松戸街道



松戸−矢切−国府台−市川

いこいの広場
日本紀行



水戸街道の松戸成田街道の市川をむすぶ一里ほどの短い道を松戸街道とよんでいる。江戸川の千葉県側を南北にはしる道で、千葉県道1号(市川松戸線)に重なっている。松戸の起点は県道1号と国道6号との交差点、県道54号につながる松戸二中前といわれているが、旧道ベースの話になれば、浅間神社の西側を通って県道5号が松戸市内の角町で旧水戸街道に合流するあたりがふさわしいのではないかと思う。

他方、市川側の基点は成田街道である国道14号との交差点、
市川広小路とされている。その間、県道からはずれてどこに旧道が残っているのかはしらない。特に矢切村あたりは県道から一筋西にはいった矢切神社か、野菊の墓の坂下あたりを通っている道が風情を残して、旧街道にふさわしいような気がする。

成田街道の寄り道とするにはあまりに線状に延びているので、街道として別に小ページをつくった。寄り道の目的は、矢切の渡しと野菊の墓、下総国府跡と国府台古戦場、そして国分寺・国分尼寺跡をたずねることにある。点をたずねる旅であって、線をもとめて道標や庚申塔を探しまわる旅でない。下総国の中心地だった歴史的に重要な土地を、どうしても見ておきたかった。




矢切

松戸からすぐに上矢切、中矢切、下矢切と矢切の集落が続く。江戸川と街道にはさまれた田園地帯だ。季節によるのだろうが葱畑が多かった。明治のはじめ下矢切村の農民が東京江東区北砂周辺からネギの種子を導入し、自家用として栽培したのがはじまりとされている。10年後には水田の裏作として定着し市場に出荷が行われるようになった。今では「矢切ネギ」として全国的に有名で、ネギの一大産地である。

下矢切にくると「矢切宿」の看板がでている。宿場のなごりなのかどうか。渡しがあるところから旅籠があってもよさそうだが、矢切の渡しは農民渡船から始まったもので、旅人のいきかうルートではなかったことを思えば、少なくとも宿駅制度のもとでの宿場ではないようだ。そこから右の路地にはいって、台地が江戸川(古利根川)の低地へ落ちこむ坂を下っていく。

伊藤左千夫の小説
『野菊の墓』(1906)の主人公政夫はそんなところに生まれ育った。幼馴染の二つ年上の従姉民子と互いに恋心を育むようになった。台地上の西蓮寺の境内に文学碑が建てられている。陸橋をわたった野菊苑からは、文学碑にしるされた風景をかいまみることができる。空気がひえて澄みきっていた日には富士山のほぼ全景がみられるだろうほどに見晴らしがよい。

坂をおりるとネギ畑を縫うあぜみちを矢切の渡し場まで、「のぎくの小道」がつづいている。小道の入口に石標がたっていて、民子の嫁入り行列の様子が影絵で描かれている。人力車にひかれる民子の前後に提灯もちや長持ちの担ぎ人がついていく。みちばたには野菊の花が失意の民子を見送った。学校の寮にもどった政夫はその出来事を知らない。二人は二度と会うことがなかった。そんなにはかなくかなしい恋が矢切の村にあった。

「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き・・・・・・」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き・・・・・・道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
「政夫さん・・・・・・私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって・・・・・・」
「僕大好きさ」

民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遥けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。

野菊を手にした二人の幸福な会話から、この結びに至る悲しい運命の物語を、涙なくして読むことはできなかった。

堤防をこえて河川敷のゴルフ場を横切ると木陰にかくれて矢切の渡し場があった。冬の季節とあって常駐の管理人の姿はなかった。舟は常に向かいの柴又側に泊めてあるようだ。


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里見公園・国府台城跡

松戸市から市川市にはいると低地が次第にせばまり、坂川が江戸川にながれでるあたりでは台地が川岸にまでせまっている。この台地は国府台とよばれ、ここに下総国府がおかれた。眼下に川をみおろす国府台からは、江戸の方面が俯瞰でき、昔は江戸城、上野の山、浅草の森までもながめられたという。文明11年(1479)大田道灌は、臼井に籠もる千葉孝胤討伐のため、この地に城を築いたのが国府台城の起こりである。その後天文7年(1538)と永禄7年(1564)の二回にわたる里見・北条の
国府台合戦をへて、この地域は北条氏の支配するところとなった。天正18年(1590)徳川家康が関東を治めることになって、国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城された。

昭和になって「里見公園」として整備された城跡地には土塁や空濠の跡を窺うことができる。また数千の戦死者を出した里見軍将士の慰霊碑が建てられてある。晩秋の紅葉と黄金色の銀杏の木々に囲われた静かな公園を散策しおえて帰ろうとしたとき、むこうから歩いてきた一人のおばあさんと目があった。
「あそこの紅葉はみられました?」
「モミジはもうおわりかけですね」
「あそこのはきれいですよ。一緒に行きましょう」
「ええ・・・。どこですか」
おばあさんと公園の奥にあるちいさな谷間まで歩いていった。
「ああ、終わっちゃってる。ごめんなさいね」
「いつもこのモミジをみにこられるのですか」
「ええ、毎年」
自宅は矢切の渡し近くで、バスでくるのだが、年間パスの期限がきれたので今日は歩いてきたのだという。
「3万円払うと一年乗り放題なの。申込書に写真が要るのを忘れてた。そうだ、あそこのバラの前で写真撮ってくださる?」
おばあさんはハンドバッグからコンパクト・デジタルカメラをとりだした。
「ああ、いいですよ、1、2枚」
「3枚!」
「はい


国分寺・国分尼寺跡

里見公園の街道筋から台地をおりて真間川をわたるまでの区域は文教地区とでもいえそうな場所で、東京医科歯科大、和洋女子大、千葉商科大、千葉短大など大学のほか、中高学校、病院などが集まっている。国立病院前を左に入って道なりに進むと谷間のジュンサイ池公園に出た。鴨などの水鳥よりもユリカモメのほうが多い。えさを投げ上げる人の頭上を飛び回っている。

一つ目の信号を右にはいり和洋国府台女子中の瀟洒な時計塔をすぎた三叉路角に下総国分尼寺があった。さらに東南に細い路地をおしすすむと国分寺に至る。車は一台分の幅しかなく、対向車にであうと、どちらかが直前の交差点までバックするしかない。国分寺から南側は台地が急に落ち込んでいて、車の場合は遠く迂回しなければならなかった。現在の国分寺は新しいもので下総国分寺の遺構としては境内に塔の礎石が残されている。綿飴のような銀杏の木がふりまく葉が秋の斜めの陽射しを受けてきらめき落ちる。

真間

真間山から南の市川地区は江戸湾につながる砂州がひろがり、真間川にそって入り江が東に入り込んでいた。この地帯は手児奈伝説継橋、真間の井などの旧蹟が多い万葉の地である。成田街道の市川公民館横の大門通りが弘法(ぐほう)寺への正式な参道らしいが、距離的には松戸街道の真間山下交差点を東にはいるほうがよほど近い。

京成本線国府台駅の西をよこぎり市川広小路で成田街道国道14号に出る。


(2006年1月)
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