史跡 箱根旧街道 この旧街道は、慶長9年(1604)江戸幕府が整備した「五街道」の一つ、東海道の一部である。 箱根路には、古代の碓氷道・中世の足柄道・近世の湯坂道などがあったが、延暦21年(802)富士山の噫出物で埋もれた湯坂道に代って、現在の経路をとるようになった。 東海道の箱根山中は、道幅が狭く二間以下(3.6m)の所もあり急坂が多いので竹を敷き滑り止めとした。 寛永12年(1635)参勤交代の制度が布かれ、諸大名を始め一般旅人の通行が盛んになった。延宝8年(1680)頃から永久釣なものとして石が敷きつめられたといわれる石畳などの貴重な資料が一部残っている。 ここから西、下り坂約600mが、当時のまま現存している。昭和47年4月3日建立 文化庁・函南町 |
正岡子規 三島の町に入れば小川に菜を洗ふ女のさまもややなまめきて見ゆ 面白や どの橋からも 秋の不二 「旅の旅の旅」(明治25年 作) より 若山牧水 宿はづれを清らかな川が流れ、其処の橋から富士がよく見えた。 沼津の自分の家からだとその前山の愛鷹山が富士の半ばを隠しているが、 三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、富士のみがおほらかに仰がるるのであった。 克明に晴れた朝空に、まったく眩しいほどに、その山の雪が輝いていた。 「箱根と富士」(大正9年 作)より 司馬遼太郎 この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある。 むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。 その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のようにそのすきまに多くの水脈をつくった。 融けた雪は山体に浸み入り、水脈に入り、はるかに地下をながれて、溶岩台地の最後の縁辺である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して涌くのである。 小説新潮昭和61年2月号掲載 「裾野の水、三島一泊二日の記」より |
川廓町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって東川は狩野川に接し、背後は沼津城の外郭に接した狭い町であった。「川廓」は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城廓に由来して名付けられたものと考えられる。 |
昭和41年、富士、吉原、鷹岡の二市一町が合併して現富士市となりこの周辺は、中心市街地として依田原新田区画整理事業により整備されましたが、それに伴い旧東海道がこの地で分断されました。この西側に東海道の碑が置かれ平成13年東海道400年祭に因み今のように改修されました。砂利道に敷かれた細長い石は、ここより南方350m青島地先より出土した当時の石橋の石です。この上を大勢の旅人や荷車、参勤交代の大名行列が通ったことでしょう。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんが渡ったかもしれません。すべすべした石の表面を触ってみると賑わった往時が偲ばれます。 吉原地区まちづくり推進会議 |
野ざらし紀行 富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、 猿を聞人捨子に秋の風いかに いかにぞや、汝父に悪まれたる歟、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。 |
(旧東海道) この峠は天保14年(1843年)9月中頃から12月初旬にかけて普請をして同月7日から通行開始した 旧往還はここより東南の崖上(七難坂)を辿った 是より新坂 |
昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道 「志ミづ道」の分岐点であることから 「追分」と呼ばれていた。周囲には数軒の家が並び街道の両際は松並木が続き、その外側には田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。 往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが、重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。 古来、牛道と言われた名残りを今にとどめている東海道の史跡である。 |
東海道という言葉は崇神天皇10年9月、四道将軍として武淳川別(たけぬなわけ)東海(うみつみち)に派遣した日本書紀の記事に始まる。ヤマトタケルが東征の道に草薙剣の物語りを残し、古代大和朝廷確立と律令国家のための重要路として、防人(さきもり)達が遠く九州に下り、調(ちょう)を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。 中世には「いざ鎌倉」のために整備された。徳川時代になり東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。慶長十二年(1607年)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを、七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)を架け追分上原を通り駿府横田迄駅路(正規の道)となった。善男善女が旅を急ぎ、大名行列が通り村人は助郷の課役に難渋し、幾多の物語を残した東海道も国の発展と共に昔日の面影は消えてしまったが、ここに日本の歴史と共に歩いて来た古道が有ったことを末永く記憶の中に留めておきたい。 昭和59年1月 有度まちづくり推進委員会 有度公民館歴史クラブ |