房総往還-2 



五井−姉崎奈良輪(袖ヶ浦)木更津
いこいの広場
日本紀行
房総往還1
房総往還3

房総往還4

五井

五井宿に入る手前、水路を渡った十字路交差点を左折して上総国分寺跡に立ち寄ることにした。市役所通りと名付けられた広い通りを真っ直ぐ南東に3kmあまり行ったところに市原市役所があり、市役所を挟んで北東に国分尼寺跡が、南西側に国分寺跡が分かれて位置している。

尼寺跡入り口には展示館が建ち、広い跡地には紅柄色が鮮やかな回廊、中門が復元されていて古の空間を感じとることができる。中門の反対側には金堂があった。その基壇が復元されていて通路と基礎は平らな瓦で敷き詰められている。上総国分尼寺は寺域の広さにおいて日本一と言われ、国史跡に指定された。

反対側の国分寺跡に移る。ここには復元されたものはなく小高い盛り土の頂上に数個の礎石が残されている。ここには壮麗な七重塔が聳え立っていた。中心にある心礎は円形の礎石の中央に突起が見られる。

跡地には現代の国分寺があり仁王門の手前右方に
将門塔と伝えられる立派な宝篋印塔がある。高さ2.5mの立派なもので応安5年(1372)という古い石塔である。境内最奥に茅葺の薬師堂が可憐な佇まいを見せている。入母屋造り、桁行三間、梁間3間の三間堂である。格子から内部をのぞいたが真っ暗で、カメラセンサーさえ焦点を探れなかった。内部の天井には極彩色の飛天が描かれているという。

寄り道から街道に戻る。道は旧五井宿の手前で
曲尺手になっている。突き当たりに地蔵堂がある丁字路を左折しすぐ右折すると五井駅前商店街となる。このあたりが五井宿であった。家並みに往時を偲ぶ縁をもとめることはできなかった。

街道は五井宿の出口にあたる曲尺手で右折してすぐ左折する。左手に
大宮神社がある。拝殿修復工事中であった。拝殿の注連縄が黄金に輝いてボリューム感を引き立てている。日本武尊による創建で、源頼朝が祈願したとも伝わる古社である。

街道は五井宿を出て県道24号に合流し、
養老川にさしかかる。江戸時代以前は橋はなく渡し船だった。渡船場は新養老橋の下流あたり、河川敷の旧堤防あたりであったといい、そこは戊辰戦争で上総義軍(徳川義軍)が陣を張り、養老川を挟んで官軍と激戦を交わした場所である。橋西詰めの堤防を下流に向かってほど行ったところにまだ新しい石碑が立っている。

この先街道(県道24号)は養老川から離れて、出津・島野地区を通り抜ける。街道の左手が島野で、右側は青柳地区である。青柳地区は西側が江戸湾に面していて、バカ貝ほか貝類がよく捕れた。江戸時代のバカ貝集積地であったこの地の名をとって
バカ貝を青柳と呼ぶようになった。

前川橋を渡り県道24号を右に分けた後の旧道筋ははっきりしていない。すぐ左の細道は内房線に分断され、その先は消失していた。県道に戻り、白塚信号を左折しすぐ右に入る道が旧道である。これも線路で分断されていた。もどって河瀬郷中踏切を渡り右折して線路沿いに進むと、さきほど分断された旧道の復活点に出る。
線路から離れるように進んで右にカーブし今津川を渡って県道24号に合流する。ここから地名は姉崎に変わる。

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姉崎 

県道24号との合流地点に寛政8年(1796)の馬頭尊がある。街道から見て左側面(本来の正面)に「寛政八年丙辰年 馬頭尊 十二月吉日」、右側面(裏面)には「作場道 上総国市原郡姉崎村内山谷 願主若者中」、街道側(右面)には「房州道 木更津 たかくら道」、そして裏面(左面)には「江戸 ちは寺道」と刻まれている。

県道24号に合流して1kmほど行った左手、鯉徳人形店の先を入ったところに二子塚古墳がる。5世紀中頃に築造された全長103m(周溝を含めると全長160m)の前方後円墳である。墳丘は3段築成で2段にわたって埴輪列がめぐらされているのが確認された。古墳の東側からは一対の低い墳丘が一望できる。上にあがると前方墳の頂上に二基の石祠があった。

街道にもどるとすぐに左に弓なりに短い旧道が残っている。

街道は姉ケ崎信号で久留里街道を横切って、県道287号に移る。

すぐ先の姉崎駅東口交差点を左折すると妙経寺がある。門の左右に大きな題目塔がある。本堂左側の墓地に入り、「お竹騒動」の市兵衛の墓を探す。一番奥の齋藤家墓地の一角に宝井基角の歌碑とともに市兵衛の墓があった。元禄8年(1695)、七ケ村合同で行った鹿狩りで、誤って「お竹」という婦人を撃ち殺すという事故が起きた。7名の名主は伊豆の大島へ島流し、土地家屋は没収となった。姉崎名主の下僕であった市兵衛は、主人の身代わりになるために江戸勘定奉行まで何度も足を運び嘆願した結果、宝永3年(1706)主人たちは許されることになった。基角の歌碑には「起きて聞けこのほととぎす市兵衛記」とある。

姉崎仲町バス停の手前の丁字路信号を左に入って行くと、大手橋の先に姉崎小学校がある。ここは鶴牧藩陣屋跡で、正門内部に細い標柱が立っている。文政10年(1827)、水野忠韶は安房北条からここに移り陣屋を置き、鶴牧藩と称した。江戸期の姉崎村は鶴巻藩1万石の城下町、房総往還の継立場として栄えた。

街道に戻って、その先を行く。

右手、敷地内に郵便局をもつ斎藤家は長いブロック塀をめぐらし、街道沿いに用水桶を置いている。かっての特定郵便局を営んでいた旧家であろう。

左手にも煉瓦造りの洋館に和風の門構えをもった屋敷が続く旧家がある。門からフェラーリ風の赤い外車が出かけて行った。

姉崎橋を渡ると左手に八坂神社がある。鳥居をくぐると樹齢約700年の見事な大銀杏が一房の乳を垂らして聳え立っている。八坂神社は景行天皇40年、日本武尊東征の時祈願して創建されたと伝える。八坂神社の裏山が椎津城跡である。椎津三郎の築城と伝えられ、その後城主は真里谷武田氏、里見氏、北条氏政と代わり、天正18年(1590)徳川軍により落城した。

右手に瑞安寺がある。入口に「西國・坂東・秩父百番札所」の道標があり、右側面には「文政元」(1818)と「かさがみ道八丁」と刻まれている。左側面には「是よりちばてら四里八丁 たかくら四り」とあるらしい。また、道路沿いの塀を背にして双体道祖神、五体の地蔵、その右に「徳川義軍之墓」がある。戊辰戦争で鶴牧藩の官軍に降伏するという藩意を無視して官軍に切り込み戦死した鶴牧藩士五名の墓碑である。

瑞安寺の向かい、街道に背を向けて「椎津のカラダミ もと万灯出発の地」と題する案内板が立っている。カラダミは、椎津地区で毎年8月15日に行われている盆行事で、生きた人が入った棺を担いで練り歩く珍しい民俗行事である。

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奈良輪(袖ヶ浦)

房総往還(国道287号)と内房線が互いにくっつくようにして走っている。かっては線路がほぼ海岸線で、丘陵の崖が海に落ちこんでいた。街道はその波打ち際に造られた。今は右手に工業団地が続き高い煙突が見えるのみでな、波の音は聞こえてこない。

市原市から袖ヶ浦市に入る。県道300号をくぐる。県道300号は内房線と国道16号との大きなインターチェンジを一跨ぎして臨界コンビナートに突入していく。

ところで県道300号をはさんで、東側に代宿、西側に浜宿という地名が残っている。最寄りの長浦は街道の宿場ではないが、ちょうど姉ケ崎宿と奈良輪(袖ヶ浦)宿の中間に当たり、間宿的な休み場でもあったのか。気になる地名であった。

左手成龍寺参道に入ってみる。境内案内図にあった「久保田城址碑」を探していると、従業員らしき男性があわてるように近寄ってきて要件を尋ねた。久保田城址碑を探しているというと「そんなものはない」という。「案内図にあったから」と、かまわずに探すうち13層塔とよばれる石塔列の背後に隠れるように馬頭観音碑に並んであった。碑には題目が刻まれていて純粋の城址碑ではない。

久保田城は天文7年(1538)以降に椎津城に入った真里谷武田信政の築城といわれる。天文21年(1552)に里見氏の支配下になり、さらに小田原北条市の家臣松田尾張守により落城したという。

ところで後で調べると、この成龍寺は幸運乃光と称する宗教団体が運営する寺院で、数年前悪徳商法で業務停止命令を受けたいわくつきの団体であるという気味悪い情報を得た。あの男性が私を警戒した訳がわかった気がした。

街道にもどって浜宿川を浜宿橋でわたる。

ビリーブゴルフ場を過ぎたあたり、内房線の馬場踏切を渡った所に小公園が整備され、そこに復元された「弘法清水」がある。江戸時代ここは海で、弘法大師が杖を立てたところ海中から真水が湧いてきたという。小ぶりの赤鳥居の奥に金比羅宮と水神宮がある。

その隣には久保田漁協の解散記念碑が、さらに出羽三山碑が数基並べてある。江戸湾が埋め立てられ一大工業団地が造成された過程には沿岸の漁場と漁業権を放棄する苦渋の決断を余儀なくされた歴史があった。沿岸の漁業協同組合はことごとく解散していったのであり、集落を移るたびにその石碑を目にすることになる。


公園に犬と散歩に来ていたおじさんにカメラをほめられた。「ところで、この道(線路よりも海寄りの並行する道)が旧街道でしょうか」とたずねると、きっぱりした口調で「そっち(県道287号)が街道で、この道は埋め立て工事のためにつくられた作業道」だといった。

やがて長浦駅の向かい側に小高い山が現れる。蔵波城址で、この城も真里谷武田信政の築城といわれる。その小高い山には密蔵院と八幡神社、さらに山頂には愛宕山がある。

ファミリーロッジ旅籠屋の先を右折し踏切を渡った突き当たりに神明神社がある。近所の男性にこのあたりの旧道筋を尋ねてみたところ、詳しく教えてもらった。内房線の海寄り二筋目の通りが旧道筋で、むかしは田んぼの中を一直線にのびる畷道だったという。

神明神社の丁字路から一筋東に民家に挟まれてある北向き丁字路を右折し、すぐの十字路を左折して西に向かうと、
三界万霊塔に突き当たる。三界万霊塔は文化元年(1804)の建立で、左側面には「左きさらす道」、裏面には「是より右江戸道」とある。

旧道は三界万霊塔のある丁字路を左折し、道なりに右にまがって旧道らしい雰囲気がのこる住宅街を通り抜けていく。

旧道は国道16号の高架下をくぐってすぐに左折、坂を上って歩道で内房線をまたぎ反対側に下りて県道87号に合流する。

県道87号と国道16号の導入路の分岐点に「いぼとり地蔵」と呼ばれる道標を兼ねた二基の石仏がある。左側の石仏向背には「右うしく かさもりミち 左江戸道」、右側には「右かさもり うしく道 左江戸道」と刻まれている。左江戸道が房総往還で、牛久、笠森は東の内陸方向に向かう道を指している。

すぐ先左手高台の「おふごの森」の中に大勒天宮の小さな祠がある。壬申の乱で敗れた大友皇子が上総へ逃れ、皇子の一人福王丸がこの地に居を構え、死去後に墓が造られたという伝説がある。石鳥居の前に塚が築かれ一本の大木が斜めに聳えている。一里塚にふさわしい姿のこの塚は長見塚と呼ばれ、江戸時代奈良輪村と蔵波村との浦境をなしていた。街道はこの森の下の波打ち際を走っていた。長見塚の下を通る船は帆を下げて通ったという。

大勒天宮の社殿の前で4人の女性が談笑しており、近づくことがはばかれた。

いよいよ袖ヶ浦の中心部にはいっていく。左手の坂道を上って行くと、奈良輪神社(福王宮)がある。祭神は福王丸で、「おふごの森」から延宝2年(1674)に当地へ移したという。境内に元禄11年(1698)の庚申塔などがあり、隣接した塚上には大きな出羽三山記念碑が建てられていた。

街道に戻り、喜光院境内にある薬師堂を見る。堂を取り囲むように並び立つ地蔵群のなかでひときわ高い丸彫りの地蔵立像は寛文8年(1668)という古いものである。

右手に漆喰壁の白がまぶしいが梯子を架けて建っている。

袖ヶ浦駅入口交差点に差し掛かる。奈良輪は姉崎と木更津の間の継立場で、交差点南西角付近が奈良輪宿の問屋場跡だったという。今はただ交通量の多い交差点である。

その先左手に旧道が短くのこり若干の静寂を維持している。

浮戸川を坂戸橋で渡り、左の旧道に入る。右手に真新しい社殿の若宮神社をみて静かな坂戸市場集落を抜ける。旧道は小櫃川に突き当たり県道270号にもどって小櫃橋を渡る。かつては渡し舟で渡った。「小櫃」も大友皇子の亡骸をおさめた棺からついた地名という伝説がある。福王伝説とともに、この地に伝わる大友皇子東下り伝説には根強いものがうかがえる。

小櫃橋を渡って左折して旧道に入ったところに水天神社がある。ちょうど対岸の旧道消失点の延長線上にあたる地点だ。この旧道も短くすぐに県道270号と合流して木更津市に入る。

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木更津 

街道は東京湾アクアライン連絡道をくぐり、岩根駅の東方、左手に高柳八幡神社をみて「ガス会社前」バス停の先で右の旧道に入る。

生垣に囲まれた家が続いて旧街道筋の面影を感じさせる快適な道が延びている。車はほとんど通らない。

しばらく行くと久留里線踏切にさしかかる。その手前、右手に蔵をもった民家の南側を細い水路に沿って道が出ている。

道は広々とした田んぼの中を一直線に西にのびて、内房線に分断されたあたりで一時湿田に中に消える部分があるが線路の西側で復活して吾妻集落の中を通りぬけて吾妻神社門前通りに出る。その出口角に道標があって、「江戸道」と記されている。その江戸道は房総往還の古道であるか、あるいは吾妻神社から房総往還本堂への近道として造られたか、定かではない。

その細道をたどりはじめた時に、おもちゃのような単車両が音もなく現れた。電線のない晴れ晴れとした空間をディーゼル車がのどかに通り過ぎて行った。

西清小学校手前に日枝神社をみて、県道90号をこえた先で畳ヶ池の傍を通っていく。挙兵して兵を募りつつ北上する源頼朝に、木更津の人々が水辺に畳を敷きつめてもてなしの宴を開いたという伝承を秘めた池である。堤の桜は早咲きのようで、満開の準備が整った様子であった。

街道は池の先で県道270号に合流し、西に方向をかえて内房線「第二館山街道」踏切を渡り木更津市街地に入っていく。

新旧入り混じる商店街を進んでいくと右手に選擇寺(せんちゃくじ)がある。左手の墓地の一角に「こうもり安」の墓がある。笠に擬宝珠を乗せた立派な墓石である。歌舞伎「与話情浮名横櫛」の切られ与三郎の相棒として知られるこうもり安は文化元年(1804)木更津五平町の大きな油屋「紀の国屋」の次男として生まれた。男振りがよく花柳界の寵児と言われ毎夜ふらふらと出歩くことからこうもり安と呼ばれた。

選擇寺の向かいの小路は寺町通りと呼ばれ、かってはいくつもの寺が建ち並んでいた。少し入った左手に愛染院がある。気のせいか愛らしい佇まいである。

木更津駅前通りに出た左手に光明寺があり、ここに切られ与三郎の墓がある。切られ与三郎のモデルとなった芳村伊三郎は江戸長唄の名家4代目で、千葉県山武郡大網白里町清名幸谷の紺屋の中村家の二男として寛政12年(1800年)に生まれた。名を中村大吉といい若い頃から長唄に親しみ、その美声と男ぶりは近隣でも有名だったようである。大吉は長じて木更津で型付職人として働き、年季が明けて清名幸谷に帰り兄の紺屋を手伝けしながら、長唄を唄うために家から1キロほどの東金と大網の中程の新堀の茶屋に足しげく通っていた。そこで見そめたのが茂原生まれのきち(お富のモデル)であった。

与三郎の墓は東金の西福寺にもある。

選擇寺前の街道にもどり次の大きな交差点が「本町四つ角」で、往還はここを左折して旧本町通りを南に向かう。角に建つ洋風看板建築は旧金田屋洋品店で、昭和7年の建設である。正面入り口の欄間に菱形の色ガラスをはめ込み、その上のア-チの頭部の櫛形の飾り等、当時にしてはハイカラなデザインであった。

のほぼ中央、右手にある旧千葉銀行木更津支店前に「上総銀行発祥の地」のモニュメントがあり、建物壁には「ぶらり木更津まち歩き」のパネルが掛けられその中に昔の写真が載せられていて興味深い。上総銀行は千葉銀行の前身の一つで、その木更津支店も最近になって移転し、現建物にはATMがあるのみとなって時の移りを感じさせる。木更津支店が蔵造り風の建物で往時の宿場景観を気遣った建築であるのに対して、昭和初期の絵図や写真では近隣の蔵造りに対して上総銀行本店はモダンな洋風建物であったのが面白い。

昭和4年の絵図の中に近江屋を見つけた。金田屋から3軒南に蔵店を構えている。それに対応する写真を撮って見比べてみた。近江屋のあった場所は今は空き地のようである。

街道は本町通りをぬけ、その先曲尺手を経て證誠寺橋で矢那川を渡る。曲尺手最初の右折手前に八釼八幡神社がある。創建は日本武尊命が東征の折戦勝祈願した頃に遡る。

社殿右手には源頼朝お手植えの蘇鉄がある。ソテツの由来は省くが頼朝もこの神社に戦勝祈願した。

神社の東側を通る細い路地はみまち通りといい、出店のような小さな店が軒を連ねて路上にも商品を並べている。下町の情緒を残す一角をなしている。野菜、雑貨など、値段は一見して安かった。

神社鳥居の前で街道は右折し、すぐ左折する。右手角地に厳島神社があり、弁財天の扁額を掲げる石鳥居には文政7年の銘が刻まれている。

橋の手前右手に證誠寺がある。しっとりとした境内を入っていくと左手に野口雨情が作詞し、中山晋平が作曲した「狸ばやし童謡碑」があり、一番奥まったところに「狸塚」がある。「証城寺の狸囃子」のモデルになった寺である。周囲は開発されて狸の棲む場所はなさそうだが、昔は鬱蒼とした林の中にあったのだろう。

街道は矢那川に架かる證誠寺橋を渡って木更津宿を出る。


市内散策

ここで、街道沿いから離れた木更津の見どころを「ぶらり木更津まち歩き」を頼りに散策する。おおまかに北から南下する予定だが、細かな道順は省く。

県道87号と、その一筋東に吾妻・新宿地区を南北にのびる道が合流する地点に吾妻神社がある。祭神は弟橘姫で、案内板には「日本武尊御東征のみぎり相模から上総に渡ろうとしたとき、海上にわかに荒れ、海に身を投じた姫のお袖が数日後この近くの海岸に漂着したので、これを納めて吾妻神社を建てたとあります。 君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影を見るぞ悲しき」とある。「木更津」は「君去らず」からきたといわれる。

吾妻神社の正面鳥居から南に歩き出す。最初の筋違い十字路の東南角に指差し道標がある。安政5年(1858)のもので東を指して「江戸道」、北向きに「吾妻神社」を指している。この江戸道をたどっていった。内房線で断絶されているがその向こうに田んぼのあぜ道のような道がのびていた。その道はまっすぐ東に向かって田んぼの中をつらぬき、久留里線にちかづきながら房総往還旧道に繋がっている。

「江戸道」の下に「東都小網三艾問屋 釜屋治左エ門建立」と刻まれていた。「東都小網三」とは東京小網3丁目、艾は「もぐさ」のこと。治左エ門は近江商人である。行徳航路の旅で、釜屋治左エ門が営む「株式会社釜屋もぐさ」の本店を見てきたのであった。「釜屋」の部分を引用しよう。

江戸時代小網町辺りには鍋釜問屋が集まっていて、そのなかで一大勢力をはっていたのが近江辻村の鋳物業者である。辻村とは現在の滋賀県栗東市辻。野洲川をわたってまもない国道8号沿いの町で、国道1号との合流点からも遠くない。辻村鋳物の歴史は古く、元明天皇の時に日本最初の銅銭和銅開珎が鋳造されたところといわれている。以来、辻村からはすぐれた鋳物師が輩出し、江戸時代には江戸、大坂、京都など各地に出店を開いて富と名声を享受した。小網町2、3丁目は辻村出身の釜屋が店をならべていた場所である。

その一つが交差点東北角の山万ビルに入っていた。ただし社名は
「株式会社釜屋もぐさ」といい、鋳物卸からの転業組である。辻村の富士治左衛門は万治2年(1659)小網町に殻物・鍋釜等の卸問屋を開業したが、後には郷里特産の伊吹もぐさを商うようになり、切艾を考案して大ヒットした。従来、もぐさは点灸時に必要な分だけをひねって使っていたが、釜屋ではもぐさを細かくひねって紙に巻き、必要な分だけ切り取ることで手間を省くようにした。刻みタバコからシガレットへの進化である。週末であいにくシャッターが下りていたが、普段は外から行商(振売り)に用いていた振売箱をみることができるらしい。正面に朱字で「小網三釜治」と書かれているという。「小網三」は小網町3丁目を表し、「釜治」は屋号の釜屋と当主治左衛門の名から一字ずつ採ったものである。

通りを南に歩いていくと左手に平等院がある。境内入り口には庚申塔や大きな三界万霊塔がある。オハラ庄助の墓があると聞き墓地を捜し歩いたが小原家の墓が数カ所に点在しているのをみただけで、庄助の墓は特定できなかった。

道は県道90号に出て、右折し港の方向に進む。右手揚給水施設のある東岸に金毘羅大神の常夜灯が建っている。文化9年(1812)の造立で、木更津港を照らす灯台の役割を果たしていた。

県道90号にもどりそのまま横切って反対側に続く路地をはいって突当りを左折すると右手に右木更津漁協のり共販施設の建物がある。前庭に小さな鳥居と祠があってその脇に「木更津北がしの跡」と刻まれた石碑が建っている。船運の要衝であった木更津には三つの河岸が造られた。この北河岸と、現木更津港の中央にあたる蒸気河岸、そして南河岸である。そのなかで木更津船が活躍していたころに使われていた船着き場が北河岸であった。

のり共販施設のある丁字路を右折し二本目の通りを左斜めに進んでいくと、県道87号の南側に続く大通りに出る。その交差点西側角に片町区公会堂があり、そこに木更津ばやし発祥の地の石碑があった。江戸に木更津河岸が与えられ木更津船が活躍したころ、江戸を出入りする若い船頭衆が江戸囃子を習い覚え葛西地方の若踊りを取り入れたものが木更津の地で盛んになったと伝えられている。

交差点をこえて一筋東にいった角に権九魚店があり、そこを右折したところに蔵店造りの海苔ヤマニ綱島商店がある。慶応2年(1866)創業の乾物商である。この通りには多くの魚屋が軒を連ねていたことから「さかんだな(魚店)」通りと呼ばれていた。今は権九魚店を含めて二三の店が残るのみだがヤマニの蔵造りを筆頭に、往時の面影をのこす通りとなっている。

権九魚店から石川横町を東に進むと木更津郵便局がある大きな交差点にでる。交差点の北方向東側に端正な佇まいをみせる洋風建物は山田眼科医院で、昭和3年(1928)の建築である。

交差点から東にすこし行った北側に東岸寺がある。境内に小林一茶の句碑があり「藤棚や うしろ明りの 草の花」と刻まれている。文化6年(1809年)、東岸寺で行われた藤勧進の句会で一茶がよんだ句である。

再び権九魚店までもどりさんだかん通りを南に通り抜けていくと松川横町・旧五平町通り・南片町大通りの十字路に出る。角に建つ洋風たてものは安室薬局で昭和4年の建築である。二階のアーチ形装飾を施した窓がしゃれたモダンさを見せている。壁に掛けられた「ぶらり木更津まち歩き」パネルが「片町」の由来を記していた。通常、町は本通りをはさんで両側に町が形成されるのだが、ここは通りの西側が海となっているため「片町」と名付けられた。

安室薬局から松川横町を西にすすみ、信号を左折して南片町浜通りにすこし入ったところ右手に銭湯「人参湯」が今も経営を続けている。千鳥破風をあしらった建物は昭和27年のもので、隣の廃館となった映画館とともに昭和の名残を感じさせる。蒸気河岸はこの辺りにあり、娯楽施設、食品市場もあって歓楽街を形成していたようである。

そのまま南片町浜通りを南にとおりぬけ広い富士見通りにでる。信号を左折して次の十字路を右折する。細い路地に「木更津会館」と大きく書かれた看板を出しているのは木更津芸者の置屋兼稽古場である。「木更津芸寮組合」の看板も掛けられている。夜には三味線の音が漏れてくるのであろう。港町に花街はつきもの、なかでも木更津芸者は木更津甚句とともに江戸界隈でも人気を博した。

そのまま南に通り抜け鳥居崎通りを西に向かって進む。右手に旧家を思わせる和風の屋敷がある。左手に広大な敷地をかまえる料理旅館季眺はその日本庭園と、芸者遊びができる料亭としても知られなうている。外からは庭も風情も感じることはできない。

鳥居崎海浜公園にたどり着く。入り口に出迎えるのは再生された見染めの松である。お富と与三郎がここで見染めあって逢瀬を重ねた。

付近に木更津港の基礎石が置かれている。昭和7年、当時の蒸気河岸で、木更津築港の起工式が行われた。

矢那川の河口を背にして二人の芸者が舞うブロンズ像があった。両手をひろげた女性が新橋花柳界に木更津甚句を大流行させた木更津生まれの名伎若福(本名 小野きく)である。木更津甚句は、もともと江戸時代末期に木更津の漁師たちが口ずさんでいた甚句を木更津出身の木更津亭柳勢が江戸の高座で歌ったのが初めといわれている。 一時衰退した後若福の活躍で再び東京新橋花柳界に復活した。艶っぽい文句の中に船乗りの哀歓を秘めている。

散策を終え帰途につく。公園を富士見大橋の手前でUターンし県道245号との交差点に出る。港を臨む十字路角地に金毘羅宮、常夜灯とともに
木更津船顕彰碑が建てられている。

慶長19年(1614)大坂冬の陣に際して、木更津から24人の船頭が幕府御用船の操船を命じられた。結果、半数の12人が戦死した。幕府は24人の船頭たちの功績を称え、江戸と木更津を結ぶ輸送権利と独占的に利用できる河岸をあたえ、「木更津河岸」が設置された。日本橋から東に最初の橋が江戸橋で、その間の南岸が木更津河岸である。日本橋の上から江戸橋の背後に北岸、小網町の白壁蔵並みをのぞむ広重の絵がある。

港湾を回り込むように散歩する。昔の蒸気河岸付近に戻ってきた。大きな船が二隻ロープでつながれ、その間に湾内に造られた中之島に架かる大橋がみえた。空気が澄んでいるときは大橋の橋脚の間に富士山がみえるという撮影スポットである。

木更津散策を終わり、再び證誠寺橋から街道を南に向かって歩き出す。

地方裁判所前を通り貝淵2丁目で左からくる道と合流、大きな交差点を渡った左手に延命寺がある。山門を入ると両側に石仏石塔が並んでいる。左側最初に立つのは元禄15年(1702)の庚申塔、右側に移って最後にあるのは文政10年(1827)の馬頭観音である。古いものが多く銘文の判読が困難である。

貝淵南バス停がある丁字路を右折して小公園前のY字路を左にはいった所、右手に「木更津県史蹟」碑がある。明治の廃藩置県により明治4年から6年の間、安房上総地域を統合して木更津県が設置されここに県庁がおかれた。元は貝淵藩主林忠英が文政10年(1827)に築いた貝淵陣屋の跡地で、後慶応4年(1868)になって瀧脇信敏が桜井藩をつくりここを藩邸とした。

街道は国道16号を横切り桜井新町に入って右手から来る広い車道に合流する。旧道はそのまま直進して烏田川を渡っていたが、広い車道の先は消失して川の対岸に旧道が残されている。

烏田川に架かる諏訪大橋を渡ってすぐ右折、斜めにのこる短い旧道をたどって道なりにバス通りを南下する。

桜井バス停の先の信号交差点が新旧房総往還の分岐点である。右手角に板壁居宅、白壁土蔵を配した鶴岡歯科の旧家然とした本宅が構え、左手には「木更津名物 お富與三郎最中」の看板を掲げた平政御菓子司が老舗の匂いを漂わせている。

この交差点を直進する道筋は富津海岸に通じる生活道路であったが江戸後期文政4年(1821)に江戸湾防備政策により富津陣屋が建造されてからは、道路が拡充整備されて主要街道となった。一方、交差点を左折する旧道筋は古来からの房総往還で、三舟山を越えて佐貫に通じていた。現君津市内の宿場として取り上げられている「貞元」はこの街道筋にある。ここでは近代の富津ルートをとり、機会を得て古道ルートを訪ねたい。

街道は小浜で県道90号と合流する。館山自動車道をくぐり畑沢1丁目の丁字路を左に入った左手に浅間神社がある。鳥居の脇に大きな御影石の「頼朝八百年大祭記念碑」がある。「治承4年(1180)9月源頼朝が再興を祈願し白旗竿を掲げ兵を鎌倉に進めたといわれ旗竿村白旗神社の伝承がある」という、随分あいまいな所以ではある。260余段の石段を上がりきると平屋切妻の社殿があった。途中には城跡風の石垣が残り苔むした燈籠、石仏石塔がならび、歴史の古さを感じさせる参道である。

畑沢川を渡って君津市に入る。

(2013年2月)
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