市野沢一里塚 市野沢 南郷区 八戸市 青森県 
一里塚の起源は、平泉の藤原秀衡が白河から外ケ浜(青森)までの間に、金箔をはった卒都婆を立てて里程標としたことに求められるが、その後、織田氏、豊臣氏の施策を経て、南部藩に一里塚が築かれるに至ったのは、徳川氏の慶長9年(1604)のこととされている。 しかし、一里塚が上り街道(八戸街道)に築造されたのは、慶長9年(1604)から慶長15年(1610)の間と思われる。 一里塚は、江戸日本橋を起点とし36町を1里として、1里ごとに街道の両側に造られ里程標としたものであり、旅人に里程を教え、休息の便に供したものである。この上り街道(八戸街道)は、八戸を起点に市野沢、観音林を経て盛岡藩領堀野にて奥州街道へ至る道である。これは江戸という中央に通ずる上りの道であり、藩主が参勤交代に利用するとともに、物や人や情報がこの道を往き来し、八戸と郊外をつなぐ交流の道となっていた。現在、この他に南郷村には、大森一里塚一対二基と十文字一里塚に一基が上り街道沿いに残っている。 南郷村教育委員会