能生

合川の手前で旧道に入り浜徳合、筒石集落を通り抜ける。筒石は日本海ひすいラインの筒石駅がトンネル内にあることで有名である。地上にある改札口からホームまで300段近くの階段を下りて行くそうだ。
筒井集落は狭い路地の両側に2階、3階建ての家が延々と並ぶ魅力的な家並みでも知られる。

藤崎、百川集落内を旧道で通りぬけ能生小泊の漁港に立ち寄った。権現崎を背にした美しい港である。国道沿いの通路に30棟もの番小屋が一列に並んだ景色も印象的であった。

漁港の西側にまわると海岸沖に弁天岩がある。300万年前に海底火山から噴出した火砕流が堆積凝固したものである。 弁天岩の厳島神社には、海の神市杵島姫命(いちきひめのみこと)が祀られている。

国道8号弁天大橋東詰交差点で左の旧道にはいる。すぐ左手に重厚な茅葺屋根の白山神社がある。奴奈川姫を祀って産土神社としたのが始まりと云われており醍醐天皇の命よって造られ「延喜式」に記載されている奴奈川神社にあたるといわれている。本殿は明応年間(1492−1501)に火災で焼失したが、永正12年(1515)能登守護畠山義元寄進により再興された。その建築様式は、三間社流造の前面に一間の向拝を付けたもので室町時代の特色を示しており、国の重要文化財に指定されている。

社務所の前に「越後能生社汐路の名鐘」と題した大きな芭蕉句碑がある。「汐路の鐘」とは、義経主従が山奥へ逃れる途中能生浦に滞在し、武運長久を祈って常陸坊の名を刻んだ梵鐘を寄進したといわれる鐘である。この鐘には汐が満ちてくると、人が触れずとも一里四方になり響くという伝説がある。明応のころ消失したが、その残銅をもって再鋳された。

碑は文政5年(1822年)岡本五右衛門憲孝が建立したもの。元禄2年(1689)芭蕉が奥の細道の途次能生に宿泊した際、詠んだ句とされるが、奥の細道にも芭蕉句集にも載っていない。

  曙や霧にうつまくかねの聲  芭蕉

隣に歴史民族資料館がある。茅葺の農家で、屋根は苔むしてかなり古そうである。建物は「中門造り」とよばれ、豪雪地として知られる新潟県や長野県北部に多く見られる農家だそうだ。昭和55年、能生谷の中野口集落から移築した。

こんぴら神社の先の曲尺手を経て宿場の中心街へ入る。郵便局の先、水路の手前左手のヘアーサロンが村田家本陣跡だそうだが、それを示す物はなかった。


水路の先の路地を左に少し入ったところに玉屋という旅館がある。7月11日高田を発った芭蕉は夕刻能生に着き、玉屋五郎兵衛方に宿泊した。現在もその子孫が経営しているという。当時玉屋は旧道沿いにあった。

集落の西はずれをながれる能生川をわたった先で国道8号に合流する。

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梶屋敷 

国道で木浦、鬼舞、鬼伏、浦本、中宿を経て早川をわたると梶屋敷である。

奥の細道曽良随行日記によれば、芭蕉は早川でつまずいて衣を濡らしてしまった。川は浅く徒歩わたりであったが、石がごろごろしていてバランスを失ったらしい。やむなく河原でしばらく休んで、濡れた衣を乾かした。

早川橋西詰信号で左折して旧道に入る。すぐ右手の空き地に明治天皇御駐輦之碑が立っていた。

水路を渡って梶屋敷宿に入って行く。田伏交差点まで600mほどの小さな宿場である。家並みには比較的妻入り造りの民家が多くみられる。

見ている間に梶屋敷の集落を抜けていく。田伏交差点で国道8号に合流するがすぐに大和川小学校の前で右手の旧道にはいる。大和川集落をぬけ、竹ヶ花十字路交差点で国道をよこぎって海川をわたると糸井川宿である。



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糸魚川 

押上信号交差点の手前右手に鳥居と玉垣に囲まれて五輪塔がある。なにかを祀るものらしいが、詳細は分からず。一里塚跡だともいわれるが、案内板はない。信号を渡ると県道222号となり、一直線に糸井川宿に入っていく。

寺町を過ぎて本町2丁目信号交差点の手前、右手に相馬御風邸がある。御風は明治16年、糸魚川市に生まれ、歌人、詩人で早稲田大学校歌や「春よ来い」、「カチューシャの唄(2番以降。1番は島村抱月)」の作詞者として、また良寛の研究者で知られている。

旧街道は本町2丁目交差点から左折、右折する曲尺手を抜けるのだが、そこを右折して国道8号との丁字路に出てみる。丁字路角に奴奈川姫(ぬながわひめ)の像が建っている。「古事記」に出てくる高志国の沼河に住む沼河比売の美貌の評判を聞きつけた出雲の八千矛神(大国主命)は妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに好意的な歌を返し、翌日の夜、二人は結ばれた。話が早い。

脇に大きなヒスイの原石が置かれている。この地方では縄文時代から姫川から流れ出たヒスイを加工し、勾玉を生産していた。奴奈川姫の伝説はヒスイの勾玉を作るこの地方と、それを求めた出雲との関係を物語っている。ヒスイは漢字で「翡翠」と書き、「翡」はカワセミの雄、「翠」はカワセミの雌を意味する。カワセミは空飛ぶ宝石と呼ばれる鳥で、背中から尾にかけて美しい青緑色に輝く羽毛でおおわれている。国道から海岸には降りられないが、この辺り一帯はヒスイ海岸とよばれ、ヒスイ原石が浜辺に打ち上げられているという。

奴奈川姫像の立つ交差点から一筋西の路地を入ったところに風情ある割烹鶴来家がある。創業は、江戸時代末期の文化文政の頃といわれ、200年近い歴史を持つ老舗料理店である。米問屋からはじまった。鶴の親子が同家の松に舞い降りたことから「鶴来家」と呼ばれるようになったという。黒い板塀に漆喰壁のコントラストが美しい。糸魚川の2度の大火にも延焼をまぬがれたとのことだが、現在の建物が何時建てられたのかは分からない。最近の大火としては1932年の横町大火(368棟焼失)、1911年 浜町大火(503棟焼失)がある。大火は江戸末期にも頻発している。

曲尺手の大町交差点にもどり西にすすむとすぐ右手に小林家本陣跡加賀の井酒造がある。慶安3年(1650)の創業で新潟最古の酒蔵という。加賀三代藩主前田利常は参勤交代のときここに本陣を置き酒銘「加賀の井」と命名した。加州三候(加賀藩、大聖寺藩、富山藩)の宿泊記録が残っている。小林九郎左衛門家は町年寄りも勤める名家であった。

すぐ先に大きな赤いローソクの看板を庇屋根に乗せた京屋がある。間口の広い平入町屋で江戸時代から続く老舗である。特に柚餅子は400年も前から作られている銘菓で、加賀侯が土産として将軍に献上したことから、「御」の字が付けられ、この店のゆべしは「御ゆべし」と呼ばれる。柚餅子と仏具を売るという奇妙な商品組み合わせである。

旧街道は横町(旧新屋町)で国道148号と交差する。この道はフォッサマグナ(糸魚川・静岡構造線)に沿って信州松本に至る道で、約120kmの街道である。「塩の道」とも千国(ちくに)街道、松本街道、糸魚川街道とも呼ばれる。塩尻で伊那谷を下る三州街道と木曽谷を下っていく中山道につながっていた。

交差点の北東角に糸魚川町道路元標と、電柱に「旧塩の道問屋街・白馬通り商店街(松本街道)起点」の標識が貼られている。今は人気もない通りだが、昔はこのあたりに信州方面への荷を扱う問屋が軒を連ねていた。信濃国松本藩領内の塩と肴の大部分は当地から送られており、この輸送に6軒の信州問屋が携わっていた。毎年3千駄送るよう申し付けられていたという。

人や物の行き交う要衝にあって、問屋だけでなく、旅籠や茶屋も賑わっていたことだろう。奥の細道に同行した曽良はここ新屋町の左五左衛門で休んだことを記している。左五左衛門が営んでいたのは旅籠だったのか、茶店であったのか知らない。ちょうど昼時であった。親不知の難所にいどむ腹ごしらえでもしたのだろう。

  「午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。」

横町南交差点手前右手に秋葉神社がある。安永6年横町から出火し184軒の家屋が焼失した。翌年火元屋敷跡に火伏せの神である秋葉神社が建てられた。横町ではその後も大火を繰り返している。

寺島で国道8号を横断した先、姫川港をまわりこんで旧道(県道486号)で姫川橋をわたる。急流で知られる姫川は綱を繰って船を渡した。この川の流域はヒスイの産地で、河口付近の海岸や河原ではヒスイ原石を見つけることができるという。

県道は須沢で国道8号を横切ってそのまま青海に入る。

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青海 

名引公民館前に順徳天皇聖蹟碑がある。黒井宿の手前で「順徳天皇御駐輦所」の碑を見て以来、明治天皇の向こうを張るような順徳天皇碑には違和感をぬぐいきれないでいる。

青海駅前交差点に差し掛かる。手前右手の電柱脇に青海村道路元標があり、その先の民家前に青海宿本陣清水家跡がある。

交差点を渡った右手には明治天皇聖蹟碑が建っている。

交差点を挟んだあたりが宿場の中心であったのだろう。

青海は北国街道の宿場であるとともに古代北陸道の蒼海(あおうみ)駅家が置かれた所でもあった。この先は親不知の難所を越えなければならない。親不知の先の市振宿との間に残されたわずかな浜に歌宿、外波宿が置かれた。

港町信号で旧道は国道8号に合流して青海川を渡る。

国道は坂道を上がって断崖に造られた洞門とトンネルを潜り抜けながら歌地区に入る。青海までの浜辺道はなくなり、昔は崖が日本海に落ち込む波打ち際を歩かねばならなかった。

洞門の窓から見た海岸にはまだテトラポットに守られた浜が残っているが、この先で浜がなくなる。青海から歌までの海岸を子不知、その先市振までを親不知とよぶが、合わせて親不知という場合が多い。

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歌・外波(となみ)

国道はしだいに下り坂になり、駒返トンネルを出たところ歌信号で左の旧道、県道525号に入る。右に大きく旋回しながら日本海ひすいラインの高架橋の下をくぐって歌川をわたる。このあたりは歌集落の北端である。集落は歌川に沿って南北に形成され、街道筋には郵便局しかない。すぐ先が親不知駅で、この辺りに本陣があったらしい。歌集落には寄らずそのまま旧道を行く。

子不知の西端駒返しトンネルと親不知の東端風波トンネルの間3kmほどの海岸は断崖から海岸線まで少しの幅があり、海水浴場や漁港まである浜辺を形成している。そこに歌と外波の宿場が設けられた。両宿場の距離は2kmに満たない。青海からの荷は歌で継いで市振へ、市振からの荷は外波で継いで青海へ送られた。

県道はそのまま外波の集落に入っていく。この集落も外波川河口部分に沿って南北に長い町で、街道はその北端をかすめるように走っている。歌に比べると海岸部分が広く民家の数も多い。海岸には親不知海水浴場や親不知漁港があって街道沿いにも民宿が数軒見かけられる。

外波川をわたると国道8号が北陸自動車道の高架をくぐり、左に大きく曲がる手前右手に親不知記念広場が設けられている。見晴台があり、断崖が日本海に落ち込む姿がよく見渡せる。波が直接崖岩に打ち寄せ、そこには獣が歩く余地もない。

広場に愛の母子像が立ち、台座には相馬御風の歌が刻まれている。御風の自宅は糸魚川宿で見たところである。

  かくり岩によせてくだくる 沖つ浪のほのかに白き ほしあかりかも

  Breaking on a lonely rock Waves rising in the sea glow faintly white Like starlight.

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市振 

国道は大きく山側に回りこみ風波川を渡って市振地区に入る。まもなく右手に親不知観光ホテルが建っている。ホテルの脇からコミュニティロードと呼ばれる旧国道が残されている。親不知を越えるのに4世代に亘る道が開削された。1世代の道は芭蕉が歩いた文字通りの旧道である。引き潮の時を狙って波打ち際を駆け抜ける。波が押し寄せるときは断崖の洞窟に避難した。

2世代の道が明治16年に開通した旧国道である。国道開通を記念して、絶壁に「如砥如矢(とのごとくやのごとし)」と巨大な文字が刻まれている。砥石のように滑らかで、矢のように速く通れる道が完成した喜びを表した。

第3世代が昭和41年に開通した現在の国道8号で、第4世代は北陸自動車道である。

4世代の道が並走するのはこの場所に限ったことではなく、主要街道を歩いているとよく見かける風景ではある。集落を迂回する第3世代の現国道に対し第2世代の旧国道は集落の中をぬけるバス通りの県道であることが多い。街道歩きの醍醐味はあくまで第1世代の土道にある。

ホテルの入口近くから海岸に降りる道がついている。道というより石段といった方が正しい。極めて急な石段道である。途中の踊り場に旧北陸本線のトンネルが残っていた。堅固なレンガ造りで昭和40年(1965)年までの53年間使われた。

浜辺に降りる。猫の額のような空間があった。そこから北を見ても南を眺めても崖下を波が打ち寄せる険しい自然である。

コミュニティロード(旧国道)は天険トンネルを越えてきた国道8号と合流する。4か所の洞門をくぐりながら2.5kmほど行ったところで右手に分かれる旧国道に入って富山県境の市振集落に入っていく。

右手に海岸が見えてくる。難所を終えて砂浜が延びている。親不知を越えてきた旅人が安堵の気持ちに浸ったことであろう。

漁港に降りる道との分岐点に「海道の松」が立っている。目通り2.5mで樹齢200年を超える老樹であるが、今もよい姿を保持している。街道はその二股を左に取る。

市振の町並みに入ってまもなく右手に弘法の井戸がある。昔、弘法大師がこの地の茶屋にきて水がほしいといったところ、茶屋のばあさんは1kmも離れた赤崎の冷たい水を汲んできたので、弘法大師はこれを憐れみ、足元の土を杖で三度突いてこの井戸をつくったという。弘法大師はなぜ茶を所望しなかったのか。

集落のなかほど、桔梗屋前バス停脇に芭蕉が泊まったという桔梗屋跡の標識が立てられている。桔梗屋は市振宿の脇本陣だったが、大正3年の大火で焼失してしまった。芭蕉の宿泊地というだけでない。ここで「一つ家に 遊女も寝たり萩と月」という名句を残した。奥の細道本文に掲載された句であるのに、曽良の日記には触れられていない。芭蕉得意の虚飾であったか、曽良の無視あるいは失念か、というだけでなく、句意についても議論が多い名句である。とにかくこの一句で市振の地は有名になった。

すぐ右手に「明治天皇市振御小休所跡」碑が立っている。

郵便局を通り過ぎて集落の西端近く、市振小学校辺りに市振の関所があった。寛永年間(1624〜)に設置されたもので、小学校の校庭にある関所榎は樹齢250年を越え、高さ17.5m、目通り幹周り4.6mの巨樹である。市振の関所は行旅の人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所から成っており、東西21間、南北95間の敷地内に両番所、上役長屋、足軽長屋などがあった。本陣はこの付近にあったという。

旧街道は駅の手前で国道8号に合流する。境川を越えると越中国富山県である。山形県境の鼠ヶ関からここまで、砂丘あり、低湿地あり、断崖ありの変化にとんだ280kmにおよぶ越後の長い海岸線をたどる旅が終わった。

(2015年10月)
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