北国街道は古代の北陸道を基礎とする。北陸道は京都山科で東海道・東山道と分かれて琵琶湖西岸(西近江路)を進み、若狭松原から越前・加賀・越中・越後と日本海に沿って北上した。その終点は弥彦駅であったが、後には北方柵の北進に伴って新潟沼垂、さらには村上岩船まで延長された。
一方、北国街道は中世から近世にかけて整備された主要街道で、西は鳥居本で中山道から分岐して越前で北陸道と合流し、加賀、越中を経て越後高田で東方の中山道追分から分岐してきた北国街道と合流していた。北国街道の終点についても高田までとする説のほか、沼垂まであるいは岩船・村上城下とする説などまちまちである。ここでは出羽街道との接続点である村上宿札の辻から鳥居本までを北国街道として扱うこととする。その多くの部分が奥の細道と重なっていることから、芭蕉を追って村上から出発して近江に向かうことにした。
新潟県の海岸線は大変長い。山形県境の鼠ヶ関から富山県境にある市振の関まで300kmあまりの道程である。越後国は、上方(京都)に近い方から、上越後(かみえちご)・中越後(なかえちご)・下越後(しもえちご)と区分されていた。
上越:西は市振堺川から東は米山(鉢崎)まで約100km。中心地は上越市(直江津・高田)中越:米山(鉢崎)から寺泊大河津分水路まで、55km。中心は長岡。ここだけ内陸部。
下越:寺泊大河津分水路から鼠ヶ関まで、延々150km。中心は新潟。
鼠ヶ関から村上までは海岸沿いを貫徹する出羽浜街道(出羽街道浜通り)と、途中勝木で内陸に入り北中で出羽街道と合流して村上に入る二つの道筋があった。前者は現国道7号と345号の合成ルートで羽越本線と並走し、後者は国道7号のルートで芭蕉が歩いてきた道である。二つの道筋は村上城下札の辻、現在の大町信号交差点で合流した。ここを起点として北国街道は西に進む。
出羽街道が通る大町・小町の通りは町屋が軒を連ねる城下の中でも一番古い地区で往時の趣を色濃く残している。
益甚酒店は一、二階の見事な格子窓と古びた杉玉が蔵元の風情を湛えている。村上は古くから酒造が盛んな土地で、寛文時代には大町だけで11軒の造り酒屋があった。益甚はそのうちの一軒であろう。建物自体は明治25年の大火直後の建築である。現在は地元14軒の蔵元が合併してできた大洋酒造の一員である。
その北隣も格子造りの町家で、「鮭」の一字を大書した暖簾が軒から地面に着くほどに垂らしてある。建物は明治12年の大火直後の再建だが、土蔵は江戸時代後期のものである。吉川家は江戸の寛永年間の創業で、米問屋に始まり味噌醤油の製造、そして造り酒屋と変遷し、現当主の代になって、「喜っ川」の屋号で村上伝統の鮭の家庭料理を商品化して商っている。店内は見物客でにぎわい、定期的に当主自ら案内役を勤める。通り土間の天井の梁からは1000匹以上の鮭が吊るされて壮観である。鮭が美味しく発酵するように年中窓は開けっ放しで、真冬は屋内も氷点下になるそうだ。あめ色に熟成した鮭の頭は迫力があった。
小町には明治時代に建てられた町屋造りの井筒屋が旅館を営んでいる。芭蕉が宿泊した旅籠久左衛門跡である。曽良と久左衛門は伊勢長島時代の知己で親しい間柄だった。
札の辻を東に入ったところに武家屋敷町があり、その先臥牛山に村上城があった。村上城は室町時代以来この地方の地頭本庄氏の根拠地であったが、慶長3年(1598)この地に入った村上頼勝が大改造を加え、その復堀直奇(ほりなおより)によって本格的に築造された。偉容
を誇っていた三層の天守は寛文7年(1667)に落雷によって焼失し再建されることはなかった。現在山頂に高石垣が残るのみである。案内板に「山頂まで20~30分」とあり、麓の一文字門跡を見るだけにとどめた。
武家屋敷はまいづる公園を中心に数軒が移設復元されている。
札の辻から大きな通りを西に向かう。道沿いには大町・小町に劣らず昔ながらの町屋が多く残り風情ある家並みが見られる。一筋北の通りは寺町で、数多くの寺が集中していて、芭蕉と曽良が参拝したという浄念寺もその中にある。
小国町交差点を右に折れて三面川畔に建つイヨボヤ会館に寄ってみた。「イヨボヤ」とは村上方言で「鮭」のこと。鮭の博物館である。三面川は秋になると鮭が遡上して10月中旬から12月上旬にかけては二隻の川舟で網を使って鮭を捕る伝統的な繰り網漁を見ることができる。
街道に戻る。肴町上交差点を越えて左手に観音寺がある。日本最後のミイラとして知られている仏海上人の即身仏が安置されているという。本堂には「参拝入口」の貼り紙があったが扉には鍵が掛けられ公開されていない様子である。上人は村上の生んだ高僧で、この寺の住職としてつとめ明治36年に76歳で入寂した。遺体は昭和36年に遺言にもとづいて発掘されたものである。
肴交差点で国道345号と合流し、瀬波上町交差点で出羽街道浜通りとして北上していく国道345号と分かれ、北国街道は直進して西に方向を変え瀬波海岸に向かって進む。
海岸通りに出る手前左手に式内社西奈彌(せなみ)神社がある。敦賀市に鎮座する気比神宮と関係が深く、往時永く気比宮、或いは気比大明神といわれていた。明治になって西奈彌神社と改称された。
街道は県道3号に合流して引き続き日本海の荒海を右手にみながら南下すると石川にかかる明神橋に差し掛かる。左手に延喜式内社石船神社が鎮座する。大化4年(648)大和朝廷が蝦夷対策の前線基地として磐舟柵を置いたとき石の小祠があったといい、大同2年(807)北陸道観察使秋篠朝臣安人が京都の貴船明神を勧請したと伝わる。
文月や六日も常の夜には似ず
七夕の前夜7月6日、直江津での作。奥の細道本文に出てくる数少ない越後での作である。
花咲て七日鶴見る麓哉
貞亨3年3月、尾花沢の鈴木清風の江戸屋敷で開かれた歌仙の発句である。
隣接する磐舟招魂社境内に立派な「岩船柵址」の石碑が建っている。大化3年(647)新潟湊の開発と共に渟足柵が設けられると翌年には磐舟柵が置かれて村上を中心とする岩船郡が蝦夷対策の前線基地となった。天平5年(733)になって、日本海側最北の出羽柵、秋田城が築かれると沼垂、岩沼柵は用済みとなって廃された模様である。
岩船柵の遺跡や場所を特定する資料は発見されていないが石船神社付近にあったとされる。
石川河口の漁港に寄る。朝焼けの中、まだ眠気が覚めやらない湊であった。
岩船は昔からの漁港である。また北前船の寄港地でもあり岩船宿には商家も多く賑わいを見せていた。江戸中期の記録では商船34隻、漁船70隻、人口は4000人近くあったらしい。今は新しい民家が建ち並ぶ集落を形成していて昔の面影を偲ぶことは難しい。
港の一角に「岩船築港事務所跡」の説明板が設置されており掲載写真から当時の港の様子がわかる。明治期には新潟~酒田間の定期船、函館・小樽間の不定期船の寄港地となった岩船港は、また漁船の避難港の必要性から大正5年(1916)県営の築港工事が始められた。
街道(県道3号)は岩船集落を過ぎると国道345号と合流して右手につづく松林の東側を南下していくが、昔の街道はその松林の海側を通っていた。岩船と塩谷の間の3kmにわたる赤松林は「お幕場森林公園」として整備されているが、昔は海が見渡せる景勝の地であった。村上藩主の巡村や幕府の巡見使の藩政視察などの折、また奥方や奥女中も一日の遊山をこの地に幕を張り巡らして楽しんだといわれている。
国道沿いの公園入口から松林に入っていく。心地よい山道をたどっていくと林の中を縦走する遊歩道に出た。さらに海に向かって松林の中をいくと東屋がある空間があってお幕場跡の碑が建っている。
塩谷も荒川河口に開けた漁港である。北国街道浜通りの宿場としても港に出入りする船乗りや商人、旅行者で賑わった。街道筋には千本格子に妻入り板壁造りの町屋が往時の面影をとどめている。宿場町景観保存のためだろうか、屋号札を掲げた家が多い。「北前船と港町商人の町屋 塩谷の町屋散策 芭蕉も歩いた浜街道」と書かれたイベント案内ポスターが貼られている。
「元祖 元菓子屋」の看板が目について店内を覗き込んでいると内から若主人が出てこられて招き入れられた。天井が高く、奥行きが長い典型的な町屋造りである。帳場の奥で菓子造りの作業が行われている。主人から塩谷宿場のこと、番所のあった稲荷山は新潟県で一番低い山であることなど教えていただいた。
町並みの突き当り、荒川河口への出口に木戸が設けられていた。今もその名残が見られる。
右手の稲荷山は標高15.3mである。小さな祠と三等三角点があり、荒川河口を見下ろす地点にあり、監視には格好の場所である。天気の良い日は佐渡島が見渡せるという。塩谷の港を出入りする商い物から役銀(税金)を徴収するための番所が、慶安4年(1651年)に設けられた。その名残で稲荷山は「番所山」とも呼ばれている。
昔は河口手前の入り江から渡舟が出て対岸の桃崎浜へ継いでいた。いまは少し上流側に迂回して国道345号で旭橋を渡る。河口方面にもどると村上市から胎内市に入る。ここで旧道道筋が二手に分かれる。そのまま海岸沿いを快走する国道345号が北国街道である。国道から分かれて桃崎浜集落に入っていくやや内陸の道筋は乙村・築地村方面へ向かう。芭蕉が歩いたのはこの道であった。
旧道の道筋をたどってみたく、一旦国道を離れて桃崎浜集落に入って突き当りの丁字路を荒川方面に遡っていった。家並みがつきると砂利道となって国道に接近、道はそのまま法面下を伝って乙大日川に突き当たっていた。渡し場跡風情の船着き場があるが、塩谷からの渡し船は乙大日川と荒川の合流河口あたりにあったのであろう。そこは国道の北側に当たりここから行くすべがない。来た道で国道にもどる。海岸に出てみる。おだやかな砂浜が続いている。
国道345号は桃崎浜信号で国道113号に移る。日本海CCの西側をたどりゴルフ場の南端で国道からはなれて荒井浜集落に入っていく。荒井浜集落の東側に芭蕉が歩いた乙集落がある。
荒井浜宿は南北1kmほどの小さな宿場であった。中央あたり右手に街道松の名残とも思える数本の松に囲まれて趣ある古い屋敷風情の建物がある。平入造りの平屋だが、繊細な出格子が印象的な佇まいである。
丁字路を左折して県道508号沿いの松林の中にある塩釜神社に寄った。村人が塩焼きを業としていたころ海から神像が漂着し、塩釜のかたわらに祠を建ててこれを祭ったのを起源とする。のち奥州の塩竈神社から分霊し氏神として崇敬した。社殿は享和3年(1803)再建のものである。
当時の村名は「外濱」であったが、神像を洗い清めたのにちなんで「洗濱」と改め、その後表記を「荒井濱」とした。
海岸は延々たる砂丘で、漁港らしき施設も見当たらない。塩焼きが生業であったこともうなずける。
胎内大橋で胎内川を渡る。北国街道浜通りは国道113号にそって笹口浜、中村浜集落内の旧道をへて村松浜宿に至る。
中村浜の国道沿いに巨大な親鸞聖人立像が建っている。もとは宗教施設だったらしいが、どうやら今は西方の湯という温泉施設のようで建物は廃業寸前の荒廃ぶりであった。一時は、独特の悪臭ただよう黒湯として人気があったという。のどかな田園風景のなかに忽然と現れる聖人像と温泉施設は不気味、異様としか形容できない代物である。
その先で左の旧道に入る。村松浜も静かな浜辺の旧宿場町である。浜辺の漁村には珍しいなまこ壁の民家を見た。
集落の中央あたりから国道を横切って浜へ出てみた。村松浜海水浴場が整備されている。遠浅の砂浜が南北にひろがって、いずれの方向にも風力発電機が立ち並んでいた。南方面には遠くに高い煙突がかすんで見える。新潟東港の工場団地まで10kmの地点にいる。
集落に戻り、金毘羅神社に寄っていく。集落の南東にある郵便局の前を通り集落開発センターの手前右手に地蔵祠、石塔・石仏、常夜灯などが並んでいる。町内に散在していたものをひとまとめにしたのであろう。国道の東側に位置する松村浜集落には3本の道が南北に通っているが、どこが宿場であったのかわからない。
開発センター前を左に曲がった先に池があり、その中島に金毘羅神社が鎮座している。廻船問屋として財をなした豪商平野家が天明8年(1788)に讃岐の金比羅宮から勧請して家神として祀ったのが始まりである。平野家は村民の窮民救済に心掛け苗字帯刀を許されている。天保期(1830~43)の飢饉の際に救済事業として金刀比羅神社の創建を思いたち、池溝を掘って島を築き境内を造成した。天保6年(1835)に本殿が建てられ、嘉永4年(1851)に拝殿が竣工した。
集落をぬけて県道54号に出る。国道の村松浜信号手前道沿いに「国指定史跡 奥山荘城館遺跡・鷹宮境内地」の説明板が建っている。中条ゴルフ場の一角に小祠を祀ったお宮があると記されているが、そこへのアクセスがわからず遺跡は見ないで終わった。奥山荘は胎内市、新発田市加治川地区の一帯に所在した中世の摂関家領荘園遺跡で12か所が国の史跡として指定されている。
ここでは本道ルートをたどって新発田を訪ねる。
藤村橋で落堀川をわたって藤塚集落の紫雲寺記念公園で県道21号に入りり、浜通りと分かれて新発田宿に向う。
道は塩津潟跡にひろがる田園地帯をひた走る。ところどころに見られる小島のような緑は象潟の風景を思い起こさせた。
県道21号を一本道に進んで加治川橋をわたり、国道7号を横切って新発田城下にはいる。新発田は中世、国人領主である新発田氏の本拠であった。近世は新発田藩溝口家5万石(後10万石)の城下町として発展し、また北国街道や米沢街道(国道290号-国道113号)、会津街道(県道14号-国道49号)の起点として交通の要衝に位置し経済的にも重要な役割を担ってきた。
陸上自衛隊駐屯地の南側に新発田城址公園がある。新発田城は慶長3年(1598)に入封した新発田藩主溝□秀勝が新発田氏館跡に築城を開始し、以降270年間溝口氏12代の居城となった。新潟県内では江戸時代の建造物が現存する唯一の城跡として人気が高い。
享保17年(1732)再建の表門は桁行16m、腰回りを海鼠壁でしあげ堂々とした櫓門で、寛文8年(1668)に再建された旧二の丸隅櫓と共に国指定重要文化財である。天守の代わりを果たしていた三階櫓は3匹の鯱を配するという独特の櫓で、平成16年に復元された新しいものである。
表門前には堀部安兵衛の像、表門をくぐった本丸跡には初代新発田藩主溝□秀勝像が建つ。
県道21号にもどって市街地に入っていく。信号毎に右折・左折して、次の信号で右折していく県道と分かれて旧街道は直進する。市役所前をとおり裁判所の東角で右折し、中央町交差点に至る。ここが高札場跡の札の辻である。「札の辻跡」の碑があるのを見逃した。北国街道はここから西に向かって進み、県道26号から佐々木信号で県道3号に移る。札の辻から国道290号を南にとって清水円前信号から県道14号に乗って会津若松に向かうのが会津街道、290号を東に向かい、越後大島で国道113号に移って米沢に至る道筋が米沢街道である。札の辻はまさに主要街道の交差点にあたり、人や物資の行きかう繁華な町であった。今も金融機関が集中する街の中心地である。
会津街道の道筋をたどって清水園を訪ねる。札の辻から南に下って大栄町信号を左折、新発田川の西縁を南に入ったところに新発田藩下屋敷庭園であった清水園がある。慶長3年(1598)初代藩主溝口秀勝が加賀大聖寺から新発田へ入封、万治元年(1658)三代藩主の時高徳寺を近郊に移し、約4600坪(約15000㎡)のこの地を御用地として下屋敷を造営した。庭園は遠州流の茶人で、幕府の茶道方であった縣宗知を招いてつくられた。近江八景を取り入れた京風の回遊式庭園で、十万石大名の庭園として越後路から東北にかけて他に比を見ない名園といわれる。清水谷御殿といわれた書院は、寄棟造杮葺平家建で、簡素な数奇屋風の建物である。
新発田川を挟んでその東側には足軽長屋が残る。天保13年(1842)の建築とされる建物は8軒に仕切られた質素な木造茅葺平屋建てである。かつて会津街道に向かって幾棟かの足軽長屋があったが、「北長屋」と呼ばれていたこの一棟だけが現存している。国の重要文化財に指定されている。
大通りにもどり東に進む変則十字路に出る。
右手は下見焼板塀を巡らせた市島酒造である。総本家である「市島家」は慶長3年(1598)、初代藩主溝口秀勝に随伴して加賀から新発田に移住してきた。市島家は薬種問屋を始め、酒造、金融、回船業などで商業資本を蓄積する一方、福島潟の干拓を中心に蒲原平野の開発に努め、最盛時には2800町歩の田畑山林を所有する全国屈指の大地主となった。宗家本宅が福島潟南東の天王にある。市島酒造は寛政年間(1790年代)に宗家より分家して創業し、現在七代目が蔵を受け継いでいる。
交差点の正面に新発田総鎮守の諏訪神社がある。大化4年(648)現在の聖籠町諏訪山に鎮座したのが始まりといわれ、その後宝暦6年(1756)に七代藩主溝口直温が現在の地に社殿を建立した。今の社殿は平成16年に再建されたものである。
この十字路から東南に出ていくのが県道14号の旧会津街道である。
清水園前の十字路までもどり、北側に延びる寺町を歩く。新発田藩は築城の際、城郭の防衛の一端を担うために城下の寺院の大半を集め寺町とした。現在、幅の広い道路は藩時代の遺構である。