2000年8月9日、私は初めて一人旅をした。着替え数枚の他は地図とカメラ道具一式がすべてである。東京から新幹線で米原まで約2時間半。米原に2時に着き北陸本線で長浜に行く。そこでトヨタのヴィッツを借りて逆時計まわりに琵琶湖を一回りする計画だ。なんともいえない開放感だった。
滋賀は私の故郷である。


概観

滋賀県は明治までは近江の国と言われた。近江は古くは「淡海」と記された。同じく淡海(湖)である浜名湖のある国を、大和の都から遠い「遠つ淡海」という意味で遠江(とおとうみ)とよび、都に近い「近つ淡海」を縮めて近江と記されることになった。

滋賀県は、日本列島のほぼ中央、東日本と西日本、日本海側と太平洋側を結ぶ日本のくびれに位置する。伊吹、鈴鹿、比良の山々に囲まれた盆地の中央を、琵琶の形をした日本最大の湖が占める。その東西南北に分けた地域を各々湖東、湖西、湖南、湖北地方と呼んだ。最近になってこの四分法に代わり滋賀を七区域に分けて呼ぶようになっている。湖北、湖西はそのままで、「湖東」を二分して、彦根を含む「湖東」と、八日市、近江八幡を含む「東近江」に分けた。また「湖南」は「大津・志賀」「湖南」「甲賀」に三分された。私の近江紀行もこの新しい区分に従うことにする。

近江には古代遺跡が豊富である。二十一世紀に入った早々、従来東海地方と考えられていた前方後方墳の発祥地が近江である可能性が強まったという記事が報じられた。高島郡新旭町にある熊野本古墳群で、前方後方墳が三世紀前半に、前方後円墳が三世紀半ばに相次いで築かれた可能性が高いことがわかったという。三世紀前半といえば卑弥呼が邪馬台国の女王として君臨していたころである。同古墳群は日本海ルートの交易を握った邪馬台国の、クニの一つの有力者一族が築造した可能性があるという。

飛鳥時代においても高穴穂宮(大津市穴太)が築かれ、下っては天智天皇の大津宮が置かれ、「近江令」「庚午年籍」が定められるなど政治・文化の面で重要な地位を占めた。蒲生野でかわされた額田女王と大海人皇子の相聞歌は余りにも有名である。またこの頃百済の滅亡を受けて朝鮮半島から多くの人が渡来した。これらの人々は大和朝廷による日本という国の原型を形成する時期にあたって、高度な知識と技術をもたらし古代国家の成立に貢献した。 

明治にはいると廃藩置県によって、近江の国は湖南の大津県と湖北の長浜県に二分された。明治5年に大津県が滋賀県に、長浜県が犬上県に改称されたが、同年両県は統合され近江一国からなる滋賀県となった。明治9年敦賀県の一部を編入し、一時日本海へのアクセスを得たがまもなく五年後に分離されもとの範囲に戻る。

滋賀県は、世界文化遺産である比叡山延暦寺を筆頭に、国宝55件、重要文化財791件を有しその全国比は7%近くを占め、東京、京都、奈良につぎ第4位である。天然記念物・史跡・名勝も64カ所を数え全国の2.5%を占める。滋賀県をこのような史跡と文化財の宝庫にならしめた主な理由は二つに集約されるであろう。一つは琵琶湖の存在であり、他のひとつは朝鮮半島からの渡来人の悠々たる献身ではなかったかと思う。

滋賀県の特産品には、全国的に知られている近江牛、江州米のほか、琵琶湖の淡水魚の佃煮や鮒ずし、近江八幡の丁稚羊羹、ほろ苦さが香ばしい日野の日野菜漬け、狸の置物で知られる信楽焼き、豪放な諷刺・風俗画の大津絵、高島の近江扇子、高級織物の近江上布、高級仏壇の彦根仏壇などがある。

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湖北

長浜

湖北最大の都市、かっての県庁所在地、長浜は羽柴秀吉の楽市城下町が起源である。中山道と北陸を結ぶ北国街道の拠点として交通の要所でもあった。この地は南北朝の頃に京極氏の家臣、今浜氏が拠っていたらしい。天正元年(1573)にこの地の領主となった羽柴秀吉が翌年に築城を開始し、主君信長の「長」の字を使い長浜に改めた。その後柴田勝豊、山内一豊、内藤信成らが城主となったが、元和元年(1615)に城は廃され、建造物や石垣の大半が彦根城建設のために運び出された。現在の天守閣は当時の姿を推定して昭和58年(1983)に再建されたものである。長浜の駅におりたつと西側の琵琶湖畔豊公園のなかに壁の白さが目立つ天守閣が見える。五階建ての姿のよい城で公園のシンボルとしては申し分ないが、堀や石垣といった城の要素を欠く点で彦根城に比べるべくもない。

長浜には「町衆自治」の伝統がある。秀吉が賎ヶ岳の戦いの功に報いて町衆に保護と自立の朱印状を与えたのが基となった。今日では斬新な発想で町の活性化に成功したモデルケースとして注目されている。その象徴的存在が長浜の中心地、札の辻にある
黒壁スクエアである。明治時代に百三十銀行として建てられた洋風、土蔵造り、黒漆喰仕上げの「黒壁銀行」を保存して「ガラス館」に改造した。その周囲には黒壁を基調とした端正な明治調の建物と、白壁に格子を配した伝統的な古い商家とが入り混じって魅力的な町角をつくりあげている。

モダンな店にはガラス工芸品やオルゴール、フランス調カフェ、ケーキなど、木造商家には漬物、扇、味噌、瓢箪、郷土料理などが売られている。女性に人気がありそうなステンドグラスのドールハウスはかわいい。 彩色ガラスのランプをそろえる店の二階軒下には「太閤ひょうたん」という看板の両側に、色や大きさのちがうひょうたん六個がぶら下がっていた。「ガラス館」の斜め向かいは更に艶のある黒壁の「札の辻本舗」で、店先には軒にもとどかんばかりの大きな漫画絵入りの木樽が置いてある。
新旧・和洋の気まぐれな組合わせがこころにくい。

黒壁スクエアの南側は、北国街道沿いに古いままの家並がコマーシャリズムを避けてひっそりと生き長らえている。西に折れてJR北陸線の線路を越えた所に、現存する日本最古の駅舎といわれる
長浜駅舎がある。淡い桃色の壁に、レンガに縁取られた開き窓が規則正しく配列されている。瓦屋根にはレンガの煙突が牛の角のように二本ニョキッと出ていて、開き窓とともに西洋建築であることを誇示しているようでもある。この建物は明治15年、長浜と敦賀の間に開通した鉄道の起点駅としてイギリス人技師により当時の新橋駅を模して造られたという。

黒壁スクエアから西の方向に数筋いくと大通寺前の表参道に出る。大通寺は東本願寺の湖北の拠点で長浜別院ともよばれている。真正面に二層の荘重な山門が参道に立ちはだかるように見える。参道の両側は白壁や格子の町家風の商店が並び、道は正方形の石で敷き詰められている。町おこしの一環として、その一筋を門前町として企画されたことが読み取れる。

駅に戻る途中に完成まじかの曳山展示館らしき建物があった。ここに豪華絢爛な曳山が展示されるのであろう。4月に行われる長浜の曳山まつりは京都・祇園祭、岐阜・高山祭とともに「日本三大山車祭り」(滋賀・長浜曳山祭にかわって埼玉・秩父夜祭が数えられることもある)の一つに数えられ、曳山の舞台で5歳から12歳までの男の子が「子供歌舞伎」を演じる。これにも「日本三大子供歌舞伎」というのがあって、近江長浜、武蔵秩父と加賀小松があげられている。長浜と秩父はいい勝負のようである。ともかくも長浜の曳山祭は城主であった秀吉が、男子の誕生を祝って町民に金子(砂金)を贈ったことから始まったといわれている。秀吉に恩義を感じた町衆は、この金子をもとに曳山を建造した。初めは簡単な造りであったものが、その後しだいに各山組が競って各地の名工を招き、今日のような豪華絢爛な曳山が作られるようになった。その背景には、浜縮緬、ビロード、蚊帳などの商工業により蓄積した長浜町民の富があった。

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国友鉄砲の里

長浜の町から車で10分ほど北東に行ったところが国友鉄砲の故郷である。湖北の寒村国友村と日本で最初の火縄銃製作とを結びつけるには少々説明が要る。

ポルトガルから種子島に鉄砲が伝わったのが天文12年(1543)のことである。 それが日本での製作に至るのに二つのルートがあった。
当時種子島に逗留していた紀州根来寺の杉の坊津田監物が一つを根来寺に持ち帰り、門前の鍛冶芝辻清右衛門につくらせた。 芝辻はその後堺に移り、堺鉄砲鍛冶の基礎を築く。一方、種子島の鉄砲が島津義久から京の将軍、足利義晴に贈られたとき、義晴は管領細川晴元を通して、国友村の鍛冶に製作を命じた。北近江守護の京極氏が自領の国友村の鍛冶を推薦したのだった。

国友鉄砲鍛冶たちは1544年2月にその命を受け6ヵ月後には二挺を完成させた。湖北地方には古くから製鉄技術が伝わっており、国友村の鍛冶は以前から高度な鍛冶技術を持っていたのである。以来、国友鍛冶は堺とともに、信長、秀吉の保護を受けた。まもなく同じ近江の日野でも鉄砲を作るようになるが、堺や日野の鉄砲は国友鉄砲に比し粗で安価であったという。

鉄砲は各地の戦いで使われはじめた。なかでも織田信長は鉄砲の良さを見ぬき、姉川の合戦で鉄砲の二段連撃を試みて成功し、1575年の長篠の合戦では一歩進めて三段連撃で武田騎馬武者隊を撃破した。やがて戦国時代が終わり江戸の大平時代になると武器の需要の減衰とともに国友村の鉄砲鍛冶も衰退していった。

いまでは「 天文十三年創業 鉄砲火薬商 国友源重郎商店」 という板看板を下げる古い造りの屋敷が資料館としてその歴史を伝えているのみである。町のなかに入るとまず家々の立派なたたずまいに驚かされる。瓦や白壁や柱が今建ったばかりのように輝いているのである。どの家にも大きな自然石が置かれている。庭木もよく手入れがなされていて道にはごみひとつ落ちていない。

町役場の前を流れる川の中にまだ新しい司馬遼太郎の文学碑があった。『街道をゆく』からの一文が刻まれている。

国友村は、湖の底のようにしずかな村だった。家並はさすがにりっぱでどの家も伊吹山の霧で洗いつづけているように清らかである。

長浜では今、国友製火縄銃の買い戻し運動を展開中であるという。この里を長浜の更なる活性化運動に組み込もうというのであろう。鉄砲は過去のものとなり、現在は金工彫刻や花火の事業に従事しているというのだが、この町の立派な家並を維持する富は何によって支えられているのか、知りたい気分にならないでもない。
町の北側を流れる姉川の堤防に吉川英治の文学碑もあったが読めなかった。
姉川に沿って15分ほど川上に向かっていくと姉川の古戦場に着く。


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姉川古戦場

国友から今村橋で姉川の北側に渡り271号線を東に5分ほど行くと、右手に「姉川古戦場」という標識が突然出てくる。辺り一面は田園で史跡らしきものはなく、油断をしていると見逃しそうなほどに目立たない標識である。 田のあぜ道を川にむかって進むと行き止まりになっており、そこにようやく遺跡らしき雰囲気を漂わせる木立があった。姉川古戦場跡という石碑には花がたむけられていた。まだ新しい浅井町教育委員会の説明札には、次のようにある。

お市の方との結婚で結ばれた浅井長政と織田信長の仲は、越前の朝倉氏の反乱によって破れた。朝倉氏との盟約を重んじ同氏についた長政に湖西で挟撃された信長は岐阜に戻るや戦備を整え、元亀元年(1573*年)6月、三万の兵を率いて龍ヶ鼻に陣し横山城を包囲した。
 徳川家康は、この時五千騎を率いてこれを援軍している。
 一方、浅井、朝倉合わせて一万八千は姉川北岸に陣し、戦機は熟していった。ついに28日早朝、両軍激突、衆寡敵せず浅井、朝倉軍は小谷城への敗走となった。
 しかし、その小谷城もこれの二年後には落ちることになる。両軍の死傷者三千余名、あたりに血原 血川の地名が残されている。

(*元亀元年(1573年)とあるのは1570年の誤りではないか)

血原、血川とはなんとも露骨な名であるが、その地名を実証するかのように、すぐ傍に「血原養水底桶跡」という標識が立っていた。

 
「宝暦(1751‐1763)の昔彦根藩に訴え姉川の中央から底桶を設け養水を水門に導いた遺跡」

ここから更に5分ほど東に行ったところ、旧野村橋の北側にもう一つの古戦場碑があった。こちらのほうが立派で、小さな塚の上に戦死者の碑がある。
隣に、木導という人物の句碑があった。

 
春風や 麦の中行く 水の音

木導は彦根藩士で、許六と同世代の芭蕉晩年の門人。許六がこの句を芭蕉に紹介したところ大変にほめられたという。また、最初は

 
姉川や 麦の中行く 水の音 

であったところ、芭蕉が「春風や」に直したとの話もある。いずれにしても木導は姉川の風景を詠んだものと思われる。

両軍の配陣図と臨場感あふれる解説があり、血原の教育委員会の説明よりも分かりやすい。朝5時に始まり午後2時に終わったこと、最初は朝倉軍が優勢で一時は信長の面前に刀、槍が突き出るまでに至ったこと、姉川の流れが多数の死傷者によって赤く血に染まったことなど、読んでいても楽しい。それにベンチまで置いてある。

旧野村橋に立って東を望むと手前に橋げたの影が落ち、姉川が夕日に輝く緑のなかを縫って遠く山裾に消えていく。この平和な風景に戦場の面影を求めるのは不可能に近い。時計は6時をまわって、肉眼にはまだ充分に明るいがカメラにとっての一日は終わった。西日を浴びて木之本に向かう。

米原で予約しておいた木之本インターチェンジ近くのホテルに泊まる。素泊まり、シングルで6千円。夕食はマグドナルドのダブルバーガーで済ませた。生きるがためだけの夕食である。学生にもどった気分で内心うきうきしている。


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余呉湖

10日朝6時にホテルを出る。フロントはまだ開いていない。横の通用門から出た。
10分ほどで余呉湖についた。余呉湖の日の出を撮りたかったのであるが、朝曇りでそれはかなわなかった。湖畔の村をすこし過ぎた小高い場所に車を止めてマミヤの中型カメラをセットする。ミノルタの一眼レフは記録写真に、マミヤの中型カメラは風景用に使い分けているつもりである。三脚をたてレンズを覗いてフレーム構成を考える。いままでの旅行では常に家族がそばにいてこころゆくまでシャッターチャンスを待つということが少なかった。今回はどっぷりと一人旅の撮影旅行気分に浸っている。

右手にようやく光を受けはじめた余呉湖の水面を配し、左には村の船着き場を置く。ほぼ中間に小さく衣掛柳の樹が入った。この柳はしだれ柳とは別品種のマルバヤナギで、その名の通り葉が丸く、こんもりと枝を張る種類だそうだ。柳の後ろには七分に育った稲の緑が山並みを背景に広がっている。白みかけた空に霞んだ太陽が浮かぶ。朝日は霞に遮られて露出に影響を与えない程度である。目標を決め、露出と焦点を定め、三脚の側に立って雲と太陽の行方を見守る。釣り人が糸を垂れ、浮きをじっとみつめている清閑な至福のひとときである。

周囲6kmの湖畔を時速20kmでゆったり回り、眺めのよいところではエンジンをかけたまま車をとめて三脚を立てる。国民宿舎の前で散歩する家族連れを見かけたほか、誰もいない。鏡のような静かな湖を離れたときはまだ7時を回ったところであった。
余呉湖は賤ヶ岳の背後にひっそり隠れるように沈んでいる。悲しいほどに静かな村である。深緑の小さな湖は神秘的なムードを漂わせ天女が舞い下りたという羽衣伝説が伝わっていても不思議でない。伝説は数説あるが最大公約数的には次のように要約できる。

ある日一人身の男が湖畔にきた。水浴びする美しい乙女に恋こがれ、木に掛けられた彼女の羽衣を家に持ち帰る。羽衣の主は天女で、彼女は男に羽衣の返還を頼むが、男はきかない。やむを得ず天女は男と棲むことになりやがて子を産む。ある日天女は男のいぬ間に羽衣を見つけて天に帰る。


羽衣伝説は余呉だけでなく日本の各地に残っていて、必ず渡来人が来た地域と言ってよい。伝説の内容も天女が土地の男と結婚し、農耕、養蚕、機織り、酒造り、陶器作りなどの技術を教える。これは渡来人が大陸文化を日本人に伝授し広めた歴史と一致する。渡来人が自分たちの姿を天女に託して表現したものであろう。

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木之本地蔵

空はまだ晴れてこない。賎ヶ岳に登る予定であった。今日はこんな天気が続くのかという不安を抱きながら、時間調整のために木之本に戻って地蔵を見ていくことにした。木之本は地蔵の門前町でありまた北国街道の重要な宿場町で、いまも情緒ある町並みを見ることができる。

ずっと昔、まだ小学校にも行っていない頃、母に連れられて中ノ郷の叔母さんの家をたずねたことがあった。その時母とこの地蔵をみた記憶がある。あたかも中学一年の旅行で奈良の大仏を見た時の感動に似たものがあった。実際は6mの高さで、今見るとたいして大きいものではない。

この地蔵は眼病の利益があることで庶民の信仰が厚い。寺の境内には身代り片目蛙といって、片目を閉じた小さな蛙の置物があちこちの台に並べられていた。一匹千円で売られている。

人々の大事な目が地蔵の加護を受けられるように蛙がみずから身代わりの願をかけて片目をつむって暮らしている

という、わかったような、わからないような効能書きが置いてあった。

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菅浦の里

賎ヶ岳から見下ろす余呉湖や琵琶湖は絶景らしい。登りたいが山頂へのケーブルが9時からでないと運転しない。一時間をつぶすところもなく、また曇り空では眺めも期待できそうにない。賎ヶ岳は断念することにし奥琵琶湖パークウェイをドライブして湖西に向かうことにした。

琵琶湖の最も奥まった港が塩津で、北陸本線と湖西線が合流する。敦賀までの塩津街道の起点である。その名の通り日本海の塩をここから積み込み、丸子舟で琵琶湖を縦断して大津や京に運んだ。

昭和47年に、塩津から岬の尾根つたいに菅浦まで通じる全長19kmの奥琵琶湖パークウェイが開通した。左下方に溺れ谷の変化に富んだ奥琵琶湖の景観が見え隠れする。秋の紅葉時や春の桜の時期であればさぞかし素晴らしいであろう。途中、車には一台も出会わず、自転車を押しながら坂道を登る一団を追い越したのみである。ローギアで力強くこぎ上がるたくましい若者もいた。峠をこえて下り坂を駆け下りる快感を極大化するために、あえて自虐の苦しみに耐えたいとする男の気分が伝わってくる。
私はクーラー付きの車で汗ひとつかかずに怠惰な旅をしている。

30分ほどドライブをしたころ菅浦の里にでた。ここが奥琵琶湖パークウェイの終点で、ここから先は湖岸沿いに曲がりくねった平坦な道に続く。菅浦はこの道ができるまでは船でしか来ることができなかった秘境であった。いまも奥琵琶湖で魚を獲って生計を立てているつつましやかな漁村である。


高波をふせぐためであろうか、古い家並みは背丈ほどもある石垣の基礎に乗るようにある。村の歴史は古く、764年に淳仁天皇が住んだという伝説があり那須神社の祭神となっている。この村は中世の頃から天皇家に特産物を献上して漁業の特権を得ていた。強い惣の自治組織をもち他郷者の移住を拒み、その監視のために村の入口に作られていたという茅葺き屋根の四足門が今も残っている。排他的な隠れ里であったらしい。


万葉集に塩津、菅浦の名がでてくる歌が一首みえる。


 
高島の 安曇の湊を 榜ぎ過ぎて 塩津菅浦 今は榜がなむ

水辺の奥まった所に車をとめてカメラを胸にぶらさげて歩いていると突如どこからとなくスピーカーによる女性のアナウンスが始まった。歯切れのよい声で、短い月並みの歓迎のことばがあったあと、婉曲という言葉を知らない単刀直入で断固とした警告のメーセージが続いた。

「駐車場以外に車を止めますと住民に迷惑がかかります。観光客の残していくゴミで住民が迷惑をしています。食べ残し、飲み物や食べ物のゴミ、ボトルやカン類はのこらず持帰って下さい。また港付近での釣りは禁じられています」

という趣旨のものであった。他に、ものの言い方があろうにと思ったが、日頃の自分のいいまわしが思い出されて、スピーカーの女性を非難する気持ちにはなれなかった。

私の車は港付近の空き地にとめていた。駐車場ではない。30艘あまりの漁船が繋がれている碇泊場から二人連れの男女が上がってきた。そこで魚を釣っていたのか、早朝の舟釣りから帰ってきたところかしらないが、心持ちばつの悪そうな顔つきにも見えた。埠頭では二、三人の若者がアナウンスを聞き流して釣り糸を垂れていた。

腕時計をみると9時を回ったところである。このテープは一日に数回、定時に流しているのか。9時であれば不運にも本日第1回目の放送に出くわした可能性がある。あるいは四足門かどこかの監視塔から、見張りが該当者を認める都度テープを流しているのであろうか。であれば「帰れ」という退去命令に他ならない。

芭蕉や司馬遼太郎が愛した近江の人はこのような非寛容な人々であったのかと、無念な思いを抱きながら足早にその里を去った。

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丸子船

菅浦から岬の西を北上したところに奥琵琶湖の二番目の入り江港である大浦の村がある。塩津とおなじく北陸と近畿を結ぶ琵琶湖水運の拠点であると同時に、水運の主役を務めた丸子船の造船基地でもあった。

現存する三隻のうちの一隻を保存する「丸子船の館」に立ち寄った。入り口で記帳をして、私の先客の訪問日をみると三日前になっていた。一覧したところ、訪問者は一週間に一人か二人程度のようである。記帳をすませたタイミングを見計らって、その家の子供が遠来の客を歓迎するかのように二階にあがって扇風機と電灯をつけてまわった。一人でざっと見てすぐに出るつもりでいたのだが、子供の母親が私に追いついてガイドよろしく説明を始めた。方言と標準語の入り交ざった言葉に、かすかにガイド嬢の抑揚をつけて一生懸命案内してくれた。

かって天皇夫妻がこの記念館を訪ねられた時、皇太子が中世の水運を研究していることを知っておられる皇后が、皇太子のために丸子船に関する資料を求められたという、いい話を聞いた。

一階に保存状態のよい木船が横たわっている。長さは17m、二つ割りにした丸太を胴の両側につけた独特の船である。帆いっぱいに太い丸の輪が描かれ、最盛期の江戸時代にはこのような帆をあげた船が1400隻も湖上を往来していたという。若狭ほか越の諸国から米、ニシン・海藻などの魚介類、紅花などが、また京、大阪からは陶器、漆器、反物・着物などが運ばれた。近江商人の活躍する場所でもあったのではないか。船底には二百表の米を積んだという。

現在では年に一度「奥琵琶湖西浅井水運祭り」で湖面を走る雄姿をみることができるそうだ。案内役のおばさんは「その人(船主)ももう年なのでねえ――」と、やや投げやり気味で後継者のいないことを憂いていた。


2000年8月)
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