近江は俳句の盛んな国である。むかし近江商人の隠居は教養のひとつとして俳句をたしなむ風があった。その背景には芭蕉の存在が大きい。

芭蕉がはじめて琵琶湖の美しい風景に接したのは、当時京で活躍していた近江の国、野洲出身の歌人北村季吟を訪ねたときであった。山里に生まれ育った芭蕉が峻険な鈴鹿の峠をこえてまもなく目のあたりにしたのは、比叡や比良の山々を背おって海のように広がる絵のような湖であった。修業時代の若い芭蕉はその後も幾度となく、湖南の風景を左右に見ながら、京と伊賀上野の間を往復したことであろう。

「老後はここで過ごしたい」
そう思うにはまだ若すぎたかもしれないが、多感な青年なりに考えることがあったにちがいない。晩年の2年近くを大津に過ごした芭蕉はその時期に、藩士、医者、町人、豪商、住職、能役者など多様な人達との交流を楽しんだ。実際、芭蕉は大津湖南地方を訪れること8回におよび、近江の風景や人間に深い愛着を抱いていたように思われる。

「死後もここで過ごしたい」
芭蕉はそのことを遺言した。

芭蕉の生涯の作品は980句確認されているらしいが、そのうち1割近くの89句が大津湖南地方で詠まれているという。奥の細道の52句に比しても、近江の密度の高さがわかる。36俳仙とよばれる弟子の国別分布をみても、近江12、江戸5、美濃・尾張各4、伊賀3、等で近江が群を抜いている。

芭蕉の近江好きは「行く春を 近江の人と 惜しみける」という句に代表される。その句は司馬遼太郎をいたく刺激して、彼を芭蕉に劣らぬ近江ファンにしてしまった。

芭蕉の跡をたどってみたい。芭蕉の句から滋賀県に関するものを時系列に拾ってみることにする。
暦は陰暦である。約40日遅らせると太陽暦の季節感にシンクロナイズする。芭蕉は毎年8月15日になると月見をして名月を愛でているが、それは今のお盆ではなくて秋分の日の仲秋の名月のことである。旧暦の秋は立秋(新暦の8月8日頃)から始まり立冬(新暦の11月8日頃)に終わる。9月23日頃はその中間点にあたる。仲秋は中秋とも書き、秋の真ん中のことである。

大津近辺の土地の名前になじむために国鉄の駅をたどって位置関係を確認しておく。大津を起点として東へ東海道線沿いに、膳所―石山―(瀬田の唐橋)―瀬田―草津と北上する。草津で東に折れると旧東海道にそって、水口を通り鈴鹿トンネルを抜けて伊賀の国に入る。そこから芭蕉の故郷である伊賀上野まで遠くない。

草津をそのまま北上するのが中山道で、守山―野洲―近江八幡を経て彦根、大垣に至る。西大津から湖西線が出る。唐崎―比叡坂本―雄琴―堅田…志賀―比良をとおり高島、安曇川、今津を経て福井県敦賀に至る。

湖南滞在中の芭蕉の行動範囲は大津を中心に東は瀬田まで、西は堅田までと解してよかろう。むろん、芭蕉はその全行程をつうじて滋賀県を通過する東海道と中山道を踏破している。

芭蕉は1644年(正保元年)甲賀と並ぶ忍者の里、伊賀上野の農民武士、松尾与左衛門の次男宗房として生まれた。10代後半ごろから俳諧をはじめ、京都の貞門七俳仙として著名な北村季吟に教えを受けた。29歳の春、専業の俳諧師となるべく江戸に向かう。それまで主流であった古風な貞門俳諧と、大坂に起こり新鮮な機知と滑稽で人気を得つつあった西山宗因率いる談林俳諧の二派が競い合っていたころである。

1674年(延宝2年)の春、芭蕉は伊賀上野へ帰郷した折、北村季吟から免許皆伝の証として、秘伝である俳諧論書『埋木』を授与された。一方で翌1675年には、江戸に来遊した西山宗因を歓迎して句会を開いている。芭蕉は結局季吟による貞門俳諧から談林俳諧に転向した。やがて俳諧宗匠としての地位を確立していく。

その頃、1677年夏に詠んだ句に近江蚊帳がでてくる。

  
近江蚊屋 汗やさざ波 夜の床

さざ波は琵琶湖のこと。琵琶湖を思わせたのは蚊帳の青さであろうか、あるいはそれをもたらした近江商人であったろうか。

間もなく芭蕉は文学としての俳諧を志し、都心を離れて深川村に隠棲した。佗びと風雅を求める生活に入ったのは芭蕉37歳の時のことである。この深川の住まいには門人から贈られた芭蕉が見事に茂って、近所の人々は「芭蕉の庵」と呼んだ。

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1684四年(貞享元年)野ざらし紀行の旅

41歳の秋、芭蕉は俳諧の道を旅に求めることにした。以降、大坂で客死するまでの10年を漂白の旅で過ごす。


  
野ざらしを 心に風の しむ身かな

野ざらし紀行のはじまりである。
伊勢神宮から大和、山城、近江、美濃と時計回りに一周し、名古屋でしばらく過ごしたのち、伊賀に戻って新年を迎える。近江路の中山道を北上し不破の関跡に至るまで、野ざらし紀行には一句ものこしていない。

翌1685年、奈良興福寺の薪能、二月堂お水取りを見物した芭蕉は、京都鳴瀧の富豪三井秋風の別荘に半月滞在した後、伏見の西岸寺任口上人を訪ねた後、3月下旬に大津に入り、4月に江戸に戻った。
大津へ向かう途中の小関峠道で、芭蕉は小さく可憐なスミレを見つけて膝を折る。近江での芭蕉第一作である。


  
山路来て 何やらゆかし 菫草

近江に入って3句が見える。

  
辛崎の 松は花より 朧(おぼろ)にて

辛崎の松とは近江八景の「唐崎の夜雨」にでてくる唐崎神社の松である。現代の松は大正時代に植えられた三代目だが、16世紀末に植えたと伝わる二代目の松は湖上まで枝が伸びる巨木だったという。

大津宿から西方、湖岸沿いに唐崎を望み、春かすみの中にたたずむ辛崎の松は、左遠方山手に見える三井寺の桜よりおぼろげにみえた。


  
つつじ生けて その陰に 干鱈(ひだら) 割く女

芭蕉は東海道の草津と水口の間、石部の茶屋で休んでいた時、桶に生けたツツジの脇で昼食に食べるのか、焼いた干鱈をむしる女が目にとまった。干鱈は当時も質素な食べ物であった。石部の真明寺にかなり読みづらくなった句碑があるという。字余りが気になるのは素人のあさはかか。


  
命二つの 中にいきたる 桜かな

旅の途中水口にて19年振りに土芳という、芭蕉の最初の弟子と再会した。土芳とは服部半左衛門のことで、弟子当時は9歳であった。水口は、秀吉が甲賀支配のために築かせた岡山城の城下町である。後に徳川家康は東海道の宿駅に指定、以後甲賀の中心都市として発展した。
約1200年の歴史を誇る名刹大岡寺(だいこうじ)の境内にこの句碑がある。

1687年(貞享4年)の夏、芭蕉は江戸にあって二度目の長旅を計画していた。再び関西をめぐる「笈の小文」の旅である。こころは既に近江にあった。琵琶湖の葦の根本に作る鳰(にお)の巣でも見に行ってみようかと、友に旅の計画を打ち明けた。鳰はカイツブリのことで琵琶湖に多く棲息する。よって琵琶湖のことを「鳰の海」という。葦と鳰をみるには近江八幡の水郷がよい。


  
五月雨に 鳰の浮巣を 見にゆかん

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1687年(貞享4年)笈の小文の旅

それから半年後の10月、芭蕉は江戸を発ち名古屋から伊賀上野に帰郷した。故郷で年を越し、あけて1688年、吉野、高野山、奈良、大坂、須磨明石をみて歩く。この明石までの旅の記録が「笈の小文」である。帰路は4月に京都にはいり、5月から6月にかけて大津に滞在している。
岐阜で1ヵ月過ごしたのち、7月上旬に名古屋に戻り8月からの更科紀行の旅に備えた。

1688年(貞享5年 ・元禄元年)梅雨どき

芭蕉が大津に泊まったのは五月雨(さみだれ)の時期、つまり梅雨どきで、蛍の季節でもある。特に瀬田の源氏蛍は大型で明るく、青白い冷たい光が水面に映ると数が2倍にふえて、その美しさは格別であった。瀬田の唐橋から石山寺まで、瀬田川の両岸は源氏蛍で満ち溢れていたことであろう。今もその間を屋形船が往復する。


  五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋
  
草の葉を 落つるより飛ぶ 螢哉
  
目に残る 吉野を瀬田の 螢哉
  
この螢 田毎の月に くらべみん

瀬田川に群舞する蛍の光をみて「田毎の月」に思いを馳せる。信州姨捨山の麓の千枚田に映る月影も、蛍の光の数ほどに明るいことであろう。3ヵ月後の更科の旅で、芭蕉は実際に中秋の田毎の月をみる。

この頃芭蕉は大津で社交にも精を出した。


  世の夏や 湖水に浮む 浪の上       (井狩昨卜亭に招かれて)
  海は晴れて 比叡降り残す 五月哉    (苗村宰陀の水楼に招かれて)
  夕顔や 秋はいろいろの 瓢(ふくべ)哉 (苗村宰陀宅での挨拶吟。ふくべは夕顔の実)
  鼓子花(ひるがお)の 短夜眠る 昼間哉 (奇香亭の主への挨拶吟)

6月上旬の頃、彦根から岐阜への途中、床の山から彦根の門人李由に、彼のいる明照寺には立ち寄らずに帰る断りを書き送った。


  
昼顔に 昼寝せうもの 床の山

床の山は彦根の東方、鍋尻山をいい近江の国の枕詞となっている。椀を伏せたような小さな山ですそを芹川が流れる。万葉集には「鳥籠の山」と出ている。鳥居本には「昼寝塚」というのがあってこの句碑が立ってある。



1688年(貞享5年・元禄元年)8月 更科紀行の旅

名古屋に戻ってわずか1ヵ月後の8月、芭蕉は木曾、更科の姥捨て山にむけて立ち、浅間山を経て8月の下旬に江戸に戻った。芭蕉には何か考えるところがあったらしい。笈の小文の旅は快適すぎた。芭蕉庵に隠れ棲んだのは世俗を避けたからではなかったか。笈の小文の旅では行く先々で歓待を受けた。それに甘んじていた自分は反体制・反世俗の理念と矛盾的ではなかったか、と。その反省が木曽路へ向かわせたのだという。そして更科紀行は奥の細道の前奏曲でもあった。



1689年(元禄2年)奥の細道の旅

この年3月、いよいよ蝦夷や越の地へ歌枕を訪ねて「奥の細道」の旅に出かける。東海道や中山道のように道は開けてはいない。今までのように行くところに門下が待ち受けていることもない。その理由でこそ奥の細道を選んだのだ。

残念ながらここでは滋賀県の出番がない。奥の細道は9月大垣で終わるが、そこで招かれた大垣藩士高岡三郎(俳号斜嶺)亭の戸を開けると、西方に孤立した伊吹山の姿があった。花も雪にもよらず秋の月さえも不要なほど、毅然とした孤山の徳を芭蕉に感じさせたのだった。


  
そのままよ 月もたのまじ 伊吹山

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1690年(元禄3年) 近江・湖南に過ごす

6ヵ月に及ぶ奥羽・北陸の長旅を終えた芭蕉は故郷伊賀上野に帰ったのであるが、元旦はぜひ近江で迎えたいと、1689年の暮れには膳所にある義仲寺の草庵にやってきた。結局1691年(元禄4年)の晩秋に江戸に発つまで2年近く、湖南地方に居座ることになってしまった。

この期間を、芭蕉がわび・軽み・新しみを追求していった充実期とみることができる。その場所として近江の地を選んだのは、風雅を解する人々と美しい鳰の海の景観を、芭蕉はこよなく愛していたからであろう。

1689年も暮れようとするころ、芭蕉は智月という俳諧をたしなむ老尼を訪ねた。智月尼はあとにでてくる蕉門の一人乙州の母で、芭蕉の身辺をいろいろと面倒をみていた。智月から、己音(おのがね)の少将という歌人がこの近くに隠棲していたという話しを聞いて、


  
少将の 尼の話や 志賀の雪

と詠んでいる。この頃膳所にて詠んだ句にはなんとなく年の瀬の生活のにおいがする。


  
これや世の 煤に染まらぬ 古合子
  
何にこの 師走の市に ゆく烏
  
霰せば 網代の 氷魚(ひお)を 煮て出さん


氷魚は鮎の稚魚のことで氷のように透き通ってみえる。瀬田川の急流に網代を仕掛けて捕った。味は美味で平安朝のころは御所に献上されたという。

翌1690年(元禄3年)、芭蕉は元旦を琵琶湖のほとりでくつろぐ。
元旦の作に、都の春の風景を詠んだ句がある。風景といってもこも薦を着た都の乞食であった。西行のことを思っている。


  
薦を着て 誰人(たれひと)います 花の春

芭蕉の門人にちょっと変わった男がいた。大津、三井寺生まれの路通という放浪僻のある乞食坊主である。古典に精通して教養はあるのに素行が悪くて芭蕉を怒らせることがあった。芭蕉もいささかもてあまして、「しっかり勉強してこい」と、陸奥への旅に追い出すことにした。


  
草枕 まことの華見 しても来よ

3日には伊賀上野に帰り、三月再び義仲寺の草庵に戻ってくる。伊賀から膳所に来る道すがら、雉子を詠んだ句がみえる。蛇をからませるとは生々しい。808谷27曲がりといわれた鈴鹿峠あたりのことか。


  
蛇食ふと 聞けばおそろし 雉子の声

膳所に行く人に贈ったとして次の句があるが、誰なのかはわかっていない。

  
かわうその 祭見て来よ 瀬田の奥

獺は魚を捕獲してもすぐには食べないで、巣の上や川岸に並べて楽しむといわれており、これを獺の祭とよんでいる。カイツブリといいカワウソといい、どちらも愛嬌のある動物だ。

  
四方より 花吹き入れて 鳰の波

この句は膳所の医師で芭蕉門人の一人、浜田珍夕(のちに洒堂)の住居「洒楽堂」に招かれたときの吟である。この家を賞した『洒楽堂の記』には湖南のエキスが詰め込まれている。


おものの浦は、瀬田・唐崎を左右の袖のごとくし、湖をいだきて三上山に向ふ。湖は琵琶の 形に似たれば、松のひびき波をしらぶ。比叡の山・比良の高根をななめに見て、音羽・石山を肩のあたりになむ置けり。長等の花を髪にかざして、鏡山は月を粧ふ。

おものの浦はもと膳所城が琵琶湖に突き出して立っていた浜。三上山は野洲に位置する近江富士。長等山は三井寺の裏山で桜の名所、鏡山は月の名所である。春の近江のあでやかな風景が目に浮かぶ。完璧なセッティングに囲まれた洒楽堂の主、珍夕の風流を称えたものである。

なぜか湖西の白髪神社の境内にも1字違いの句碑がある。


  
四方より 花吹き入れて 鳰の湖

なお、酒落堂の跡といわれる尼寺、戒林庵の境内にも芭蕉句碑がある。

  
木のもとに 汁も膾(なます)も 桜かな

もとは3月2日伊賀上野での花見の句だが、芭蕉はこの句が気に入って、再び酒落堂をおとずれた時、珍夕、曲水とで作った歌仙(36句)の発句に使っている。


  
行く春を 近江の人と 惜しみける

酒落堂に逗留時、芭蕉は唐崎を訪れ船遊びを楽しんだ。春の近江の野は一面菜の花の絨毯で敷きつめられて美しい。船を浮かべて、仲間で春の景観の国自慢でもしあったのであろう。
この句が近江で詠まれたから「近江の人」になったのは自然であるとして、場所に拘わらず一般的に、「行く春を惜しむ」にはどの国や人々がもっとも好ましいかと聞かれたとき、芭蕉も司馬遼太郎も「近江にかぎる」といった、とか。

芭蕉は4月1日に石山寺に参詣して源氏の間を見た。私が見た、宙を見つめて正座する小柄な紫式部の人形を、芭蕉もみたものか、どうか。句自体は清少納言を引用している。私には直感的に紫で式部を掛けたとみたが素人の深読みか。

  
曙は まだ紫に ほととぎす

  
春は曙。やうやう白くなりゆく山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。

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1690年(元禄3年)4月‐7月 幻住庵 

石山寺の奥、国分山中にある近津尾神社の境内に小さな庵が立っていた。8年前まで菅沼曲水の叔父、菅沼定知の草庵であったものが、定知の死後なかばうち捨てられていたものである。名を幻住庵という。菅沼曲水は膳所藩の重臣で、近江蕉門の重鎮でもある。芭蕉の湖南地方の滞在を経済的に支えてきた最大のパトロンであった。

4月6日、芭蕉は曲水のすすめに応じてその幻住庵に住んでみることにした。神社の境内には大きな椎木があってうっそうとしている。庵のまわりには蛇が多そうだが、しかたがない。とりあえず落ち着くことにしよう。


  
先ず頼む 椎の木も有り 夏木立
  
夏草に 富貴を飾れ 蛇の衣
  
夏草や 我先達ちて 蛇狩らん


この時代、瀬田の唐橋付近では梅雨の季節になると蛍見の舟がでて、人々は酒を飲みながら蛍の光が水面に乱舞するのを見て楽しんだ。花見に酒。蛍も酒の肴になることだってある。
今も唐橋の南たもとには数軒の宿の桟敷が出ていて屋形船が手持ちぶさたにつながれている。


  
蛍見や 船頭酔うて おぼつかな
  
己が火を 木々に蛍や 花の宿


2年前の1688年(元禄元年)にも芭蕉は瀬田を訪れ、蛍が田毎の月のようだと感激していた。よほど気に入ったとみえる。昔は近江のいたるところに源氏蛍が飛び交っていた。今は探さなければならない。そのなかでも山東、長浜、守山では蛍の保護運動が進められていると聞く。瀬田川流域はどうなのか。熱をもたない光は貴重である。

旧暦の7月といえばもう秋である。幻住庵での句はなんとなくすべてもの寂しい。
新暦でいえば8月、夏の終わりである。少年のころ夏休みの後半になるといつもセンチメンタルな気分におちいった。

  
夕にも 朝にもつかず 瓜の花
  
猪も ともに吹かるる 野わき分かな
  
我が宿は 蚊の小さきを 馳走かな
  
やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声
  
こちら向け 我もさびしき 秋の暮
  
玉祭り 今日も焼場の 煙哉


ここでしばらく落ち着く予定であったが、幻住庵には3ヵ月余り滞在しただけで、7月23日にはそこを出て義仲寺に移ってしまった。余り気に入っていなかったという説もある。その庵は芭蕉の死後、粟津へ移築され、曲水の娘が尼寺を開いて引き継いだ。庵は現存していないが尼寺は粟津幻住庵とよばれている。他方、現在国分山にあるのは平成3年に復元されたもので、平成幻住庵と名づけられたそうだ。

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1690年(元禄3年)7月‐9月 義仲寺無名庵

7月下旬幻住庵を離れ、9月まで膳所義仲寺に滞在した。
8月義仲寺での作。47歳になった芭蕉にもめっきり白髪がふえた。


  
白髪抜く 枕の下や きりぎりす (きりぎりすはコオロギのこと

8月には義仲寺で近江門人と仲秋の月見の会を開いている。8月15日の月見は欠かさない。


  
名月や 座に美しき 顔もなし(月見する 座に美しき 顔もなし)

膳所の伊勢屋主人、水田正秀亭で初めての句会がもたれた。みんな姿勢を正して緊張ぎみである。正秀は、芭蕉の義仲寺での生活を援助し無名庵を建てた。


  
月代や 膝に手を置く 宵の宿

9月には千那に招かれて2週間ほど堅田、本福寺へでかけている。本福寺の住職、三上千那は近江で最も早く芭蕉の弟子になった人物である。

あいにくそこで風邪を引いてしまった。その夜、北へ向かう雁の群れから外れて湖に落ちていく雁を見た。その雁も病んでいたのであろう。
「堅田の落雁」は近江八景の1つで芭蕉はそのモチーフを自分の病に結び付けた。

  
病雁(やむかり)の 夜寒に落ちて 旅寝哉

次はいずれも同じく堅田での作である。


  
朝茶飲む 僧静かなり 菊の花 (堅田祥瑞寺にて)
  
海士の屋は 小海老にまじる いとど哉 (「いとど」とはエビコオロギのこと)

義仲寺に、茶の湯を好む人の訪問を受けて粟津の浜の菊を摘ませて振舞った。粟津は義仲寺に近い湖岸の地で、近江八景「粟津の青嵐」で知られる。


  
蝶も来て 酢を吸ふ菊の なます哉

この時期の義仲寺での作として次がある。

  
稲妻に 悟らぬ人の 貴さよ
  
草の戸を 知れや穂蓼(ほだて)に 唐辛子 (草の戸は無名庵)

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1690(元禄3年)師走 ― 1691年(元禄4年)正月 大津乙訓宅


9月30日より伊賀上野へ帰郷、年末は大津の川井乙州の新宅に招かれそこで年を越した。乙州は、芭蕉に「少将の尼の話」をした智月尼の子で、大津藩伝馬役をつとめていた。軽みをよく理解していた大津蕉門の重鎮である。「笈の小文」は、芭蕉の死後乙州が編纂して成ったものである。

乙州の新宅にて芭蕉は気楽に忘年会を楽しんでいる。

  
人に家を 買はせて我は 年忘れ

  
比良三上 雪さしわたせ さぎの橋

琵琶湖をまたいで、湖西の比良と湖東の三上山をつなぐ白鷺のような白い橋を架けて欲しい。琵琶湖大橋など小さい小さい。

  
かくれけり 師走の海の かいつぶり

かいつぶりはひょうきんな格好をして急に頭を水中につっこんだと思うと羽毛団子のようなお尻を一瞬見せてすっと消えてしまう。しばらくして、思わぬところにひょこっと水面に顔を出し、なにくわぬ顔をしてすましている。愛らしい。
師走の句がさらにふたつ。

  
三尺の 山も嵐の 木の葉哉
  
たふとさや 雪降らぬ日も 蓑と笠

明けて1691年(元禄4年)の正月、江戸に出発する乙州のために餞別として次の句を与えた。丸子とはとろろ汁が名物の静岡県、東海道の宿駅である。

  
梅若菜 丸子の宿の とろろ汁

正月の間に詠んだ句として、

  
大津絵の 筆のはじめは 何仏
  
木曽の情 雪や生えぬく 春の草
  
ひごろ憎き からす烏も雪の 朝哉

がある。最初の句は近江紀行「大津絵」のところでも触れた。当時は仏画が主だった。
木曽とは木曽義仲。木曽で平家追討の兵を挙げ都から西海へ追い落とす手柄をたてたが、その威勢を恐れた朝廷と源頼朝によって都を追われ、大津の粟津の原で無念の死を遂げた。義仲寺の庭にその情念をみる。

芭蕉は正月を大津で過ごした後再び伊賀上野に帰郷した。そこに3ヵ月滞在したのち、四月に京都嵯峨野の
落柿舎に赴き「嵯峨日記」の執筆に取りかかかる。芭蕉が最後に義仲寺の草庵にもどるのは6月10日のことであった。それから3か月あまり無名庵にて逗留し、9月28日江戸へ発つ。

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1691年(元禄4年)6月 ―9月 再び義仲寺無名庵

7月の作として。


  
牛部屋に 蚊の声暗き 残暑哉

今年も8月15日、月見の会を義仲寺の草庵に催している。去年の句会では、
―― 月はきれいだが座にいる連中の顔はひどい ――
と、すこしふざけてみたが今年はまじめにいこうと思う。

  
米くるる 友を今宵の 月の客
  
三井寺の 門敲かばや 今日の月

翌日16日は堅田へ船でくりだし、竹内茂兵衛成秀の成秀亭で十六夜の観月句会に参加した。芭蕉は月見に忙しい。次の3句が残っている。

  
錠明けて 月さし入れよ 浮御堂

浮御堂は満月寺にある湖中の御堂。平安時代湖上の安全を願って千体の阿弥陀仏を祀ったのがはじまりである。堂の錠をあけて千体仏が輝くように堂の中へ月光を入れよ。その月光は湖の対岸はるか東の鏡山から来る。鏡山に上った中秋の名月は、浮御堂に最初の光を当てるというのだ。湖上を走るレーザー光線のごとく。

  
やすやすと 出でていざよふ 月の雲
  
十六夜や 海老煮るほどの 宵の闇

主人成秀は海老を煮て芭蕉らにご馳走した。海老がすぐにゆで上がるように、十六夜もすぐに上ってくるというのである。次は同じく堅田での作。兎苓という豪商の別荘に招かれて、柿やミカンがたわわに実っていた。

  
祖父親 孫の栄えや 柿蜜柑

閏8月、石山寺に参詣し、瀬田川に舟を浮べて名月を愛でた。石山の秋月は近江八景としても名高い。今年は仲秋の名月を二度見ることができる。陰暦ならではのことである。

  
名月は ふたつ過ぎても 瀬田の月

重陽の節句(9月9日)の日も暮れるころ、乙州が庵に酒を届けてくれた。平安時代から重陽の節句の日には長寿を祝って菊花酒という酒を飲む風習があった。この頃は菊が美しい季節である。


  
草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒

9月13日、十三夜の月見の折。この日、芭蕉は石山寺に参詣している。この橋は瀬田の唐橋であろう。

  
橋桁の しのぶ忍は月の  残り哉
  
石山の 石にたばしる 霰哉


9月無名庵にて、金沢の門人句空の訪問を受けての作2句。近江での作ではあるが近江の句ではない。

  
秋の色 糠味噌壷も なかりけり
  
淋しさや 釘に掛けたる きりぎりす

秋、無名庵での句2作。


  
稲雀 茶の木畠や 逃げ処
  
鷹の目も 今や暮れぬと 鳴くうずら


芭蕉の門人には農民もいた。粟津の荘右衛門、山姿亭を訪れてそばの花が見事だった。


  
蕎麦も見て けなりがらせ  野良の萩

秋、夜はかなり冷え込むようになってきた。膳所の菅沼曲水亭で、「夜寒」という題で句会を開いた。みずばなをすすりながら食べるあついウドンやソーメンはうまいものだ。

  
煮麺の 下焚きたつる 夜寒哉

9月28日、芭蕉は桃隣を伴って江戸へ向け出発した。途中、門人李由に会うため彦根平田の明照寺に立ち寄っている。近くの農家の風景を詠んで、

  
稲こきの 姥もめでたし 菊の花 (菊は長寿の象徴)

明照寺(浄土宗光明遍照寺)はもと近江の多賀庄にあったが、1599年(慶長4年)に平田に移された。100年の歴史を持つ古刹である。住職は門人李由・河野通賢であった。3年前の1688年6月、笈の小文の帰路訪ねるはずであったが床の山で失礼した。
この時詠んだ2句がある。


  
百歳の 気色を庭の 落葉哉
  
尊がる 涙や染めて 散る紅葉


芭蕉は近江を去った。大垣にはいって、千川邸から伊吹山を見て1句を残している。奥の細道を終えたときも大垣からみた伊吹を詠んだことがあった。岐阜側からみた伊吹山の句ばかりで、近江側での句がない。


  
折々に 伊吹を見ては 冬籠り

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1692年(元禄5年)‐1693年(元禄6年)江戸にて許六との交友

1ヵ月の旅の末、10月29日に江戸に戻った芭蕉はその後も近江の門下に接する機会があった。1692年(元禄5年)の8月には彦根藩の森川許六が、桃隣の紹介で芭蕉の門下に入門した。9月には洒堂が芭蕉庵を訪ねている。

10月、赤坂御門外の彦根藩邸に許六を訪ねたとき、芭蕉は許六の絵の才能を認め、許六筆のふよう芙蓉の絵を賛して1句を贈った。


  
霧雨の 空を芙蓉の 天気哉

1693年(元禄6年)4月下旬頃、芭蕉は、郷里に帰ることになった森川許六に「柴門ノ辞」を贈っている。そして5月5日、森川許六は木曽路を経て彦根に出発することになった。芭蕉が贈った別離の句がある。


  
旅人の 心にも似よ 椎の花
  
椎の花の 心にも似よ 木曽の旅
  
憂き人の 旅にも習へ 木曽の蝿



1694年(元禄7年)6月 最期の近江


1694年(元禄7年)5月芭蕉は帰郷のため江戸を発つ。閏5月17日、大津の乙州亭に1泊、膳所に移り曲水亭に四泊した後、京都落柿舎に移る。
5月、膳所の能役者游刀宅で読んだ2句がある。

  
さざ波や 風のかおり薫の 相拍子
  
湖や 暑さを惜しむ 雲の峰


6月15落柿舎から膳所に帰り、7月5日迄義仲寺無名庵に滞在した。その間、正味1ヵ月が芭蕉にとっての最後の近江生活となった。さっそく活発な活動を開始する。6月16日、曲水亭で夜を徹してのはでな句会を催した。

  
夏の夜や 崩れて明けし 冷し物
  
飯あふぐ 嬶が馳走や 夕涼み


場所は不明だが誰かに招かれて食事をした後、満たされた気分でリラックスしている。


  
皿鉢も ほのかに闇の 宵涼み

6月21日、大津の門人木節庵で句会をひらく。木節は医者で、芭蕉の最後を大坂で看取った1人である。曲水亭のときとは打って変わってしんみりとした雰囲気が漂っていた。


  
秋近き 心の寄るや 四畳半

旧暦6月21日といえば、今の7月末ごろ。立秋が8月8日頃だから、旧暦6月下旬は秋近しということになる。季節感がすぐにピンとこない。旧暦の1―3月が春、4―6月が夏、7―9月は秋で、10月はもう冬、と考える方が早いか。

6月、大津の能役者本間主馬の屋敷を訪問して次の3句を残している。

  
ひらひらと 挙ぐる扇や 雲の峰
  
蓮の香を 目にかよはすや 面の鼻
  
稲妻や 顔のところが 薄の穂


7月初旬、義仲寺の草庵を3年ぶりに訪れてみると、草花がしげって足の踏み場もないほどになっていた。


  
道ほそし 相撲取り草の 花の露

7月上旬、木節の宅で厳しい残暑に身をまかせていた。壁に触れるたびに体熱が壁の方向に放流されて冷ややかになる。

  
ひやひやと 壁をふまえて 昼寝哉

芭蕉はこれより先、二度と近江で句を作ることはなかった。2ヵ月後、ただ無言のうちに義仲寺に帰ってくる。

9月より芭蕉の健康は急速に悪化した。近江湖南の風光と人をこよなく愛した芭蕉の最期の2句を挙げておく。9月28日、芭蕉が起きて創作した最後の作品、場所は大坂である。

  
秋深き 隣は何を する人ぞ

芭蕉は10月8日夜更け、看病中の呑舟にこの句を代筆させた。芭蕉最後の句である。

  
旅に病で 夢は枯野を かけめぐる

12日午後4時、芭蕉は南御堂前花屋仁右衛門宅で51歳の生涯を閉じた。夜、遺言が執行され、遺骸は川舟で伏見から大津へ運ばれて乙州宅で通夜が執り行われた。翌日、義仲寺にて、木曽義仲に並んで埋葬された。門人80人を含む300余人が会葬したという。

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資料   掲載芭蕉句一覧

近江蚊屋 汗やさざ波 夜の床
野ざらしを 心に風の しむ身かな
山路来て 何やらゆかし 菫草
辛崎の 松は花より 朧にて
つつじ生けて その陰に干鱈 割く女
命二つの 中にいきたる 桜かな
五月雨に 鳰の浮巣を 見にゆかん
五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋
草の葉を 落つるより飛ぶ 螢哉
目に残る 吉野を瀬田の 螢哉
この螢 田毎の月に くらべみん
世の夏や 湖水に浮む 浪の上
海は晴れて 比叡降り残す 五月哉
夕顔や 秋はいろいろの 瓢哉 
鼓子花の 短夜眠る 昼間哉 
昼顔に 昼寝せうもの 床の山
そのままよ 月もたのまじ 伊吹山
少将の 尼の話や 志賀の雪
これや世の 煤に染まらぬ 古合子
何にこの 師走の市に ゆく烏
霰せば 網代の氷魚を 煮て出さん
薦を着て 誰人います 花の春
草枕 まことの華見 しても来よ
蛇食ふと 聞けばおそろし 雉子の声
かわうその 祭見て来よ 瀬田の奥
四方より 花吹き入れて 鳰の波
四方より 花吹き入れて 鳰の湖
木のもとに 汁も膾も 桜かな
行く春を 近江の人と 惜しみける
曙は まだ紫に ほととぎす
先ず頼む 椎の木も有り 夏木立
夏草に 富貴を飾れ 蛇の衣
夏草や 我先達ちて 蛇狩らん
蛍見や 船頭酔うて おぼつかな
己が火を 木々に蛍や 花の宿
夕にも 朝にもつかず 瓜の花
猪も ともに吹かるる 野わき分かな
やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声
やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声
やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声
こちら向け 我もさびしき 秋の暮
玉祭り 今日も焼場の 煙哉
白髪抜く 枕の下や きりぎりす
名月や 座に美しき 顔もなし
月見する 座に美しき 顔もなし
月代や 膝に手を置く 宵の宿
病雁の 夜寒に落ちて 旅寝哉
朝茶飲む 僧静かなり 菊の花
海士の屋は 小海老にまじる いとど哉
蝶も来て 酢を吸ふ菊の なます哉
稲妻に 悟らぬ人の 貴さよ
草の戸を 知れや穂蓼に 唐辛子
人に家を 買はせて我は 年忘れ
比良三上 雪さしわたせ さぎの橋
かくれけり 師走の海の かいつぶり
三尺の 山も嵐の 木の葉哉
たふとさや 雪降らぬ日も 蓑と笠
梅若菜 丸子の宿の とろろ汁
大津絵の 筆のはじめは 何仏
木曽の情 雪や生えぬく 春の草
ひごろ憎き からす烏も雪の 朝哉
牛部屋に 蚊の声暗き 残暑哉
米くるる 友を今宵の 月の客
三井寺の 門敲かばや 今日の月
錠明けて 月さし入れよ 浮御堂
やすやすと 出でていざよふ 月の雲
十六夜や 海老煮るほどの 宵の闇
祖父親 孫の栄えや 柿蜜柑
名月は ふたつ過ぎても 瀬田の月
草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒
橋桁の しのぶ忍は月の  残り哉
石山の 石にたばしる 霰哉
秋の色 糠味噌壷も なかりけり
淋しさや 釘に掛けたる きりぎりす
稲雀 茶の木畠や 逃げ処  
鷹の目も 今や暮れぬと 鳴くうずら
蕎麦も見て けなりがらせ  野良の萩
煮麺の 下焚きたつる 夜寒哉
稲こきの 姥もめでたし 菊の花
百歳の 気色を庭の 落葉哉
尊がる 涙や染めて 散る紅葉
折々に 伊吹を見ては 冬籠り
霧雨の 空を芙蓉の 天気哉
旅人の 心にも似よ 椎の花
椎の花の 心にも似よ 木曽の旅
憂き人の 旅にも習へ 木曽の蝿
さざ波や 風のかおり薫の 相拍子
湖や 暑さを惜しむ 雲の峰
夏の夜や 崩れて明けし 冷し物
飯あふぐ 嬶が馳走や 夕涼み
皿鉢も ほのかに闇の 宵涼み
秋近き 心の寄るや 四畳半
ひらひらと 挙ぐる扇や 雲の峰
蓮の香を 目にかよはすや 面の鼻
稲妻や 顔のところが 薄の穂
道ほそし 相撲取り草の 花の露
ひやひやと 壁をふまえて 昼寝哉
秋深き 隣は何を する人ぞ
旅に病で 夢は枯野を かけめぐる

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芭蕉関係人物史

松永貞徳 (1571〜1653)
江戸初期の京都の俳人で歌人。名は勝熊、号は長頭丸、逍遊軒など。細川幽斎に和歌を、里村紹巴に連歌を学んだ。和歌や歌学を地下(じげ)の人々に教え、狂歌も近世初期第一人者。「俳諧御傘」を著して俳諧の式目を定め貞門俳諧の祖となる。花の下宗匠。門人に安原貞室、北村季吟らの七哲がある。編著「新増犬筑波集」「紅梅千句」など。

安原貞室 (1610〜1673)
江戸前期の俳人。名は正章。号は一嚢軒など。京都の人で紙商。松永貞徳の高弟。松江重頼との論争は有名。貞徳没後はその俳統の相続者のように振舞った。編著「玉海集」「正章千句」「かたこと」など。
芭蕉の師の北村季吟は貞室の門弟から貞徳の門に入った。

北村季吟 (1624〜1705)
江戸時代の俳人で歌人.号は拾穂軒、湖月亭など。近江野洲の医者の家に生まれ、16歳で京に出て、安原貞室に師事して俳諧を学ぶ。19歳で、貞室の師松永貞徳の門に入る。25歳で俳書「山の井」を出版。60歳で、新玉津神社宮司、66歳の時幕府の歌学所に入って、法印にまで昇進。「徒然草文段抄」「源氏物語湖月抄」「枕草子春曙抄」「八代集抄」「万葉集集穂抄」など古典注釈に精力を傾注し、その文学的功績は大きい。「俳諧埋木」は、俳諧の論書として有名。 実作者としての才能は乏しく、優れた作品はない。芭蕉は、旧主蝉吟の縁故で季吟の門下に入り、季吟の秘伝であり免許皆伝の証である「埋木」を与えられたといわれている。芭蕉は、季吟を通じて俳諧に進むことになったが、後にはこれを遥かに越える高みに上ることになる。

森川許六 (1656〜1715)
本名森川百仲。彦根藩士、通称は五助という。桃隣の紹介で元禄5年8月に芭蕉の門を叩いて入門。芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。赤坂の彦根藩屋敷に芭蕉他を招いて句会を催している。許六の名は彼が六芸全てに優れていたということで芭蕉が命名したと言われている。俳文集「本朝文選」や「許六集」などをあらわし、彦根俳壇を主導した。

許六はまた狩野派の画技に通じ、「柴門の辞」にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。彦根藩の菩提寺である竜潭寺方丈の襖絵を残している。
両人は師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたようである。

直江木導(1665〜1723)
彦根藩士、直江は養家の姓。芭蕉の晩年に門下に入った。許六は同門先輩にあたる。唯一の句集として「水の音」を残す。姉川の句碑にある句「春風や麦の中行く水の音」が出世作。許六が芭蕉にその句を紹介したところ、芭蕉は「古池や蛙飛込む水の音」にも劣らぬ万代不易の名吟であるといたくほめた。

李由 
李由は彦根市平田の浄土宗光明遍照寺(明照寺)の住職・河野通賢で、蕉門入門のため、元禄4年5月に京都嵯峨野の落柿舎で「嵯峨日記」を執筆中の芭蕉を訪ねた。芭蕉は同じ年の10月、江戸への帰途の途中に明照寺に立ち寄っている。

酒堂 浜田珍夕(珍碩)
近江膳所の医師で、菅沼曲水と並んで近江蕉門の重鎮。洒楽堂住人で、芭蕉が招かれて、ここを讃美した「洒楽堂の記」がある。珍夕は初期の号で後に洒堂と改号した。努力の人で、元禄5年秋には、師を訪ねて江戸に上って俳道修業の悩みを訴えたりしている。芭蕉の軽みを理解していたとされる。洒堂は後に大坂に出てプロの俳諧師となる。ここで同門との間で勢力争いの確執を起こし、芭蕉は元禄7年、仲裁のために大坂に赴かねばならなかった。その元禄7年秋に、洒堂は死の直前の芭蕉と一緒に一夜を過した。

貞春 
珍碩(洒堂)の母親。

菅沼曲水(曲翠) (1659〜1717)
本名は菅沼外記定常、膳所藩の重臣。菅沼曲水は、近江蕉門の重鎮でもあり、膳所における芭蕉の経済的支援をした。芭蕉が3ヵ月ほど住んだ幻住庵は曲水の叔父菅沼修理定知の草庵である。「おもふ事 だまって居るか 蟾(ひきがえる)」と詠んだほど潔癖・実直な人物で、晩年58歳のとき、藩主本多康命にとりいって私腹を肥やす奸臣曽我権太夫を見かねて、槍で一突きに突き殺し自らもその場で自害して果てた。

川井乙州(おとくに)
大津蕉門の重鎮、川井又七。大津藩伝馬役。役目柄、芭蕉と同様、旅を住みかとする生活であった。芭蕉の名句「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」は、乙州が江戸に出発する時に詠んだ餞別の句である。芭蕉晩期に提唱する「軽み」をよく理解していた門人の一人といわれている。また、職業柄、蕉風普及にも貢献した。「笈の小文」は、芭蕉の死後乙州が編纂して成ったものである。芭蕉の身辺を生活面でいろいろ配慮を施した智月尼は乙州の母である。

智月
乙州の母。 大津膳所の門人で膳所藩の伝馬役、川井佐左衛門の妻。芭蕉の身辺について何くれと無く面倒を見た。芭蕉が湖南での生活を好んだのは彼女のような親身に支援してくれるサポーターの存在があったためと思われる。

天野桃隣(1639〜1719)
本名天野勘兵衛。芭蕉の縁者だが関係は不明。許六を芭蕉に紹介したのは桃隣。彼は、芭蕉没後元禄9年になって師の「奥の細道」の後をたどり、「陸奥衛」を著した。「寒からぬ露や牡丹の花の蜜」は桃隣の新居祝いに芭蕉が贈った句。

水田正秀(孫右衛門)(生年不詳)
膳所の「ひさご」連衆の有力門人。伊勢屋主人。膳所義仲寺における芭蕉の物質的生活のサポーターであった。義仲寺境内の草庵は正秀らによる醵金で作られた。

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