奈良時代のはじめ、山部赤人が下総国府を訪れたおり、手児奈の伝承を聞いて
「われも見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名(奈)が奥津城処」  0432
と詠ったものが万葉集に収録されている。 手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺(ぐほうじ)の7世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。 手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人々が争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽くしたとか、手児奈は国造(くにのみやつこ)の娘でその美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが生まれ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に司える巫女であったるする等、いろいろと形を変えて伝えられている。 万葉の時代から今日に至るまで、多くの作品にとりあげられた真間の地は、市川市における文学の古里であるともいえる。  昭和58年3月  市川市教育委員会
手児奈(てこな)霊堂 真間