伊勢別街道 



関−楠原椋本窪田−(一身田)−津(江戸橋)
いこいの広場
日本紀行


東海道関宿から分れて、江戸橋で伊勢参宮街道に合流する街道で、江戸時代には「いせみち」「参宮道」などといわれ、「伊勢別街道」と言われるようになったのは明治10年(1877)以降のことといわれている。この伊勢別街道という名は、四日市市から伊勢市にいたる街道を「伊勢街道」と名付けたのに対し、その街道の支道という意味で名付けられた。江戸時代には、楠原・椋本・窪田に宿揚が設けられ、おもに京都方面からの伊勢参宮道者の道であった。

これは伊勢別街道の終点近く、一身田小学校西側の十字路付近の旧道沿いに立つ案内板の記述である。街道の総距離は4里26町、ちょうど一日の街道歩きにふさわしい。





JR関西本線で関駅に降り立つ。二両編成のかわいらしい電車があった。ディーゼル機関車だ。前回は亀山から東海道を歩いてきたので駅前の風景は初めてである。大きな観光案内板が立っていた。「壬申の乱」の舞台、「斎王群行の道」、本能寺の変における「家康伊賀越えの道」など多くの史実に恵まれた宿場である。

東海道まで少し歩き坂道を上がり、東にむかって東の追分まで早朝の旧宿場街をあるく。人気のない道を一台の車が音を立てずに走っていった。

追分に
伊勢神宮一の鳥居が立つ。内宮宇治橋の南詰めの鳥居が遷宮の時に移設されたものである。京都や奈良方面からの参宮者はここで伊勢別街道にはいって津で伊勢街道に出た。他方、江戸や名古屋方面からの参宮客は七里の渡しを経て桑名で上陸する。そこにも伊勢神宮一の鳥居がある。

鳥居脇の塚上に一里塚跡と常夜燈が立つ。他にも「是より外宮十五里」「右さんぐうみち 左江戸橋」と刻まれた道標が2基あったそうだが、見当たらない。ちょうど庭掃きに出てきた隣のおばさんに聞いてみた。「みなさん、(道標がないと)いわれます。前はあったのですけどね」と、気のない返事だった。(その後の調べで関中学の北隣の関文化交流センターの駐車場にあるらしい)

鳥居をくぐって坂道を下る。風景は一変して車の往来が激しい県道10号となる。関西本線のガードをくぐり、
勧進橋鈴鹿川を渡る。橋は勧進による浄財で架けられた。

まもなく、県道と分かれて旧道が左に分岐する。その分岐点付近の地名を古厩(ふるまや)といい、
古代鈴鹿駅があった。分岐点の角地には石垣の上に駅跡標柱、大井神社跡碑、昭和58年までそびえ立っていた松の巨木の幹、常夜燈などが集められている。

分岐点手前の左手には
都追美井(つつみい)がある。かって駅跡にあった大井神社の神体で、万葉集にも歌われている井戸で、古代から旅人の喉を潤わせてきた。

古厩の集落は小さいながら連子格子のある家がみられ、風情ある家並みが残されている。集落内の二股を右にとって坂を登り県道10号にもどって名阪国道のガードをくぐると亀山市関町から津市芸濃町に移る。

屋根にシマウマの像を飾った趣味の悪いラブホテルが景観を損ねている。


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楠原 

まもなく左手の大きな木立の中に
庚申塚と呼ばれている塚があって、三面六忿怒刑の青面金剛石像を祀る祠がある。

道の反対側に移ると中ノ川が見下ろせる。対岸の竹が生い茂る段丘には応仁期の童子谷城跡があるという。

その先の二股で右の旧道にはいると、最初の宿場楠原である。蔵や連子格子が美しいすばらしい家並みが続いている。

楠原公民館のあたりが問屋垣内と呼ばれる宿場の中心だった。道にでていた女性に問屋や本陣のことをきくと、隣り合わせの二軒の家を教えてくれた。坂博家が問屋で、東隣の山田家宅は庄屋であったと。切妻平入りの家が圧倒的な家並みの中で、新しい山田宅は妻入りで屋根はわずかに丸みをおびた起(ムク)り屋根になっている。

鍵の手におれるところに小さな道標があった。「是より山下道」と読める。側面には「右 さんぐう道」とでもあるのかと覗き込んだが、何もなさそうだった。

まだ朝早くて人通りのない街道に一人の女性が入り口を掃除していた。玄関口に新聞を敷いた器が置いてある。どこかでこのような供え物を見たことがあった。婦人に聞くと、ニヤリと微笑んで軒を指差した。見上げるとツバメの巣があってあたりは泥と糞で白く汚れている。器は巣の真下に置かれていた。
ツバメの糞受けはその家だけでなく、楠原宿を通り抜けるまで各所で見られた。巣を取り除くでなく、毎日糞を掃除し続けている。

街道は緩やかに坂を下っていく。家並みのつきるあたり、右手に大きな蔵をもち低いレンガ煙突がのぞく家があった。総黒板張りの重厚なたたずまいである。

道は県道に出て中ノ川に架かる新玉橋を渡る。右側に旧道の跡が残っていた。

橋をわたってまもなく左の
山道に入っていく。急な坂を上り杉林を抜けると、林の集落である。ここも静かな集落で人も車も通ってこない。注連縄が飾ってある民家があり、伊勢地方の風習はここにも及んでいる。

左手のわずかな空き地に庚申堂の小祠と石仏が縦に並んでいた。

道は集落の中央あたりで左に大きくカーブして
芸濃町資料館前の十字路で右折する。直進するのは蛭谷街道とよばれ県道648号で伊勢街道白子宿に至る。

角に建つ下見板張りの洋風二階建て資料館は旧明村(明村は忍田・楠原・中縄・楠平尾・林・萩原・福徳の大字からなっていた)役場で、大正5年(1916)に建てられた。角地を利用して南西角に入口を設置し石の門柱を配し、建物も同じ角に正面玄関を設け、ポーチを張り出して二階はバルコニーとしている。角地の特性をいかした粋な建築物である。

右におれて歩を進めると更に板張りの門塀が見事な整然とした家並みが続いていく。

その中でも右手に長い塀と長屋門を配した
駒田家住宅は圧巻であった。

県道を渡るところに
道標をかねた常夜燈が立っていて、「右 さんぐう道」「左り 京道」「安永五丙申年」と刻まれている。もとは芸濃町資料館付近にあったものがここに移された。


 
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椋本
 

県道をわたると
中縄集落である。この集落も板張りの民家長屋門をもった大きな家を見ることができ、落ち着いた家並みである。

集落を抜けると、
横山池の堤にぶつかる。高い堤に駆け上がる。大きな池が満々と水を湛えて、街道が堤の下を一直線に伸びている。池の水が潤す田畑がかなり低く見え、天井池かと思わせるほどである。文久2年(1862)駒越五良八が私財を投じて着工し慶応2年(1866)に竣工した。安濃川上流より導水し、このあたり200町歩の灌漑が可能になった。

椋本宿場の手前あたり、堤の下に
駒越翁彰功碑がある。

その横に文化2年(1805)の自然石の
仁王経塔が立つ。町に侵入しようとする病魔を退散させようというもので、『仁王経』上下2巻の経文を一字一石に写し、塔の下に埋蔵した。
ちょうど宿場の出入り口にあたる2ヶ所に建てられ、西にあるこの塔が「上の塔」、宿場の東入り口に「下の塔」がある。

街道は左に折れて椋本宿場街に入っていく。表札には駒田姓が多く見かけられる。椋本宿は西から西町、中町、横町、新町からなっていて、それぞれが鍵の手で区切られている。楠原宿に比べれば家並みは新しい。西町から中町に移る最初の鍵の手あたりに
高札場と問屋があった。

左折した右手の
井筒屋は元旅籠であった。

千本格子の美を競うように二棟の古い中二階建物が並んでいる。

右手巴屋製菓舗脇の細い路地入り口に
「霊樹大椋 従是南二丁」と記された石標が立っている。国の天然記念物で樹齢1500年以上というムクノキで高さ18mの巨木があり、椋本の地名はこの霊樹からきた。

左手の広い空き地に石積みの一部が残されている。ここに本陣駒越五貞氏の大屋敷があった。明治天皇が宿泊したという。であるなら普通「明治天皇御宿泊所跡」の石碑があるものだが、見当たらなかった。

その先で道は直角に左折し、横町に入る。角に自然石の
道標と里程標が立っている。道標は江戸後期のもので、自然石に「左さんくう道」「右榊原」と刻まれている。里程標は明治43年の道路里程標を復元したもの。木柱に「津市元標へ三里三拾三丁目八間」「関町元標へ弐里五丁五拾壱間」「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」と記されている。

地図を見ていると横町の北西に
「駒五町」という地名をみつけた。駒越家に由来する町名だと思われる。

街道はその先で右に折れる。大型の鍵の手である。左手の電気工事店はいかにも旅籠風の建物で伊勢地方の風習である注連縄を飾っている。

そのはす向かいには現役の
角屋旅館がある。こちらの注連縄は一段と大きく立派なものだ。入り口軒下にはずらりと伊勢講の講札が並び掛けられている。暖簾、駒寄せ、連子格子を備えた二階建て建物で、江戸中期に建てられた。間口が5間と大きく、庶民向けの旅籠だった。

左手に正徳5年(1715)建立の
延命地蔵堂があり、その脇に文政4年(1821)の手水鉢がある。

宿場の家並みが終わりに近づいた辺り左手に
「仁王経」碑がある。疾病除けに宿場の東西出入り口に立てられた。横山池のほとりにあった西の「上の塔」に対し、東の塔は「下の塔」と呼ばれている。

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窪田
 

旧街道は県道10号と合流して現代的な沿道風景の中を黙々と進み、伊勢自動車道をくぐりぬける。

二股に差し掛かり左の旧道に入るあたり、右手に
つつじ畑が広がっていた。低いつつじの苗木がまるで野菜畑のように広がっている。花木の苗木もこれほどに大量栽培できるとは驚きだった。

高野尾とよばれるこの地域はかっては広大な原野で街道沿いには松並木が続いていたという。造園農家が多く見られるのは原野を開拓した歴史を反映したものであろうか。家並みにはそれぞれ意匠をこらした生垣が築かれこの地の特性を見るようである。

その中にあって瓦屋根を置いた板塀と門を備えた端正な旧家があった。

旧道に入ってまもなく、高野尾クリニックの向かいに小さな地蔵が祀られている。

2km近くに及ぶ長い高野尾集落が尽きて県道と合流する手前右手に、小さな広場がありお堂の前に文政5年(1822)の常夜燈やいくつかの石碑が集まっている。その中の一つには
「ぜに可け松」と刻まれている。昔、病気になった参宮道者が旅半ばで引き返す際、この地の松に銭を結びつけ松を拝んで立ち去った。別の人がその銭を取ろうとすると銭が蛇に化けて襲いかかったといわれ、この松に銭を掛けると参宮と同じくらいのご利益があるという。

高野尾町から大里睦合町にはいって県道10号に合流するが500mほどで再び左の旧道に戻る。西睦合集会所前の三叉路左手に
野崎地蔵堂と二基の常夜燈がある。常夜燈の方向に直進する道がいかにも旧道にみえるが、ここを右折して中の川を渡っていくのが旧街道である。

街道は中の川に架かる向沖橋を渡って大里窪田町に入った。窪田宿の入り口にそびえ立つ大木の袂に
青木地蔵が祀られている。地蔵は豊里公民館から街道沿いに移されてきた。

右手田んぼを隔てて一本の道が竹藪に消えている。この坂は汐見坂と呼ばれ、親鸞聖人がここから一身田の浜を見たという伝承がある。

宿場街は一直線の広い車道で家並みはかならずしも密でないが、それでも所々に連子格子の古い家が残っており、旧道の面影を偲ぶことができる。

歩道橋のある三叉路を越えたあたりの右手に本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねた
国府家の家が残り、玄関に「明治天皇窪田御小休所」の石柱が立っている。中二階平入りの大きな家に門と塀の一部が残されていて、格式の高さをうかがわせる。

大里窪田町出口交差点で国道23号中勢バイパスを渡り、JR紀勢本線の踏み切り手前の丁字路を右に折れていく。

窪田集落の家並みが尽きるあたりに大きな
常夜燈が建っている。昔はこの付近に近江屋、大和屋といった旅籠があった。文化14年(1817)の建立で、八日市を中心とする蒲生・愛知・野州地域の近江商人が伊勢神営へ寄進したものである。高さ8.6mもある大きなもので近隣の屋根よりも高い。灯籠の竿の部分には大きく江州という文字が、また台座には琵琶湖を表わす波模様が刻まれていて、近江色がつよい。それがなぜここに建っているのかについては、にわかには信じがたいような話が伝わっている。どうやら旅籠近江屋が一役買っていたようである。

道はその先の二股を左にとって踏み切りを渡り、一身田の駅前に出る。旧道は先の二股を直進し線路の西側の細道を南下して、一身田小学校西端の交差点で現旧道につながっていたようである。今は線路の前後が消失している。

一身田の駅前通りをすすむと県道55号に出る。ここを右折するのが旧街道筋であるが、まっすぐ行って浄土真宗高田派の
本山専修寺を見ていくことにした。

突き当たりに専修寺境内や周辺の案内板が立っている。一身田は環濠の町として知られるように、専修寺は東西500m、南北450mとほぼ正方形の形で濠と南側を流れている毛無川によって囲まれている。濠内を寺内町とよび一向宗の門徒自治体をなしていた。

安楽橋をわたると広い寺町通りが一直線にのびていて左手の本山に向き合って右手には末寺が並んでいる。唐門をくぐって境内にはいると総本山の風格を表わすように広々とした大伽藍が展開していた。高田派の総本山はもともと栃木県真岡市高田にあったが15世紀に関西に移ってきたものである。

如来堂、御影堂、二基の銅燈籠をみて山門から出る。

一筋南の通りは
向拝(ごはい)前通りと呼ばれる。お寺に向かって門前で拝するという意である。

正面に
元旅籠伊賀屋の建物が残っている。二階の欄干が一階の屋根とともにかすかに波打っているのが手作りの味を見せて面白い。

通りには金物屋、雑貨屋、和菓子屋、それに仏壇屋が多く線香の香りが漂ってくる。うだつを上げ軒には大垂を付け連子格子造りの古い家も見ることができる。まるで京都の路地を歩く感じである。

突き当たりの丁字路角が
高札場跡で、天保8年(1837)の道標には「右さんくう道」「左御堂并京道」「右江戸みち」と刻まれている。ここには火の見櫓も建っていたという。

右に折れると毛無川に朱塗りの常盤橋が架かっている。ここに寺内町とその外(地下)を区切る
黒門があった。午後6時から翌朝6時までは門が閉ざされ、人の出入りができなかった。

黒門を出た通りを
橋向といい、飯盛り女を抱えた茶屋(水茶屋)が軒を連ねる歓楽街を形成していた。

毛無川に沿って街道に戻る。川には寺内町とを結ぶ橋がいくつも架けられ、北岸には商家の土蔵が立ち並んでいたという。今でも情緒ある風景を残している。

川沿いの道は小学校に突き当たり、寺内町にもどって西に向かって歩いていくと、赤い橋が架かる
桜門跡にたどり着いた。ここが寺内町の西端にあたり京都方面からの入り口であった。そこから駅前の伊勢別街道にもどる。

街道から見る
毛無川は環濠集落の一端をよく表わしている。当時の濠幅は現在よりも広かったようで、また濠に沿って土塁が築かれていた。

左手に石鳥居の立つ小社を見て変則十字路に出る。駅の手前で別れた古道はここにつながっていた。旧街道は県道と分かれて左斜めに進んで行く。左手に伊勢別街道の案内板が立っている。内容は冒頭で引用した。

大古曽集落には新しい家に混じってうだつ、虫籠窓、連子格子造りの家や土蔵を持った古い家並みが散見される。左手に伊勢木綿の織布工場がある。この路地が橋向の歓楽街を通り抜けて黒門跡に通じる伊勢方面からの専修寺参道である。あるいは寺内町の道標にあったように、専修寺の参詣を終えて伊勢神宮に向かう「さんぐう道」であった。

伊勢鉄道の高架をくぐった先の変則五差路を右斜めに曲がっていく。

一身田中野集落の中で突き当たりを左折して
中野の家並みを通り抜け、近鉄名古屋線踏切をわたり、江戸橋駅の東側を南下して上浜町の江戸橋交差点に到達する。

伊勢街道で見てきたばかりの二棟続きの民家と合流点に建つ
常夜燈に再会した。

(2012年6月)
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