今様奥の細道 

4月2日(新暦5月20日)



日光−所野川室大渡船生玉生高内矢板
いこいの広場
日本紀行
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資料7

一 同二日 天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈須・太田原ヘ趣、常ニハ今市へ戻リテ大渡リト云所ヘカヽルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左へノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカヽリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。
今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。
〇大渡ヨリ船入(船生)ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川(鬼怒川)ヲカリ(仮)橋有。大形ハ船渡し。
〇船入ヨリ玉入(玉生)ヘ弐リ。未ノ上尅ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。
一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。
一 同三日 快晴。辰上尅玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。


(曽良随行日記)



含満ヶ淵

翌朝、大谷川の清流にそって西参道門前の商店街を散策する。芭蕉もたずねた含満ヶ淵と、二つの芭蕉句碑が目標である。
旅館街の路地裏を西に進み、小さな橋を渡ると発電所施設に出る。そこから、一方通行でもなく対向車にであえば往生すると思われるような山道を10分くらい歩くと右手に待避所が設けてあり、そこから石段を降りると大谷川随一の絶景、含満ヶ淵に出る。

まだ8時前だというのに一人釣り人がいた。一匹の犬が手持ちぶさたに川岸をうろうろしている。深緑の木々がほとばしる渓流にかかり、木漏れ日に映える流れは清冽である。大きな岩を選んで祠や休み所がある。南岸にそって石地蔵が弓なり状に並ぶ。この写真を撮るのが楽しみだった。本でみた地蔵はみな赤エプロンを掛けていたのに、私の前にいるのはみんな裸だ。何度数をかぞえても同じにならないのでお化け地蔵ともいう。それほど数が多い。

岸を東に進むと苔むした石塔が流れを見下ろし古びた木門をくぐると開けた庭園に出た。寺の境内のようでもある。川岸の濡れた歩道を覆っているのは紅葉ばかりで、秋のこの淵の赤さはいかほどであろうかと羨まれる。どこかに姿を消していた犬が戻ってきた。主人はまだ当分釣り竿を納めそうにもない。

路地街にもどり大日堂跡を訪ねる。そこに芭蕉の句碑があるはずだった。標識をたどっても見つけづらい。大日堂橋の袂の隠れ階段を降りてようやく見つかった。建物は洪水で跡形もなく流れ去り礎石だけがその位置をとどめていた。地蔵にまじって自然石の句碑がある。眼鏡をはずしてくっつくように見ても句は読めなかった。

 
あらたうと 青葉若葉の 日の光

二つ目は安良沢小学校の庭にあるという。運動場のある裏側から這い登り、表にまわった正門校庭にあった。背後のえんじ色煉瓦がやや興ざめだが文字はよく読める。

 
暫時は 滝にこもるや 夏の初(げのはじめ)

仏道の夏籠(げごも)りの季節にひっかけた句である。滝とは裏見の滝。小学校の前の道をあがって国道を横切るとそのまま裏見の滝までのドライブウェイに続く。ミニ登山をするつもりである。

裏見の滝

山の中腹、登山口のようなところの駐車場からおよそ30分くらいの登山だったろうか。始めはかなり急な階段だ。土止めの杭はまだ新しかった。谷川を横に見て流れをさかのぼる。空気はいっそう澄んで町よりもあきらかに涼しい。やがて道は崖沿いに平らになり、落流の音が聞こえてくる。行き止まりには枝流を従えて落ちる滝があった。高さはたかだか20m弱だが、緑に囲まれて豊かに落ちる水の姿が慎ましい。苔むした岩が水飛沫と光りをあびて妖しい輝きを放ち、足元に虹がわいた。

 
しばらくは 滝にこもるや 夏の初

芭蕉はここで引き返し奥州街道へと戻っていった。
私たちは車を使って、ここから足をのばして華厳の滝と中禅寺湖まで行く。ようやく日曜日の昼前となって、観光地らしい人出にあった。

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華厳の滝・中禅寺湖

奥日光への道はよく整備されている。車の数が増えたといっても渋滞はなく快適であった。夏休みの週末とは信じがたいほどの落ち着きである。

いろは坂は、登りくだり合わせていろは文字の数だけ48曲がりあるということから名づけられた。面白い思いつきだ。そういえばカーブの山側には「を」だの「ぬ」だの、いろは文字のひらがな看板が出てくる。帰り道の最後近くになって、一瞬自信がなくなってきた。「いろはの最後は『ん』だっけ? あれはおまけだったっけ?」

いろはの前半を終わると明智平駐車場につく。そこからロープウェイで2分、展望台からの眺めが素晴らしい。青空の下に中禅寺湖が広がり、その水が手前の華厳の滝に落ちる。カメラで構えたアングルは誰が撮ろうと同じになる。無限大だから焦点ボケの心配はない。誰でも同じ絵葉書のように美しく整った風景写真が撮れる。違いは望遠か、標準か、広角か。私は3通り撮って満足して引き上げた。

第二いろは坂を下りて華厳の滝を見る。落差は約100m。裏見の滝の5倍で、ヨセミテ滝の7分の1、世界一のエンジェル滝の10分の1である。滝の多くは滝壷近くから見上げる場合が多いが、華厳の滝は滝口が地表と同じ高さで、駐車場展望所からは木の間から水の落下を見下ろすことになる。水流は林や岩にかくれて見通しがきかず、100mの落差の迫力を感じなかった。そのために下に降りるエレベーターがある。上下の気温差はゆうに5度を超えて下はひんやりとしていた。落水のしぶきが轟音と風をともなってあたりかまわず放射している。

駐車場にもどるとき山頂の土塊が視野に飛び込んできた。男体山といって二荒山神社の神体である。男体山は大己貴命(おおなむちのみこと)、別名大国主命(おおくにぬしのみこと、大黒)を祀る。頂上付近から幾筋かの赤く削られた地すべりの傷跡が見える。

昼時、中禅寺湖畔を菖蒲が浜近くまでドライブした。食堂兼土産店が続く通りでは無料駐車場を目玉に客引き合戦が盛んであった。手招きの動作が老若男女一人一人ちがう。手首だけの省エネ型、ひじ先だけのシャイ型、片腕振りの交通整理型、両腕スウィング古典型、上半身屈折お辞儀型、そして極め付きは全身をくねらすようにして店先方向へなびかせるパントマイム型。丁寧なほうがよいというわけではない。私は若い女性のシャイ型に惹かれた。

湖畔に降りて写真を撮る。これで日光の旅を終えた。奥の細道としてはこれからはるばる奥州路に向かう。次の目的地である黒羽までは途中みるべきところが少ない。道は水はけの悪さで悪名高い。雨の降らないことを祈りながら急ごう。地味な一日になりそうな予感がする。

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所野

日光見物を堪能したあと、いよいよ今市までもどり日光北街道をたどって大田原にでようと考えていたら、宿の主人仏五左衛門は別のルートを勧めてくれた。なにしろ名の頭に「仏」をつけて人がよぶほど正直偏固の人物だから、彼の言うことにウソはなかろうと信ずることにした。今市までもどらずに筋違橋のところで左におれて大谷川をこえ、所野を東進して瀬尾にでるルートである。古くからあった道で
奥州古道とも呼ばれている。その後、会津西街道を北に向い、倉ヶ崎で右のローカル道にでて川室に向かい、そのまま東をめざして大渡宿にでる。

つまり仏の五左衛門は、今市までの日光街道と今市―大渡間の日光北街道を避けよというのであった。幹線道路は渋滞しているからローカルを行けということだったのかも知れない。あまり知られていないコースだから、詳しく記録にとどめておこう。

筋違橋をこえて日光街道の宝殿交差点を左折して大谷川の堤防に出る。谷沢に細く積雪の跡をみせる男体山・大真名子山・女峰山のながめがすばらしかった。芭蕉はもっと下流の七里あたりで川を渡ったらしい。今はすぐ上手に歩行者専用の
所野橋ができているので便利だ。途中に出っ張った待避所が設けられ、前方にみえる山の名前がわかるパネルが準備されていて心憎い。

橋をわたりすぐ右の所野信号二又を左にはいって所野の町中を通り抜ける。県道247号バイパスと合流したのち、右手に所野公園をみながらうつくしい松林の中を東に歩いていく。仏五左衛門が勧めたとおり、車のすくない快適な道であった。そのためか、野生の猿が出没する。日光カントリークラブを通りすぎ丸山公園の東端で、県道とわかれて左の旧道にはいり松原団地の北側をすすんでいく。

団地をすぎたあとも、のどかにたたずむ石仏をながめながら道なりに小幡バス停を通り越してすすんでいくと、左にコイン精米、右手のあぜ道に石造物が見える小さな十字路に出る。そこを右におれて自然石碑のまえを通り民家の間を通り抜けて県道にもどる。県道247号は材木町交差点(一筋手前に道標)を直進し、国道121号バイパスにつきあたるが、前にあるコジマ電気の駐車場の奥に、旧会津西街道(国道121号)にでる小道が残っていた。

出たところはすでに旧日光北街道との追分をすぎて杉並木が始まっており、北にすすむとすぐに4本杉に守られた雷電神社が現れる。(コイン精米を通ってまっすぐそのまま瀬尾十字路にでて、県道245号を南に下って材木町交差点にでる方が自然のようにみえるがどうか)

追分から雷電神社あたりまでの杉並木は、日光街道や例幣使街道にくらべて、いわゆる「一般地域」よりも粗雑で、車を駐車してあったり、杉木立の間に平屋の民家が平然と居座っていて、生活の臭いが発散する景色である。4本杉あたりからようやく「保護地域」らしい景観が現れてきた。

さて、芭蕉は会津西街道ともさほど付き合わなかった。倉ヶ崎新田で新道(121号バイパス)を斜めに横切った後、500mほど進んだところ、倉ヶ崎バス停手前の十字路を右に入っていく。

旧道はすぐに集落をぬけでて、のどかにひろがる田園地帯を悠々とすすむ。そばにぴったり古大谷川が寄り添っている。東武線踏み切りは車で渡れない。その先、国道121号バイパスを横切るまでは全く車の通らない農道であった。路傍の石仏が旧道の証であろう。バイパスとの交差点には日光名物「たまり漬け」の大型店舗が集まり、観光バスが立ち寄っている。

川室

一歩旧道に入りこむとそこは静かな田舎道で、まもなく道の両側に水路をもうけた川室集落に入ってくる。水路にかけられた石橋が苔むしている。水路を家屋内の炊事場の一部に取り込んで、そこで果物を冷やしたり洗い物をする仕組みが川戸/川端といわれ滋賀県にみられる。普通そこで鯉を飼い残飯処理をしてくれるのだ。そんな風景にぴったりのしっとりと落ちついた町並みであった。車どころか人もみかけない。焚き火の煙でやっと生活の気配をかぎとったくらいである。

曲の手にまがる道をすぎるとまもなく広い県道279号を横切り、道は山深い景色を帯びてくる。山間の道をすぎると下川室集落で、そこから延々となにもない広域農道をひたすら歩く旅となった。通り過ぎる車を除けば、途中出あったものといえば、ビニールハウスの屋根にたむろするスズメとカラスだけだったように思う。

確かに国道を避けて川室経由にした芭蕉は賢明だった。仏五左衛門に改めて感謝したことと思われる。

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大渡

大渡宿場の入口である丁字路にいたり、右方向からやってきた日光北街道に合流する。左手に長い大谷石塀をめぐらせた大きな屋敷は仮本陣で問屋を勤めていた大貫家である。宿場の中央辺りに多くの石仏、石塔類が集められている。この通りには大谷石を使った住宅が多い。国道街道筋の町並みにしては店屋がすくない気もした。国道沿いで道一杯に大型車のいきかう道であるのに、昔の趣きを湛えて静かさを感じさせる不思議な街だった。

大渡橋の手前に「船場亭」という茅葺の風情あるドライブインがある。残念ながら定休日で店は閉じていたが、「鮎の塩焼き」と
「松尾芭蕉の渡船場」の幟が元気よくはためいていた。芭蕉が来たときは水量の少ない時期で仮橋がかけられていて、渡し船には乗らなかった。

船生

大渡橋からながめる初冬の鬼怒川の風景が素晴らしい。川を越えると、日光市から塩谷町に入る。地名は「船場」。丁字路を右折して直ぐ先に右手から細道がでている。坂を下って路地をたどっていくと、「聖徳太子」の石塔や旅籠風の建物があったりして、渡し場に通じていた旧道のようである。土手に上ると橋の下側で、向こう岸に「船場亭」の茅葺屋根と「松尾芭蕉の渡船場」の幟がみえる。二筋にわかれてながれる鬼怒川の渡し場がこのあたりにあったのだろう。

道はまもなく船生宿にはいっていく。昔は大きな宿場町だったようで、街道に沿って長い町並が続いている。「船生小学校」バス停の後ろにかっての本陣を思わせる立派な門構えの旧家が建っていた。問屋は現在郵便局になっている手塚家であるが、古い建物は見当たらなかった。

玉生

ゆるい地蔵坂を登りきったところで、左の旧道にはいり、変電所の裏側を通っていく。山際に古道が残っているがその先は民家の敷地で消失している。バス通りとの合流点に「芭蕉通り」の石標がたち、向かい側にも道標などの石碑が並んでいる。
すぐ先の路地を左にはいっていくと、草むらと化した屋敷跡地の奥に
「芭蕉一宿の跡」の記念碑が寂しそうに建っていた。曽良が「玉生に泊まる。宿悪しきゆえ、無理に名主の家入りて宿かる」と記している、その名主玉生家の屋敷跡である。隣接してある、池と祠と小山を配した庭園も荒れるにまかされていた。

曲の手を右に曲がり役場がある中心街をとおりすぎ家並みを抜けていく。

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高内(幸岡)

旧街道は国道にもどり、峠付をこえて矢板市にはいる。峠をおりたところに「たてば」というドライブインがある。旧道はその先右手の山中に入り倉掛峠を越えていく。山際にたつ電柱に、矢板市役所による熊警戒のポスターが貼ってあった。旧道入口は少し先の右手にある。落ち葉でうもれた山道を見て逡巡したが、すこし中の様子をうかがうことにした。出ないような気もするが、進むにつれ出てくる気にもなってくる。

芭蕉の足跡をたどるためにも、結局入っていくことにした。垂直にのびる杉林のなかを進み峠にさしかかる。途中、市役所のアドバイスに従って、歌うのも場違いな感じがするし、ワンワンとほえるのも恥ずかしいから、ウメキとも叫びともつかない声を出しながら歩いた。もし高見盛が土俵で声を出すことを許されるなら、腕をふりちぎるときに発するであろうような音声だったと思う。

やがて無事里に下りてきて国道にもどった。すぐ先で再び、民家の脇に残っている「戸方坂」の旧道を上がっていく。坂を越えると
「鞍掛松」の史跡がある。平安時代の伝承を語り継ぐものであるから、芭蕉が通ったときにも立て札がたっていたかもしれない。
国道にもどり、その先かなりながい道のりを歩いていく。色あせた褐色の雑木林に小屋がひっそりとたたずむ。いのしし料理を食わせる小屋風の食堂が林間の街道に野趣を添えている。

坂道をおりて田園がひろがるところで、幸岡の十字路に出る。
幸岡集落の「公民館前」バス停の前から左斜めにでている旧道を上がっていくと、曽良が
「鷹内」と記している高内宿である。坂上から火の見櫓が見下ろしている。誰も通らない静かな集落である。坂道をくだるとそのまま農道をすすみ、東北自動車道の高架をくぐって宮川の橋のたもとで国道に合流する。前方には矢板の町が広がりを見せている。

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矢板

旧道は本来、国道の位置にもどらずに高内宿からまっすぐに北東に伸びていたのではなかろうか。旧道はまもなく国道から広い農道を左にはいり、カントリーエレベーター先の十字路で右に直角におれて矢板市内の本町郵便局の十字路に出る。カントリーエレベーターの角には、寛政3年の古い道標と、近辺の旧日光北街道の位置を書いた説明板が立っている。芭蕉もここを通っていったはずだという。

矢板の宿場があったという上町の通りを歩いているが米屋などいくつかの昔風の店構えをした建物をみるだけで、さびれた裏通りという感じが強い。扇町の矢板中央高校手前に小さな稲荷神社があって、その境内に
寛政3年(1791)の古い芭蕉句碑がある。

  
原中や物にもつかす啼く雲雀


旧街道は長峰公園の北西縁に沿って坂道を上がっていく。右手の林越しに広い墓地をみながらやがて道が三つにわかれる地点にきて、中ほどに旧街道の案内板が立っている。その左に見える人の歩かない山道が旧道である。芭蕉はこの低い峠をこえて、旧奥州街道の佐久山宿に通じる県道52号に移り、つぎの宿場沢をめざしていった。この時点ではまだ、那須野ヶ原の取り付く島もない広漠とした荒野を予想していなかった。「かさね」に出会うことなどもシナリオになかったに違いない。

2003年8月)
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