城山公園の北側に建つ旧東村山郡役所前の石垣脇に「奥の細道ゆかりの地 翁塚跡」と書かれた標柱が立っている。城山公園にあるという翁塚はここから移転されたものか。隣に立っている説明板は郡役所のもので、翁塚跡の説明はどこにもなかった。
先の十字路にもどり東へ進み、小松建具のある十字路を右折するとようやく旧街道の雰囲気がでてきた。約400m南へ行くと三叉路に出る。左に「奥の細道 山寺への道」の標柱が、左角には丸みを帯びた石道標がある。「北目の道標」と呼ばれ「右
若木公道 左 湯殿山道」と刻まれている。「若木公」とは「若松」のことで若松観音へ通じる道を指し、左は羽州街道を横切り寒河江を経由して湯殿山に通じる道である。
大きな愛宕神社の社標が立つ二股を右に直進すると現山寺街道(県道111号)に合流する。旧道は昔右手ショッピングセンターの中をV字状に入り込んでいて、そこに宝地蔵と北目休石があったという。一瞥したところ旧道筋跡は完全に消滅しているようで、そのまま県道を進む。
国道13号を横切って左手の自動車整備工場手前の水路脇に4つの古碑が並んでいる。 一番左は読めず。続いて、湯殿山、十八夜供養、 金毘羅と並んでいた。
そのすぐ先の路地を左に入って県道と分かれる。
丁字路の角の梨の木のそばに「梨の木清水」の標柱がある。昔、このあたりの大きな梨の木の根元に清水があって山寺参詣客の咽を潤していた。当時から一帯は果樹の栽培が行われていたということであろうか。標柱側面に「↑至八幡山古戦場跡」、「→至旧山寺街道」と記されて道標を兼ねている。
八幡山古戦場跡 天正十二年(一五八四)舞鶴山を居城とする天童城主天童頼澄(頼久)と、山形城主最上義光との戦いが始まった。難攻不落といわれた天童城であったが、義光の策略によって味方の一角が崩れたために落城した。 頼澄が陸奥に逃れた天正十二年十月十日、最後の決戦を挑んだ。この時、本陣を「梨の木清水」に置いたが、この地八幡山の戦いにおいて敗れるに至ったという。 平成三年四月 天童市教育委員会 |
右におれるとすぐ先左手に旧道跡が残っていて入口に旧山寺街道標柱があった。「← 旧山寺街道を経て岩下に至る」とある。果樹園の農道を通り抜ける。リンゴの収穫が始まっていて、手の届く距離に7分に色づいたリンゴがたわわに実っている。西洋梨の栽培も盛んなようである。こちらはまだ青臭い。
十字路で土道は終わり舗装された道をさらに直進する。左からくる道と合流した先で道なりに右折して県道に出る。その角に昔一本杉の大木がそびえていてそこに「一本杉茶屋」があった。今、同じ場所に「一本杉菓子店」が古い暖簾を守っている。店前に笠を乗せた一字一石塔があった。
旧道は合流点を左折して再び県道と離れ、すぐ鉤の手状に右折、左折して石倉に向かう。途中、小百合保育園前を通り県道279号を横断して、石倉北バス停、古峰神社の社標を通り過ぎると三叉路に突き当たる。そこを右折し、すぐに左折する。それぞれの曲がり角に「芭蕉句碑」標柱があって、迷うことはない。
右手に稲荷神社の社標、左手に石倉公民館前を通り過ぎる。杉の大木がそびえ、街道風情のある家並みが見られる。
集落の終わりあたりで左からくる道と合流し、右に折れていく。「上原」という地名を刻んだ「芭蕉句碑」標柱がある。
道なりにすすみ、広域農道を斜めに渡ったところ左手にまゆはきの芭蕉句碑がある。
まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉の花 芭蕉翁
説明文を借りると、
「当日は石倉周辺より見渡す紅花畠が満開で月山の遠望もみごとな風景であったろう。芭蕉はこの地で「まゆはき」の句を詠んだと言われている。」
「眉掃き」とは白粉をつけた後、眉を払うのに用いる小さい刷毛のこと。私には合歓の花で頬を撫でた幼児体験がある。合歓の花では眉掃きにはか弱すぎるかもしれない。旧街道の右手に「まゆはきの丘直売所」があった。旧山寺街道中唯一の観光スポットのようだ。
旧街道はまたしても果樹園の中を突き進む。二つ目の十字路を直進して果樹園の中を歩いて行ったが、やがて道は林の中へ入っていき、県道からますます離れていくようであった。二つ目の十字路に引きかえし、右におれて広域農道にでる。途中、右手に新開配水場があった。
広域農道で山形市に入る。ほどなく道が二手に分かれていて奥の細道の標識が立っている。両方とも「奥の細道 山寺への道」とあって山寺へいくにはどちらでもよい。左の農道が古道のようである。
再度個人所有の果樹園の中をぬっていくと集落に入り県道との追分に出た。地名はもう「山寺」である。
県道沿いに延命地蔵尊があり、境内左手にめずらしい猪の供養碑がある。宝暦5年(1755)という古いものだ。今も猪は農作物を食い荒らす害獣であるが、当時でも状況は同じであったらしい。ただ、この地域は殺生禁断の地で、山寺の許可を得なければ猪を捕獲できなかった。追善供養も捕獲の条件だったのかもしれない。
左手に湯殿山碑、十八夜塔などを見ながら、いよいよ山寺門前町に入っていく。右にまがっていく県道とわかれて、参道を進む。しだいに観光客の数がましてくる。
沿道に旅館、土産店、飲食店などが軒を連ねる。栗色に煮込んだ丸いこんにゃくを3個串に刺した「力こんにゃく」が名物のようだ。一本百円で買って食べた。からしをつけると美味い。
なかなか登山口が現れない。門前街並みが終わるあたりでようやく登山口にたどりついた。
石段をあがると正面に根本中堂がある。山寺は、正しくは宝珠山立石寺といい、貞観2年(860)慈覚大師が開いた。鎌倉時代には東北仏教界の中枢をなして、300余の寺坊に1000余名の修行者が居住、盛況を極めた。現在も境内35万坪の自然の岩山に、40余の堂塔を配し、日本を代表する霊場である。堂内には、伝教大師が中国から比叡山に移した灯を立石寺に分けたものが、今日も不滅の法灯として輝いている。
すぐ左脇石垣の上に角柱石の芭蕉句碑とその後方に清和天皇の宝塔がある。句碑は嘉永6年(1853)の建立、句はもちろん「閑さや岩にしみ入蝉の声」である。
山門への参道筋には右手に日枝神社、念仏堂、鐘楼が立ち並んでいる。念仏堂は江戸時代の初めに再建された、坐禅や写経をおこなう立石寺の修行道場である。鐘楼は除夜の招福の鐘として知られ、元旦にかけて数千人の参拝者が幸福を願ってこの鐘をつく。
左手に亀の甲石、その先に句碑を挟んで芭蕉と曾良像が立つ。芭蕉像は昭和47年のもの、曽良は平成元年の建立で、個人が寄贈したものである。
二人は元禄2年(1689)5月27日ここにやってきた。
夫婦杉と小さなめおと地蔵をみて山門をくぐる。奥の院まで800余段の石段が始まる。道中の案内札や標識が充実している。
姥堂に座る奪衣婆の姿はどこで見ても気味悪い。新宿、恐山についでここが三番目である。
左上の巨大な百丈岸を見上げながら、岩に狭められた幅4寸ばかりの石段を噛みしめるように上がってゆく。
右手にお休み石があり、左に蝉塚と奥の細道碑がある。蝉塚はもと山門のところにあったがここに移された。自然石の表面に「芭蕉翁」、右側面に「静かさや岩にしミ入蝉の声」と刻まれている。芭蕉が聞いた蝉はアブラ蝉かニイニイ蝉かの論争があったようだ。グループを率いるガイドのおじさんは「その日は雨で、蝉はないていなかった」と、その論争を茶化していたが、それでは芭蕉の一句は幻聴だったということになりかねない。
一段と急な階段を上ると仁王門が立ちはだかっている。嘉永元年(1848)に再建されたけやき材の優美な門である。
観明院、性相院などを見てようやく奥の院にたどり着いた。左右二棟の堂がならび、右が奥之院ともいわれる如法堂で、慈覚大師が中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊とする。堂は明治5年に再建された。
左側の大仏殿には、像高5mの金色の阿弥陀如来像が安置されている。「堂外からも含め道内撮影禁止」とあって大仏の姿は撮り損ねた。
帰路、性相院から右の岩道をたどって開山堂を訪ねる。百丈岩の頂上に立つ堂で、ここには立石寺を開いた慈覚大師の木像が安置されている。その左の岩の上に赤い祠が下界を見下ろすように建っている。納経堂といい、山内では最も古い建物である。今にも強風に飛ばされそうな危うげな佇まいであった。
開山堂からさらに登ると、五大堂がある。ここは五大明王を祀って天下泰平を祈る道場であるが、それよりも山寺随一の展望台として人気がある。ここからの眺望はすばらしい。
山寺の要所を見学して来た道を戻る。8km歩いてきた後の石段登りで、下山路ではすこし膝が痛んできた。
出口付近にある本坊が歴代住職の住まいである。芭蕉はここを訪ねた日の夜は麓の坊に泊まった。本坊の周囲には僧侶の住む僧坊や参拝客を泊める宿坊もあっただろう。宿坊は門前町にも建ち並んでいたことと思う。芭蕉がどこに宿泊したかについて、情報を得る機会はなかった。
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完(2012年10月)