寛永6年(1629)、南部利直は、荒地を開いて城を築き、周りには二重堀を巡らし、郡奉行をおいてこの地を治めていた。寛文4年(1664)、利直の後を継いだ重直は、子がないまま没した。この年将家綱は、重直の遺領10万石のうち8万石を次弟の七戸隼人重信に継がせ、末弟の中里数馬直房には2万石を与え新たに分家させた。寛文6年、直房は八戸城に入り、それから250年余りにわたり歴代の藩主・賢臣達が文武に励み、農業・養蚕・織布・畜産の振興に努め、領内は豊かになっていった。二代藩主直政は、聡明で早くから学才の誉れが高く、将軍綱吉は側仕えにとりたてた。これに先立って朝鮮国王から将軍に屏風が送られ、これを開ける方法が屏風の外に書かれた詩に隠されていたため、著名な学者にその謎解きを命じたが果たせなかった。それを直政がたちどころに読み解き、屏風を開けることができた。綱吉はこれに感嘆し、福島5万石を与えようとしたが直政はこれを固辞し、この慎み深い実直な性格を愛で皇国三鏡の一つといわれる米曇羅鏡を与えた。直政は後に御側用人となり大いに活躍した。以下略
八戸藩初代 南部直房銅像 内丸1丁目 八戸市 青森県