東海道−2 



戸塚−藤沢平塚大磯二宮小田原箱根
いこいの広場
日本紀行

前ページへ
次ページへ


戸塚

東海道が武蔵国から相模国にはいっていく境木は、今は両側とも横浜市で、保土ヶ谷区から戸塚区にはいったにすぎない。焼餅坂は平戸の山側が切通しの林になっていて旧街道の情緒をのこしている。一方、谷側の品濃町は開発された住宅街になっており、遠くには東戸塚駅前の高層マンションがそびえる対照的な風景を展開する。昔は権太坂と焼餅坂は国境の難所で、このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり焼餅を売っていた。

焼餅坂を下りおわると今度は品濃坂を上がっていく。坂をほぼ上りきったところの道両側に、日本橋から9里目の
品濃一里塚が残っている。一段高い切通しの深い林の中にあって、標識がなければ一目では塚と判りにくいほど周囲の自然に溶け込んでいる。左側の塚は私有地内にあり立ち入り禁止である一方、右側は一里塚公園として整備されている。なにかにつけて平戸と品濃町とは対照的だ。品濃一里塚は神奈川県内で、道の両側に残っている唯一の一里塚だそうでそれだけの威厳を備えている風であった。

JR東戸塚駅前の近代的なハイライズを垣間見ながら、果樹園の中の尾根道を通り抜けて品濃坂の急坂を下りて環状2号線をまたぎ、道なりに南下して東戸塚駅入口交差点で国道1号を横切る。右にゆるやかにまがった後、平戸永谷川にそって進み、国道赤関橋の手前で左の道をとり、秋葉大橋の下で国道1号に合流する。このあたりJR線路の両側は工場団地のようである。

ポーラ化粧品工場をすぎて「不動坂」交差点手前に二つの史跡が保存されている。左手の高い石垣の上にそびえるのは雌雄一対の
益田家のモチノキである。庭の奥に茅葺の家があった。年配の気品ある女主人がでかけるところで、すこし立ち話に応じてくれた。3年前屋根を葺き替えたところなのだが、雀が萱を一本一本抜き取っていくのでもう姿が乱れてきていると、髪の乱れを気にするようでおかしかった。

国道の向かい側の路地をはいったところに
「大山道」の道標が集められている。
交差点の左に旧道が残っている。右手に鎌倉ハムの誕生地である
斉藤家住宅がる。黄土色の土塀をめぐらし、煤を削り落とした白壁の土蔵が旧家の趣を漂わせている。明治10年(1877)、英国人がこの付近に牧場を開きハム製造をはじめた。4年後、使用人であった斉藤角次が日本人による初めてのハム製造を始めた場所である。となりの斉藤牛肉店がその子孫であろう、シャッターに「さいとうハム製造本舗」とあった。

旧道は右にまがりブリジストン工場前の舞岡で国道に合流する。

「江戸見付前」信号右手にその名の通り、
「江戸方見付跡」の石碑が立っている。ここが戸塚宿の東出入り口であった。吉田大橋の手前に戸塚一里塚跡の標識が立っている。それを意識して歩いていても見落としそうな目立たない存在だ。内容もそれが10里目であることをいっているだけで、跡地の位置を示すことに意義がある立て札である。

吉田大橋は広重が「戸塚元町別道」で描いた場所である。絵中の橋のたもとに描かれている「左かまくら道」の道標が妙秀寺境内に保存されている。街道を歩いていると多くの道標にであうが、江戸時代の浮世絵にあるものの実物を見る喜びには格別なものがある。ガイドブックやインターネットでの事前情報がなければ、このような宝探しはおよそ不可能な技といわなければならない。

吉田大橋で柏尾川をわたる。川の手前を左に出るのがかまくら道、橋を渡って右にでていくのが八王子道。「矢部団地入口」信号から出ている道が八王子道かなと思って覗いてみたが、遠くに団地の建物がみえるだけである。

旧東海道は、戸塚駅の北側で踏切をわたり、宿場の中心街へとはいっていくが、家並みにそれらしき面影をのこす建物がみあたらなかった。

右手に清源院という古刹がある。徳川家康の愛妾お万の方を火葬した寺で、裏山にその碑があるらしい。境内に
芭蕉句碑がある。

 
世の人のみつけぬ花や軒の栗

奥の細道で須賀川の等躬宅に泊まった時隠者可伸をたずねたときの句である。

民家を背にして
心中句碑があった。当地の薬屋の息子清三郎(18)と飯盛女ヤマ(16)が寺の井戸で心中した。

 
井にうかぶ番いの果てや秋の蝶

消防署の手前隣りに明治天皇戸塚行在所址の碑と並んで
澤辺本陣跡の碑がたっている。背後の住宅の門柱には「澤辺」の表札がかかっている。戸塚宿には内田本陣、沢辺本陣の二つがあった。内田家の所在はわからないが、内田氏の祖先は富塚郷の庄司で、後にお札まきで知られる八坂神社の前身である牛頭天王社を創建した人物である。

その八坂神社をすぎて道が右に曲がったところに
富塚(とつか)八幡宮がある。源頼義、義家親子が前9年の役平定を感謝して建てたのが起源で、この地に定着した富塚一族が氏神として崇敬した。戸塚の地名は富塚に由来する。
境内に平成12年に再建された新しい芭蕉句碑がある。

 
鎌倉を生きて出かけむ初松魚(かつお)

道は右にカーブして富塚郵便局の手前左手に上方見附跡が出てきた。方形の石垣にまだ幼い松の木が植えられている。ここからはじまるゆるやかな「大坂」の右側に庚申塔などが並んでいる。坂を登りきると、国道1号バイパスと合流する。左側歩道の旧道を歩いていくと「国際総合病院」バス停脇に「お軽・勘平戸塚山中道行の場」の碑がある。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の中の話だそうだが、なじみがない。

道は下り坂にさしかかり、切通しの台地上に
原宿一里塚跡がある。木が植えられていていかにも塚風の雰囲気をかもしているが、どうやら個人宅の庭のようである。明治9年までは残っていたが、新国道の里程標を設置した時、塚は不要として取り壊されたという。割り切ったものだ。

トップへ


藤沢

大きな原宿交差点をこえ影取町第一歩道橋の脇にセメントで補修された馬頭観音が立っている。俣野村、嘉永2年の銘が読み取れた。

やがて国道は諏訪神社前で二筋にわかれ、歩道は独立した旧道につづいていく。鬱蒼とした屋敷林のなかに茅葺の門を構えた農家があった。ブロック塀が土塀であったなら完璧な絵になっていたであろう。

街道は国道を右にわけ県道30号で
鉄砲宿にはいる。原宿といい鉄砲宿といい、戸塚宿と藤沢宿の間にあった立場であろうか。道の両側に都会的な雰囲気が漂い始めたころ、横浜・藤沢市境を示す標識があらわれた。歩道が整備されかっての松並木の片鱗をみせている。緑ヶ丘バス停付近に「旧東海道松並木跡」の石碑と絵入りの解説パネルが立っている。

道は「遊行(ゆぎょう)寺坂」を下りはじめる。途中右手の宅地造成工事現場に
一里塚跡の標柱が建っていた。このあたりにある、と知って歩いていなければまず気付かない。坂を下りきって藤沢橋の手前の路地を右にまがると時宗総本山遊行寺の総門にでる。歴史散歩のグループがリーダーを囲んで説明を受けていた。この路地と境川、藤沢橋(関東大震災後造られたもの)と遊行寺橋(大鋸橋)に囲われた方形の空間は「藤沢広小路」とよばれ、上野広小路、名古屋広小路とならんで日本三大広小路と称されたという。

さて、総門は黒々とした冠木門で、これまた日本三大黒門の一つだという。上野の黒門(移設されて三ノ輪、円通寺にある)はすぐに思い浮かぶがあと一つはどこだろう。おなじ上野の旧本坊表門も立派だった。門をくづり、なだらかな48段の石段(愛称:いろは坂)をのぼると、みごとに輝く大イチョウが目に飛び込んできた。巨大な球状の枝葉を広げて孤立した姿は見事というほかない。樹齢は300年とも700年ともいわれて定かでない。すっかりなじみになったイチョウの垂れ乳がここでも見られた。

広い境内を敷き詰めた黄金色の落ち葉を踏んでいくのが楽しい。正面に本堂がデンと構え、右の植え込みから修行僧が焚く落ち葉の煙がたなびいてくる。もう12月の下旬だというのに、この冬の暖かさはどうだろう。築山に宗祖遊行上人の立像がある。両手を胸の前方であわせ半歩踏み出したポーズは時宗の寺でみかけるおなじみの姿である。近くからしみじみと眺めてみると、フランケンシュタインのような長い額をした頭だった。

境川にかかる朱色の大鋸橋(遊行寺橋)をわたると江ノ島への分かれ道に出る。広重の頃には、江ノ島道の入口に江ノ島弁財天の大鳥居が建っていた。

右へ曲がると藤沢宿がはじまる。藤沢宿は遊行寺の門前町として栄え、また鎌倉、江ノ島への分岐点でもあり旅人でにぎわった。街道沿いには古い店構えの商家や土蔵がみられる。本町郵便局斜め向かいのラーメン屋があるところに蒔田源右衛門が勤める
本陣があった。消防署前は杉山弥兵衛の問屋場跡である。いずれも場所をしめすだけの標識が立っているだけで、往時を偲べるものはない。

JAさがみの横を左にはいると永勝寺があり、そこに藤沢宿小松屋が抱えていた39人の
飯盛女の墓が小松屋の墓域に建てられている。投げ込み寺に捨てられることが多かった時代に、このように供養されたものは珍しい。

本町交番横の路地奥に義経の首洗い井戸と首塚がある。文治5年(1189)、衣川で自害した源義経の首は藤原泰衡から鎌倉に送られ、腰越の浜で首実検ののち捨てられたが、その後潮に乗って境川をさかのぼりこの辺りに漂着したのだという。藤沢の里人が拾い上げ、首を洗いきよめて埋葬した。平成11年、義経没後810年を記念して、白旗交差点の北方にある
白旗神社に、源義経公鎮霊碑が建てられた。

神社境内の奥に藤棚を背にして芭蕉句碑があった。

  
草臥(くたびれ)て 宿かる比(ころ)や 藤の花

貞享5年(1688)4月11日に、芭蕉が『笈の小文』の旅で奈良県橿原市八木町に宿泊したときの句である。

小田急線を越えたあたりに
京方見附があった。藤沢宿の西端にあたる。
旧街道は引地川をわたり、四谷で国道1号と合流して、ところどころに松並木が残る茅ヶ崎市内へ入っていく。茅ヶ崎駅ちかくの「一里塚」交差点角に江戸から
14里目の一里塚が残っている。植えられている松は何代目だろうか。石垣を組んだしっかりとした塚が保存されている。都会的な町並みに松並木がほどよく融和して落ちついた景観である。

駅前の商店街を通りすぎ第六天神を右に見て、道は右に大きくカーブして鳥井戸橋をわたる。右手に朱色の鮮やかな
鶴嶺神社の鳥居が見え、その奥に参道の松並木がのぞいている。橋の北袂に「南湖の左富士之碑」が立っている。富士山の南側を東西に走っている東海道を、江戸から歩いて来る者は富士を常に右手に見てきた。左に見るときは街道が右に曲がって北向きになった場合である。左に富士をみる場所はそれだけで名所になった。ここ茅ヶ崎と静岡県の吉原だけである。薄い雲にかすみながらも新雪をいただいた白峰の富士を望むことができた。

小出川にかかる下町屋橋の袂に
旧相模川橋脚の遺跡が保存されている。関東大震災の時、偶然水田から現れ出たものだという。考証の結果、鎌倉時代の古いものと判明した。フェンスに囲まれて数個の正方形をしたセメント盤が見られた。保存のために木杭を固めたものか、それとも実物は移設保管して、位置だけをセメント製ベースで示したものか。国指定史跡としてはちょっとがっかりした。

相模川に至る。もう平塚市内である。


トップへ


平塚

橋の両側に歩道があるとき、どちら側を渡るかについては自分なりの決まりがある。
第一に、橋上からのながめがよさそうな方を渡る。
第二に、同じ程度のながめであるなら、太陽を背にした側を選ぶ。
馬入(ばにゅう)橋の場合、両方の意味から右側を選んだ。川下の左側にはJR鉄道がはしり、平塚側には工場の煙突からもうもうと白煙が立ち上っている。

上流の風景は右岸が車や船の解体処理場のようで、趣がなかった。反対側を電車が頻繁に通過する。馬入の渡しはその鉄橋の下あたりにあった。選択をあやまったようだが、橋の途中でガードレールをまたいで国道を横切るわけにもいかなかった。

橋を渡ると、馬入三叉路で国道1号は右にそれ、旧街道はそのままイチョウ並木にはいっていく。入口に15番目の
馬入一里塚跡の解説パネルがたっている。史跡・文化財の説明文が教育委員会の名で記される場合がほとんどだが、ここは市が直接担当しているようである。


宿場は平塚駅前のアーケード商店街が終わった辺りから始まる。市民センターの隣りに石塚を設けた
平塚宿江戸見附跡がある。そこから京方見附までのおよそ1km余りの間に、山本安兵衛が営んでいた脇本陣高札場東組問屋場、加藤七郎兵衛が勤めた本陣(神奈川銀行前)、西組問屋場、そして最後に国道1号と合流する手前に京方見附跡がある。

説明文責は平塚市、そうでない場合は平塚市観光協会で、教育委員会は出てこなかった。

西組問屋場跡の前から短いながら旧道が残っている。海鼠壁土蔵風の建物の角を北にすすむと
要法寺の隣りの公園内に石垣をめぐらせた塚がある。天安元年(857)2月のこと、桓武天皇の曾孫政子がこの地で逝去し墓として塚が築かれた。その塚の上が平になったので、里人はそれを『たいらつか』と呼んだ。「平塚の塚」として平塚市による説明板が建てられている。西仲町公園の北側に鏡山お初の墓がある。歌舞伎についての知識がないので説明を読んでもピンとこない。

短い旧道が国道に合流するところに京方見附跡の塚と碑がある。大磯方面から来る者には平塚宿の入口としてわかりやすいモニュメントだ。平塚宿を出る者にとっては、花水川の向こうにみえるこんもりした山がよい目印となっている。山の名は
高麗山(こまやま)。高句麗からの渡来人が定着した土地である。広重は平塚宿の絵として、宿場もすぎたこの場所を選んで描いた。橋の手前の「古花水橋」交差点で、平塚市から中郡大磯町に入る。

トップへ


大磯

高麗山の姿を川面に映す花水川を渡ると高麗(こま)地区である。茅葺の清楚な民家が旅人を出迎える。高麗山のふもとに高来(たかく)神社がある。高句麗王族の若光に率いられた集団が高麗山のふもとに定住した。

右手に赤い屋根の小さな虚空蔵堂があり傍に絵入りの説明札が立っている。
此辺大磯宿の史跡
 
虚空蔵堂
  虚空蔵と熊野権現を祀ったお堂があり(現存)、ここに下馬標が立っていた。大名行列も   ここで下馬し、東照権現の併祀された高    麗寺に最敬礼をして静かに寺領内を通った。
 
寺領傍示杭
   高麗寺村と大磯宿との境界を示す。高さは3m程であった。  大磯町

「化粧坂(けわいざか)」信号で右手の旧道にはいる。この道を化粧坂といい、鎌倉時代の大磯の中心地であった。化粧坂には遊女屋が多くあり、そのなかで虎御前は大磯一の美女として有名であった。彼女がその水で毎日化粧をしたという「虎御前の化粧井戸」が民家の前庭にある。彼女は曽我兄弟の兄とのロマンスでもしられ、後ほどゆかりの寺を訪ねる。

上り坂のなかほど右手に
大磯の一里塚跡がある。坂を登りきった辺りで地下歩道に降りて東海道本線をくぐる。南側に出ると両側に松の並木がのこる旧街道の風情たっぷりの道がつづいている。倒れそうなほどに傾いた松の大木が情緒を添える。道に台をならべて魚を干す魚金商店を見て、街道が海に近づいていることを知った。化粧坂の後半にあたる山王町の松並木道は、沿道に古い建物こそないが、ここまでの東海道のなかでのベストスポットではないかと思う。

街道は国道1号と合流して大磯駅前商店街に出る。このあたりが江戸時代の大磯宿である。気のせいか磯の香りがする。家並みは新しくもなく古くもない。宿場というより元漁村といった雰囲気である。駅入口交差点をこえて海側の路地をはいったところに虎御前ゆかりの
延台寺がある。虎御前のことは化粧坂ですこし触れた。彼女は恋人の曽我十郎とその弟五郎を偲んでこの場所に庵を結んだ。境内には、虎御前供養塔、虎御石などがある。

また、供養塔のとなりに大磯宿の遊女を埋葬した墓があった。ここにもかと、やりきれない思いがする。

その足で海岸に出た。黒ずんだ砂浜だ。12月下旬だというのにサーフィンを楽しむ若者が多かった。あのスーツは完全に防水・防寒になっているのか。首すじから水は入ってこないのか。砂浜に腰を下ろして昼食用に買ってきた野菜サンドをほうばりながら考えていた。今日は左富士を撮ろうと望遠ズームを持ってきていたので、一杯にレンズをのばして波乗りに興じる若者をおった。

浜辺を西に移動すると
漁港である。男がふたり、船を電動ロープで巻き上げている。小柄なおじいさんが船長だ。適当なところでロープをはずした。満潮でも船体が海にもどらない、そんな位置を知っているのだろう。
漁港の西が照ヶ崎で、明治18年日本ではじめて海水浴場として開設された海岸である。ひとり竿を垂れる老人と西湘バイパスの蔭であそぶ子供らがいた。

浜から街道にもどる。宿場の面影をのこす老舗がいくつか見られた。大磯には本陣が三軒あって、そのうち
小島本陣尾上本陣(現中南信金)が地福寺参道をへだてて向かいあっていた。参道にはいると南本町会館の前でモチをつく人だかりがあった。角でなわ跳びに夢中なこどもが三人。宿場というよりすっかり下町風情。そこでしばらくカメラをいじったあと地福寺に入っていった。左手に島崎藤村が眠っている。昭和16年1月14日、左義長を見に来た藤村は、温暖なこの地が気に入り、昭和18年8月22日に71歳で永眠するまでこの地で過ごした。ひろい墓域に、どこの石材店にでも売っていそうな御影石の角柱が立っているだけの、味気ない墓だった。

宿場町の西はずれに来る。右手に西行まんじゅうの新杵菓子舗、左手短い旧道の出口にかまぼこの井上蒲鉾店。いずれも老舗らしい。「海水浴場発祥の地」、「新島襄終焉の地」、「湘南発祥の地」、そしてその先に
鴫立庵がある。庵名は西行の歌からきた。

  
こころなき 身にもあはれは 知られけり  鴫立沢の 秋の夕暮れ

鴫立庵は京都の落柿舎、近江義仲寺の無名庵とともに
日本三大俳諧道場の一つである。また崇雪が建てた標石に「著盡(ああ)湘南清絶地」と刻まれていることから、湘南発祥の地とされている。茅葺の上品な庵の前を鴫立沢の清流が照ヶ崎の浜に注いでいる。国道の喧騒を忘れさせる一角である。
  
大磯中学校前バス停の手前に
上方見附跡御料傍示杭跡の標識が立っている。山王町松並木にあった江戸方見附からここまでが大磯宿内であった。この先、中央分離帯と下り車線の両側に密度の濃い本格的な松並木がはじまる。このあたりの海岸は小淘綾(こゆるぎ)ノ浜とよばれる風光明媚な浜辺で、東海道松並木との間には明治時代の元勲の豪壮な邸宅や別荘が並んでいた。その一つ、伊藤博文旧宅であった滄浪閣(そうろうかく)の前を通り過ぎる。近代的な洋風建築で、現在は大磯プリンスホテル別館である。滄浪閣の先で分離帯と松並木がおわり普通の国道にもどったが、沿道には広告がはためく店舗はみられず、落ち着きのある住宅街の景観を見せている。

街道はこのあと国府本郷、国府新田といった地域を通る。このあたり、かって
相模国の国府があった。ただし、相模国のばあい時代により異なり、唯一の場所の特定はされていない。奈良時代は海老名市国府台付近に、平安時代は大住郡(平塚市)に、中世には余綾郡(大磯町)にあったといわれている。ちなみに海老名町には国分寺の遺構があり、大磯町には相模総社六所神社がある。

トップへ


二宮

大磯の隣町、二宮町を西に進み、「川匂(かわわ)神社入口」交差点の手前から、300mほどの短い旧道にはいる。切り通して造った国道の南側に、むかしのままの尾根道が残っている。入口に江戸から18番目の「押切坂一里塚跡」の碑が建っている。位置的に大磯と小田原の中間にあたり、梅沢の立場とよばれた間の宿として賑わっていた。

手持ち無沙汰な屋台と、忙しく正月の飾り付けを作り上げている住民たちで道がふさがれていた。「暮市のため通行止め」である。その先左手の和田宅が
「松屋本陣」で、梅沢立場の中心であった。坂を下って国道1号と合流し、押切橋を渡る。対岸は小田原市である。

なお、川匂神社は別名「二宮明神社」といい相模国二ノ宮である。そのまま町名になった。ちなみに一ノ宮は高座郡寒川町の寒川神社、茅ヶ崎市の北方にある。

トップへ


小田原

町谷バス停の先、右手に案内板がたっている。表題、文責もなくただこのあたりで詠まれたと思われる三つの歌が記されていた。地図に「史跡車坂」とある場所である。歌枕になるようなところでもない。


 鳴神の声もしきりに車坂 とどろかしふるゆふ立の空   大田道灌
 
浜辺なる前川瀬を逝く水の 早くも今日の暮にけるかも  源実朝
 
浦路行くこころぼそさを浪間より 出でて知らする有明の月   北林禅尼(阿仏尼)

八百屋の脇に立つ彩色つきの大山道しるべをみて、ゆるい坂をおりていくと街道は海岸沿いを走る西湘バイパスに接近し、相模の海がみえてきた。国府津駅前を通りすぎ、親木橋を渡ったあたりから右手に、白く輝く富士山が見える。

「一里塚」バス停の手前に小八幡一里塚跡の説明板がある。19番目のものだ。

小田原市観光ガイドマップによると、酒匂(さかわ)川の手前、連歌橋交差点を北に500mほどいった所に
「酒匂川渡し碑」があるようになっているが、どうしてもみつからなかった。川の堤からかなり離れていて、そもそもありそうな感じがしない場所だった。土手にでると、河川敷で親子が凧揚げに興じている。箱根の山の向こうに富士山が大きくみえる。橋を渡るにつれ富士の姿は山の背後に隠れていった。

連歌橋をわたり、最初の交差点をよこぎっている道が旧道である。右に折れて酒匂川の渡し場があったと思われる河原まで降りてみたが何もなかった。旧道は土手の手前の工場地帯で失われている。城東高校前の交差点までもどり、そのまま国道を横切って旧道を進んでいく。旧道から一筋はいった通りの袋小路になった公園の一角に
新田義貞の首塚がある。小田原城主、大久保氏の先祖が新田義貞の家臣であった。

旧道はすぐに国道1号に合流し、小田原市内にはいっていく。「山王橋」バス停先の歩道橋の両脇に、
小田原城址江戸口見附跡の碑と一里塚跡がある。小田原宿場の東出入り口である。江戸口見附の解説パネルには大正時代初期の写真が載ってあって興味深い。路面電車らしい線路が写っている。

旧街道は鍵の手状に新宿交差点を左に曲がりすぐ右におれる。旧万町(よろっちょう)、現在の浜町3丁目には多くの蒲鉾(かまぼこ)屋が軒を並べている。加工食品としての蒲鉾自体は古代からあったが、江戸後期の天明年間に日本橋から小田原に渡り住んだ職人の手によって相模湾で豊富にとれるオキギスを原料に風格のある板蒲鉾が作られ、全国に知られるようになった。正月の酒のつまみに、蒲鉾、しんじょう、ちくわ、はんぺんを買って帰った。どれも弾力があって確かにうまい。

街道は青物町交差点を過ぎ、旧本町、宮の前町、欄干橋町と、宿場の中心に入ってきた。左手に網問屋を再建した「なりわい交流館」、明治天皇小田原行在所阯の碑がたつ清水金左衛門本陣跡、老舗旅館「小伊勢屋」、寛永11年創業の小西薬局、そして右手には中国、元朝時代の帰化人がおこした城造りの旧家外郎(ういろう)家がある。外郎の向かいに「箱根駅伝小田原中継所」の看板が立っていて、テレビ局か主催者の職員らしき男女が鉄パイプの櫓のまわりを忙しく動いていた。明後日には20名の若者がここでタスキをリレーすることになっている。

小田原宿は蒲鉾、提灯、梅干といった特産品を持ち、いまもなお元気な老舗の商家が残っており、旧町名の説明文を刻んだ石標柱があちこちに設けられて、歩いていて楽しい町である。さらには半径500mほどのなかに旧街道をはさんで海岸と城を有するという、めぐまれた観光地である。北にあるいて
小田原城によった。大晦日でもかなりな観光客がいる。天守閣広場に動物園があるのには驚いた。像、猿、孔雀がいた。桜並木や菖蒲園があるが冬ではしょうがない。

風通しのよい城内を散策した後、報徳二宮神社の境内を通って帰った。各地の小学校でなじみの
二宮金次郎の原形像がここにあった。二宮金次郎は小田原の生まれである。我国にメートル法が導入されて4年目という時期に、ブロンズ像の高さがちょうど1mに作られたのはいかにも文部省的でおかしい。

街道をつっきって城とは反対側にある海岸に出てみた。御幸の浜という。バイパスが海岸線を犯していて情緒のない浜辺である。

西側の方はインターチェンジの構築物で浜辺の景色どころではないが、その背後に横たわる箱根の山並みがおもしろい。中央の丸まった峰に数本の鉄塔らしきものが見える。ここから見えるのだからよほど高いはずだ。電気や電波を神奈川・静岡両県につないでいる施設だろう。稜線は海にむかってなだらかに降りている。昔の東海道は海辺を通らずなぜわざわざ高い峠をめざしたのか、ふと素朴な疑問がわいてきた。勿論、熱海から三島へぬけるにも丹那トンネルの上を越えていかなければならないが。それとも南にむかって山並みが下りているように見えたのは錯覚か。

街道にもどって西に向う。東海道本線と新幹線の高架の間が西出口の板橋見附で、旧道は国道をはなれて右におれていく。旧道は古い建物がのこるおちついた雰囲気の家並みの中をゆるやかな登り坂となっていく。右手に石蔵造りの商家をみて、板橋地蔵尊の前を通って国道1号に合流する。車の渋滞を尻目に箱根登山鉄道を右にみながらなだらかな坂道を登っていく。

国道271号の高架をくぐったところで踏み切りをわたり、風祭集落の旧道を登っていくと、箱根病院をすぎたあたりで右手細道をはいったところに道祖神と一里塚跡がある。風祭駅前の国道沿いには大規模な蒲鉾店がならんでいた。


トップへ


箱根

入生田の駅を通り過ぎ踏切を渡ると下足柄郡箱根町である。国道1号と合流、離反、再合流して、箱根湯本駅の手前で早川にかかる三枚橋を渡って旧街道にはいっていく。早川の河原にはドンド焼きを待つ、役目を終えた正月の飾り物が山積みされていた。

箱根路とも箱根街道ともいわれる旧東海道の道筋だが、箱根の山を越える道はいくつもの変遷を経てきた。最も古い道は
碓氷道で、国府津から関本を経て明神ヶ岳を越え、碓氷峠、仙石原、乙女峠を経て御殿場へ通じる道である。奈良・平安時代には、おなじく関本から関場、地蔵堂を経て足柄峠をこえる足柄道が官道として使われた。熊にまたがった金太郎が活躍した時のことである。この道は延歴21年(802年)の富士山の大噴火で閉ざされ、鎌倉時代には湯坂道が開かれた。これは箱根湯本から湯坂山、芦ノ湯を経て元箱根に通じる道で、東海道が整備されるまで使われた。最も新しいのが江戸時代の官道、東海道で、箱根湯本から畑宿を経て元箱根に出る現在の県道732号である。三枚橋は4番目の箱根越えルートの起点であった。

小田原宿から三島宿までを箱根八里とよび、箱根峠までの江戸側4里を箱根東坂、峠から三島までの4里を箱根西坂とよぶ。東坂の傾斜は小田原の板橋から始まって、三枚橋から本格化する。

下宿、湯本中宿といった宿場街と温泉街の雰囲気が混じりあったなだらかな坂道を上っていくと右手に
早雲寺がある。北条早雲の遺命によって、その子氏綱が建てた寺で、山門をはいった右手の清楚な茅葺き屋根の鐘楼に下がる梵鐘は、秀吉が小田原攻めのとき石垣山一夜城の陣鐘に使用したものである。墓地に北条5代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の墓が一列に並ぶほか、連歌師飯尾宗祇の墓などがある。近江伊庭の出身ともいわれる漂泊の詩人宗祇はこの地で客死した。

鎌倉時代の古刹
正眼寺にある曽我兄弟の供養塔をみて、湯本茶屋地区に入る。左手に片手をつないだ小さな男女の双体道祖神が立っている。江戸時代の湯本村と湯本茶屋村の境にあたる。その先右手の石垣上に旧東海道一里塚跡の石碑が建っている。日本橋から22番目の一里塚である。家並みがとぎれ目の前に箱根の二子山が大きく現れた。

すぐ右手に急な坂道が下っている。箱根路最初の江戸時代から残る
石畳で255mの短いものだが、永年にわたって踏み込まれた石は丸みをおび苔むして、古道の風情たっぷりの道である。箱根観音福寿院の脇を通って県道にもどり、観音坂、葛原坂を過ぎて旧須雲(すくも)川村にはいる。昔は川端とも呼ばれていたこの集落は寛永11年(1634)に人為的につくられた村である。年貢は納めず地子金のみを納めて街道の維持・管理に従事する「間の村」であった。

右手に
「初花の滝」の碑がある。須雲川の対岸にせまる湯坂山の中腹に刻まれた繁みの割れ目に、小さく白く光る筋が見える。望遠レンズに取り替えてようやく初花の滝の白い流れが確認できた。少し先の鎖雲寺勝五郎・初花の墓がある。

飯沼勝五郎と初花は、浄瑠璃「箱根霊験躄仇討」の主人公である。父の敵を追って箱根山中まできた飯沼勝五郎は病で寝込んでしまう。妻の初花は夫の看病をしつつ、夜は夫の病気治癒と敵討ちの成就を願って、山中の滝で水垢離をとった。その結果、勝五郎の病は癒え見事仇討ちを果たして本懐を遂げたという。初花のことは奥州街道山中大久保で初めて知った。

箱根路は鎖雲川橋を渡ったところから、けわしい坂道の連続となる。江戸時代、女性の旅人が落馬して死んだという
女転し坂(おんなころしざか)の旧道は現在通行不能となっている。車道を上り始めたカーブの右手奥に箱根大天狗山神社の門が見えた。「日本唯一の幼神神社」とある。水子供養の神らしい。好奇心をそそられたが、内部にはクレーン車が止まって工事中のようであったし、門に「これより写真撮影禁止」とあるのをみて入るのをやめた。

「発電所前」バス停の前から右の
石割坂旧道に入る。入口は石畳というより石段そのものである。曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向う時、腰の刀の切れ味を試そうと、この坂の路傍の巨石を真二つに切り割ったと伝えられる。

県道にもどってまもなく、こんどは左に急な下り坂が出ている。大沢川を心細い木橋でわたり、坐頭転ばしともいわれるけわしい
大沢坂の石畳を登っていく。湿り気のある苔で足許がすべるほどのきびしい傾斜だ。先をゆく夫婦連れと抜きつ抜かれつの山歩きとなった。距離が接近すると、あらぬ方向にカメラを向けてしばし時間調整をしたりする。「雲助」についての説明板があった。最後の石階段をのぼりきると畑宿の町に出る。   

畑宿は、小田原宿と箱根宿の間に設けられた間宿である。本陣を勤めた名主茗荷屋畑右衛門の屋敷跡には庭園がそのままの姿で残されている。小規模ながら茗荷屋の日本庭園はみごとだったらしく、幕末の安政4年米国初代総領事ハリスが江戸入り途中、ここに休息し庭園をみて感嘆したという。畑宿はまた寄せ木細工の町で、沿道には箱根細工の工房や売店が並んでいる。

畑宿の終わりに江戸から
23里目の一里塚がある。両側に円形の石積み塚を築いた立派なもので、一見古墳のようにも見える。その先から峻険な西海子(さいかち)坂の石畳旧道がでている。最後の石階段を上がると県道の箱根七曲りが始まる。七曲りの間を箱根新道が絡み合うように縫い、さらに旧街道が県道の歩道として、あるいは県道の蛇行を端折るように石段でつないでいく。三つ巴になった道が幾重にも曲がり重なった複雑な構造だ。かっては雲助が活躍し、今では暴走車が絶えないらしい。たまたま、神奈川県警のパトカーが二台、県道のヘアピンカーブの蔭で待ち伏せしているのをみた。

旧街道は西海子坂のあとも樫木坂、猿滑坂といった急坂がつづき、追込坂でようやく緩やかな坂にたどり着いた。畑宿と箱根宿のほぼ中ほどにあたり、笈の平とよばれる立場で昔は茶屋が並んでいた場所である。親鸞上人が東国での布教を終えて帰京するとき、東国に残る弟子たちとここで別れを惜しんだという旧蹟碑が建っている。その裏側に細い旧街道が残っており、すぐ先の
箱根旧街道資料館と甘酒茶屋の裏側に通じている。

資料館は茅葺の農家風の建物で、その隣りには江戸時代から続く
甘酒茶屋が今も盛況である。薄暗い民芸調の店内に甘酒がよくあう。麹の淡い甘みが腹にしみた。茶屋の裏にある旧街道を進み県道を横断して、その向こう側に続く白水坂の石畳に入る。天ヶ石坂を上りきり平な道にでてまもなく、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と刻まれた大きな「箱根馬子唄」の石碑に出会う。「大井川」が箱根の印象を薄めてしまっている。

箱根の歌はなんといっても滝廉太郎の唱歌であろう。子供の頃教室で歌っていたときは第一小節の部分くらいしか意味を理解していなかった。実際歩いてみると思い当たるところが多く、詩・曲ともに名作だと思う。特に「羊腸の小径は苔滑か」などは実感にぴったりだ


『箱根八里』  作詞 鳥居忱(とりいまこと)作曲 滝廉太郎

箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず   萬丈(ばんじょう)の山 千仭(せんじん)の谷 前に聳え後にささふ
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす   昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か
一夫関に当るや萬夫も開くなし   天下に旅する剛毅の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ 八里の岩ね踏み鳴す   斯くこそありしか往時の武士

旧道は畑宿から元箱根と箱根の境界線をたどり、
権現坂を下って元箱根の芦ノ湖畔に至る。途中「六道地蔵菩薩江之道」と刻まれた享保16年(1731)の石柱が立つ場所で、鎌倉時代の東海道であった湯坂道と交差する。木々の隙間からかすかに芦ノ湖の片鱗が見えた。昔はこのあたりから広重の絵にみるように正面に芦ノ湖と富士山の絶景が望めたという。

国道1号を歩道橋で渡り、ケンペル・バーニーの碑をみて湖畔へ降りる。

ドイツの博物学者エンゲルベルト・ケンペルはオランダ通商使節の一員として元禄4年(1691)と翌5年に箱根を越え、箱根の美しさを世界に紹介してくれました。C・M・バーニーは、この地に別荘をもっていた英国の貿易商です。大正11年にケンペルの著「日本誌」の序文を引用「自然を大切にするように」と碑を建てました。左の英文はその原文です。私たちは二人の功績を讃えここに碑をたてました。昭和61年11月 箱根町長 勝俣茂る ケンペル祭実行委員会長 信濃一男

箱根神社へ寄り道した。今までの峠越えの山道とは打って変わって芦ノ湖畔はすっかり観光地の景色である。朱色の鳥居がひときわ目立つ。神社は思ったよりも小ぶりの造りであった。神山駒ヶ岳を主軸とする山岳信仰の修行場として始まり、後に関東総鎮守として源頼朝をはじめ代々の武将に崇敬されてきた。                   

芦ノ湖畔沿いの道をもどり、赤い大鳥居の横で湖を背にして多くの石仏・石塔が並ぶ
賽の河原に出る。昔は地蔵信仰の霊地として湖畔沿いに広く地蔵堂や石仏・石塔が並んでいたが、明治以降の廃仏棄釈運動や観光開発などで、規模は大きく縮小されてしまった。このあたりは逆さ富士が望まれるビューポイントだが、残念ながら順富士さえも見えなかった。

国道1号を南に進み左手に出てくる杉並木に入っていく。東海道としては唯一の杉並木だそうで、芦ノ湖周辺に420本の杉が保存されているという。日光街道をおもわせる堂々とした杉並木である。入り口に24里目の葭原久保(あしはらくぼ)一里塚跡を示す石碑が建っている。静かな並木道を通りぬけると国道の反対側に関所資料館と
箱根関所の跡がある。復元された関所はまだ工事進行中で、一部出来上がった番所には表情を変えない役人が正座していた。建物が新しくて趣きに乏しい。

関所の南門を出ると軒を連ねる土産店をみながら国道1号に出る。この辺りが箱根宿の中心であった。箱根ホテルや夕霧荘は
箱根宿本陣の跡地である。箱根宿には6軒の本陣があり、東海道最多であった。箱根宿は他の宿場とは遅れて、関所が開設される1年前の元和4年(1618)に、小田原、三島宿から各50軒ずつを移住させて開かれたものである。関所を嫌う元箱根の住民の抵抗をうけて、関所と峠の間の狭い地域に人工の町が作られた。元箱根が門前町なら、箱根は関所町である。

遊覧船乗り場の広い駐車場前が箱根駅伝の折り返し地点である。正月三ヶ日は大学関係者・メディア・応援客でごったがえす。「箱根関所南」の信号を右に入ると、富士の峰を臨む位置に「箱根駅伝往路ゴール」の石柱が立っている。道路の向かい側に旅館川口屋の立てた解説板があり、駅伝の歴史と箱根宿の成立について記されている。
箱根宿の成立
1618年(元和4年)徳川幕府によって宿場が開かれた。時の松平政綱か命を受けて山野を拓き、伊豆国三島宿(幕府の代官支配地)と相模国小田原宿(小田原城府地)から各、50戸づつ移住願いせし(約600人)人為的に箱根宿を創設し、また、二つの系統に依って支配されていた。現在も箱根宿主要部は、字三島町、字小田原町と名付けられている。尚、箱根宿成立に寄与された先人たちの不動の祖嗣として現在、九家が実在し、歴史・伝統等を伝承して行く重責を担い道標を築き努めている。 箱根字三島町祖嗣 川口屋

旧街道は「箱根関所南」の次の信号で右へ折れ、
駒形神社を通りすぎたあたりで細道にすすみ、路傍にならぶ芦川石仏・石塔群からおよそ500mほどの、東坂最後の石畳道にはいっていく。向坂を登り国道1号の下をくぐって杉並木がのこる山中の石畳を赤石坂、釜石坂、風越坂とついで、挟石坂の階段をよじ登って国道に出た。

右手をみおろすと
道の駅箱根峠がある。寄ってみると、芦ノ湖の向こうに暮れかかる外輪山の峰々が見晴らせた。そばにある解説パネルと見比べながら、小田原以来名も知らずに漠然と眺めていた山々の固体識別がやっとできた。道の駅の向かい側の擁壁に単に「102.4」とだけ書かれた青ペンキ塗りの鉄板パネルが打ち付けられている。旧街道の箱根東坂をのぼってきて国道1号に合流して以来、求め続けていた国道キロ程である。箱根のどこかで日本橋より100kmになるはずであった。ここから2.5kmほどもどったところは関所跡あたりになる。後日確かめたときも路傍にそれらしき標識は見当たらなかった。

箱根新道の終点から、左のゴルフ場への誘導路にはいっていく。その先の峠が旧街道の箱根峠である。すぐに国道の箱根峠に出る。ロマンを抱いてたどりついた峠だが、標高846mの標識がある他、ガスステーションと閉鎖されたコンビニをみただけの、あっけない頂上感であった。電柱に「102.758」と、メートル単位のキロ標識が取り付けてあった。なぜ100km丁度の標識がなかったのか、いまだ気になっている。

ここから先は、静岡県伊豆国である。11番目の三島宿まで、箱根西坂を一気にくだっていくことになろう。三島からは
下田街道が出ている。「伊豆の踊り子」に出会える道だ。

(2007年1月)

追記

どうしても100kmの国道標識と、芦ノ湖越しの富士山をみたくて、西坂を下る旅で再び元箱根からあるくことにした。100kmに限らず、沿道に東京からの距離を示す標識自体がない。それにかわって、二桁の数字を記した標識が100m単位で見かけられた。どこが起点で、何が目的なのかよくわからない。また、やすらぎの森入口手前でふるぼけた「109」とかかれた三角柱の標識も残っている。旧国道時代のものだとすると、新国道になって7kmほど短縮されたことがわかって、おもしろい。

富士山は、さざなみで芦ノ湖に逆さ富士こそみられなかったが、恩賜箱根公園からの優美な姿を堪能することができた。宝永山が正面左手にみえる。小田原以東では、これが左の稜線をおかして、美しい左斜面にこぶを作るのだ。反対に、沼津以西では右の稜線に突起を出す。従って富士山は箱根から沼津にかけて眺めるのが最も美しいとされている。

(2007年11月)
トップへ 前ページへ 次ページへ