八戸街道は内陸の奥州街道福岡(二戸)宿と太平洋岸八戸城下を結ぶおよそ9里(36km)の路である。八戸藩主の参勤交代に使用された街道で、八戸では「上り街道」と呼ばれていた。八戸藩が成立する寛文4年(1664)以前は、根城南部氏の居城があった八戸市根城を起終点としていたとされ、その後八戸の中心地が根城から八戸に移るに伴って上り街道の道筋も変更された。八戸−二戸間は一日の行程であったため、途中に宿場はなく、観音林と市野沢には「御仮屋」という休憩所が設けられた。道中に一里塚や松並木が整備されたことは他の主要街道とかわりない。特に一里塚の現存率は特筆に価する。

今回の旅は「上り街道」でなく「八戸街道」に沿って二戸から八戸へ向かう。時期は2010年初秋であった。



福岡

奥州街道二戸宿の北はずれ、斗米橋に通じる三叉路のすこし手前右手に八戸街道追分石があり、八戸道・三戸道と併刻されている。三戸道とは奥州街道のことである。

住宅地を入っていき、すぐの二股を左にとる。道なりに人家と畑地の混じるなだらかな坂道をあがっていくと、左手にショッピング街や工場が現れる。右側は山林だ。街道よりすこし離れて病院がみえるあたり、右手の畑地にこんもりとした
堀野一里塚が姿よく残っている。左側の塚は現在の道がついたとき既に形が崩れていたため取り壊された。

やがて街道は東に向きをかえ坂は勾配をます。左手に「宝の案内板」と記された矢印標識が立ち背後に庚・廿三夜塔がある。そのわきに円筒形バス停風建物があって、中を覗き込むと「薬草の里と英雄の伝説ゾーン」と銘うった仁左平(にさたい)地区マップが掛かっている。「ニサタイ(爾薩体)」は由緒を古代にまでさかのぼる古い地名だといわれる。マップには一里塚、石碑群など、これから行く予定の見所が記されていたが、大まかな方形道路の表示ではおよそ道案内の用をなしていない。

坂を上り詰めた丁字路左手に、赤いキャップに前垂れをした
地蔵と石塔群が並んでいる。丁字路を右にはいったところに琴比羅神社がある。
 
旧街道は丁字路先の角を直進して林の中にはいる。舗装道を右に分け草道を進むと踏み跡もない急坂となり、下っていくと谷底に沈んだような集落に出る。舗装された道は仁左平久保地区と馬場平地区の境界線にそって谷から這い上がり集落のはずれで五叉路に差し掛かる。

舗装道は左右にわかれ、旧街道はそのまま畑地の農道にはいっていく。道が下りはじめその先に車道が覗くあたり、左手畑と林の境に小塚が築かれており、塚上に
久保の石碑群として知られる8つの古碑が並んでいる。最初の大きな「山神」と刻まれた石碑は明治35年の新しいものであるが、他はいずれも江戸時代の多様な石塔である。久保地区の旧街道沿いにあったものが一ヶ所に集められたものであろう。

ぬかるみを踏み飛んで林をぬけると車道に出て、右折し川をわたると丁字路に突き当たる。直進する山道の入口に
「八戸街道の一里塚」の案内標識が立っている。旧街道はこれから一里塚を経て八戸街道最大の難所猿越峠(標高370m)を越えて行く。轍はあるもののかなり山深い道で、熊の姿が脳裏をかすめた。

視界が開け、砂利道が左右に分かれてのび、中央は葛の葉が生茂る荒地が占拠している。左に行くのは猿越峠の近道で、右は本新田集落を経由して猿越峠を越える道である。いずれかを選ぶ前に、中央のどこかに両塚が残っているという
本新田一里塚を探した。葛の蔓が木立や土盛を覆って熱帯ジャングルの様相を呈している。一帯には丸みを帯びた草木の盛り上がりがいくつも認められ、どれもが一里塚に見えた。手掛かりとなる案内板がみあたらない。奥に分け入るには相当の覚悟が求められるように思えて、残念ながら一里塚探しを諦めた。

さて、旧峠越えであるが、道なき藪漕ぎを強いられる近道はやめて本新田経由の道を選んだ。これとてヘアピンカーブがつづく細い砂利道でうっそうとした林を抜けなければならない。

本新田は数軒の小さな集落で山道からおりてくると、草を頂いた茅葺家屋が目に飛び込んできた。古びた屋根にちょこっと乗った煙り出しが目だって新しくみえる。集落を通り抜けて再び街道は山道に入っていく。しばらく進んでみたがこの先足元は草深くなって藪を漕いでいく予感を起こさせ、この段階で旧道峠道を断念することにした。

車道で大きく迂回し、国道395号につながっている広い林道に出る。北に向かっていくと右手に「
ふるさと林道折爪岳北線」の標識が見えてくる。そのすぐ先で峠の駕籠置場に通じる道が出ているということだが、その跡らしき痕跡さえ見出すことはできなかった。消滅しているのではなかろうか。 林道がするどく右に曲がるところ左手に山道の出口があった。一里塚から左右に分かれた峠道は結局一つに合流してこの林道にでてくる。すこし遡行してみると、尾根伝いの道らしく左右の景色は比較的開けていて明るかった。藪漕ぎを断行すべきであったか、熊リスクを避けて正解であったか、いつもながら悩ましい。

なお、集落入口の地蔵から広い林道まで、仁左平地区の道路網は複雑怪奇で公道、私道、林道、農道、あぜ道、廃道、獣道が網の目のように結ばれている。この中で地図にみるのは公道だけである。しかしその他の道を知らなければ地図上の道がつながらない仕組みになっている。直線で測れば3kmほどの道のりだが一里塚から藪を漕いで峠近道を行かなければ、数倍の長さの迂回を強いられ優に半日の時間を費することになろう。史跡の保存がよくてもアクセスできなければ意味がない。もう少し道順の案内標識を充実して欲しい。・・・それでもだめか・・・・。雪さえなければ熊が眠ている真冬の時期を選ぶのだが。

道を急ぐ。
林道から国道395号にでて右折。坂をあがると峠に「軽米(かるまい)町」と「猿越峠」の道路標識が立つ。

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観音林

下り坂にはいったところで丁字路に差し掛かる。左に折れていく車道が観音林集落に通じる旧街道である。丁字路の反対側には旧猿越峠から降りてきた旧道が出口を見せている。例により遡行してみる。しばらくは快い林道だがいずれ旧道は林道をはずれて山中に消えているはずだ。

観音林集落に入る手前で左手に二戸から三番目の
観音林一里塚が二基現存している。両塚の間は旧道跡である。道路沿いの東塚は形が良好で塚上には見事な松が育っている。その左手奥にある西塚も十分な高さを維持していて立派だが周囲の樹木に吸収されてその存在がめだたない。

集落に入る。右手の森に名もない神社が静かにたたずんでいる。境内に文化7年の庚申・廿三夜塔があった。

観音林は宿場に準じた存在で、参勤交代の八戸藩主が小休止する
御仮屋が置かれた。集落中程右手に数本の木が茂る小塚に鳥居が立つあたりが御仮屋跡である。休息の際に観音堂に参詣する慣わしとなっていた。観音堂は街道からすこし北西にはいったところ、ゲートボール公園隣にある。

集落のはずれ左手に
「古屋敷の千本桂」の案内標識がある。細い路地を下っていくと右手下に見事な桂の巨木がそびえている。高さ25m、樹齢580年という古木だがそのみどころは根元にあって18mを越す根元周りは密集する幹の集合からなっている。巨大な株立ちだがどう見ても一本の木とは思えない。

旧街道は高清水に入り、郵便局の先で県道と分かれ左の旧道に入る。廃校となった観音林小学校の裏を通り、小さな十字路を過ぎると色砂を敷いた雰囲気のある土道となる。右手に小池をみて県道にもどる。田畑と林が繰り返すのどかな道がつづく。県境のすこし手前に
晴山の一里塚が残り柱標もあるとのことだが、見逃したようだ。

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市野沢

街道は岩手県軽米町から青森県八戸市に入る。林間の道がつづきやがて林が途切れた後、両側に木立がみえゆるやかな峠に差し掛かったところに県史跡
大森一里塚が残っている。街道の両側に原型をとどめて頂上に南郷村教育委員会建立の白い標柱が立っている。左側は木陰に隠れて手前からは見えにくいが右側は孤立してわかり易い。

街道は高原風の台地を快調に進み、やがて市野沢で国道340号と合流する。三叉路の草叢に自然石の
追分石とその後ろに説明板ならぬ説明石が立っている。石に刻まれた説明によると追分石の表には「金比羅山大権」、その下に右、「戌嘉永元年 右観音林」、左に「申八月十日 左軽米」と刻まれているとある。裏面は句碑となっていて、俳人山居の句「大粒に置き露寒し石の肌」が刻まれている。

市野沢は旧南郷村(現八戸市南郷区)の中心地で、かつては観音林同様に
御仮屋が置かれ、八戸藩主の休憩に利用された。制札場も設置され、八戸街道途中の中心地として宿場に準ずるにぎわいを見せていた。バス停脇、秋葉神社と郵便局の間にある駐車場が御仮屋の跡地である。

県道42号と交差してまもなく、街道の両側によく保存された
市野沢一里塚が現存している。東屋、説明板のほか駐車場も用意された整備ぶりである。「上り街道」の石碑もあった。説明板に「一里塚の起源は、平泉の藤原秀衡が白河から外ケ浜(青森)までの間に、金箔をはった卒都婆を立てて里程標としたことに求められる」とあるのが興味深かった。「白河から外ケ浜(青森)までの間」とはいうまでもなく、狭義の奥州街道である。

街道は三股にさしかかり中央の国道を進む。右にでている広い車道は坂をくだると舗装が途絶え、畑道から林の中に消えていった。その旧道跡も八戸自動車道で失われた。

八戸自動車道をまたいでまもなく、右の旧国道にはいって泥障作(あおづくり)集落を通り抜ける。頃巻川を渡った左手に
蛇口山水発蒙碑がある。蛇口山水とは八戸藩士の人名で、それだけで水道を連想させる。八戸藩士蛇口伴蔵は幕末時代、隧道を掘り抜いて水利事業に一生をかけた男である。詳しくは説明板に譲る。集落入口の左手道端に十七夜・廿三夜塔、出羽三山、牛頭天王、金比羅山大権現の古碑が並んでいる。

国道に合流してまもなく右手に
十文字一里塚がある。左の西塚は残っていない。県指定史跡の東塚も土盛の形跡はあるものの上部は平らで、白い標柱が立っていなければそれとはわからない存在である。

街道は終点八戸に向かっているが一向に市街地の気配は感じられずゆるやかな峠越えを繰り返す山間の道を進んでいく。

番屋バス亭脇に三基の石塔があった。向かって左から昭和60年という現代の庚申塔、年代不明の出羽三山、嘉永4年の金比羅大権現碑である。

小峠に一里塚が二基現存しているということだが見つからず。

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八戸

街道の景色はようやく市街地らしくなってきた。「長者中前」歩道橋の先で旧道は右側の石段を降りていく。
一ノ坂と呼ばれる坂道を下り八戸高校の南端をかすめて国道に戻る。

街道はいよいよ八戸城下に入っていく。「平中通」バス停あたりに城下を守る
枡形があった。枡形稲荷神社の境内南端に土塁の一部が残っている。
 
旧八戸街道は国道340号が右に折れる三叉路で終わり、右手に
惣門跡の説明版が立っている。この場所は八戸城下の西端にあたり、上り街道や三戸、五戸への街道の出入り口にあたる要所であった。ここに土居を築き、惣門を建て、番所を設け、惣門御番人を置き、足軽を配して警備にあたらせた。

八戸城下の中心地であった八戸城跡に向かう。国道に沿って総門跡を右にまがり、曲尺手が残る旧道筋の色濃い
荒町を通り抜けると、近代的な商店街に出、23日町、13日町を経て3日町交差点で国道と分かれて左折する。

ロータリーの中に
「明治天皇八戸行在所旧蹟」の碑が立つ。明治14年の明治天皇御幸の際、この場所に宿泊の仮宮が建てられた。その建物は明治記念館として櫛引八幡宮境内に移築されている。

ロータリーの先右手に
八戸城角御殿表門が残っている。形式は棟門といわれ、通常は2本の柱の上部を冠木でつなぎ切妻屋根をのせるものであるが、この門の場合は、4本の柱を一列に並べて冠木でつなぐ大規模なもので、平衡を保つため裏側に2本の柱を取付けるという特異な構造となっている。間口が大きすぎて結果的に四足門と棟門の折衷形式となったようである。 

市役所の隣、公会堂前に大勢の中学生が集合していた。「八戸市立第一中学校校内合唱コンクール」である。全校行事としての合唱コンクールというのは珍しい。10組以上のグループに分かれて隣の三八(みやぎ)城公園内に縄張りを確保し、本番直前の練習にとりかかった。

三八城公園が
八戸城本丸跡である。公園内には初代藩主南部直房公銅像や七代藩主の句碑「五梅塔」ほか、公園南側にある三八城神社脇には義経北行伝説にまつわる弁慶石などがあった。

八戸城が築かれる江戸時代初期までこの地は根城南部氏によって支配され、その拠点は八戸城から南西に2kmほどいった馬渕川南岸段丘上にあった。総門跡三叉路から国道104号を西にすすむと
根城史跡公園に至る。根城は建武元年(1334)に南部師行によって築かれ、寛永4(1627)年遠野へ移封となるまで300年近く八戸地方の中心として栄えた。発掘調査で多数の遺構が発見され、その後整備事業が進められて昭和16年国史跡に指定された。

公園入口に立つ門は、
八戸城の東門であるが、もともとは根城にあった門を八戸城に移したものといわれている。

東門をくぐり手入れされた芝生が張りつめられた城跡公園を順路に従って歩いていく。
空堀、薬草園、通路跡とつづき、中館跡には萱葺きの大きな東屋四阿(あずまや)が建っている。三つ目の堀の向こうに柵を廻らせた
本丸跡には主殿のほか板蔵、納屋、馬屋などが復原されていて、全体として品のある中世の砦を思わせるコンプレックスを形成している。

八戸散策を
櫛引八幡宮で締めくくる。国道104号をそのまま4kmほど西南に進んでいくと、深い森の中に南部一ノ宮、櫛引八幡宮が鎮座している。本殿は三間社流造銅板葺で彫刻や極彩色の文様等には華やかな桃山時代の遺風が認められる。正門、旧拝殿現拝殿と末社の神明宮、春日社が国指定重要文化財に指定され、一ノ宮の風格を現している。

境内にある明治時代の洋風建築は旧八戸小学校講堂で、
明治天皇行在所となった建物である。八戸市図書館として活用された後、昭和37年(1962)に保存のため境内に移築復原された。 

現在の八戸は有数の漁港に加え青森県随一の工業都市として発展している。海辺を散策する時間がとれなかったことが心残りであった。B級グルメ入賞作品「センベイ汁」をホテルのサービス朝食で賞味した。B級の味だった。

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(2010年10月)

八戸街道(上り街道)



福岡−観音林市野沢八戸
いこいの広場
日本紀行