真間の継橋 大門通り 真間4丁目
 その昔、市川市北部の台地と、その南に形成された市川砂州との間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から東に向かって奥深い入江ができていた。 この入江を『真間の入江』とよび、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた『片葉の葦』やスゲ等が密生していた。 国府台に下総国府の置かれたころ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂州上を通っていた。砂州から国府台の台地に登る間の、入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲から洲に掛け渡された橋が、万葉集に詠われた『真間の継橋』なのである。この継橋は  『足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通わむ』   3387  巻14(足音せずに行く駒がほしい、葛飾の真間の継橋をいつも手児奈のもとに通いたいものだ)の歌で有名となり、読み人知らずの歌ではあるが、当時の都びとにまで知れわたっていたのである。 この真間周辺には継橋をはじめ、手児奈の奥津城(墓)、真間の井など、万葉集に詠まれた旧跡が多い。これらの旧跡も歳月が経つにつれて、人びとの間から忘れ去られていくのであるが、これを憂えた鈴木長頼は、弘法寺の17世日貞上人と議して、元禄9年(1696)その地と推定される位置に碑を建て、万葉の旧跡を末永く顕彰することを図った。この碑がいまに残る「真間の三碑」である。  昭和58年3月   市川教育委員会