奥州街道(11)



七北田−富谷吉岡三本木古川荒谷高清水
いこいの広場
日本紀行
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七北田(ななきた)

国道4号の虹の丘入口信号で左斜めに上がっていく坂道が旧道である。国道をみおろす住宅街をすすんでいくと旧道のおわり付近左手に突如として仙台藩刑場跡が現れる。松の木の下に地蔵、石塔がならぶ狭い一角で、注意して歩かないと見逃しそうな存在である。百姓、町人の罪人が対象で、5000人以上の者が処刑された。腑分け(解剖)も行なわれたとある。

道なりに坂をおりて杉ノ田信号交差点で国道を横切り、地下鉄八乙女駅のガードをくぐって七北田川を渡る。かっての七北田宿にはいったのだが町並は仙台市街地の延長で、宿場の面影はほとんど残っていない。七北田宿は北の七北田(上町)と南の市名坂(下町)からなっていた。

市名坂交差点をこえ、スイセン通りと名づけられたプロムナードの右手に本郷医院の土塀と古い医薬門が目を引く程度である。

七北田交番の向かいに一階の前面を連子格子で覆った家が残っている。かっての旅籠か商家だろうか。南隣は新家だろう、その庭の奥に
「明治天皇御駐輦址碑」が立っている。七北田宿の本陣がどこだったか知らないが、本郷医院にならぶ旧家だろうと思われた。

旧街道は七北田宿北端の二股を左にとる。このあたりに丁切根(ちょうぎね)と呼ばれる旧家があるという。丁切根ということばには仙台宿の入口河原町で初めて出合った。宿場の出入口に設けられた木戸ないしその鍵番をいうらしい。

街道は国道4号に合流し、東北自動車道をこえたあたりで国道からわかれて右に入り、かって「大曲坂」とよばれた旧道筋にはいる。現在は大規模に開発されて大型店舗や工場が進出しているが左に大きく曲がる道筋は残されているようだ。

国道に合流する手前の十字路を右にはいっていくと、工場オフィス前の一角に
金玉神社の小さな祠がある。石柱にわざわざ「きんぎょく」とフリガナを付しているのがおもしろかった。金玉とは座頭の名。素朴な五輪塔に木の枝が立てかけてあるのは、参拝者が奉納していった杖だという。

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富谷

国道4号と合流、道はすぐ仙台市から黒川郡富谷町に入る。右手「MAZDA」の先の山裾に階段が設けられており上がっていくと大清水石盥(せっかん)がある。仙台5代藩主伊達吉村が狩の途中で愛飲したと伝わる清水で、街道をゆく旅人にも富谷の茶とともに親しまれた。


「あけの平団地南入口」の先で右に入っていく旧道があり、「あけの平団地北入口」信号では左にはいって西川沿いに旧道が残っている。いずれもすぐに国道にもどる短い道で、沿道に史跡類や古い家並みが残っているわけではないが、車を避けた道を歩くだけでも快適である。

「富谷町一枚沖」信号で右斜めの旧道にはいって行く。右手に
八雲神社をみて、突き当たりの熊野神社前で右折する。ここより400mあまりの真直ぐな道にそって、宿場時代の雰囲気を濃厚に残した家並みが続く。


書道師範の看板を掛けた門と塀をめぐらせた
阿倍家宅は武家屋敷の風情である。塀には「奥州街道富谷新町八景 中宿」の案内板が掛けられていた。富谷宿は富谷村に町が作られたときに新町ともよばれ、富谷宿と富谷新町宿は区別なく使われている。

右手、
「恋路の坂」の行灯が立つ路地をはいっていく。恋路の坂は金網フェンスとブロック塀にはさまれて、名が連想させるようなロマンチックな道ではない。細い坂道を上って行くと、右手に茶畑がわずかに残されていて、富谷茶の立て札がある。大清水石盥の説明板にもあったように、富谷茶は奥道中歌にも詠まれたほど有名だった。

突き当たりの道を右におれすぐに民家の前を左にはいって坂道をたどるとお堂がふたつ並んでいる。手前が
毘沙門堂だ。堂の前から山中につづいている道こそ二人密かにたどるにふさわしいロマンチックな雰囲気であった。

街道に戻り、阿倍家の隣が
本陣内ヶア家である。光ファイバーの工事車が門の前に立ちはだかって、やむなく敷地内の建物を撮ることにした。しばらくして主人が出てきて、「予約をお願いしているのですが」と、無断侵入を咎められた。内ヶ崎家は本陣、検断を務めた旧家で、生業の酒造りは寛文元年(1661)の創業である。富谷新町の町が作られたときからの大地主だったようだ。

筋向いに
「内ヶア作三郎生誕の地」の標識がたつ内ヶア分家がある。奥にりっぱな海鼠壁土蔵が建ち、手前左手には木造事務所風のレトロな建物がある。ここで生まれた内ヶア作三郎という人物は東京帝大、オックスフォード卒の秀才で、早稲田大学教授を務めたのち衆議院副議長まで登りつめたとういう立志伝が紹介されている。

その先左手には「富谷宿」の看板がぶらさがる蔵店があり、右手には明治天皇御小休所となった
脇本陣気仙屋跡がある。

富谷宿家並みの取りは街道の突き当たりに構える
内ヶア家別邸庭園である。一階を繊細な格子造りにした品格あふれる土蔵の内側には明治時代、内ヶア文之助が社会救済事業として築造したという回遊式庭園がある。内ヶア酒造当主の「内ヶア家が富谷町をつくった」という言葉は誇張ではないようだ。

突き当たりを左に曲がり、富谷中央公民館の前庭に樹齢200年を数える
代官松が上品な姿をみせている。藩政時代ここに代官所があった。

道は中央公民館の北側から二股道を左にとって富谷宿をあとにする。S字状の細道をみちなりにたどると、右からの車道と合流する手前左手に
「いぼ取り太子堂」がある。少祠内に聖徳太子と刻まれた石塔が安置されているだけの簡素なものだ。

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吉岡

車道はすぐに国道4号に合流して吉岡宿に向かう。吉田川を渡ると富谷町から大和町に入る。吉岡道下交差点の手前右手、派手な焼き肉専門店の前に一里塚が復元されている。かって一本杉の愛称で親しまれていた塚が昭和61年現代風の塚に変身して整備された。塚の前に「奥道中歌」の碑がある。仙台から青森三厩までの奥州街道(奥道中)の宿場名を詠み込んだもので、誰がつくったものかなかなか面白い。富谷の茶が詠まれている。

国分の町よりここへ七北田よ 富谷茶のんで味は吉岡 寒いとて炊くべきものは三本木 雪の古川荒谷つめたや おもひきり日は高清水宿とりの 杖築館て道急ぐとは あれ宮野沢辺の蛍草むらに 鳴く鈴虫の声は金成 うわさする人にくせ有壁の耳 口のあけたて一関なり 以下青森三厩まで続く 平成十一年九月一日 一里塚会

吉岡道下交差点の次の信号を左折して県道147号に入る。ここから吉岡宿は、志田町−上町−中町−下町と、それぞれ直角に曲って再び国道4号に戻る。大規模な曲尺手構造だ。

志田町の
九品寺山門前に石仏が並んでいる。その右手一番手前の石仏には「右せんだい道 左まつしま道」と刻まれていて、もとは志田町に入ってきた交差点にあったものである。交差点から右にでている県道3号が松島道で、県道9号となって松島に至る。

九品寺の隣、エハラポンプの看板がある木造二階建ての家が気になった。長い奥行きをもち、格子こそないが二階にはベランダがあって、堅物の看板が不釣合いで、かっての旅籠か料亭を思わせる雰囲気が漂っている。

突き当りを街道筋とは逆の左におれて
天皇寺によった。入口の両側に「飯坂の局(吉岡の局)の墓」「伊達河内守宗清の墓所」と記された標柱が立つ参道をすすんでいくと、古びた茅葺の山門が愛らしく構えている。墓地に入って二人の墓を探す。伊達宗清は伊達政宗の三男で、3万石の城下町吉岡を開府した。飯坂の局は伊達政宗の側室で、伊達宗清の養母となって吉岡の局と称された。

街道にもどり突き当りを左折して上町に入る。西端のセブンイレブンが
本陣跡だそうだが、付近にそのような面影はない。丁字路を右折すると蔵がのこる古い家並みが見られるようになる。

七十七銀行の先で中町となる。十字路を右に入って行くと、大和町役場の向かいに朱色の随身門を構えた
吉岡八幡神社がある。参道には「芭蕉墳」という石碑があり「俳諧にせん 藤乃實は 花の阿と」と刻まれている。

その背後に建つ木造の建物は
大和町武道舘である。小学校、中学校と隣接していることから、旧校舎か体育館ではなかったかと想像させる。正面にまわってみると、入口の上部に半円形の窓をしつらえた上品で立派な建物である。

街道に戻る。中町の北端近くに古い門構えの
上州屋がある。店の後ろに土蔵の屋根が見える。斜め横からながめると屋敷が延々と奥に続いている。狭い間口に長い奥行きは宿場や城下町に見られる典型的な短冊形町割りである。

その先を左折して下町に入って行く。ここにも古い家並みが残っている。創業元禄八年の
早坂薬局は間口全体を薬の広告で埋めていて店内の様子がわからない。トタンで被われた寄棟造りは最近まで萱葺屋根だったのだろうか。

路地をへだてて建つ古い蔵造りの家は同姓の
早坂酒造店だ。「酒類醸造所」と書かれた古い木表札の門内をのぞくと、ここも鰻の寝床のような長細い家屋が延びていた。蔵の西側につづく建物は屋根ごと蔦に覆われて、政治ポスターがベタベタ貼られたトタン塀の他は全く正体が見えない。

下町の西端丁字路は
奥州街道と出羽海道中山越えの追分である。説明板に「出羽海道中山越えは、奥州街道から吉岡で分かれ、中新田、岩出山、中山を経て新庄藩境田(山形県)に至る道でした。」とある。岩出山といえば芭蕉が一関から出羽に向かう途中、一泊した場所である。

出羽街道中山越えは奥の細道とも重なる道筋でいずれ通る道である。それだけに正確な道筋が知りたかった。図を見る限りでは、出羽街道はこの追分地点から直進しているようには見えない。ここを奥州街道とともに右にまがって、そこで一旦左にわかれてすぐ奥州街道が右におれる地点で接しているように見える。現在の地図で言えば、追分丁字路を右折し、出羽街道は池の西側をまわって中興寺の前を通り、現奥州街道旧道との丁字路で左折して国道4号から大柳交差点で国道457号にはいっていったのではないか。

一方、奥州街道は国道4号にでることなく中興寺東方の丁字路で右におれて国道を横切り、昌源寺に向かって直進していったものと思われる。宿題をのこしたまま、今回は奥州街道に専念することにした。

中興寺東方の丁字路から東におれる旧道が消失しているため、坂をくだって国道をよこぎり、迂回路を経て田園の中につけられた真直ぐな道を北東に向かう。善川をわたり突き当りを右におれると昌源寺前にでる。旧道は昌源寺から
昌源寺坂とよばれた坂を越えて山の向こう側の戸口に出ていた。今は大規模な工業団地が造成中で、道筋は失われ造成地は立ち入り禁止となっている。昌源寺から戸口に行くには西か東に大きく迂回するしかない。途中に大衡城跡がある西方の迂回道をとることにした。

昌源寺の前の道を西にしばらくいくと右手に
大衡城跡の案内板がでてくる。大衡城は下草城主黒川景氏の次子大衡宗氏が天文13年(1544)に築城したが、天正18年(1590)豊臣氏の奥州仕置で廃城となった短命の城であった。

整備された階段を登っていくと見晴らしのよい高台に出た。城に見立てた民俗資料館が建っている。西にみえる山並みは船形山をはじめとする奥羽山脈である。南方は田植えを終えた美しい田園の向こうに吉岡の町が広がっている。

国道にもどり一本木交差点で右にはいり、村道楳田(うるしだ)戸田線を東進する。右手に昭和万葉の森公園を眺めながらいくと、やがて工業団地造成地がその北側の姿をみせる。

しばらくいくと、鉄塔の近くに取り付け道路があって
「散策路 奥州街道跡」の看板が立っている。整備された散策路から狭い山道へと歩をすすめるとまもなく造成地の北端道路に出た。時間にして15分くらいの手軽な旧道散歩である。散策路のすぐ東側にも広い車道が出来上がっているがまだ地図には現れていないようである。来た道をもどる。

村道は棚田風景を楽しみながら山間の坂道を下り、戸口で県道に合流したのちすぐに右の短い旧道をたどって駒場の集落に入る。

県道16号との合流点にある戸口バス停の北側に
一里塚跡の立て札があった。不思議なことに、一里塚の跡はここではなく、すぐ先の雲泉寺前だと書いてある。その雲泉寺入口には地蔵や塚風の盛土、木の古株などいかにも一里塚跡を思わせる状況が整っていながら、そこには「一里塚跡」を示す標識類は見つけることができなかった。誰も気づきそうにないバス停裏でなく、どうしてここに案内板を立てなかったのか。今説明文を読み返してみると、題は確かに「奥州街道一里塚」だが、説明はこの近辺の街道道筋から始まっていて、必ずしも一里塚だけを取り上げているわけでなかった。であれば立て札の設置場所としては合流点のバス停あたりがふさわしいのかもしれない。

須岐神社は延喜式記載の黒川郡四社の一社という古社である。随身門の格子をのぞくと、実直そうな随身像の後ろに大草鞋がぶら下がっていた。

道が右カーブを描いて東北自動車道にちかづくころ、左手に案内板が立っていて旧道らしき道が延びている。説明書きはまったく消えているが、旧道であることを記したものであろう。民家の脇をはいっていったが、まもなく林の中に消えていた。

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三本木

東北自動車道をくぐってすぐ左折し、道は大衡村から大崎市にはいる。萱葺の家が目を引く。左手に三本木町の境界石と共に石仏群がありその先に自動車道のガードが口をあけている。もしかすれば、駒場からの旧道ではないかとしばらく辿っていったが、山中の坂をあがると田畑に出た。どうやら農道のようである。

街道は自動車道の東側に沿って伊賀集落をぬけ、伊賀南橋で自動車道をまたいで西側に出る。やがて自動車道から離れていって、おおきく左に曲がる手前左手の畑中に、
伊賀一里塚の標識が立っている。「この塚だけが残っている」とあるが塚の盛土は認められなかった。

その先で道は再び自動車道をまたぎ東側に出てみちなりに坂を下っていく。このあたりは
御殿森とよばれ眺めのよい場所として知られていた。県道56号との合流点左手に今までにない立派な「明治天皇鑾輿航渡聖蹟」の碑がある。昭和3年に御殿森の地主新澤氏が建立したものだ。

三本木新町をぬけ国道4号を横断した右手に「道の駅」がある。三本木宿場を前にし一休みするには格好の場所だ。まず大きな
大豆坂地蔵尊を見る。巨大な由来碑が建てられており、建立の由来や明治天皇巡幸の際のエピソードなどが長々と記されている。

腹を満たした余裕で
亜炭記念館に寄る。入口に黒光りに輝く亜炭の塊が展示されている。見学者の中には地元の人が多く、懐かしさを口に出していく。亜炭が燃える臭いは風呂炊きや炊事など昔の生活の一部に結びついていたのだという。採掘現場の工夫人形がよくできていた。「三本木町の歴史」の中に見覚えのある苗字が二つあった。早坂内ヶ崎である。早坂は吉岡宿の、内ヶ崎は富谷宿の、ともに豪勢な造り酒屋である。資本家として鉱業にも手を広げていたとしても不思議ではない。

旧街道は鳴瀬川の堤防に突き当たって右折、国道4号のガードをくぐって旧三本木宿に入って行く。
三本木宿は、鳴瀬川沿いに東西にのびる南町と、三本木橋をわたって南北にのびる北町に分かれている。南町の八坂神社から橋の袂にかけて古い家並みが続いている。手前の蔵造りの家は手代木醤油店、となりの立派な門塀を構える広大な屋敷は岩渕胃腸科内科である。

橋をわたって
北町の仙台銀行の手前にも見ごたえある旧家が残っている。
ファッション衣料ささくにの蔵と門、続いて隣が
新澤酒造店である。新澤といえば、さきほど明治天皇碑の建立者ならびに御殿森の所有者として新澤順吉の名をみたばかりである。内ヶ崎、早坂、そして新澤。いずれも醸造家だ。

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古川

三本木北町を出て街道は国道4号に合流し、多田川を渡った次の米袋信号で国道の右側に残る旧道に入る。旧道は南の大江川から続いているようである。小さな稲荷神社のほか特段旧街道をおもわせる景色はない。国道にそって北上したのち鴻巣交差点の右側で曲尺手形にまがり古川宿に入っていく。

古川は中世の豪族大崎氏の本拠で、さらに古代まで遡れば、多賀城の前線軍事拠点である玉造柵が置かれていた古い土地柄である。玉造柵跡は名生館遺跡に比定されている。古川と岩出山のほぼ中間に位置する。出羽街道と奥州街道の中間でもある。覚えていれば吉岡からの出羽街道歩きの時寄ることにしよう。

JR陸羽東線を渡った左手に
西宮神社瑞川寺が並んでいる。西宮神社は本来伊勢神宮の遥拝所として建てられた神明社だが、後古川の街を経営する近江商人等が商売繁昌の神として名高い西宮神社を勧請したという。久しぶりに近江商人の名を聞いた。左の燈明脇にある馬頭観世音の裏面に「古川宿安全」と刻まれている。

瑞川寺は古川城主鈴木伊勢元信の菩提寺である。風格ある山門は古川城の搦め手門を移してきたもので、旧古川市最古の建築物だという。このあたりが古川宿の南端であった。

右手三日町公園の前に「奥州街道」碑がある。古川宿内の道筋は簡明で、市役所前と十日町で直角にまがり、北東にぬけていく。

歌枕
緒絶橋にさしかかる。その昔古川市街を南北に流れていた江合川の流路が7世紀頃に東西にかわり、取り残された川筋が「玉の緒が絶えた川」として緒絶川と呼ばれるようになった。古川の名も同じ由来による。橋の袂には柳の大木が枝を垂らし、歌碑が立つ。北西角の一角は橋平酒造の酒蔵を利用して「かむろ(醸室)」となづけた飲食街となっている。蔵をはじめとする古い商家が緒絶橋の風情によく溶け合って古川一の観光スポットとなっている。

大崎市役所交差点を左におれて古川城址の
古川小学校に寄った。正門に「古川城址・吉野作造ゆかりの学舎」と題した大きな解説板が建っている。古川城は室町時代に築かれたが江戸初期には廃城となった。

吉野作造は民本主義を唱えた大正デモクラシーの思想家である。かれが学んだ木造校舎が運動場をはさんで両側に往時の姿のままで残されている。窓からカーテン、雑巾、教材などがみえるから、現在も使われていると見える。各出入口には庇がつけられている。トタン筒の煙突は石炭ストーブ用であろうか。長大な総二階の横板張り建物は暖かく懐かしく美しい。

市役所角交差点に戻り七日町通りを歩く。古川宿の中心地で本陣等があったらしいが商店街に宿の面影は残っていない。七十七銀行の角を左折して
十日町に入る。すぐ左手に道路元標があり、「距仙台元標十一里  陸前国志田郡古川町」と刻まれている。基準は江戸日本橋でなくて仙台芭蕉の辻のようだ。

広い歩道を黙々と北に進む。「古川トップボール」の手前に
明治天皇観農遺蹟碑が立っている。江合川の手前に門塀を構え内に萱葺の兜屋根の建物が見える。気になる建物だが説明板の類がないから個人所有の現役建物だろう。

江合川を渡る。東北新幹線も川を一跨いで行った。堤防を左折して降りたところの二股を右にとって三ツ江集落に入るのが旧道である。用水路の手前の変則十字路を右に折れて県道を横切り新幹線の手前で左折して新幹線に沿って北上する。まもなく出てくる二股を左にとる。分かれ目に「聖骨傳眞居士」と刻まれた石塔がある。なんのことか分からない。

すぐ左手に
延慶(えんぎょう)の碑の標識があった。農道のような脇道をはいっていくと右手の木立の中に小さな石鳥居と朱鳥居の後ろに小祠と古い板碑が建っていた。ついでに建てられた説明板碑がふるっている。「古碑 右ハ古碑トシテ保存ノ価値アルモノト認ム 昭和5年8月21日 宮城県学務部」。役人仕事の面目躍如といったところである。

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荒谷

旧街道は一旦国道4号に合流したあとすぐに左にわかれて荒谷宿に入って行く。旧道入口に「剣聖千葉周作生い立ちの地 斗瑩(とけい)稲荷神社参道入口」の目立つ看板が立てかけてある。素直にその後ろの路地を入ってみた。なにもない。神社は荒谷宿をでた北のはずれにあるのだ。ずいぶん先走った看板ではある。

荒谷宿は商人用の荷宿が一軒あっただけの小さな宿場だった。それでも明治天皇が休む場所はあったとみえ、宿場の中程に「明治天皇聖蹟之碑」がある。明治天皇云々の碑も少々食傷気味になってきた。あまりに多すぎる。また、私にとって旧道の道筋を確認する以上の意味をもたない。道筋があいまいな場所以外は端折ることにしようと思う。

荒谷宿の北端近く、「
斗瑩稲荷神社参道入口」の標識に従って左に入って行く。長岡小学校の脇を通り田尻川をわたったところに神社がある。幾つもの赤鳥居を潜って参道をすすむと、右手に「剣聖 千葉周作先生の屋敷跡」と記された標柱が建っていた。千葉周作はここで幼少時代を過ごしたといわれる。その後、水戸街道松戸で浅利又七郎について腕を磨いている。千葉周作の実像については知らないが、(漫画で)赤胴鈴之助の師であったこと、(映画で)娘が吉永小百合であったことはよく覚えている。

街道に戻り、国道4号に合流する。引き続き国道の東側に旧道があることを知っていたが、この区間は国道をそのまま北上することにした。あらかじめ予測しておいた
国道4号400km標識を撮るためである。右手に「小野第三区集会所」、左手に「化女沼入口」の標識がある所の先に東京から400km地点があった。反対方向には仙台まで47km、福島127kmとある。

ところで化女沼はよらなかったが、その付近に長者原だの古代の里だの、ロマンの香り高そうな場所が地図に載っている。水戸街道の若柴で「女化(おなばけ)稲荷」を訪ねたことを思い出した。その時は女に化けた狐の話であった。さて、ここでは女がなにかに化けたのかな?

この先国道の左右に細かな旧道の名残があるがそのまま国道をいそぎ、通場交差点あたりで大きく右にまがって栗原市に入る。

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高清水

まもなくこんどは国道が左に大きくカーブするところで右の県道1号にはいっていく。二股に「ようこそ泉のふるさと高清水へ 日本名水百選 桂葉清水のまち」と書かれた看板が立っている。

高清水の名は高台の地に多くの清水が涌いていたことに由来する。中でも高清水七清水とよばれた泉で知られていたが今はそのわずかを残すのみとなった。台町から下町・本町・中町・新町と南北につづく旧宿場街へ入っていく。

中町で右手に入って行くと突き当たりの高清水中学校正門内に
「清水城跡」の石碑が建っている。高清水城は中世に奥州探題大崎氏の一族高泉氏が築城した。その後亘理氏、石母田(いしもだ)氏が城主となった。明治になってからは一時栗原県庁が置かれたこともある。


街道の左手、火の見櫓の下にやや傾いた「史跡明治天皇御休憩所(中町)」の標柱がある。金属柱は錆がひろがりペンキ書きの文字も薄らいで、今までに見た明治天皇行幸碑で最もみすぼらしいものだ。写真を撮る気もしなかった。

右手に門塀をめぐらした格子造りの古い家が残っている。中町に本陣泊屋があったというが、ここではないらしい。

新町にはいり、日本名水百選の
「桂葉清水」案内板がある。道筋はすこし分かりにくいが住宅街の中をすすんでいくと、一段低いところに東屋が設けてあって、そこに丸井戸の形をした泉があった。「この湧水を飲用する場合はかならず煮沸してください」との注意書きが貼ってある。「昔は自由に飲んでいたのに」と、散歩途中の婦人が残念そうな顔を見せた。平成元年の説明書きでは、「清澄な水と保全の良さで「名水百選」に選定され、町の内外の人々のお茶用に銘酒醸造用に広く利用されている」とあるから、この20年の間に泉水の質量ともに低下したのであろう。

街道に戻り、宿場の北端にある奥州善光寺による。奥州藤原基衡が父清衡の菩提を弔うために信濃善光寺を模して建立したと伝えられる。さぞかし壮大なものであったろう。今見る本堂は正面に二基のスピーカーをとりつけ、一、二階とも総ガラス戸で公民館か集会所のようだ。寺としては廃されている様子である。境内に紅殻色のお堂が二つならび、前に
「善光寺如来」の標柱が立っている。寺の縁起では推古天皇が聖徳太子の願いを受けて鋳造させたと伝わる。

高清水宿をあとにして、街道は善光寺橋を渡り国道4号と合流する。
コンビニ、ローソンの先で南沢バス停手前の三差路を右にはいっていく。これからしばらく、山越えの旧道歩きが始まる。700mほどで八重壁川を前田橋で渡る。大きな三差路にさしかかるがここを直進、坂をあがっていくと右手にアプローチ付きの白い家があり、反対の左側に土の坂道がでている。この古道を500mほどたどると力石に出会うはずだ。

山道といっても険しい峠を越えるわけでも、熊がでそうな鬱蒼とした深山をぬけるわでなく、高原風のなだらかな丘陵の林をぬけるといった快適な道である。少々深い草道ながら轍がのこっているところをみると、なかば農道でもある。ところどころで木立が途切れて、牧草地や水田のうつくしい風景が広がっている。

やがて左に池がみえてきて、右手に
「三迫百姓一揆旧蹟」の碑が、車道への出口手前に力石があった。慶応2年(1866)、高清水城主石母田氏がここで百姓一揆勢を説得して防止したという。力石には源義家の猛臣鎌倉権五郎景政にまつわる伝承があるらしい。内容は知らない。

(2009年6月)
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