築館


車道の反対側に民家が一軒、そのアプローチに接して力石からの旧道がつづいている。その左側にも手入れされた道がでているが、それは単なる農道である(ことがわかった)。

しばらくは、轍もない草ぼうぼうの道だが、まもなく快適な旧街道になった。右手はひろびろとした牧草地だ。林に入ったと思うとすぐに視界は開け、右手に杉並木を植えたかと思われるような心地よい道をすすんでいく。ハイキング気分である。二度目の舗装道路に出た。この先は旧道が失せている。

車道を左にとって国道への道をたどりはじめると、右手に「旧奥州街道 力石 八沢」の標石があって、側面には「ここから約150m北に進むと明治9年(1876年)と明治14年(1881年)の明治天皇東北巡幸の際、小憩した御野立所が眺望の良い高台に残されている」と刻まれている。

「北」への道は田のあぜ道で、先は行けそうにない。車道を西にすすんでいくと右手にその野立所跡があった。草をかって、土をならした跡が見られ赤土に「旧奥州街道 御野立 明治天皇行幸記念碑 機織坂〜御野立〜力石」と墨書きされた札が建っている。立て札は新しそうだ。すこし奥には「大正14年10月13日改設 玉澤村」銘の
「明治天皇御野立所址」碑がある。こちらの方が古くて立派だ。

ところで、この場所からすこし戻ったところで車道は二股になっており(南側が力石から出てきた道)、左の道を100mほどいくと、左手に狭い空き地があって、南は旧道の道筋にあたる。北はこの空き地で途絶しておりその先は急な崖になっていた。見晴らしはさらに素晴らしく、左はるかに栗駒山が眺められる。

つまり、「北に150mほど」という記述はただしくて、ここが本来の野立所址だったのだろうと思われる。旧道の道筋が失われたので、現旧道沿いに復元されたものと想像する。
野立所から200mほどで国道4号蟹沢に出る。1kmあまりほど行って東北自動車道インターチェンジの導入路が近づくあたり、国道4号の411キロ程標識の先を左に入る。

導入路をガードで潜り抜け、川を渡った先の三差路を右に曲がっていく。国道4号の手前、五十嵐酒店の丁字路を左折して、東北自動車道の高架下をくぐり、小さいがきれいな赤坂集落を通りぬける。ラブホテルHANAKOの案内標識にやたらと出会う。

坂を下りて丁字路を右折、川を渡った先の丁字路を左折してすぐに右の細道をたどるとようやく国道4号に合流する。旧道の道筋は赤坂集落から国道の東側に出た後、双林寺方向にまがっていったようだ。

栗原市役所手前の道を西に入り道なりに進むと
双林寺の参道入口に出る。このあたりから築館宿が始まっている。参道を左におれたところに薬師堂の姥杉とよばれる杉の巨木がそびえている。樹齢1200年という古木で、近年まで高さ34m、目通り9.5mの威容を誇っていた。落雷や火災にあって、今は上部がちぎられたような幹振りになっているが、塊のような幹の太さは健在である。木肌が白っぽい。

境内に配された建物はコンクリート造りの本堂・庫裡を除いて見事な木造建築群である。なかでも
瑠璃殿は蛙股作りの木組みが見事で、優雅で均整のとれたたたずまいを見せている。彩色、彫刻もなく、幼馴染にであったような、心安くしてみていられる建物である。

鐘楼がまた変わっていて面白い。古代の高床式住居かと思わせる素朴さで、四方が板で囲われていて鐘がよく見えない。これでは音がよくきこえないじゃないか。鐘付き棒は窓をつき破って外にでている。微妙に曲がった柱が味を添えて独特の風情を醸している。建物がいばっていて、厠に閉じこまれたような鐘が寂しそうだった。

座禅堂の前に自然石の
芭蕉句碑を見とどけて双林寺を去る。

    
百景や 杉の木の間の 色みくさ   

築館宿の通りには昔の面影が感じられない。本陣跡だという場所は双林寺から最初の信号を渡った先の左手で、空き地になっている。標識等もない。

右手に蔵が一軒残っている。一階はシャッターがおりているが商店らしい。二階の漆喰壁は白黒二色を塗り分けていておもしろい意匠である。

国道398号を横切って旧道は栗原合同庁舎の北側の路地を左に入り、一迫川の手前で民家に突き当たる。昔はそのまま直進して川を渡っていた。国道を迂回して旧道筋の対岸に出る。右手に大きな家が目を引く。玄関上部に開けられた扇形の窓が珍しい。二階に設けられた高欄は縦横の格子を組み合わせた凝った造りである。どうも農家の建物とは思えない、気になる家だった。

旧道は左手に雲南神社をみて国道4号に合流する。

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宮野

宮野交差点で国道4号を右に分け県道42号にのってすぐ、次の交差点を左折して宮野宿に入って行く。

左手高台に
皇大神社がある。社殿はまだ新しい。社伝によると第3代安寧天皇の第一王子迫子王子がこの地に降臨し町を開き、宮殿を営み長年居住し、この地を迫としたと伝えられている。神社の裏側から山を降りると小学校跡地のグラウンドに出る。ここに仙台藩の郡行政組織である代官所が置かれていた。

街道にもどったところに門をかまえる旧家らしい家がある。姿勢よく真直ぐにのびる赤松が印象的だ。隣接する石造りの洋風建物には郵便マークが浮彫されている。特定郵便局をまかされていた土地の有力者宅だろうと想像する。問屋場跡かもしれない。

すこし進んだところで、左手民家の入口に「中世大崎古文書」と書かれた標柱が立っている。その文書を所蔵している
及川家宅である。この場所に宮野宿の検断屋敷があった。

街道は宮野宿をでて国道4号に合流したあとすぐに左の旧道に入るが、道は林の中で失われている。国道にもどり、そのまま進んで次の信号丁字路を左に折れる。角にヤンマー商会がある。すぐ左に旧道の出口が残っていた。

のんびりとした田舎道を歩いていくと、古代の城柵跡である
城生野(じょうの)にはいってくる。静かな集落だ。左手にある照明禅寺に「伊治城跡とその出土品」と題する詳しい説明板がある。伊治城は神護景雲元年(767)に蝦夷経営の前線基地として造営された。大和朝廷に帰順して当地方の長となっていた蝦夷のアザマロが、按察使を殺害して伊治城を奪うという蝦夷反乱の舞台ともなった場所である。

集落の北端にある富野小学校跡地に
「伊治城外郭北辺土塁及び大溝跡」と書かれた標柱がある。台地状の草地に朱色の柱がみえる建物は当遺跡からの出土品を管理するセンターである。

車道は坂を下って富野小学校に突き当たる。旧道はここから学校の西側を通り広大な田園の中を突き進んでいく。芋埣(いもぞね)川で車両は通行禁止。細い橋をわたり、続いて二迫川を朱色の橋で渡る。

土手を下りると川に沿って数軒の農家がならんでいるが、その後ろは延々と広がる水田である。はるか西方には残雪の栗駒山が臨まれる。整然と区画整理されていて旧道の道筋はなくなっているが、おそらく昔も現在の農道のような真直ぐな道が川にはさまれた低湿地帯をぬけていたのであろう。

奥州山脈の山並みを遠くにながめながら気持ちよい道を進んで熊川を渡る。根岸下橋の親柱に
牛若丸像が設置されている。熊川沿いに「根岸花街道」を東に向かう。


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沢辺

国道4号を渡って再び旧道に入ると、二股の畑中に金成町姉歯地区の史跡案内看板が立っている。これより東、100mから2700mの間に、姉歯横穴古墳群、鷹の羽清水、姉歯上館(古館)、姉歯御倉場跡、姉歯下館(新館)、中世姉歯氏族板碑、廟等、姉歯の松(伊勢物語記)があるという。寄り道するには盛りだくさん過ぎる。そちらの方向を眺めてみた。熊川堤防を地平線にして豊かな農地と白い雲と青い空が、姉歯の歴史を無言で抱いている。

二股を右に行った左手、民家への入口に
三界万霊供養塔がある。天明6年(1786)大飢饉の死者を供養するために建てられたものである。説明板が記す飢饉の惨状は凄絶だ。豊かになった近世でこれだから、中世・古代に遡れば歴史に残されなかった飢饉は数知れずあったことだろう。

二股を左にとって国道に合流する。沢辺小学校の手前で右の旧道にはいって三迫川を渡る。西方の栗駒山がますます大きくみえてくる。歩道に源氏蛍の絵タイルがはめこまれている。

右にまがって東西にまっすぐのびる町並が
旧沢辺宿だが、宿場の風景は残っていない。

宿場のなかほどから南に出ている路地をたどって三迫川をわたり、
臥牛城跡によった。小山の頂上に沢辺館(臥牛館)跡があった。鎌倉時代の居館であった。葛西氏の家臣二階堂常信が正治年中(1200頃)、衣川村よりこの地に移って館を築いた。以後代々沢辺氏を名のる。

ここより1km余りのところに
姉歯の松があるというので、足を伸ばすことにした。芭蕉も行きたがっていたところである。(補充のこと)

金成梨崎の集落に入って、「新奥の細道 姉歯の松」の標識が右手道端に立っている。左手民家の裏山上がると松が茂り石碑と歌碑がある。上部が壊れた「姉歯松碑」にはぎっしりと漢字が埋まっている。漢文だ。解説をよんでようやく大意が汲み取れた。まず、この高みは古墳だそうだ。用明天皇の時代、采女に召された女が上京の途中、この地で亡くなった。代ってその妹が召しだされた。妹はこの地に差し掛かったとき、姉を弔って一本の松を植えた、云々。四人の歌碑もある。左から三つ目の作者(長明)と最後の作者(秀能)の名を碑では逆に刻んでしまった。解説板でそれを訂正しているのがおかしい。

沢辺にもどる。町並みの東端で左折して北東に向かい、県道4号と国道4号をわたって金成宿に入る。金成宿と沢辺宿は2kmも離れていない。

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金成

金成宿場は南から上町、中町、新町からなり、上町に「なべや」、「山田屋」といった古い商家がわずかに宿場の面影を残している。金成宿の見所は中町のけやき会館周辺に集中している。

ケヤキの巨木がそびえるけやき会館は
代官所跡である。仙台藩はしっかりとした藩内行政組織を持っていた。

奥州街道北隣は
日枝神社で、間口3間と小ぶりながら入母屋・千鳥破風造りの品格ある拝殿である。

会館の裏側は旧金成小学校校舎で、
歴史民俗資料館として公開されている。同じく古い小学校校舎が残っている古川第一小学校にくらべると、ベランダや軒唐破風で二階を飾って粋である。

南隣には全く肌違いの外国建築である。ビザンチン様式の
ハリストス正教会は昭和9年の建築で、その生い立ちには函館のニコライがかかわっていた。教会の後方で和風の火の見櫓が高さを競っている。

宿場街を北に進む。金成公民館が
金成宿菅原家本陣跡である。菅原家は大肝入を勤めていた。

水路のような翁沢川にかかる金生橋の手前の丁字路を右折し、国道4号を横切って小さな新町大橋を渡り、北北東に向かって有壁までの長い山越えの道にはいる。

しばらく国道に沿って北上してから右方に離れて丘陵に向かう。この上り坂は
夜盗坂(よとうざか)と呼ばれた難所だったらしいが、今は開かれた牧草地帯である。

快適な高原道路を登っていくと牧場に出た。ちょうどトラックから刈り取って丸められた牧草が転がり出るところであった。広場には梱包された牧草が並んでいる。なだらかな丸みをおびた牧場の縁を木立がアクセントをつけてすばらしい景観を展開している。街道歩きはおろか、日本であることを忘れるくらいであった。ここが昔は夜盗が出没した難所であったとはとうてい想像できない。

やがて高原道路は下りにはいり県道48号に突き当たる。反対側には
健康広場が設けられている。そこへあがっていくのが旧道筋のようだ。

ここで前進をやめ、気になっていた寄り道を敢行することにした。県道48号を西にとって国道4号をすこし南に下ったところに
炭焼き藤太の墓があるのだ。藤太は金売り吉次の父親で、京の都の女性を娶っているという、スケールの大きな話なのである。

国道畑交差点に案内標識がでている。杉木立の中を登っていくと骨組だけの祠に板碑を中央にして左に藤太の石塔が、右側には妻おこやの石塔があった。刻字は消磨しており、石塔も形がくずれているが、本来の姿は共に三重塔であったという。遥か昔の奇妙な夫婦に思いを馳せて山を下る。

健康広場には遊歩道にいくつかの藍塗り絵タイルがはめ込まれているほか、なにもない空間だ。それを回り込むような道が整備されている。東北自動車道に沿って300mほど北にいったところにガードがあり、そこを潜って自動車道の東側の砂利道に出る。左におれて200mほどいくと逆Y字形の三差路に出、鋭角に右折する。

舗装道路を200mほど南東方向にたどると左手に旧道らしき農道がでている。後日地図で確認すると、この農道は、ガードを潜って砂利道に出たところから直結している位置関係にあった。三角形の二辺を迂回した感じだ。

旧道はすぐに車道に合流し
新鹿野一里塚の前に出た。これから先は平坦で快適な舗装道路である。

名残りの松並木をとおりすぎると集落が見えてきた。

金流川を渡った先は十万坂を越える旧道が失われていて、迂回をするのに東北自動車道の東西いずれか側を北上する二通りがある。西側のルートは明治天皇行幸に際して作られた道であるという。

十字路をそのまま北に進んで、明治の道をたどることにした。山道はまもなく山間の田園を縫っていく道となり、峠手前で
「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の標柱が待っていた。

東側迂回ルートである県道185号に合流する。みちなりに坂をくだっていくと有壁新町の家並みが現れる。


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有壁

東北本線の踏切をこえ県道187号を横切ったあたりから、前方に続く街道の風景が一変してにわかに時代劇の映画村に入ったかのような家並みが現出する。その起点は有間川の手前に控える萩野酒造といってもよかろう。江戸時代からの造り酒屋で脇本陣を勤めていた。「萩の鶴」醸造元である。

川をわたると右手に
有壁宿本陣が圧倒的な存在感を示して建っている。現存建物は延享元年(1744)の築で国指定史跡である。格子造り長屋、御成門、駒寄、車寄せ、書院造主屋、明治天皇有壁小休所碑、明治大帝御駐輦所蹟碑、高札等。旧街道宿本陣の見本のように有壁にはすべてが揃っている。

向かいの佐藤家が本陣の本家だろうか。新しい建物だが庭に松を植えた立派な家だ。通りは先が行き止まりになって取り残された旧道そのもので、沿道の住民かさもなくば山道をを歩いて一関にぬけようとする旅人しか通らない場所である。時間が止まったという表現がぴったりの空間だ。

左手の掲示板に、稀な旅人の便宜をはかって
「奥州街道(奥州道中)有壁・一関間散策マップ」が掲示されている。下調べの地図にいくつかを書き込んで旧道の先の古道にむかった。宿場の北端の家並みも立派である。街道両側の数軒は申し合わせたように入母屋造り二階建ての家でそろえてある。

宿はずれにある民家の左脇で舗装道路がとぎれ砂利道がつづいている。「起点 伊勢堂林道」の標柱がある。林道を歩く距離はわずかなもので、左手に「旧奥州街道 肘曲がり坂」の案内板が立つ草深い道にわけいっていく。険しい上り坂で足元もひどい山道だ。上りきったところでいくらか広い道にでる。この山道は右にもつづいているようであるが、奥州街道古道は左の方向にすすんでいく。この形状を
「肘曲がり」と呼んだのであろう。

道は平坦になり足元はクローバー、ドクダミ、シダ類で、草丈が短くて歩きやすい。薬草の臭いがただよい、ウグイスが盛んに鳴く。古道歩きの楽しみを味わう。やがて下り坂となり林がとぎれて山間に拓かれた田圃にでてきた。左右に走る農道を横切って、作業小屋の脇を通って再び山道をあがっていく。小屋のそばに「市乃関方面 奥州街道」と赤書きされた札が杭にもたれている。

ここからの坂が「大沢田坂」だ。峠辺りで視界が開け丘陵のなだらかな山並みが見晴らせる。杉林の中を下っていくとやがて林道に合流した。右方は通行止。「県行造林 真柴事業区 岩手県」と書かれた看板が立つ。ここが宮城・岩手の県境で、一関市に入る。

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一関

しばらく山道を行くと再び丁字路にぶつかり、左にまがる。県境にあったと同様の立て看板がある。道はそのあとゆるやかな下り坂となり、右手の開かれた景色を楽しみながらみちなりにおりていく。気がついたら山越えは終わっていて、「(株)ミチノク」事業所の前を通って県道260号(旧国道4号)の「一関糧運」脇に出た。

本来の
古道はもうすこし先の三八五貨物の前に出ているが、山中で道は失われている。出口付近の三差路に馬頭観音があった。

ホテル芭蕉の看板が見えてくる。手前の右に出ていく農道を進んで行くと、民家近くのの道端の田にいくつかの石が並べられていて、
兜石、背骨石、肋石と書かれた札が置いてある。坂上田村麻呂がこの地で鬼を退治して死骸を埋めたと伝えられる。骨をバラして埋めたようだ。

次の丁字路を左に入り的場踏切を渡ると線路に沿ってのこる旧道にでる。大きな民家の右側の空き地に
「明治天皇小次遺趾」碑が立っている。そばの竹薮端にあるなかば壊れたトタン屋根小屋はかっては的場清水と呼ばれていた。近寄りがたい場所で確認しなかったが、今も湧いているとは思えない様子だ。

警報が鳴ったので急いで踏切にもりカメラを構えていると小豆色した貨物列車が通っていった。

旧道はこの先瑞川寺まで東北本線の線路の左右をたどっていたようだが道筋は失われている。坂を下ったところでガードを潜って国道342号にもどる(県道260号は的場踏切丁字路の先で、右から合流してきた現一関街道、国道342号に吸収された)。

200mほどいったバス停のある丁字路の左手、線路の土手斜面に
豊吉の墓がある。天明5年(1785)一関の医師16名が、処刑された豊吉の死体を貰い受け腑分けを行なった。元々は旧一関藩橋田原刑場にあったものである。

国道が東北本線のガードをくぐってすぐ左の細道をあがっていくと瑞川寺に出る。この前の道が旧道である。線路に沿って南に
旧道筋をたどっていくと墓地の終わりにた建つ民家の脇で途絶えていた。


旧道は
瑞川寺の前を通り南小学校の校庭を横切って国道342号に合流する。台町信号交差点を直進し150mほどすすむと「釣山斎苑」「正光寺」の案内標識がある丁字路にさしかかる。その手前左手に逆一方通行の坂道がでている。この道が芭蕉が平泉からの帰りに通った迫街道である。詳しくはその旅行記にゆずろう。

新大町交差点を左折して
釣山公園に寄っていく。釣山は古代から軍事上の要塞であり、高崎城とも篠見山とも呼ばれている。古くは征夷大将軍坂上田村麻呂が陣地をはり、安倍貞任の弟磐井五郎家任が砦を築き、源頼義・義家親子もここに陣地を張った。天正年間には葛西氏家臣小野寺道照の居城となたが、葛西氏滅亡後伊達氏の支配となり伊達政宗の叔父、伊達(留守)政影が移ってきた。その後、天和2年(1682)岩沼から伊達家分家の田村建顕が一関藩主として移封され、以後明治維新に至るまで十一代の歴代藩主が治めた。
幕府が城構えを許さなかったので田村氏は麓の裁判所辺りに居館を構えた。釣山には一関市街が一望できるほか何もない。

宿場町は一関駅前交差点から地主町(じしゅまち)にかけて形成された。駅前交差点の東脇に
「芭蕉の辻」と「日本の道百選“おくのほそ道”」の記念碑が設置されている。芭蕉は金沢まで一関街道を通ってきたがそこから別のルートをたどって現在の一関駅の東口あたりに着いた。一関宿では磐井橋袂の金森家に二泊している。

大町通りはどこにもあるような駅前商店街だが、なかほどに「大町の由来」モニュメントが建っていて、ここが宿場の中心であったと記されている。道向かいに三軒のモダンな店蔵が並んでいて、なんとか旧宿場街の面目を保っているようである。

道は地主町で左折する。磐井川のほとりに先述の芭蕉が泊まったという
金森邸がある。金森家は地主町で代々造り酒屋を営んでいた一関きっての大地主であった。堤防に「明治天皇御行在所跡」の碑が建っているところからそれなりの格式をもった豪商だったのだろう。

磐井橋を撮ろうと反対側の堤防を振り返ると、手袋をつけた一群の少年が雪の降る中をこちらに向かって走ってくる。部活の早朝トレーニングだろう。走り慣れた姿勢で右にカーブして橋を渡っていった。

堤防より一筋東の道を南にむかう。すぐに
「酒の民俗文化博物館」という楽しそうな一角がある。一関の豪商「熊文」の跡地で「世嬉の一酒造」の仕込み蔵を利用して開設された。「熊文」こと14代目熊谷文之助は味噌・醤油・清酒の醸造・販売で富を成した。明治9年金森家に明治天皇が宿泊したとき、岩倉具視、木戸孝允などの随員は熊谷家に泊まっている。

16代当主熊谷太三郎がまだ文学青年であったころ、北村透谷の紹介で英語の家庭教師にやってきたのが明治女学校での教え子佐藤輔子との禁断の恋に苦悩していた若き島崎藤村であった。皮肉にも一関は輔子が小学校時代を過ごした土地であった。藤村は1ヶ月もたたないうちに彼女のいる東京に戻る。既に婚約者がいた輔子は2年後花巻にもどり結婚、翌年はかなく病死する。輔子24歳、藤村23歳のことであった。

石造りの酒蔵にかこまれた広い中庭には、杉の葉でつくったくす玉・酒林(さかばやし)や背丈よりも高い酒樽にまじって、自然石に青銅パネルを埋め込んだ文学碑がある。

    
「あゝ自分のやうなものでもどうかして生きたい  藤村」

田村町を南にくだる。右手に端正な板張り二階建ての民家、左には茅葺屋根の武家屋敷をみる。

突き当たりに一関城があった。西側に磐井川、南は釣山を天然の要塞とした平城で、堀の内側に藩主の居館や役所を集めた小規模なものである。福祉センターの入口に
太鼓櫓が復元されていて、その先に城の本丸絵図板が立っている。

一関藩は宮城県岩沼の領主であった田村氏が仙台藩から3万石を分封され、大名格を与えられたのが始まりです。領地は一関市の磐井川右岸のほか、花泉・千厩・藤沢・大東・室根・東山・川崎・金成の一部(飛び地)。 初代は田村右京太夫建顕(たけあき)で、入部は1682年(天和2)5月2日。建顕公は名君の一人で、藩民の向学精神と勤労精神を高め、江戸にあっては津山城受取り奉行(岡山県・元禄10)や、播州赤穂城主浅野公のご切腹(江戸屋敷・元禄14)などの大任を果たし、外様大名としては最高位の「奏者番」にまで取り立てられました。以後、明治維新まで185年、一族11人が一関藩主を担ったため別に「田村藩」と言われました。磐井川左岸は仙台藩直轄領でしたが、お互いに好影響を与え続け、特に幕末から建部清庵、大槻玄沢といった蘭学者、長沼守敬や大槻文彦など、多くの文化人が育っています。  平成12年10月  一関青年会議所

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山目

磐井橋で磐井川を渡り堤防沿いの道にはいってすぐ左の旧道を下りると右手土手下に「俳聖芭蕉紀行の道」碑が立っている。すこしすすむと右手に「第29代横綱宮城山福松 出生地」の碑がある。本名佐藤福松は明治28年ここで生まれた。

県道14号に合流して山目宿に入るとすぐに
配志和(はいしわ)神社参道の鳥居と常夜燈がある。長い参道をたどると二段式の庭園がある。自然の傾斜地を二段に整地し、築山泉水式の庭園としたもので、日本百庭園にはいっている。上段の庭に芭蕉句碑が立つ。
此梅に牛も初音と鳴きつべし

杉林の中にのびる石段をのぼると更にゾッとするほど長い真直ぐな石段が続いている。200段はあるのではないか。息絶えだえに登りつめるとようやく古色蒼然とした社殿が姿をみせた。大きくはないが江戸時代中期の建築で、「構造手法優れ市内神社中随一」とある。左右の姥杉は根元回り11m、高さ39mの巨木である。

左手に石柱形の
芭蕉句碑があり、「梅が香にのっと日の出る山路かな」と刻まれている。

街道にもどり山目宿を散策する。ところどころに古い家並みが残り、また旧町名を記した標柱が数ヶ所あった。

まずは山目一丁目の右手、
「史跡標柱 山目宿問屋・旧上町」が角地に立つ。


次は1丁目と2丁目の境をなす道角に
「史跡標柱 気仙の交通路・旧今泉街道入口(横丁)」がある。北側の家は今泉街道沿いに長く構え、駒寄・格子・板塀が魅力的な旧家である。


左手の
「経世の政治家・柵P軍之佐先生邸宅 胡風荘」は医薬門と両側にのびる塀だけが残されている。その内側はうっそうとした植え込みで、中の建物はみえないが、規模からしてかっての壮大な屋敷を想像させる。

3丁目にはいって左手の花道茶道家元 
江越宗洋宅も立派な屋敷だ。黒板塀と潜り戸を切った立派な門も黒々としている。


右手に
「史跡標柱 宿駅と流通・旧下町」が、その先には「史跡標柱 金山奉行の足軽居住・旧久賀町」の標柱がある。

龍澤寺をみて山目宿を出る。

(2009年6月)
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奥州街道(12)



築館−宮野沢辺金成有壁一関山目
いこいの広場
日本紀行

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