鳥羽街道 



羅城門跡−鳥羽−淀(納所)
いこいの広場
日本紀行


8世紀の終わり頃、平安京を造営するにあたって京の玄関口である羅城門から鳥羽を経て淀まで延びる「鳥羽作り道」が開かれた。淀からは舟で大阪に至る。豊臣秀吉が伏見城を築くとき、伏見の南にひろがっていた広大な巨椋(おぐら)池低湿地を相手に大規模な治水・道路工事を断行した。巨大な池に堤をめぐらせ、下鳥羽−納所(のうそ)間の桂川左岸に堤を築き、また伏見−納所間の宇治川右岸、淀−京橋間の淀川左岸にも堤を築いて、京都−大阪、伏見−大阪間の陸路を完成させたのである。

羅城門から下鳥羽までの鳥羽作り道と新たに開かれた桂川左岸の堤道が、今回歩く鳥羽街道、現在の千本通りである。一方、秀吉が開いた伏見−大阪間の道は伏見経由で京に至る幹線道路として、大阪からは京街道、京都からは大坂街道とよばれた。伏見から京への道は伏見街道が使われたと思われる。伏見−大坂間の京街道は徳川家康の時代になって、大津街道と連結され、京都を迂回して大坂に至る57次ぎ東海道として、正式に伏見を始めとする4宿が定められた。この東海道最終部分である大津−大坂間も京街道とよばれる。先走るが納所妙教寺の前住職の話では、納所に鳥羽街道という言葉はなく、京街道がここでいう鳥羽街道で、淀−伏見間の東海道(京街道)は単に伏見街道とよんでいるとのことであった。街道の名はその土地ごとに決められる主体的呼称である。

九条通と千本通の交差点北側に二層の楼門羅城門が立っていた。平安京の正門入口である。羅城門から大内裏までは中央大通りである朱雀大路が一直線にのびていた。平安中期にははやくも荒廃し、死人の捨て場所となった。今は小さな児童公園の中に、鉄柵に囲われて羅城門跡を示す石碑だけが立っている。黒沢明は芥川龍之介の短編小説「藪の中」「羅生門」から名作
「羅生門」を製作しベネチア金獅子賞を受賞した。藪道で一人の盗賊が武士の夫婦に遭遇する。野獣と化した盗賊は武士を縛り、目の前で妻を強姦する。――――。武士は死体となって発見された。誰が男を殺したか、真実は藪の中に残された。この映画で羅城門は二次的な役割しか果たしていないが、半ば崩れた大門が化け物のように大雨にけむってたちすくむ光景はすさまじい。

九条通にかかる陸橋の南側から鳥羽街道がはじまる。十条通との交差点に常夜燈にならんで小さな道標が建っている。正徳6年(1716)の古いもので吉祥院天満宮参道の道標である。石面に彫られた「梅鉢」の紋は天満宮の印で、承平4年(934)朱雀天皇が自ら道真の像を刻みこの地に社殿を築き道真の霊を祀ったのが、吉祥院天満宮の始まりと伝えられている。街道から少々離れており、寄っていかなかった。

上鳥羽にはいってくる。落ち着いた家並みの中に虫籠窓に格子造りの旧家が散見される。この辺りは鴨川と西高瀬川にはさまれた低地で、洪水対策であろうか沿道の家は道路面よりすこし敷地を高くして建っている。

上鳥羽岩ノ本町の変則十字路を左に曲がった所に
恋塚浄禅寺がある。平安末期の北面の武士遠藤盛遠は、従兄妹であり同僚渡邉渡の妻となった袈裟御前に横恋慕し、叔母を脅迫し袈裟には夫と別れろと迫まった。袈裟御前は究極の策として、夫を殺すように盛遠にもちかけ自分が夫の身代わりとなって盛遠に殺される。 盛遠は罪をはじて出家し文覚上人となり、袈裟御前の菩提を弔うために浄禅寺を建立した。寿永元年(1182)のことである。境内に袈裟御前の塚(恋塚)といわれる五輪塔がある。この物語は1953年映画化され、衣笠貞之助監督の「地獄門」はカンヌグランプリを勝ち取った。

浄禅寺地蔵堂にある地蔵尊は
京都六地蔵の一で、毎年子供が地蔵盆を楽しむ8月22・23日に大人は六地蔵をめぐる800年来の慣わしがある。六地蔵は京の街道口に置かれた。江戸の六地蔵はこれに習ったものである。

伏見 奈良街道 大善寺 伏見区桃山町西町 京阪電車六地蔵駅
鳥羽 鳥羽街道 浄禅寺 南区上鳥羽岩ノ本町 京阪電車上鳥羽駅
山陰街道 地蔵寺 西京区春日町 阪急電車桂駅
常盤 周山街道 源光寺 右京区常盤馬塚町 京福電車常盤駅
鞍馬口 鞍馬街道 上善寺 北区上善寺門前町 地下鉄鞍馬口駅
山科 東海道 徳林庵 山科区四ノ宮泉水町 JR山科駅

鳥羽街道は西高瀬川と鴨川に挟まれるようにして名神高速の高架をくぐり、鴨川に架かる
小枝橋をわたる。橋を渡り堤防沿いに南にはいるとすぐに左折して城南宮道と千本通りの交差点に出る。交差点左手角に「左京みち」「城南離宮 右よど やはた」と彫られた道標と、「鳥羽伏見戦跡」の石碑が建っている。旧小枝橋はここから鴨川に架かっていた。

慶応4年(1868)旧暦1月3日、6千人の薩摩軍と15千人の幕府軍が小枝橋付近で衝突、鳥羽伏見の戦いの火蓋が切って落とされた。京に攻め入ろうとした幕府軍は結局小枝橋をわたることができず、これより敗戦を重ねて鳥羽街道から大坂街道へと退却を続けることになった。

城南宮道をすすんで
城南宮に寄る。平安遷都にさいし鳥羽作り道が開かれたとき、都の南の守護神として城南宮が創建された。平安時代の末期白河上皇によってこの地に壮大な鳥羽離宮(城南離宮)が造営され城南宮は離宮に組み込まれた。院政が始まると歌会、宴、船遊び、競馬(くらべうま)がしばしば行なわれ華麗な王朝文化が花咲いた。

その優雅さは神苑(みその)にもっとも現れている。
「源氏物語花の庭」と銘打った広大な園内はいくつかの庭からなっていて、その一つ「春の山」ではしだれ梅が盛りであった。たおやかに垂れ下がる紅白の梅、八方に飛び散る枝はまるで梅花の線香花火である。真っ赤なツバキの花が緑の苔に美しく落ちている。自然にあれほど向きをそろえて落ちないだろう。手で並べられたものと思われる。「平安の庭」には鑓水が施され曲水の宴が開かれる。白河上皇は光源氏の大邸宅「六条院」の庭を実現しようとしたと伝わる。偶然10時の神官による定例無料ツアーに参加することになって、源氏物語の片鱗を垣間見ることができた。

街道にもどり、堤防と市街地の間の、中二階のようなみちをゆく。
左手下の公園が
鳥羽離宮跡である。平安時代、白河上皇が造営した離宮で、東西1.3km、南北1.1kmという広大なものであった。離宮内の築山「秋の山」に鳥羽伏見戦跡碑がたっている。
鳥羽離宮は1086年白河上皇にはじまり、鳥羽、後白河、そして1221年(承久3)、後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を集め、鎌倉幕府との間で承久の乱を起こし敗れて隠岐に流さるまで、135年にわたる院政時代の舞台となった。

院政の衰退とともに離宮も荒廃し、やがて幕末戊辰戦争の勃発の舞台として歴史に再登場する。薩摩軍は城南宮に陣を構え、大坂から北上してきた幕府軍を撃退したのである。

鴨川と西高瀬川が合流する手前の下鳥羽城ノ越町に茅葺の山門が愛らしい小さな
「恋塚寺」がある。恋塚浄禅寺と同じ浄土宗のお寺で、恋塚の由来も同じ物語である。ただこちらの塚は五輪塔でなく宝篋印塔であった。

恋塚寺の先、街道が左に曲がって鴨川堤防にちかづくところに江戸初期創業の「月の桂」醸造元、増田徳兵衛商店がしっとりとした町並みに溶け込んでいる。街道はここから鴨川堤防に上がっていく。西高瀬川との合流地点だ。

昔このあたりは
鳥羽の港があって、淀水運と鳥羽街道の陸路を中継する交通の要所として栄えた。河川敷に四角な大石が並べられている。ある日付近の川底から引揚げられたもので、調査の結果二条城に使われた石らしい。室津の湊口番所跡に置かれていた二つの巨石を思い出した。それは大坂城の石垣用のものが運搬途中室津の泊で海中に落ちたものだろうといわれている。石だから腐らずに残っていた。当時のかぼそい船で運んだなかには数しれない物資が水底に沈んでいったに違いない。

堤防に沿って一段低いところに道がついている。千本通りはその道だろうと思いながら、見晴らしよい眺めに魅かれて堤防のサイクリングロードを歩いていった。

左下を注意しながら歩いていくと、法伝寺と一念寺の中間あたり、城門をおもわせる白壁塀をめぐらせた民家の前に
「鳥羽伏見の戦跡」碑がたっている。昭和51年の新しいもので、個人が建てたものであろう。

下鳥羽から横大路地区にはいる交差点で千本通りは堤防から離れていく。堤防に上がる。
鴨川と桂川の合流地点だ。葦の茂る河原に二つの流れが音一つたてずに合体する。その下流、羽束師(はづかし)橋辺りは江戸時代草津湊と呼ばれ、水陸交通の中継地として物資の荷揚げや旅人で賑わった。

サイクリングロード脇に
「魚市場遺跡」の碑がたつ。淀川を遡ってきた鮮魚はここで陸揚げされ、鳥羽街道で都まで運ばれた。鳥羽街道も竹田街道のように荷車用の車石が敷かれていたという。船にのせたまま、鴨川・高瀬川を次いで洛中に運ぶ手もあっただろうに、鮮度を争う魚貝の輸送には陸上のほうが勝っていた。利根川水運における木下、布佐を想起させる。

千本通りはふたたび川に沿いより、のびやかな早春の堤下をあるく。空低くせっつくような声が聞こえるのは雲雀であろう。横大路富の森町の家並みも板壁、土壁の民家がつづくのどかなたたずまいである。

思い出したように「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の標石がたっている。
いよいよ鳥羽街道の終点、納所(のうそ)の町にはいってきた。難しい読み方の納所という地名は、ここに平安京へ運ぶ物資の倉庫がおかれたことに由来するという。朱雀大路に直結する鳥羽作り道の原点ともいうべき場所であった。鳥羽街道はあくまで古い。

街道は川から離れて、すこし進むと左手の路地奥に山門がみえる。ひっそりと建つ
妙教寺という寺だ。山門をはいると、右手の草むらに腰をおろしている老人と目があって会釈をかわした。境内に「淀古城址 戊辰役砲弾貫通跡」、「戊辰之役東軍戦死者之碑」の碑がある。納所は淀城下町の中心地であった。天守台や濠、石垣が残る江戸時代の淀城と区別するために、室町時代畠山政長が築き後に豊臣秀吉が改修して側室茶々(後の淀殿)に与えた城を淀古城と呼んでいる。淀古城の遺構は残っていないが、ここ妙教寺が淀古城の本丸のあったところといわれている。秀吉は密かにあこがれていたお市の方(織田信長の妹、浅井長政の妻、後柴田勝家の妻)によく似た茶々を溺愛した。

淀の歴史に関係なさそうな石碑がある。
木村久夫の歌碑とその解説碑である。太平洋戦争に学徒動員された京都大学生で終戦後シンガポールで逃げ去った上官の責任を負わされて現地で絞首刑となった。彼の遺書全文が「きけわだつみのこえ」に収録されているので是非読まれたいとある。昭和21年5月23日28歳。生きていたら今89歳。碑の前で立ち尽くしていると後ろに人の気配がして、先の老人が木のベンチに座っていた。涼しそうな顔をしてやわらかい京都弁で語りかけた。

「私より3歳年下でして英語が上手やったから通訳してたんです。人なんか殺したりしてません。現地人がオランダ軍に、こいつもやゆうたから有罪になりました。私は英語が苦手で、三高から3回京大を受験しましたが落ちました」
「獄中で田辺元の『哲学通論』の差し入れをうけて、その余白にホントのことを書きはりました。それが後でみつかって、『わだつみの声』にのったんですわ」
「この道は京街道というてます。あっちは伏見街道といいます。そこの水路が淀城の外濠でしたんや」
「こどものころは道をいく荷車に乗って遊びました。おこられると降りて、またすぐのるんですわ」
「八幡(石清水八幡宮)参りの男、屁をこいてかんざし落とした、いうてからこうて…・・」
「男がかんざししてたんですか?」
「いえ、土産にかんざしこうていくんです」
やがて文部省唱歌を歌いだした。1番、2番と歌詞を全部おぼえている。
「よい歌でっしゃろ」

「お元気そうですがおいくつですか」
「いくつと思います?」
「90くらい…・」
「93です。ゴウノトラですわ」
「写真をとらせてもらえますか」
「わたしでよかったら」

視線や表情をかえることなく、そのままで最高のポーズになっている。
二人きりのしずかな境内に中年の男性が車から降りて帰ってきた。息子の住職のようだ。

旅からかえって早速本を買ってきた。名は知っていたが読むのは初めてだ。木村久夫の手記は74名の戦没学生の遺書の最後を飾っている。解説にその理由が記されていた。

「木村久夫の手記は、死亡の時期が本書収録の死者の最後にあたるという理由だけからでなく、連合国によるB,C級戦犯に問われた戦後の短い生の思索のなかから「日本国民の遠い責任」にまで言及し、今日的な問題を提起しつづけているところからエピローグとした」

鳥羽街道は船着場をしめす「唐人雁木旧趾」碑のある納所交差点で宇治川に突き当たっていた。江戸時代、宇治川の流れは納所で桂川に合流しており、唐人雁木は合流地点直前の宇治川右岸にあたる。その地点から100mほど伏見よりの堤防に淀城内とを結ぶ「小橋」があり、伏見から下ってきた京街道と合流していた。

羅城門という古代の跡から出発して現代の個人的体験で終わったこの旅は街道歩きの中でも特異なものとして記憶に残るであろう。

(2008年4月)
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