備された階段を上る。すぐの二股を左にとり米山大橋の真下に向かう。道なりに右折すると右からきた農道と合流し、橋の下に沿ってまっすぐの坂道を上がっていく。このあたり、コンクリート舗装の坂道ではあるが、右手に日本海が望めて旧道の趣を感じる区間ではある。

登り切ったところに牛頭大王の石碑と旧北国街道の標柱があり、この坂道が旧道であったことを示している。牛頭大王の石碑はどうみても男根にしか見えない。

旧道に面して「酒の新茶屋」の看板を出した酒屋があった。「ここは芭蕉も旅した旧北国街道青海川」とあるのも嬉しい。江戸時代、青海川のこのあたりは高台で日本海が見渡せる景勝の地で北国街道の立場であった。この店は当時の茶店を引き継ぐ古い歴史を持っている。

少し先の空き地に「明治天皇青海川行在所」という石標が立てられていた。あたりには説明板もそれらしい遺構も見当たらなかった。『柏崎年表』には「明治天皇北陸ご巡幸・・・青海川片山吉郎平宅ご中食・・・」とある。石碑の敷地は片山宅跡であろう。

旧道はやがて国道に合流し笠島に向かう。

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鉢崎(米山)

国道8号の米山IC入口信号を越えた先で旧道が右に分かれる。旧道をそのまま下ってゆくと
笠島漁港に出てしまった。ここは旧道筋ではないようだ。

国道から分かれて100mほど先で左に入っていくのが旧道であるらしい。右手に海や断崖、漁港あるいは谷間の緑地、箱庭のような畑地などを見下ろしながら段丘上に形作られた笠島の集落内を歩いていく。崖縁に設けられた木杭の柵は路肩を守るガードレールの代わりであろうか、見るからに危うい姿である。

旧道は笠松集落を抜け、旧国道に合流する。旧国道が大きく海側に迂回する区間を現国道8号は芭蕉ヶ丘トンネルで一抜けし、信越本線は長い米山第二トンネルの中を走っていく。

見晴らしの良い地点で後方を眺めると田塚鼻の地層がよく見える。その形から
「牛ケ首」と呼ばれる岬であるが、地層の上下部分は整然としていながら、その中央部が不規則に褶曲したり、途切れたりしている。層内楷曲といわれ、海底火山の活動によって局所的な海底地滑り現象が起きて形成されたものといわれている。

旧道は芭蕉ヶ丘トンネルの西出口付近で旧国道と分かれて右の細道にはいり米山第二トンネルの上を越えていく。旧国道に接した後すぐに再び右の細道にはいっていく。このあたりは上輪新田集落で間の宿だった。そこに明治天皇上輪新田小休所の碑が建つ六宜閣がある。元庄屋田中家の子孫が今も割烹旅館を営んでいる。趣ある平屋建て建物は安政2年(1855)の建築で国登録有形文化財となっている。柏崎特産の真鯛料理が有名らしい。

道路際で豆をもぎっていた老人が田中家当主のようで、親しくいろいろな話をしてくれた。ここから米山(993m)の秀麗な姿がよく見える。「米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと音がする」の名調子で広くその名が知られる。米山が上越と中越の境界をなしていた。手前に見える小高い山は旗持山(366m)で上杉家の山城があった。米山三里と呼ばれる青海川〜笠島〜鉢崎の北国街道は、断崖絶壁を通る危うさ、谷の上り下りの険しさ、うち寄せる波の激しさ、九十九折りの山道などの難所が続き、親不知・子不知と並ぶ難所中の難所として知られていた。

旧道は六宜閣から300mほど西に進んで左に曲がり、国道8号をくぐって払川の近くの亀割峠に至る。そこで180度方向転換して急な下り坂に入り、河口近くで払川を渡る。亀割峠の対岸には義経伝説にまつわる胞姫神社がある。義経一行が直江津から海路奥州へ下向の折、当地に上陸した。この時急に北の方(正室)が産気づき、嫡男亀若丸を出産した。弁慶は無事出産の礼に当地鎮守境内に亀若丸の胞衣を納めたと云わる。

払川を渡るとまた上り坂をたどって国道に出る。すぐ右手に聖ケ鼻展望広場に通じる旧道が出ているのだが、入口が完全にふさがれて通行止めとなっていた。国道で米山トンネルをくぐり、出口の少し先の丁字路を右折して展望広場から降りてくる旧道筋とY字路で合流、Y字路を左にとってヘアピンカーブを左に下ると鉢崎集落に入ってくる。

家並みの始まる右手に関所跡の碑が立っている。難所米山三里の終点である。鉢崎関所は旗持城の戦略的拠点として慶長2年(1597)上杉家により設けられた。江戸時代には鉢崎は北国街道の宿場町としても栄え、また、ここは出雲崎に荷揚げされた御金荷が輸送1日目に泊まる地であり御金蔵が置かれたこともあって街道の警備上重要な場所であった。金蔵に金箱が納蔵される夜は、70人もの役人が警備にあたったといわれる。

関所からすぐ左手に芭蕉が宿泊した俵屋六郎兵衛の家があった。柏崎の天屋で宿を断られた芭蕉が泊まった家である。俵屋は代々庄屋で、三百年以上も古くからこの集落に栄えた旧家で、宿屋を業としていた。椎谷の馬市の時期はこの町も馬の往来が激しく、俵屋は馬宿でもあったという。

右手に総板張りの民家が目を引く。まっすぐ延びる旧街道の両側に作られた鉢崎の町は静かで落ち着いた雰囲気に包まれている。記録では明治天皇北陸巡幸の折、鉢崎では中山栄次郎宅で休んだとある。一方で旧鉢崎郵便局が鉢崎小休所跡だから、中山家と旧鉢崎郵便局が結びつくのか、あいにくその両者の場所を知ることができなかった。

「鉢崎」の名は鯨波からここまで八つの岬があることから名付けられた。昭和になって米山町に変わった。町名、駅名は米山に変わったが郵便局名は鉢崎のままである。

旧街道は鉢崎宿場を出て国道8号に戻る。合流して国道を1kmほど行ったところ、上越市境の手前で左手に「大清水観音堂」の標識が建っている。北陸自動車道をくぐって左折し道なりに上がっていくと右手に山道が出ている。この道が北国街道の旧道のようだ。かまわずつづら折りの舗装道を上がって大泉寺に着く。朱鳥元年(686)泰澄禅師によって創建された古刹である。今は定住の住職はいない。しかし人気のない境内には古い重要文化財が健在である。茅葺板壁の気品漂う観音堂は幾度か落雷により焼失、再建を繰り返し、現在のお堂は永禄2年(1559)上杉家によって再建されたものである。

観音堂の西側には、茅葺き屋根の山門がひっそりと建っている。裏側から見ているので小さな長屋門に見えるが両側の部屋には仁王が鎮座している。背後が正式な参道だが、今は誰も歩かない獣道になっている。

仁王門の手前に「功徳水 50m先にあり 北国街道」と記された低い案内札があった。大泉寺から柿崎に降りる旧道が残っているとのことだったので、これぞその旧道だろうと意気込んで功徳水を訪ねた。細い草道で旧道風情十分である。泉自体は小さなものだったが、このほかにも二つの湧水があってこれらが合わさって「大清水」「大泉寺」の名の元となった。

大泉寺から北陸自動車道の柿崎トンネルの真上をこえて柿崎竹鼻で国道8号に出る古道があるそうだが、歩ける状態であるか確信がなく、来た道を戻ることにした。


(2015年10月)
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