金刀比羅神社由緒
平野家は船の安全・漁業の守護神である、金比羅大権現を崇拝していた。天明8年(1788)には、讃岐の金比羅宮から御分霊を勧請して家神としてまつった。平野家は常に窮民救済に心掛け、不漁・不作の年には村内はもとより、近隣村々の窮民までも、救済している。天明の飢饉の節には、関東筋村々窮民の小児養育料として3千両の大金を献金し、そのご褒美として平野家は永々苗字帯刀を許容されている。天保期(1830〜43)にも全国的に飢饉が蔓延し、村民の疲労困憊している実状をみて、金刀比羅神社の創建を思い至った。これに対し村民は平野家の日頃の恩情に感謝し、労力で報いたいと申し出たという。そこで社地(現在地)を選定し、ここに池溝を掘って島を築き地固めをし、松を植えて境内を造成したという。そこへ天保6年(1835)に村上の名匠稲垣治平を招聘して本殿が、嘉永4年(1851)には江戸から後藤三次郎を迎えて拝殿が竣工した。以下略  平成18年(2006)3月 村松浜文化財保存会建之
金刀比羅神社 村松浜 胎内市 新潟県